木村真理子の文学 『みだれ髪』好きな人のページ

与謝野晶子の『みだれ髪』に関連した詩歌を紹介し、現代語訳の詩歌に再生。 また、そこからイメ-ジされた歌に解説を加えます。

北村透谷「楚囚之詩」  『みだれ髪』に対比

2012-04-30 19:09:19 | 北村透谷

 

      北村透谷「楚囚之詩」    『みだれ髪』に対比 

 第一

     *中(なか)に, 余が最愛の / まだ蕾の花なる少女も、

       ―「7 堂の鐘のひくきゆふべを前髪の桃のつぼみに経たまへ君」         (訳)お堂の鐘が低く響く夕方、桃割れ髪を結っている花の蕾であった私に、お経を唱えて下さい(謝って下さい)。

 大人になっていない少女を「蕾の花」と示し、晶子もそれを取り入れています。

 『みだれ髪』の最初から十首がプロローグ歌だとすると、5番「5 椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃(いろもゝ)に見る」が河井酔茗。 6番「6 その子二十(はたち)櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」は山川登美子。 この7番が晶子と同じ堺市の寺・覚応寺の住職であり、文学同好会の河野鉄南。 そして10番「10 紫の濃き虹説きしさかづきに映(うつ)る春の子眉毛かぼそき」が鉄幹であり、登場人物が一堂に会します。

 他に鉄南の歌としては、 「393 庫裏(くり)の藤に春ゆく宵のものぐるひ御経(みきやう)のいのちうつつをかしき」  があります。   (訳)藤の花の頃の夕方、寺の庫裏であなたは物狂いになりました。 寺の坊主なのに、お経の命とはいったい何なのでしょう。     

       

第二

     *余が髪は何時(いつ)の間(ま)にか伸びていと長し /  前額(ひたひ)を蓋(おほ)ひ眼を遮(さへぎ)りていと重し、

       ―「264 行く春の一弦(ひとを)一柱(ひとぢ)におもひありさいへ火(ほ)かげのわが髪ながき」  

  「わが髪ながき」を、通常、黒髪の自画自賛と捉えられているようですが、 「うっとおしい」 を意図しています。  集中には、五尺の髪を切って軽くなった、という歌もありますので、必ずしも長い髪が良い訳ではないのです。      

  「361 結願(けちがん)のゆふべの雨に花ぞ黒き五尺こちたき髪かるうなりぬ」         (訳)結願の日の昨夜に降った雨で、花が黒くなったように、私の希望が断たれました。(ですから気分を一新しようと)、五尺のうっとおしい髪を切って軽くなりました。

 (注)上田敏の解説からの訳が一般的に浸透していますが、 晶子の意図した歌は別です。 即ち「ゆうべ」は、通常解されている今日の夕方ではなく、「昨夜(ゆうべ)」=「昨日の夜」の意。     「こちたき」は、①言痛し・事痛し-うるさい。わずらわしい。    ②抉(こじ)る-ねじる。ひねる。えぐる。くじる。 「こちたき」の「き」(助詞)は、過去を表すのかも?-「抉(こじ)ってしまった」の意?  「こちたき髪」から、晶子は ①と②の造語? 何だか解からないけれど・・・・、「こちたき髪」を「うっとおしい髪」、そして「切ってしまった髪」として用いている様です?  無理やりですよね・・・・やっぱし。    

 

     * 肉は落ち骨出で胸は常に枯れ、/ ・・・・  余が口は涸(か)れたり、 余が眼は凹(くぼ)し

       ―「373 病みませるうなじに繊(ほそ)きかひな捲きて熱にかわける御口(みくち)を吸はむ」       

 私は最初、 自分で自分の口を吸う、と解していましたが、やはり鉄幹「余が口は涸(か)れたり、 余が眼は凹(くぼ)し」を対象とし、晶子が鉄幹に接吻をしていると思います。 

 中山梟庵-鉄幹宛て書簡(『明星 六号』(明治33・9)「新雁」)  ―御病気とのお知らせを得てより以云ひ知らず胸いたく、あらぬことまで思ひ出候。・・・・晶子様ととみこ様より頻りに御容体の義を尋ねられ候へど・・・・

とあり、晶子と登美子が鉄幹の病気の様子を梟庵に頻りに尋ねていたようです。

  

 第三

     *余の青醒(あをざ)めたる腕を照らさんとて / 壁を伝ひ、 余が膝の上まで歩寄(あゆみよ)れり。

      ― 藤村「白磁花瓶賦 十七・十八」

      ―「312 あでびとの御膝(みひざ)へおぞやおとしけり御幸源氏(みゆきげんじ)の巻(まきゑ)の小櫛(をぐし)」

 舞妓に化して詠んでいますが、結局は晶子自身のことを言っています。

         

     *彼等は山頂の鷲なりき / 自由に喬木の上を舞ひ / 又た不羈(ふき)に晴朗の天を旅(たび) / ひとたびは山野に威(ゐ)を振ひ / 慓悍なる熊をおそれしめ / 湖上の毒蛇の巣を襲ひ / 世に畏(おそ)れられたる者なるに   

       ― 藤村「鷲の歌」

 藤村は、ここから「鷲の歌」を生み出しました。 透谷と藤村の友情・・・・どんなにか藤村は透谷を慕っていたか・・・・。

                   

 第四

     *彼れの柔(よわ)き手は吾が肩にありて / 余は幾度(いくたび)か神に祈を捧(さゝげ)たり。     

       ―「395 室(むろ)の神に御肩かけつつひれふしぬゑんじなればの宵の一襲(ひとかさね)」         (訳)部屋で恋人(鉄幹)の肩に手を掛け跪(ひざまず)きました。 生理の日の夜の愛の営みです。

  窪田空穂『歌話と随筆』(昭和8・11 一誠社) ― 関西へ行つて帰つて来た与謝野氏も、鳳に逢ふと、歌つてものは本当に思つた通りの事を云へばいいものかと聞くので、それでもいい、それだけの物だつて返事をしたが、本当かつて駄目を押して居た、といふ意味の事を云はれた事があつた。

 

     *左れどつれなくも風に妬(ねた)まれて / 愛も望みも花も萎れてけり / 一夜の契りも結ばずして / 花婿と花嫁は獄舎(ひとや)にあり。

       ―「43 春の夜の闇(やみ)の中(なか)くるあまき風しばしかの子が髪に吹かざれ」       (訳)春の夜の闇から吹いて来る恋心を誘う甘い風よ、どうか暫くの間、あの子に(鉄幹の)恋心が向きませんように、私の髪に飾っている鹿の子に吹いて私の方に恋心を運んで下さい。

 佐藤春夫『みだれ髪を読む』(昭和34・6)― 己を三人称で呼んでいるので、それが甚だおもしろい。多分、恋心に思いみだれて春に得堪えぬ自分を疎んでこう客観的に三人称で呼んだ。

 市川千尋『与謝野晶子と源氏』(国研出版 1998年)によると、「かの子」が「浮舟」を指し、― 浮舟の場面が設定され、そこに流れる気分を晶子の現実に当て嵌めた ― という第三者説もありますが、通常、佐藤春夫の説に従い、「かの子」を自分自身としています。

 しかし歌の構造からすると、この「吹かざれ」は、肯定と否定の両方の意味を持たせています。 「彼の子の髪に吹いて下さい」と、「彼の子の髪に吹かないで下さい」です。  従って「かの子」は、己を三人称で呼んだ=私(晶子)であり、 三人称の=三人称→彼の子=あの子でもあるのです。  それは、『新潮社版』「春の夜の闇の中くる甘き風しばし我身を専らに吹け」の改定版でも知られます。 晶子の改定版は歌の向上、というよりも常に補助歌であり、説明歌ですし、また、意味不明と捕られるなら、丸々別の歌に変更したりしています。  また歌の特徴は、二重読みが多く取り入れられていますし、感情が驚くほど直線的です。この歌で晶子が踏みたかったのは、「左れどつれなくも風に妬(ねた)まれて / 愛も望みも花も萎れてけり」であり、登美子との恋の駆け引きだったのでしょう。

 

 第五            

     *余が愛する少女の魂も跡を追ひ / 諸共に、昔の花園に舞ひ行きつ 

       ―藤村「白磁花瓶賦 二十二・二十三」

 

     *塵(ちり)なく汚(けがれ)なき地の上にはふ(ママ) バイヲレツト / 其名もゆかしきフオゲツトミイナツト /  其他種々(いろ〃)の花を優(やさ)しく摘みつ / ひとふさは我胸にさしかざし / 他のひとふさは我が愛に与へつ / ホツ!   是(こ)は夢なる! / 見よ!  我花嫁は此方を向くよ! / 其の痛ましき ! / 嗚呼爰(ここ)は獄舎(ひとや) / 此世の地獄なる。

