木村真理子の文学 『みだれ髪』好きな人のページ

与謝野晶子の『みだれ髪』に関連した詩歌を紹介し、現代語訳の詩歌に再生。 また、そこからイメ-ジされた歌に解説を加えます。

 続 『とはずがたり』 と 『みだれ髪』 の対比 ??

2013-03-24 09:15:39 | 古典

 

                      『とはずがたり』 と 『みだれ髪』 の対比??

 

 さて、 肝心の 『みだれ髪』 との対比ですが、・・・・ 『とはずがたり』 の作品が国文学界に紹介されたのは、 昭和15年9月号の 『国語と国文学』 に掲載された 山岸特平 著 「とはずがたり覚書」 であるとされます。 氏は、 当時の宮内省図書寮、 今日の宮内省書陵部でこの本を発見し、 「大正5年の図書寮の書籍目録一冊には、 たしか地理の部に掲載せられて居たかと思い出す」 と 言っておられます。

 私が参考にした小学館版の『とはずがたり』 は、1、2部に分かれていて、 その事実を知ったのは、2冊目の一番最後の解説だった訳ですが・・・・、 まあ、 それを知っていれば、最初から読まなかったのに・・・・? いえいえ、 作品は素晴らしいものです。  

  晶子は、古典や当時の詩歌を自身の歌に絡めて詠み、 晶子の好きなものづくしで 『みだれ髪』 を埋め尽くしていた訳ですが、 『みだれ髪』初出の、・・・・ 特に 『みだれ髪』 を出版するにあたって付け加えた中の三首もあり、・・・・ 明治34年に出版された『みだれ髪』には関係ないはずなのに・・・・、 以下の五首が、 二条と悲しい情を交わした四人 (後深草院 ・ 有明の月 ・ 亀山院 ・ 近衛の大殿 ) と、 二条の恋人である雪の曙 を彷彿させ、 私を悩ませました。  『みだれ髪』初出の三首を加えることにより、 晶子は 『とはずがたり』 を完成させたのではないか??  また、 「とはずがたり」 を代表するような最も衝撃的な 「近衛の大殿」 との出来事が、 蕪村も詠んでるのではないか? と疑問に思いました。  全て検討違いかも知れませんが、・・・・??

 

 

   亀山院(新院)に対して― 巻三(一七)・(一八) 

 

  巻三(一七)亀山院の誘惑

  「いと御人少(ひとずく)なはべるに、 御宿直(とのゐ)つかうまつるべし」 とて、 二所(ふたところ)御寝(よる)になる。 ただ一人さぶらへば、 「御足(あし)に参れ」 などうけたまはるもむつかしけれども、 誰(たれ)に譲るべしともおぼえねば、 さぶらふに、 「この両所の御そばに寝させたまへ」 と、しきりに新院申さる。 「ただしは、所せき身のほどにてさぶらふとて、 里にさぶらふを、 にはかに、 人もなしとて参りてさぶらふに、 召し出てさぶらへば、 あたりも苦しげにさぶらふ。 かからざらむ折は」 など申さるれども、 「御そばにてさぶらはむずれば、 過ちさぶらはじ。 女三(さん)の御方をだに御許されあるに、 なぞしもこれに限りさぶらふべき。 わが身は、 『いづれにても、 御心にかかりさぶらはむをば』 と申し置きはべりし。 その誓ひもなく」 など申させたまふに、 をりふし、 按察(あぜち)の二品(にほん)のもとに御渡りありし前(さき)の、 「斎宮(さいぐう)へ入らせたまふべし」 など申す宮をやうやう申さるるほどなりしかばにや、「御そばにさぶらへ」 と仰せらるるともなく、 いたく酔(ゑ)ひ過ぐさせたまひたるほどに、 御寝(よる)になりぬ。 御前(まへ)にもさしたる人もなければ、 「ほかへはいかが」 とて、 御屏風後(うし)ろに、 具(ぐ)し歩(あり)きなどせさせたまふも、 つゆ知りたまはぬぞあさましきや。

 

  巻三(一八)亀山院の御慶び

  今宵も桟敷殿(どの)に両院御渡りありて、 供御(ママ?)もこれにて参る。 御陪膳(はいぜん)両方を勤む。 夜も一所(ひとところ)に御寝(よる)になる。 御添臥(そへぶ)しにさぶらふも、 などやらむ、 むつかしくおぼゆれども、 逃(のが)るる所なくて宮仕(みやづか)ひ居(ゐ)たるも、 今さら憂き世のならひも思ひ知られはべり。

 

  【巻三(一七) 訳】 「たいそう人が少ないので、 宿直(とのい)しなさい」ということで(又、伺候することになり)、 両院はお寝(やす)みになる。 ただ一人伺候していると、 「足を按摩せよ」 などと承るのも面倒だけれど、 この役目を誰かに譲る訳にもいかないので、 お側に居ると、 「このお二人の側に寝させて下さい」 と、 新院が頻りに申される。 御所様は 「但し、 二条は窮屈な(身重の)身の程にて里に下がっておりましたものを、 直ぐには人もいないということで、 召しましたが、 所作も苦しげにしております。 この様な折ですから」 などと申し上げるが、 「お側にて居られますので、 過ちはございません。 女三の宮の御方でさえも、 源氏物語ではお許しになられたのに、 この方に限りそうされるのですか。 私の方は、『女房の誰であれ、 お心に叶ったならば、 伺候させますから』 と申しておきました。 その誓いも無く」 などと申されて・・・、その時分、 「斎宮へ参らせよう」 などとしてた矢先の、 新院の女宮の按察(あぜち)の二品(にほん)を、 御所様が あれやこれや言われて、 お渡りになられたところだったので、 「お側に居なさい」 とおっしゃることもなく、 ひどく酔われるままに、 寝てしまわれた。  御所様の御前に気が咎める人もいないので、 新院が 「他へ、いらっしませんか?」 と、 屏風の後ろに、 私を連れ伴って行かれたのも、 少しもお知りにならいのは、意外でした。          

       【注】 [ 御前にもさしたる人もなければ、 「ほかへはいかが」 とて、 御屏風後ろに、 具し歩きなどせさせたまふも、 つゆ知りたまはぬぞあさましきや。] の訳は、 参考とした本と私見では、 少し違っています。

 

 御前に「さしたる人」 とは、「差し当たって・それなりの」 添臥しする女房でしょうか? というのが一つ目の疑問です。 私は、「差したる人 ・ 差し支える人 ・ 気が咎める人」 つまり、 「 御供として伺候している人 ・ 目付け役の男」 であり、 前の巻三(一六) の、「若き殿上人(てんじやうびと)二、三人は御供(とも)にて、 入らせおはします」 にもある様に、 五月蝿方の御供がいなかったと解釈しました。  

 すると、 二つ目の疑問は、 「ほかへはいかが」 という新院の言葉です。 〔 新院には、「ほかへはどうして行こうか」 〕 と、 他の女房がいないので、 二条しかいない、 という意味合いで解説されていますが・・・・、 新院の言葉は、 後出の 「御屏風後ろに、 具し歩きなどせさせたまふも」 に掛かって、 直接、 屏風裏へ誘った 「誘いの言葉」 と解釈出来るのではないか? と思いました。 

                                                                                                                                                                                   

 巻三(一八) 女院(大宮院=後深草、亀山両上皇の母后)を見舞うの嵯峨・嵐山の大井殿の宴は、次の日も催される。 その夜も二条は両院が一緒にお寝みをされる添臥しに仕え、 今さらながら、 憂世の習いを嘆く。   

 

 

       『みだれ髪 298』 人に侍る大堰(おほゐ)の水のおぼしまにわかきうれひの袂の長き  (みだれ髪 初出)

           【298 表訳】 鉄幹が東京から来て、側にいてくれるけれど、 嵯峨の大堰川(桂川)添いの旅館の手摺りに凭れ、(川を見下ろし)ている私は、 東京での生活に疲れ果て、 憂いの日々が続いています。 まだ未熟だったからでしょうか・・・・。

           【298 裏訳】 『とはずがたり』に思いを馳せ・・・・。 大井殿での桟敷殿に行く廂にて、これから後深草・亀山両院に添臥しをすることになる私は、 袖に涙をして、世を憂っております。 この習いは、 いつまで続くのでしょうか。                                  

 『みだれ髪』裏訳は、 『とはずがたり 巻三(一八)』を直接的に踏んだものでしょう。 そして、 何と、 後出する  蕪村「帋燭(しそく)して廊下過ぐるやさつき雨」 をも、 想定しているのです。

私は、なぜこの嵯峨の歌が、何度も登場するのか?  集中編纂の際に入れられたのか? が、 凄く不思議だったのですが、 やっと解かったような気がします。  

 

 

   近衛の大殿 (鷹司兼平)に対して― 巻二(三四)・(三五)・(三六)   

 