       ―「275 みどりなるは学びの宮とさす神にいらへまつらで摘む夕すみれ」       (訳)平和に収めることを学びなさい、と指し示す鉄幹に、夕方、苛立って毟り取る菫。 (駆け落ちの約束をして京都まで来たのに、鉄幹が先に一人で東京に帰ってしまい、残された私は、夕暮時に一人苛立ちながら菫を毟り取っています。)

 通常、は違う訳ですが・・・・、緑色が、平和というイメージ。 鉄幹が妻、滝野との穏やかな解決策のため、晶子と一緒に上京しなかったのでしょう。それを、緑という色彩で表現しています。

       ―「279 十九(つづ)のわれすでに菫を白く見し水はやつれぬはかなかるべき」       (訳)十九歳の頃、既に私は恋愛に対して嫌悪感を持っていました。 自然の中のその(塵なく穢れなき地上に這う)菫は、水が干乾びて可哀想な状態です。

 どの解説書にも述べられていませんが、「御経のいのちうつつをかしき」の河野鉄南を指したものかも知れません。

 

     *其他種々(いろ〃)の花を優(やさ)しく摘みつ / ひとふさは我胸にさしかざし / 他のひとふさは我が愛に与へつ    

       ―「372 きけな神恋はすみれの紫にゆふべの春の賛嘆(さんたん)のこゑ」

       ―「237 野茨(のばら)をりて髪にもかざし手にもとり永き日野辺に君まちわびぬ」

 「372」も「237」も上記とは打って変わって愛の賛歌です。

 第六 

      * ひと夜(よ)。  余は暫時(しばし)の座眠(ざすゐ)を貪りて /  起き上り、厭(いと)はしき眼を強ひて開き / 見廻せば暗さは常の如く暗けれど /  なほさし入るおぼろの光・・・・是れは月! / 月と認(み)れば余が胸に絶えぬ思ひの種(たね) / 借に問ふ、今日(けふ)の月は昨日(きのふ)の月なりや? 

        ―「382 月こよひいたみの眉はてらざるに琵琶だく人の年とひますな」     

 (272)と対の歌であり、楠桝江を詠んでいます。   (下記参照)

    

      * 美の女王!  嘗つて又た隅田に舸(ふね)を投げ /  花の懐(ふところ)にも汝とは契をこめたりき。

        ―「158 男きよし載するに僧のうらわかき月にくらしの蓮(はす)の花船(はなぶね)」

        ―「159 経にわかき僧のみこゑの片明(かたあか)り月の蓮船(はすぶね)兄こぎかへる」 

 船の発想は、ここからのイメージかも知れません。藤村「蓮花舟」を参照して下さい。

 

 第七

      *牢番は疲れて快(よ)く眠り / 腰なる秋水のいと重し,

        ―「19 秋の神の御衣(みけし)より曳(ひ)く白き虹ものおもふ子の額に消えぬ」 

 難解な歌ですが、上記の「尿意を催して目覚めた」というところから、発想されたのではないでしょうか?    (訳)は、何だかこれ訳して良いの? という訳になってしまうので・・・・、「白き虹」は、精液か?  「ものおもふ子の額に消えぬ」は、女性の立場? (159) の「兄こぎかへる」が男性の立場から見た場合ではないか? と思います。  「秋の神」=季節が秋であり(初出が明治34・1)、飽いてしまった鉄幹、の掛詞。 意味よりも、どちらかと言えば歌の形態・詠みのリズム、として「秋」を挿入したと思います。      各自訳してみて下さい。

 

      *(第六)何(な)ぜ・・・・余は昼眠(ね)る事を慣(なれ)として /  夜の静(しづか)なる時を覚め居(ゐ)たりき

      *意中の人は知らず余の醒(さめ)たるを・・・・ / 眠の娯楽・・・・尚ほ彼はいと快(こころよ)し / 嗚呼二枚の毛氈(もうせん)の寝床(とこ)にも  / 此の神女の眠りはいと安し!/ 余は幾度も軽るく足を踏み / 愛人の眠りを攪(さま)さんとせし/ 左れど眠りの中に憂(うさ)のなきものを / 覚(さま)させて、 其(そ)を再び招かせじ,

         ―「272 裾たるる紫ひくき根なし雲牡丹が夢の眞昼(まひる)しずけき」         (訳)表歌 ― (空に)紫の浮き雲が低く垂れ込め、牡丹が夢見て眠っている真昼間、静かです。     裏歌 ― 着物の裾をだらしなく垂らし、恋する意識も低い養女の楠桝江が、恋を夢見て、昼間静かに眠っています。

 表裏二重詠みの歌であり、表歌の「紫ひくき根なし雲」の意味は、「紫」が「ひくき」に掛かり、「雲」に掛からないので、「紫の浮き雲が低く垂れ込め」とするには、歌の文章構造として無理があります。 ですから、裏歌の意味が汲み取れるということなのですが・・・・。

 裏歌の意味は、「紫ひくき」=恋を志向する意識が低い。 「根なし雲」=系統家系を持たないこと、即ち養女であること。 「裾たるる」は「根なし雲」に掛かり、 着物の裾を垂らしている情景。 「牡丹が夢」=恋愛を夢見て、昼寝をしている情景。 裏歌の方は、下記の(382)と対の歌で、「231 春にがき貝多羅葉(ばいたらえふ)の名をききて堂の夕日に友の世泣きぬ」の友の楠桝江のことです。

     晶子の河井酔茗宛て書簡(明治34・3・19)(新間進一「文学」昭和30・9) ― このひとわれより五つばかりの姉様に候。かなしきすくせもつひとに候。 西の別院へ経ならひにゆきかよひしころは、覚応寺の河野様とおなじなりしとに候

     

 第八

      *送り来れるゆかしき菊の香(かをり)! / 余は思はずも鼻を聳えたり / こは我家(わがや)の庭の菊の我を忘れで / 遠く西の国まで余を見舞ふなり /あゝ我を思ふ友! / 恨むらくはこの香(かをり) / 我手には触れぬなり。

       ―「113 師の君の目を病みませる庵(いほ)の庭へうつしまゐらす白菊の花」 

    晶子『歌の作りやう』(大正4・12 金尾文淵堂) ― 私は眼を病んでおいでになる師の庭へ、其お眼の慰みにと思つて、自分の家の白い菊の花を持つて行つて植ゑました。

 

 第十

      *罪も望みも、 世界の星辰も皆尽きて / 余にはあらゆる者皆,・・・・無(む)に帰して / たゞ寂寥, ・・・・微(かす)かなる呼吸―― / 生死の闇の響(ひゞき)なる / 甘き愛の花嫁も、 身を擲(なげう)ちし国事も  /  忘れはて、 もう夢とも又た現(うつつ)とも!

       ―「1 夜の帳(ちやう)にささめき尽きし星の今を下界(げかい)の人の鬢(びん)のほつれよ」

 (1)は、「長恨歌」からだと以前言ったでしょう? といわれそうですが・・・・、透谷もまた「長恨歌」を踏んでいます。

 

 第十一

      *(第三)中に四つのしきりが境となり / 四人の罪人(つみびと)が打揃ひて――

      *(第四)四人の中にも、 美くしき / 我花嫁・・・・  いと若(わ)かき / 其の頬の色は消失(きえう)せて / 顔色の別(わ)けて悲しき / 嗚呼余の胸を撃(う)つ / 其の物思はしき眼付き!

     * 余には日と夜との区別なし / 左れど余の倦(うみ)たる耳にも聞きし / 暁(あけ)の鶏(にはとり)や、また塒(ねぐら)に急ぐ烏(からす)の声 / 兎は言へ其形・・・・想像の外(ほか)には嘗つて見ざりし。

       ―「70 とや心朝の小琴(をごと)の四つの緒のひとつを永久(とは)に神きりすてし」       (訳)朝、我が疑いの心に問いました。 (住之江で遊んだ)四人‐ 鉄幹・梟庵・晶子・登美子の内の一人、登美子を鉄幹は永遠に切り捨てたのでしょうか?

 「朝の」は、(339)の「朝の」と同じ時。 「とや心」=「問や心」と「塒(とや)心」の掛詞 (上記から踏んでヒントを得る?)― 「問う心」と「塒(ねぐら)の心」・・・・疑いの心? を意図する様ですが・・・・(三・四版)では「誰かよくこころとかむと相笑みぬ君がかきし画わが染めし歌」 を補入し、 晶子自身も(70)は意味の取れない歌だとしています。  

 

  第十二 

       *余には穢(きた)なき衣類のみならば  / 是を脱ぎ,  蝙蝠に投げ与ふれば / 彼は喜びて衣類と共に床(ゆか)に落ちたり /  余ははい寄りて是を抑(おさ)ゆれば / 蝙蝠は泣けり、 サモ悲しき声にて / ・・・・ ・・・・ / 卿(おんみ)を捕ふるに・・・・野心は絶えて無ければ。

            ―「119 のろひ歌かきかさねたる反古(ほご)とりて黒き胡蝶をおさへぬるかな」

 有名な歌ですが、(119)の発想は、この詩から生み出されました。 この歌と、下記の(339)がこの詩から生み出された典型的なものでしょう。  松川久子氏は、蕪村「うつつなきつまみごころの胡蝶かな」を指摘されておられる様です・・・・、「胡蝶」という語彙は、そうだと思いますが、 蕪村の句は、蝶の両方の翅を畳んで摘まむ感覚 :なんとも頼りなく、指がグニュグニュした不安な気持ち: を詠んだものですし、 晶子のパシッとした、確(しっか)り取り押さえる感覚とは別のものだと思います。

   晶子『歌の作りやう』(大正4・12 金尾文淵堂) ―  私は陰鬱な家庭を憎んで居る。私を苦しめる保守的な習俗を憎んで居る。私は呪はしい気分に満ちてゐる。私はたまたま黒い蝶の飛んで来たのを見て、あの蝶も憎いと云つて側にあつた歌の草稿で抑へた。 呪詛の歌に満ちた近頃の草稿である。

            

  第十三  

     *――我身独りの行末が・・・・如何に / 浮世と共に変り果てんとも!

       ―「77 ゆあみして泉を出でしやははだにふるるはつらき人の世のきぬ」         注:「やははだ」は「わがはだ」 と晶子自身が訂正。(『明星 十五号』)

 上記を踏んでいる、と想定しました。

 

     *嗚呼蒼天!  なほ其処に鷲は舞ふや? / 嗚呼深淵!  なほ其処に魚は躍るや?

       → 藤村「鷲の歌 七」― わが若鷲は・・・・谷の落(おと)し羽(は)飛ぶときも / 湧きて流るゝ真清水(ましみづ)の水に翼をうちひたし / このめる蔭は行く春のなごりにさける花躑躅(はなつゝじ) 

       →「146 巌(いは)をはなれ峪(たに)をくだりて躑躅(つゝじ)をりて都の絵師と水に別れぬ」

       →「381  金色(こんじき)の翅(はね)あるわらは躑躅(つゝじ)くはへ小舟(をぶね)こぎくるうつくしき川」

 

     *羽あらば帰りたし, も一度 / 貧しく平和なる昔のいほり。    

       ―「171 春かぜに桜花ちる層塔(そうたふ)のゆふべを鳩の羽(は)に歌そめむ」   

  初出は「金翅」(明治34・7)ですが、この銘々は「鳩の羽」からでしょう。  鉄幹との駆け落ちの為、京都で待ち合わせたのですが、一人置いてけぼりをくった時の歌です。 羽があるなら、もう一度実家に帰りたいが、ここまで来てしまったからには、もう後戻りは出来ない、という気持ちが込められています。  私は場所としては、京都の黒谷を想定してしまいます。

 

 第十四

     * 鶯は此響(このひゞき)には驚ろかで / 獄舎の軒にとまれり,  いと静に! / 余は再び疑ひそめたり・・・・此鳥こそは / 真に,  愛する妻の化身ならんに。 ・・・・・・・・ / 然り!  神は鶯を送りて / 余が不幸を慰むる厚き心なる!/ 嗚呼夢に似てなほ夢ならぬ / 余が身にも・・・・神の心は及ぶなる。/ 思ひ出す・・・・我妻は此世に存(あ)るや否? / 彼れ若し逝きたらんには其化身なり、 / 我愛はなほ同じく獄裡に呻吟(さまよ)ふや? / 若し然らば此鳥こそ彼れが霊(たま)の化身なり。 / 自由、 高尚、 美妙なる彼れの精霊(たま)が / この美くしき鳥に化せるはことわりなり,/ 斯くして、 再び余が憂鬱を訪ひ来る―― / 誠(まこと)の愛の友!  余の眼に涙は充ちてけり。

       ―「339 朝の雨につばさしめりし鶯を打たむの袖のさだすぎし君」        (訳)朝の雨が降る中、雨宿りの鶯を袖で打つような事をする、遣り過ぎのあなた(鉄幹)。  ・・・・私は、あなたを慰める為にやって来た・・・・愛する妻の化身の鶯なのに・・・・。

 通常、「さだすぎし君」は、 袖で打つという行為から女性と解釈されている様ですが、晶子は一度も女性を「君」とは呼んでいません。 この歌も(171)や(70)(146)(381)と同様に、駆け落ちの京都に一人残された時のもので、透谷「楚囚之詩」を踏んだことにより、存在している歌です。

  


白居易「長恨歌」-陳 鴻傳「長恨歌傳」-史官楽史『楊太眞外傳』   

2012-04-16 18:27:40 | 長恨歌

 

      「1 夜の帳(ちょう)にささめき盡きし星の今を下界(げかい)の人の鬢((びん))のほつれよ」

 

 「鉄幹歌話三」(『明星』明治34・10)によると、

    - 天上の夜の帳の歓語が蜜の如くあまく、円満であったに引替へて、下界に降された星の子の我は、今を恋の得がたきに痩せて、色なき髪の如何に乱れ多きかを見給へ-

 「みだれ髪を読む」(著明 「なにがし=上田 敏」   上記と同号 )も同様な見解を示していますが、これらは、当時の新詩社同人達が自らを「星の子」と称し、一種の選民意識を有していた、とされています。

 ただ、平出 修(黒 瞳子)『新派和歌評論』(明治34・10)は、天井の円満な星の恋と地上の煩悶する人間の恋とを対照とさせた構想である、と受け取っています。

 晶子も『みだれ髪』三・四版では、 「夜の帳にささめきあまき星の今を下界の人の鬢のほつれよ」と改めたのに、『現代自選歌集』(大正4年3月 新詩社)では、 「夜の帳にささめきあまき星もあらむ下界の人ぞ鬢のほつるる」と平出修依りの歌に改め、さらに『晶子短歌全集』(大正8年10月)では、 「夜の帳にささめきあまき星も居ん下界は物をこそ思へ」と改作しています。

 しかし最初、晶子はどこからこの歌を構想したのか? との想いをめぐらせると・・・・、

鉄幹が用いた最初の妻・滝野の雅名や登美子に与えた詩に入れた「芙蓉」。 それが蓮であり、楊貴妃の美しい顔を意図していること。また楊貴妃の激しく流す涙の貌(かお)が「欄干」であったり、藤村の「蓮花舟」にも長恨歌からの発想があったりして・・・・、

どうやら漢文を自由に操れる明治の人々には、白居易「長恨歌」への想い、が元々あるのではないでしょうか?

 〔夜の帳に〕は、その「長恨歌」への想いが、『みだれ髪』巻頭歌としての栄誉を得ているではないのか? と思います。

 陳鴻傳『長恨歌傳』より ―

 東都門(ひがしともん)を望み馬に信(まか)せて帰り。 帰り来たれば池苑(ちゑん)皆(みな)舊(きう)に依(よ)る。 太液(たいえき)の芙蓉、 未央(びあう)の柳、 芙蓉は面の如く柳は眉の如し。 此れに対して如何ぞ涙(なみだ)垂(た)れざらん。 春風(しゆんぷう)桃梨(たうり)花(はな)開くの日(ひ)、 秋雨(しうう)梧桐(ごどう)葉(は)落(お)つるの時。 西宮南内(せいきうなんだい)秋草(しうさう)多く、 落葉階(かい)に満ちて紅(こう)掃(はら)はず。 梨園(りゑん)の弟子(ていし)白髪新(あらた)に、 椒房(せうぼう)の阿監(あかん)青娥(せいが)老いたり。 夕殿(せきでん)蛍(ほたる)飛(と)んで思(おもひ)悄然(せうぜん)。 孤燈(ことう)挑(かか)げ盡(つく)して未(いま)だ眠(ねむり)を成さず。 遅遅(ちち)たる鐘漏(しようろう)初めて長き夜(よる)、 耿耿(かうかう)たる星河(せいか)曙(あ)けんと欲(ほつ)する天(てん)。 鴛鴦瓦(ゑんあうぐわ)冷(ひやや)かにして霜華(さうくわ)重(おも)く、 翡翠衾(ひすゐきん)寒うして誰と共にせん。 悠悠(いういう)たる生死(せいし)別れて年を経(へ)、 魂魄(こんぱく)嘗(かつ)て来(きた)りて夢に入(い)らず。 -   

   *耿耿(かうかう)たる星河(せいか)曙(あ)けんと欲(ほつ)する天(てん)。          

     → 「1 夜の帳にささめき盡きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ」

ではないでしょうか?