   巻二(三四) 筒井の御所の夜

  御所へ帰り参らむとて、 山里の御所の夜なれば、 皆(みな)人(ひと)静まりぬる心地して、 掛湯巻(かけゆまき)にて通るに、 筒井(つつゐ)の御所の前なる御簾の中より、 袖を控(ひか)ゆる人あり。 まめやかに化物(ばけもの)の心地して、 荒らかに、 「あな悲し」 と言ふ。 「夜声(よごゑ)には、 木霊(こだま)といふ物の訪るなるに、 いとまがまがしや」 と言ふ御声は、 さにやと思ふも、 恐ろしくて、 何とはなく引き過ぎむとするに、 袂はさながらほころびぬれども、放ちたまはず。 人の気配(けはひ)もなければ、 御簾(みす)の中に取り入れられぬ。 御所にも、 人もなし。 「こはいかに、 こはいかに」 と申せども、 かなはず。 

 

 

   巻二(三五)近衛の大殿

  御殿籠(とのごも)りてあるに、 御腰(こし)打ちまゐらせてさぶらふに、 筒井の御所の昨夜(よべ)の御面影(おもかげ)ここもとに見えて、 「ちと物仰せられむ」 と呼びたまへども、 いかが立ち上がるべき。 動かで居(ゐ)たるを、 「御寝(よる)にてある折だに」 など、 さまざま仰せらるるに、 「はや立て。 苦しかるまじ」 と忍びやかに仰せらるるぞ、 なかなか死ぬばかりに悲しき。 御後にあるを、 手をさへ取りて、 引き立てさせたまへば、 心のほかに立たれぬるに、 「御伽(とぎ)には、 こなたにこそ」 とて、 障子のあなたにて、 仰せられ居たることどもを、 寝入りたまひたるやうにて聞きたまひけるこそ、 あさましけれ。 [ とかく泣きさまたれ居(ゐ)たれども、 酔(ゑ)ひ心地(ごこち)やただならざりけむ、 つひに明けゆくほどに帰したまひぬ。] 我(われ)過ごさずとは言ひながら、 悲しきこと尽くして御前に臥したるに、 ことにうらうらとおはしますぞ、 いと堪(た)へがたき。 

 

  巻二(三六)伏見の旅寝

  更けぬれば、 また御寝(よる)なる所へ参りて、 「あまた重ぬる旅寝(たびね)こそ、 すさまじくはべれ。 さらでも伏見の里は寝にくきものを」 など仰せられて、 「紙燭(しそく)さして賜(た)べ。 むつかしき虫などやうの物もあるらむ」 と、 あまりに仰せらるるもわびしきを、「などや」 とさへ仰(おほ)せ言(ごと)あるぞ、 まめやかに悲しき。   「かかる老いのひがみはおぼし許してむや。 いかにぞや見ゆることも、 御傅(めのと)になりはべらむ。 古き例(ためし)も多く」 など、 御枕(まくら)にて申さるる、 言はむ方なく、 悲しともおろかならむや。 例(れい)のうらうらと、 「こなたも独り寝はすさまじく。 遠からぬほどにこそ」 など申させたまへば、 昨夜(よべ)の所に宿りぬこそ。

 

 巻二(三四) 二条が、 御所様のお寝(やす)みの間に、 伏見殿筒井の御所へ出た帰り、 戻ろうと掛湯巻で通ったところ、 御簾の中にいた近衛の大殿に袖を取られ、 引き込まれてしまう。  

 巻二(三五) 昨日に続いて、 伏見殿の宴の後、 御所様の寝所にいると、 近衛の大殿が来て、 話し掛けるが、 返事をしないでいると、 御所様に行くよう指図される。 二条は、 大殿に手まで曳かれて、 障子の向こう側でお伽の相手をさせられてしまう。  御所様は寝入ったふりをして、 それを聞いていたのだった。  

 巻二(三六) 今日は帰る予定だったのに、 またもや逗留。 御所様がお寝みになっている所に、 近衛の大殿が来て、「伏見の里は寝にくいので、 紙燭を付けてくれ」 と言う。 御所様に、 催促され、 「こちらも独り寝は興ざめだから、 遠くない所で」 と、 またもや昨日と同じ所で寝ることになる。

 

       『みだれ髪 309』 舞ぎぬの袂に声をおほひけりここのみ闇の春の廻廊(わたどの)   (明治34年1月 「舞姫」 初出)

        蕪村 「帋燭(しそく)して廊下過ぐるやさつき雨」

 『みだれ髪 309』 は、(三四)を彷彿させます。 『みだれ髪』の 「舞ぎぬの袂(たもと)」 は、 近衛の大殿に 「袂はさながらほころびぬれども、放ちたまはず」 の 敗れるくらい放さずに引っ張られ、 御簾の中に引き込まれた 「二条の袂」 なのです。 

 蕪村も同じく、 二条にとって最も衝撃的な・・・・、 つまり、 『とはずがたり』 に於けるライマックスを題材として、 近衛の大殿との出来事を詠んでいます。    蕪村については、 前テーマの『枕草子』 で気付いたのですが、 古典については、 一場面を絵画のように額縁句にする、 ということをしていたし、 晶子は、 それを知っていたのです。  こちらは、 (三六) の二条が大殿に所望された「紙燭」 を持って、 お伽に向う場面です。 晶子もそうだけれど、 蕪村は天才だとつくづく思います。 この一句で、『とはずがたり』 の全てを物語っているのですから・・・・。

  もう一つ付け加えたいのは、(三五)「我(われ)過ごさずとは言ひながら、 悲しきこと尽くして御前に臥したるに、 ことにうらうらとおはしますぞ、 いと堪(た)へがたき。」 です。 二条が悲しんでいるにも関わらす、 御所様が、 うらうらとしている、 という場面。

       『みだれ髪 138』 琴の上に梅の実おつる宿の昼よちかき清水に歌ずする君   (明治34年8月 『小天地』「黒髪」 初出)

 駆け落ちの待ち合わせた京都の宿で、 晶子は「あなたは後から日にちを置いて上京しなさい」 と告げられます。 落ち込んでいる晶子に対して、 近くの川で鼻歌を唄っている鉄幹の 「うらうらさ」。  御所様の 「うらうらさ」 にどこか似通っています。

 

 

   後深草院(御所様) に対して― 巻三(一二)・巻二(三五)        

 

  巻三(一二)扇の使い   

  承仕(しようじ)がここもとにて、 「御所よりにてさぶらふ。 『御扇(あふぎ)や御堂に落ちてはべると、 御覧じて、 参らせたまへと申せ』 とさぶらふ」 と言ふ。 心得ぬやうにおぼえながら、 中(なか)の障子を開けて見れども、 なし。 さて、 引き立てて、 「さぶらはず」 と申して、 承仕は帰りぬる後(のち)、 ちと障子を細めたまひて、 「さのみ積もるいぶせさも、 かやうのほどはことに驚かるるに、 苦しからぬ人して里へ訪れむ。 つゆ人には洩(も)らすまじきものなれば」 など仰せらるるも、 いかなる方(かた)にか世に洩れむと、 人の御名もいたはしければ、 さのみ、 「いな」 ともいかがなれば、 「なべて世にだに洩れさぶらはずは」 とばかりにて、 引き立てぬ。      御帰りの後、 時(じ)過ぎぬれば、 御前へ参りたるに、 「扇の使はいかに」 とて笑はせおはしますをこそ、 例(れい)の心あるよしの御使なりけると知りはべりしか。 

 

  巻二(三五) 近衛の大殿 [ ] の部分

  とかく泣きさまたれ居(ゐ)たれども、 酔(ゑ)ひ心地(ごこち)やただならざりけむ、 つひに明けゆくほどに帰したまひぬ。 

 

 巻三(一二) 御供花(くうげ)の結縁(けちえん)ということで、「有明の月」も御堂に来ている。 雑用の僧が、「御所様が、 扇が御堂に落ちていないか見て参れ」という伝言を伝える。 二条が見に行くが、 何もない。 すると、 「有明の月」 が、 障子を細く開け、 出産の為、 里に退出する二条に逢いに行く旨を伝える。  その後、 御所様の前に参ると、 「扇の使いはどうだった?」 と 笑って言われ、 心あるお使いだったと知る。 

 巻二(三五) 近衛の大殿のお伽の相手をした二条は、 あれこれ泣き崩れていたが、 酒宴に酔って抗うことができなかったのだろうか、 夜が明けていく時分に帰された。

 

       『みだれ髪 302』 くれなゐの襟にはさめる舞扇(まひあふぎ)酔のすさびのあととめられな (明治34年1月 「舞姫」 初出) 

 『みだれ髪 302』 の上句 「くれなゐの襟にはさめる舞扇(まひあふぎ)」が 『とはずがたり 巻三・(一二)』 の 「扇の使い」に象徴される御所様の 「心ある使い」 であり、 下句「酔のすさびのあととめられな」 が 近衛の大殿とのお伽を薦めた御所様の仕打ちです。 両面を持ち合わせる御所様が詠まれています。

            【302 裏訳というか、表訳はなし】 『とはずがたり』に思いを馳せ・・・・。 御所様は、 有明の月に対しては、「扇の心遣い」を示して下さったけれど、 御所様の後見役である近衛の大殿には、 私にお伽の相手をさせて・・・・、 酒に酔ってしまったとはいえ、 抗えなかった私の運命でしょうか。  

   

 

     参考文献 : 『完訳 日本の古典 とはずがたり一 ・二』  久保田淳 著 (小学館) 昭和60年6月初版