 楊貴妃を想う悲しみの玄宗皇帝が、見上げる天上の星々。その煌めく星々の空が曙けてゆく・・・・。

しかしどちらかと云えば、悲しみではなく、私は「曙けんと欲する天」を暗々裏に踏んでいると想いたいです。 晶子の最初の集を編むという行為そのものが、明るい未来に向かってゆく・・・・何か、そんな気がします。やっぱり初出がベストですよね・・・・。

 そして、『長恨歌傳』の「梨園(りゑん)の弟子(ていし)白髪新(あらた)に、 ~~~ 「耿耿(かうかう)たる星河(せいか)曙(あ)けんと欲(ほつ)する天(てん)。」までを、蕪村、晶子の二人の天才がその詩を踏んで自己の想いを詠っています。

 

 蕪村

   *椒房(せうぼう)の阿監(あかん)青娥(せいが)老いたり。                                                                                椒房=皇后御所     阿監=宮女の取締役     青娥=花盛りの美しさ

   *李白「長干行」 ―  「妾が髪 初めて額(ひたい)を覆(おお)い   花を折って  門前に劇(たわ)むる   郎は竹馬に騎(の)りて来たり   牀(しよう)を遶(めぐ)って  青梅(せいばい)を弄す   同じく長干(ちようかん)の里に居り   両(ふた)つながら小(おさ)なく  嫌猜(けんさい)無し    十四 君が婦(ふ)と為り     羞顔(しゆうがん)  未(いま)だ嘗(かつ)て開かず   頭(こうべ)を低(た)れて 暗壁に向い   千(ち)たび喚(よ)ばるるに  一(ひと)たびも回(めぐ)らさず   十五 始めて眉を展(の)べ   願わくは塵と灰とを同じゅうせん  

     → 「青梅に眉あつめる美人哉」

 李白「長干行」は、第一に藤村の「初恋」を想いますが、森本哲郎著 『詩人 与謝蕪村の世界』(講談社学術文庫 1996年)によると、 蕪村〔青梅に〕は「長干行」から取られた、と述べておられます。 

 私も納得しますが、白居易「長恨歌」にもヒントを得ていると思われます。 即ち、「青娥=花盛りの美しさ」の老い →  に対峙する「美人」の若さ・初々しさ です。 蕪村は、「長恨歌」に対峙する美を想ったのです。

 

 晶子 

   *夕殿(せきでん)蛍(ほたる)飛(と)んで思(おもひ)悄然(せうぜん)。       

      → 「79 うすものの二尺のたもとすべりおちて蛍ながるる夜風(よかぜ)の青き」

 晶子は同じ箇所を「長恨歌」と同様に、老いの美、哀れの美、不の美とも言えば良いのでしょうか? 椒房(せうぼう)の阿監(あかん)が「思悄然」としている様子を自身に化して詠んでいます。「青娥=花盛りの美しさ」が『みだれ髪』の「青き」をイメージしているところが、蕪村と同様で面白いと思います。

 

   *孤燈(ことう)挑(かか)げ盡(つく)して未(いま)だ眠(ねむり)を成さず。 

      → 「264 行く春の一弦一柱におもひありさいへ火(ほ)かげのわが髪ながき」        (訳)青春の一時ごとに想いがあります。とは言うものの、燈火の下で梳く私(=晶子)の髪は長く伸びて(あなた=鉄幹を)恨んでいます。   

      →「267 あえかなる白きうすものまなじりの火かげの榮(はえ)の咀(のろ×詛)はしき君」    (訳)しなやかな白い薄物を着ている鉄幹の眉が、燈火に映えて・・・・、呪わしくさえ(憎い)あなた。    

 孤燈挑げ盡して未だ眠を成さず― の心境と合致する詠みが成されています。

 

   *遅遅(ちち)たる鐘漏(しようろう)初めて長き夜(よる)、

       →「204 京の鐘この日このとき我あらずこの日このとき人と人を泣きぬ」

       →「343 春の宵をちひさく撞(つ)きて鐘を下りぬ二十七段堂のきざはし」

 玄宗皇帝が楊貴妃を想って聴いた鐘の音、その人を想って・・・・、という意図が組み入れられた詠みです。  〔204 京の鐘〕は、鉄幹と一緒に登美子を想い、〔343 春の宵を〕は、河井酔茗を想ってのことです。 この鐘は堺市中之町の慈光寺の鐘で、晶子の五歳上の友・楠桝江がいた寺とされています。

 

 陳鴻傳『長恨歌傳』より ―

 進見(しんけん)の日、 霓裳羽衣(げいしよううい)を奏(そう)し以(もつ)て之(これ)を導(みちび)く。           定情(ていじやう)の夕(ゆふべ)金釵(きんさい)鈿合(でんがう)を授(さづ)け以(もつ)て之(これ)を固(かた)うす。 又(また)命じて歩搖(かんざし)を戴き金璫(みみかざり)を垂(た)れしむ。 明年(みようねん)冊(さく)して貴妃(きひ)となし后(きさき)の服用(ふくよう)を半(わか)つ。

       霓裳羽衣=舞楽の名     鈿合=青貝摺りの香盒    冊=符命を与えて取り立てること

  *定情(ていじやう)の夕(ゆふべ)金釵(きんさい)鈿合(でんがう)を授(さづ)け以(もつ)て之(これ)を固(かた)うす。

    →「290 柳ぬれし今朝(けさ)門(かど)すぐる文づかひ青貝(あをがひ)ずりのその箱ほそき」     (訳)柳が雨で濡れる小雨の朝、細い青貝ずりの硯箱から取り出された筆で書かれた走り書きは、頼りなく・・・・、(これでも結婚の約束をしたのですが・・・・、)その紙切れを私に渡すと、鉄幹は(宿の)門をすぐに出て行きました。 (結婚の約束は、その青貝ずりの硯箱の様に、頼りないものです。)  

 

 この訳の解からない歌も、長恨歌の上記の引用だということに気付くと、何となく理解できる様です。  「鈿合を授け以て之を固うす。」 楊貴妃が皇帝に認められた印として、青貝ずりの香盒を戴いた訳ですから、これをもって晶子は、鈿合(でんごう)=青貝ずりの香盒→青貝ずりのその箱=青貝ずりの硯。であり、妻に迎えるという約束の印、を意図としました。   門すぐる文づかい=門を直ぐに出て行った。 と、早く帰りたいのが見え見えの、走り書きした文。 を掛けたフレーズ。   青貝ずりのその箱ほそき=青貝ずりの硯箱が細い。 と、妻に迎えるという約束の意志が頼りなく思える、の意。  晶子は余りにも多くのことを詠みたい為、 根本的に無理がある歌が多くあります。

 この歌に続く歌が〔300 朝を細き〕ですが・・・・、舞姫の章にあることから、 「こづつみ」の振り仮名は間違いで、「こつづみ」が正解とされ、朝稽古にでも行く舞妓が、雨に濡れないように小鼓をだんだら染の袖で覆って行く情景、と訳されています。

  「300 朝を細き雨に小鼓(こづつみ)おほひゆくだんだら染の袖ながき君」 

 しかし、舞妓の姿なら、「袖ながき君」という五句が入り込まないです。 即ち、振り仮名が正解で、漢字の方が間違いではないでしょうか。 「小鼓(こつづみ)」× → 「小包(こづつみ)」○です。      

   正解「300 朝を細き雨に小包(こづつみ)おほひゆくだんだら染の袖ながき君」     (訳)朝の小雨の中、風呂敷き包みを抱えて行ってしまった鉄幹。その着物の袖が長く、(通常の仕事をする人の袖丈でなく)着物が雨に濡れて(だらしなく)段だら模様になっています。     (こんな人と人生を伴にするのでしょうか?)

 これで二首の関係が、スッキリしました。


 

  (唐)史官楽史 著 『楊太眞外傳』より ― 

  妃子(ひし)何(いくばく)もなく寧王(ねいわう)の紫玉笛(しぎよくてき)を竊(ぬす)んで吹く。 故に詩人張祜(ちやうこ)の詩に云(いは)く、梨花深院(りくわしんゐん)人の見るなし。 閑(かん)に寧王の玉笛を把(と)りて吹くと。 此(これ)に因(よ)りて又旨(むね)に忤(さか)ひ放(はな)ち出(いだ)さる。 時に吉温(きつをん)多く中貴人(ちうきじん)と善(よ)し。 國忠(こくちう)懼(おそ)れて計(けい)を温(をん)に請ふ。  遂(つひ)に入(い)り奏(そう)して曰く、妃は婦人なり知識なし、聖顔(せいがん)に忤ふあり、罪死(つみし)に當(たう)す。  既に嘗て恩寵を蒙る、只(ただ)合(まさ)に宮中に死すべし、陛下何(なん)ぞ一席の地(ち)を惜しむ、其れをして戮(りく)に就(つ)かしめよ、安(いづく)んぞ辱(はづかしめ)を外(ほか)に取るに忍びんやと。  上(しやう)曰く、朕(ちん)卿(けい)卿(けい)を用ふ、蓋(けだ)し妃に縁(よ)らざるなりと。

    中貴人=宮中に奉仕する官名  

 *妃子(ひし)何(いくばく)もなく寧王(ねいわう)の紫玉笛(しぎよくてき)を竊(ぬす)んで吹く。

 *天寶(てんぽう)四戴(さい)七月 = 玄宗皇帝の年号の四年、七月 の意。

  →「345 病むわれにその子五つのをとこなりつたなの笛をあはれと聞く夜」 

  →「345 病むわれにその子五つのをとどなりつたなの笛をあはれと聞く夜」   「をとこ→をとど? と改正」        (訳)病んでいる私(晶子)に、詩に取り組んで五年目の夫(鉄幹)が誹謗(文壇照魔鏡事件)されました。それを哀れと聞く夜です 。

「をとこ」は「をとと」の誤植とされ、三四版では第三句を「をとうとよ」と改定。 病気の私を慰めるため、五つ年下の少年が吹いてくれた笛の音に感動した、と解されている。

  文壇照魔鏡事件 ―『文壇照魔鏡 第壱与謝野鉄幹』なる小冊子が明治34年3月10日発行された怪文書。会名、所在地、人名すべて架空のもの。「文壇の醜態坐視するに忍びず、概然此言を為して自ら肅清の重任を担へるもの」という趣旨のもとに、第一編は専ら鉄幹を誹謗したものでした。

 〔345 病むわれに〕は、「をとこ」が誤植とされたのには、「五つつの」というキーワードから生じているのですが、それは玄宗皇帝の年号が四戴(さい)→四歳→四つ というように、「五つつ」即ち、鉄幹の詩に取り組んでから五年経ったという晶子ならではの意味です。  鉄幹は、その五年前に韓国から帰り(護送される)、明治29年3月、明治書院の編集部主任となります。 7月、詩歌集『東西南北』を明治書院より刊行します。 これが「五つつのをとこ」です。  「をとこ」は、鉄幹である夫を意図することから、 「をとど」=夫 の誤植としても良いのではないかと思い、ここでは「をとど」としました。

 又、「つたなの笛」とは、楊貴妃が笛を盗んだことからの引用だと推測され、文壇からいわゆる目立った行動をとった鉄幹への制裁を加えた事件ですから、以下の二首の「文壇照魔鏡事件」と連動した一首だと思います。

    「390 幸おはせ羽やはらかき鳩とらへ罪ただしたる高き君たち」

    「391 打ちますにしろがねの鞭うつくしき愚かよ泣くが名にうとき羊(ひつじ)」

 

 (唐)史官楽史 著 『楊太眞外傳』より ―

 是(これ)よりさき開元中(かいげんちう)、 禁中(きんちう)木(ぼく)芍薬(しやくやく)を重んず。 即ち今の牡丹なり。 数本(すうほん)紅紫浅(こうしせん)紅通(こうつう)白(はく)なるものを得たり。 上(しやう)因(よ)つて興慶池(こうけいち)東(とう)、 沈香亭(ちんかうてい)前(ぜん)に移植す。

 *今の牡丹なり。 数本(すうほん)紅紫浅(こうしせん)紅通(こうつう)白(はく)なるものを得たり。 

    →「134 わが春の二十姿(はたちすがた)と打ぞ見ぬ底くれなゐのうす色牡丹」      三・四版では、第三句は「打ぞ見る」に改定。

 この歌も晶子の自己陶酔の歌とされていますが、そうではなく「打ぞ見ぬ」は、『楊太眞外傳』の牡丹の花と同じ柄の着物だという発見への感激を示しています。

 

(唐)史官楽史 著 『楊太眞外傳』より ―

  妃子(ひし)の琵琶は、邏サ檀なり。  寺人(じじん)白季貞蜀(はくきていしよく)に使い還りて其(その)木を献ず。  温潤(おんじゆん)玉の如く光耀(ひかり)鑒(かん)すべく、金纓紅文(きんのすぢくれなゐのあや)あり、 蹙(ちぢま)りて雙鳳(さうほう)を成す。絃(いと)は乃(すなは)ち末訶彌羅國(まかびらこく)より永泰(えいたい)元年貢(こう)する所のもの淥水(ろくすゐ)の蠶絲(きぬいと)なり。  光エイ貫珠 (かわんしゆ)の如し。  琴(きん)・瑟(しつ)・紫玉笛は乃ち姮娥(こが)の得し所なり。  祿山(ろくざん)三百事を進む。  管色(くわんしよく)倶(とも)に媚玉(びぎよく)を用いて之を爲(つく)る。             

    邏サ檀=檀は木の名。  邏サ=拉薩なり、唐時 吐蕃國の都城なり。   寺人=宦官なり。 宮中の雑役に服する官。     姮娥(こが)=古の仙女の名。 淮南子(えなんじ)に羿不死の薬を西王母に請ふ、姮娥之を竊(ぬす)み月宮に奔(にげ)るとあり。

 

 *金纓紅文(きんのすぢくれなゐのあや)あり、蹙(ちぢま)りて雙鳳(さうほう)を成す。

   →「304 浅黄地に扇ながしの都染(みやこぞめ)九尺のしごき袖よりも長き」     

 舞妓の艶姿ですが、中国の豪華な衣装・装束にも負けない日本の京都の豪華さを競ったものでしょう。

 

 (唐)史官楽史 著 『楊太眞外傳』より ―

  【新豊の女楽師 謝阿蠻(しやあばん)が舞が上手いので、気に入った玄宗と楊貴妃はそれを受け、清元小殿に於いて上は羯鼓(かつこ)、妃は琵琶、寧王は玉笛、他の人々もそれぞれの楽器を持ち寄って演奏する。 ・・・・】   旦(たん)より午(ご)に至るまで歓洽(たのしみ)常に異り、時に唯(ただ)妃の女弟(ぢよてい)秦國(しんこく)夫人のみ端座(たんざ)して之を観る。  曲(きよく)罷(や)む。  上(しやう)戯れて曰く、 阿瞞(あまん)楽籍(がくせき)今日(こんにち)幸(さいはひ)に夫人に供養(きようやう)するを得たり、 一(ひとたび)纏頭(てんとう)を請ふと。

 阿瞞(あまん)=玄宗自ら呼ぶ所の名     纏頭(てんとう)=妓に花を贈ること。 昔は衣物を頭にかけて与えたり、因つて纏頭という。

  *纏頭(てんとう)を請ふと。

    →「251 かつぐきぬにその間(ま)の床(とこ)の梅ぞにくき昔がたりを夢に寄する君」       「かつぐ」は「かづく」の誤り。 恋人が夢に言寄せて語る恋物語に嫉妬し、聞きたくない為、頭から着物を被ったが、床の間の梅の香がして、その梅に縁のある女性(しら梅-増田雅子)が憎らしい、という風に解されています。

 玄宗皇帝が「纏頭(てんとう)を請ふ」と言われている訳ですから、賜った着物を肩に掛ける、男が戯れて衣を被(かぶ)る訳ですが・・・・、 私は「かつぐきぬ」は、鉄幹が戯れて衣に「潜ぐ-かづく」ことを意味し、「担ぐ-かつぐ」としても良いと思いますが、・・・・何だかややこしいですが、・・・・ちょっと想像しすぎかなぁ・・・・でも、 「かつぐきぬ」は「君」に掛かるとすれば、ですから・・・・・。 元々の「かつぐ-担ぐ」でも良いのではないかと思います。  

 晶子の歌は自由奔放、大胆不敵で、こんなこと詠んでいいの? と想える歌も多いから・・・・。 まあどちらにしても「かつぐきぬ」は、晶子が『楊太眞外傳』に親しんでいたということです。

 


山川登美子「夢うつつ十首」

2012-04-16 12:56:07 | 山川登美子

  『みだれ髪』「その子二十(はたち)櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」    
 
   
 余りにも有名な歌ですが、「その子」は晶子自身を指し、自己陶酔の歌だとされ、その部分が『みだれ髪』の価値を高めているように言われています。
 しかし、私は、これは登美子のことを詠んでいるのだと思います。
 ここでは、登美子の歌から夫・駐七郎への挽歌とされる「夢うつつ十首」を採り上げ、そこから晶子が登美子をどの様に思っていたのか? を検証します。 
 


山川登美子「夢うつつ十首」
『恋ごろも』及び生前未発表の『花のちり塚』より 初出『明星 卯歳第七号』(明治36年7月)
                   
   ― 去年よりひとり地にいきながらへて ―
  
  一首目「いかならむ遠きむくいかにくしみか生まれて幸(さち)に祈らむ指なき」
      『花のちり塚』「神の鞭尊ぶおそれかにくまれか生れてさちをかぞふ指なき」
   
  二首目「地にひとり泉は涸れて花はちりてすさぶ園生に何まもる吾」
      『恋ごろも』-「花ちりて」
      『花のちり塚』「地にひとり泉はかれて花もかれてすさぶ園生に何まもる我れ」

  三首目「虹もまた消えゆくものか我(わが)ためにこの地この空恋は残るに」
      『花のちり塚』「かけわたす虹も小さし大地軸半球かけて恋はのこるに」 

  四首目「君は空にさらば磯回(いそわ)の潮とならむ月に干(ひ)て住(い)ぬ道もあるべし」
      『花のちり塚』「魂はほしにさらば大森の汐とならむ月に干ていぬ道もあるべし」

  五首目「待つにあらず待たぬにあらず夕かげに人のみくるま(御車)唯(ただ)なつかしき」
      『恋ごろも』-「待たねにあらぬ」
      『花のちり塚』「まつにあらず待たぬにあらず夕戸に他のみくるまたゞなつかしく」
  六首目「今のわれに世なく神なくほとけなし運命(さだめ)するどき斧ふるひ来よ」
      『恋ごろも』-「今の我」

  七首目「帰りこむ御魂ときかば凍る夜の千代(ちよ)も御墓の石いだかまし」
      『恋ごろも』-「帰り来む」「聞かば」
      『花のちり塚』「あたゝめてみ霊帰らば霜百夜みはかの石に胸かさましを」  

  八首目「おもひ出づな恨に死なむ鞭の傷(きづ)秘めよと袖の女に長き」
      『恋ごろも』-「傷(きず)」「少女(をとめ)」
      『花のちり塚』「おもひ出ぞ恨みにしなむ鞭のきず秘めよと袖のをんなにながき」
 
  九首目「おもへ君柴折戸さむき里の月けずる木音(きおと)は経のする具よ」
      『花のちり塚』「誰そや此の紫(ママ)折戸かたき梅月夜削る木の音経机とや」

  十首目「夕庭のいづこに立ちてたづぬべき葡萄つむ手に歌ありし君」  
      『花のちり塚』「ふくませてその実のあじ(ぢ)をとひよりぬ萄葡(ママ)つむ手に歌ありし君」




   山川登美子「夢うつつ十首」      (訳)木村真理子



【1首目】「いかならむ遠きむくいかにくしみか生まれて幸(さち)に祈らむ指なき」

 【訳】どの様な永劫の罰を受けているのか、それとも憎まれているのか、私は生を享けて、幸福だったことを指折り数えることが何もありませんでした。
      

 歌の特徴は、「いかならむ/遠きむくいか/にくしみか/生れて幸に/祈らむ指なき」5・7・5・7・8と「いかならむ/遠きむくい/(いかに)/にくしみ(か)/生れて幸に/祈らむ指なき」5・6・(3)・5・7・8という二重構造の歌で、嫌悪感が重複されるよう制作されています。
 晶子『みだれ髪』にも

     「血ぞもゆるかさむひと夜の夢のやど春を行く人神おとしめな」

という「血ぞ燃ゆる」と「血ぞも揺るがさむ」の二重構造の歌があります。
 実は、この歌を踏んで一首目が制作されています。
 つまり、直接夫を対象としたのではなく、自分と鉄幹と晶子に対し、何故あの「血ぞ燃ゆる」時、私は「一夜の夢の宿」であの様な「重む一夜」をしてしまったのだろうか? 鉄幹よ「春を行く人よ」、あの時は「血ぞも揺るがさむ」出来事でしたが、同時に私にとっては「血ぞ燃ゆる重むひと夜の夢の宿」でした。晶子よ「春を行く人」よ、なぜあの時、あのような事を私に取り計らい「神を貶め」、「私を貶め」たのか・・・・と。
 それが登美子にとっての「遠きむくい」の原因であり、晶子から「にくしみ」を受ける要因、つまり、登美子が「躓きの石」を拾ったことでした。

      「矢のごとく地獄におつる躓きの石とも知らず拾ひ見しかな」『明星』(明治41・5)



【2首目】「地にひとり泉は涸れて花はちりてすさぶ園生に何まもる吾」

 【訳】地上に一人残された私、泉は涸れ、花が散ってしまった園である私に、何を守れというのでしょう。(これ以上守るべきものは、何も無いではありませんか。)


 キーワードは「何まもる吾」であり、夫が死んだ今、「私は何を守ろうとしているのか」、裏を返せば「なにを守れと言うのか」と鉄幹と晶子に訴えています。
 この一種の脅しのような歌によって、鉄幹と晶子は、その六年後の登美子の挽歌にて次のように歌っています。

      鉄幹「な告りそと古きわかれに言ひしことかの大空に似たる秘めごと」 
      晶子「背とわれと死にたる人と三人(みたり)して甕(もたひ)の中に封じつること」
      晶子「挽歌(ひきうた)の中に一つのただならぬことをまじふる友をとがむな」 
              「友」=晶子 私を咎めるな、の意。



【3首目】「虹もまた消えゆくものか我(わが)ためにこの地この空恋は残るに」

 【訳】(夫を失った今、鉄幹との愛の梯の)虹も消えていくのでしょうか? 地を見ても、空を見ても、鉄幹を想う恋しい気持ちがまだ残っていますのに・・・・。
 

 三首目は、『みだれ髪』の「虹」を含んだ次の二首を踏んでいます。

      晶子「小百合さく小草がなかに君まてば野末にほいて虹あらはれぬ」 
      晶子「もろき虹の七いろ恋ふるちさき者よめでたからずや魔神(まがみ)の翼(つばさ)」
 〔小百合さく〕は、明治33年6月『明星3号』に掲載されたもので、晶子も登美子も鉄幹との初対面の8月には時期尚早だったし、登美子が白百合とも晶子が白萩とも呼称されていなかった時の詠。
 しかし晶子の詠でありながら、白百合と呼ばれる雅名を与えられた登美子にとっては、登美子の代詠とも解される歌であり、登美子自身の鉄幹の為の歌です。
 〔もろき虹の〕は、『みだれ髪』初出の作であり、『みだれ髪』をストーリー化するために補入されました。
 これは、晶子が駆け落ちをするために堺の実家を出て、京都で待ち合わせをするが、すんなり上京出来ると思っていた晶子に、鉄幹は「日にちを置いて来なさい」と告げ、一人東京に帰ってしまいます。
 その時の一人京都に残された時の詠で、私を運んで行ってくれなかった鉄幹を「魔神の翼」と言って揶揄しています。
 そしてこの「翼」は同じく『みだれ髪』の、
 
      晶子「もろ羽かはし俺(おお)ひしそれも甲斐なかりきうつくしの友西の京の秋」

 明治33年11月、京都粟田山で鉄幹と晶子が登美子を庇った「もろ羽」だったが、それは同時に鉄幹の「魔神の翼」でもありました。   
 つまり、登美子にとっても〔もろき虹の〕は、自身に置き換える歌であり、それは「躓きの石」を拾ったことであり、登美子は「もろき虹の七いろ恋ふるちさき者」でした。
 従って三首目は、以上『みだれ髪』の三首を踏み、「虹もまた」の「虹」は、『花のちり塚』の「かけわたす虹」と同じ意図で、鉄幹との愛の梯を意味していると思います。



【4首目】「君は空にさらば磯回(いそわ)の潮とならむ月に干(ひ)て住(い)ぬ道もあるべし」

 【訳】鉄幹は空に輝く私の手の届かない人、さようなら、私は沖へ流される潮(磯回)に呑み込まれます。そうそう、(潮には)月の干満によって月へ帰る(死んで月に輝く)道もありましたよね。


 ここで私が提案したいのは、「磯回(いそま)」です。
 以前から「磯回」は、「海辺の入り込んだ場所」と理解されている様ですが・・・・。

磯廻(いそみ・いそわ)

 ―『全釈古語例解辞典』小学館―
 磯廻(いそみ・いそわ)ー「み」は入り込んだ地形を示す接尾語。
 ①入り込んだ磯、湾曲した磯。
   潮早み磯廻に居(を)れば漁(あさり)する海人(あま)とや見らむ旅行く我を  万葉集
    (訳 潮の流れが速くて(舟が出せないので)磯辺にいると魚を捕る漁師と(人々)は見ないだろうか、私を)
 ②舟などで磯のまわりを漕ぎめぐること。(注)荒磯伝イニ国府へ向カウコト。
   大船に真楫(まかぢ)しじぬき大君の命(みこと)かしこみ磯廻するかも  石上大夫の歌 万葉集
    (訳 大舟に左右対称になった梶をいっぱいとりつけ、天皇の仰せを謹み承って磯を巡って行くことだ)

 ―『日本古典文学全集』万葉集4 小学館―
   白波の寄(よ)する磯廻(いそみ)を漕ぐ舟の梶取る間なく思ほえし君  万葉集
   (訳 白波の寄せる磯辺を漕ぐ舟の梶をしきりに動かすように絶えず思われたあなただ) 

 ―『新日本古典文学大系』岩波書店―
   白波の寄(よ)する磯間(いそま)を漕(こ)ぐ舟の楫取りあへぬ恋もするかな  大伴黒主の歌  後撰和歌集
   (訳 白波が激しく寄せる磯を漕ぐ舟がかぢをうまくとりかねるように自己統御ができない恋を私はしていることであるよ)
 
 ―『万葉集』中西進 講談社文庫―
   潮干ればともに潟に出て鳴くたづの声遠ざかる磯廻すらしも  万葉集
    (訳 潮が引くと、互いに群れて干潟に出て鳴く鶴の、声が遠ざかることよ。磯をめぐっているらしい。)

 大伴黒主の歌は、万葉集の異伝ですが、・・・・端的に言えば、辞典は正しいのでしょうか?
 登美子〔君は空に〕の歌は、大伴黒主の歌を本歌取りし、「楫取りあへぬ恋もするかな」を暗に踏んだ歌のように思います。
 登美子の歌〔君は空に〕は、「A-さらば磯回の潮とならむ」という道があり、「B-月に干て往ぬ道もあるべし」という道もある、という文章であり、「A」か「B」か、という死ぬ方法の選択です。
 つまり、「磯回の潮とならむ」も死ぬ方法ということは? 以前テレビで見た事があったのですが・・・・。
 「磯回の潮」とは?― 磯の内側の潮-岸から沖へ流れる潮流。名前は忘れましたが、それに入り込むと、どんどん沖へ流され、その場所での遊泳は非常に危険。
 このことではないでしょうか?


 「磯廻ー岸から沖へ流れる潮流」と解して、以下を読み解きます。
 「潮早み磯廻に居れば漁する海人とや見らむ旅行く我を」は、(岸から沖へ流れる潮流)に捕まってしまうと、魚捕りをする漁師と見られないでしょうか、旅人の私ですのに・・・・。
 大伴黒主の歌「白波の寄する磯間を漕ぐ舟の楫取りあへぬ恋もするかな」も、その磯間(岸から沖へ流れる潮流)に捕まってしまうような、舵取りもできない恋を私はしていることよ。
 登美子は小浜の人ですから、この潮の流れを知っていたでしょうし、この意味を汲み取って「さらば磯回の潮とならむ」と詠んだのだと思います。
 大伴黒主の歌とは似ているけれど、万葉集の「白波の寄(よ)する磯廻(いそみ)を漕ぐ舟の梶取る間なく思ほえし君」の方は、男女の秘め事を歌っています。
 晶子の「男きよし載するに僧のうらわかき月にくらしの蓮の花船」や「経にわかき僧のみこゑの片明り月の蓮船兄こぎかへる」なども、この歌に由るものでしょう。
 動詞的用法「磯廻するかも」や「磯廻すらしも」も、磯を廻ることではないでしょう。
 「大船に真楫しじぬき大君の命かしこみ磯廻するかも」は、大船に左右対になった梶をいっぱい取り付け、天皇の仰せを謹み承り、(勇んで出港したけれど)磯廻(岸から沖へ流れる潮流)に捕まってしまうかも・・・・。(天皇の期待に応えられるでしょうか?)
 「潮干ればともに潟に出て鳴くたづの声遠ざかる磯廻すらしも」は、潮が引けば、干潟に出て鳴く鶴の声が遠ざかり、(潮も鶴も)共に磯廻(岸から沖へ流される)するらしい。と訳せます。

 登美子の歌に戻ります。  
 「さらば」は、「君は空に去らば」の意と、「君は空に/サラバ(さようなら)」の意があり、「六・七・六・七・七」の句切れからしても、「サラバ」に重点が置かれているように思います。

 「君は空に」― 鉄幹はスター。
 「君は空にさらば」― 鉄幹が去ってしまったので。
 「さらば磯回の潮とならむ」― さようなら、私は磯回の潮に沖へ流され(死に)ます。
 「月に干て往ぬ道もあるべし」― 月の干満の潮によって(月に)帰る道もあります。


【5首目】「待つにあらず待たぬにあらず夕かげに人のみくるま(御車)唯(ただ)なつかしき」

 【訳】(鉄幹を)待つともなく待たぬともなく・・・・、夕闇に紛れて鉄幹の乗った車が現れたら・・・・、ただ、ただ、今は懐かしく思えます。
 
 
 五首目は、直木孝次郎著『山川登美子と与謝野晶子』(塙書房)の評釈が当を得ていると思います。
 直木氏がまず連想されたのは、― 芭蕉の『猿蓑』の連句「はつしぐれの巻」の句
   
       痩骨のまだ起直る力なき          史邦
       隣をかりて車引こむ            凡兆
       うき人を枳穀(きこく)垣よりくぐらせん   芭蕉   

 次に『源氏物語』の「夕顔の巻」。
 源氏が乳母の病気見舞いに車でやって来たところ、門が閉まっている。そこで隣の揚名ノ介の庭を借りて車を引き込む。これが縁となり、源氏は夕顔のもとに通うようになる。
 もちろん夕顔の思いと登美子の心とは同じではない。しかし私は、登美子が自分を夕顔の立場におき、鉄幹を源氏の君になぞらえて詠んだのがこの一首であるという想像から逃れることができない。― と述べておられます。
  
 登美子が『明星 九号』(明治37・9)に「夕顔」と題して八首を発表したことに於いても、自身を夕顔、鉄幹を源氏になぞらえて詠んでいると思います。

「夕顔」『明星 辰歳第九号』―

  *「紅(べに)の花朝々つむにかずつきず待つと百日(もゝか)をなぐさみ(め)居らむ」 

 晶子の登美子に対する鉄幹への嫉妬の表出であると思われる
   晶子「ひと花はみづから渓にもとめきませ若狭の雪に堪へむ紅(くれない)」
や、登美子の鉄幹を晶子に譲るという歌、
     「それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ」
を下地としています。  「紅の花朝々つむにかずつきず」は、鉄幹の数々の恋、その恋の嫉妬に何度も耐えてきたけれど、の意。


  *「かゞやかに燭(しよく)よびたまふ夜(よ)の牡丹ねたむ一人のうらわかきかな」 

                                      「ねたむ一人」=晶子 

 『みだれ髪』の以下の三首を下地としています。
   晶子「行く春の一絃(ひとを)一柱(ひとぢ)におもひありさいへ火(ほ)かげのわが髪ながき」
    (訳)行ってしまう青春の恋の一つ一つに想いがあります。そうは云うものの、燈火に浮かび上がった私の髪は長く伸び、あなたを怨んでいます。
   晶子「あえかなる白きうすものまなじりの火かげの榮(はえ)の咀(のろ)(×詛)はしき君」
    (訳)白くしなやかな薄物を羽織った鉄幹、燈火に照らされたあなたの目尻が映え・・・・
、なんと憎らしい人でしょう。
   晶子「恋か血か牡丹に尽きし春のおもひとのゐの宵のひとり歌なき」


      
  * 「歌あらば海ゆく雨に添へたまへ山に夕虹なびくを待たむ」 (この夏を海辺にあるしら梅の君に) 
     『恋衣』(上総の浜辺に夏を過ぐせるまさ子の君に)

 増田雅子も鉄幹(源氏)をめぐる女性の一人だったということです。

  *「さりともおさへて胸はしづめたれ夜を疑ひ(ナシ)の涙さびしき」

 〔かゞやかに〕に続くものでしょう。

  *「思あれば秋は袖うつひと葉にも泣かるるものか吹く風黄(き)なり」
        『恋ごろも』下句「涙こぼれて夕風黄(き)なり」

 鉄幹が登美子へ送った詩「山蓼」『明星』(明治33・11)を彷彿させるし、「吹く風黄なり」は晶子の歌から、
   晶子「山蓼のそれよりふかきくれなゐは梅よはばかれ神にとがおはむ」(白百合)
 梅(増田雅子)よりも、登美子との思い出の山蓼(黄色く紅葉)を大切にして、梅よ、余り紅く(恋)ならないで、神(鉄幹)に罪はありません。の意であって、黄色は登美子にとっては、鉄幹との思い出の色です。 

 *「秋かぜに御粧殿(みけはいどの)の御簾(をす)ゆれぬ芙蓉ぞ白き透き影にして」

     ここでやっと源氏=「御粧殿」(鉄幹)が登場します。「芙蓉」=登美子

  *「月夜よし姉もきましぬ夕顔の花のしずくに濡れて語りぬ」 

     「姉もきましぬ」=晶子も来ません。  

  *「くろ髪のあえかに長きすきかげや産屋(うぶや)にわたれ初夏の風」
 
〔かゞやかに〕で紹介した二首を彷彿させ、「火かげ」の下で鉄幹を怨んでいる晶子から登美子に想いを移行させます。
 またこの「産屋」は、鉄幹と晶子の次男秀(明治37年7月生)の産屋。かって登美子は、鉄幹と滝野の長男萃誕生の折、
   「高てらす天の岩戸の雲裂けてうぶごゑたかき星の御子かな」
と高らかに歌ったが、既に鉄幹との関係を持った晶子が、
   「このあした君があげたるみどり子のやがて得む恋うつくしかれな」
と抑えた調子で詠んだ祝歌よりも、さらに六条御息所に仮して嫉妬を表出し、この一首によって六条御息所の怨霊によって死んでしまった「夕顔」を決定付けています。


【6首目】「今のわれに世なく神なくほとけなし運命(さだめ)するどき斧ふるひ来よ」

 【訳】(夫を亡くしてしまった)今の私には、神も仏も存在しません。鉄幹よ、私と関係を持ちに来て下さい。


 6首目は「運命するどき斧ふるひ来よ」がキーワードとなり、次の『みだれ髪』の「斧」を含んだ二首を踏んでいます。

   晶子「神のさだめいのちのひびき終(つひ)の我世琴(こと)に斧うつ音ききたまへ」

   晶子「わかき子のこがれよりしは斧のにほひ美妙(みめう)の御相(みさう)けふ身にしみぬ」


 〔神のさだめ〕は明治34年1月、晶子が鉄幹を待つ歌で始まる粟田山再開を詠んだものの一つですが、この歌は登美子の歌、

   登美子「我いきを芙蓉の風にたとへますな十三弦を一いきに切る」『明星』明治33・11

を踏み、元来は登美子と同じく蕪村の

   蕪村「乾鮭(からざけ)や琴(きん)に斧うつひゞき有(あり)」

から生み出されたものでしょう。

 蕪村〔乾鮭や〕は ―「蒙求・戴達破琴(琴を能くする故に武帝に召された戴達が琴を斧で壊し、王門の伶人とならずと言った故事)を踏む。自画賛に「琴ハ音によむべし、素堂がうき葉巻葉の蓮の句法なり」と付記されていることからも、乾鮭の形態から琴を連想しそれを切り割る音に戴達が琴を斧で割った響きを思う―と解されています。
 つまり、乾のカ・琴のキ・ひゞきのキ、の漢詩文調句で仕上げていますが、意味は通説の「鮭を切り割る音」のみではないと思います。
 琴がある故に琴を壊してしまった訳ですから、鮭がある故に鮭を貢物、あるいは贈り物としてどこかへ遣られてしまう。鮭がなければどこにも遣られない。真に戴達と同じく、蕪村が食べてしまうと、どこにも遣い物として出されない理屈です。
 「琴に斧うつ」が無くしてしまおうであり、乾鮭を食べてしまおうの意。
 「ひゞきあり」が蕪村の愉快なところで、「この貰われた乾鮭は、どこかへ遣い物として遣られそうだから、美味しそうなので食べてしまおうか」と指食を動かされるというものです。
 
 晶子〔神のさだめ〕の「琴に斧うつ音ききたまへ」も琴を無くしてしまおう、自殺してしまおうであり、「終の我世」という、鉄幹と駆け落ちをする為に再びやって来た粟田山に、「あなたは後から日にちを置いて来なさい」と言い残し一人東京に帰ってしまった鉄幹、そのなんとも切なく、捨てられたという悲しい気持ちが込められています。
 同様に〔わかき子の〕もその時のものですが、京都から放浪の旅に出た晶子が、奈良の大仏を見て、若者である鉄幹の恋焦がれる人は、美人に他ならない。美しい登美子なら一緒に東京に連れて行って貰えたでしょうに・・・・、という歌です。(初出は『みだれ髪』であり、「斧」は「鑿」の誤植とされていますが、晶子の意図したところは、あくまで「斧」です。)

  登美子〔我いきを〕は三人で粟田山に泊まり、登美子が鉄幹と関係を持った「躓きの石」を拾ったことを詠んでいます。
 「芙蓉」は、長恨歌の「蓮」を意味する楊貴妃の美しさを形容する語彙ですが、鉄幹が登美子に与えた歌に入れた「芙蓉」であり、歌の意図は、(美しく、弱々しいだけの芙蓉ではなく)自分の置かれた立場や封建社会に従い、キッパリと迷いから決別するため、自分の意思で愛する鉄幹と交わったことを指しています。

 つまり、〔6首目〕「今のわれに世なく神なくほとけなし運命(さだめ)するどき斧ふるひ来よ」は、鉄幹よ、私と交わるためにやって来て下さい。(晶子とは一緒に上京しなかったけれど、私となら、鉄幹は東京に一緒に連れて行ってくれたでしょう)を暗々裏に示しています。


【7首目】「帰りこむ御魂ときかば凍る夜の千夜も御墓の石いだかまし」

 【訳】鉄幹の愛が帰って来ないと聞いたならば、凍える夜の千日でも、(鉄幹が忘れてしまった私を愛しく想う気持ちの)墓標を抱いて、(その愛が還って来るように)温めましょう。

 この歌のポイントは、「帰りこむ」の解釈にあります。
 以前の評釈を読ませて頂きましたが、全て「帰って来る」と解釈されています。
 私には自然と否定形「帰って来ない」と詠めたのに、『花のちり塚』の「み霊帰らば」によるものなのか? 竹西氏のおっしゃる『和泉式部続集』の「なき人の来る夜と聞けど君もなしわが住む里や魂なきの里」によるものなのか? それとも挽歌という固定観念があるのか? どうして肯定として詠むのか理解できません。
 理由は述べられないけれど、歌を詠むというのは「詠む」という調子によるものだし、普段遣っている関西弁によるところが大きいのかも知れません。
 兎に角、有無を言わさずここは否定形なのです。
 ですから、夫への挽歌ではないのです。「夢うつつ十首」のどこにも夫への挽歌は存在しません。
 「夢うつつ十首」と同時期の作とされる『花のちり塚』の歌に

   登美子「鶴はしは掘る手にかろし一思君にあわまくたゞ思ふかな」

 即ち、(夫を埋葬する墓穴を)掘る鶴嘴(つるはし)は手に軽い、一気に、ただ鉄幹に逢いたい一念だけ。というもので、鉄幹に逢いたい、ただそれだけで、夫を一刻も早く埋葬する。
 夫の死によって鉄幹との愛を取り戻せる、ということだと思います。
 怖いですね。
 まあ、これが、死んだ夫に逢いたい一心に墓穴を暴く、というように解釈されているなら、もっと怖い・・・・。冗談ではなく、通常このように解釈されています。
 〔鶴はしは〕の歌を、流石に登美子は『明星』に発表しなかった。
 しかし、〔帰りこむ御魂〕の方は、登美子が意図しているか、いないかに関わらず、読み手によって亡き夫に宛てた立派な挽歌として通用しています。
 
 「帰りこむ御魂ときかば」― 鉄幹の愛が帰って来ないと聞いたなら
 「凍る夜の千夜も御墓の石いだかまし」― 「御墓」は、現実的な夫の墓ではなく、「過去の鉄幹が登美子を愛したその記念塔=抜け殻の墓標」であり、愛されない凍える夜の千日もの間、その抜け殻の墓標を抱いて、愛が還って来るように抱いて温めましょう、というものです。


【8首目】「おもひ出づな恨に死なむ鞭の傷(きづ‐×きず)秘めよと袖の女に長き」
 【訳】「思い出さないで、恨みに死んでしまうような胸の傷ですが、秘めていなさい」と、あの日襖一つ隔てた次の間に控えていた女(晶子)に長く・・・・(口止めされていました)。


 八首目は、その底に何が隠されているのかを知っていなければ何だか分からないでしょうから、『みだれ髪』から探ります。
 鉄幹は明治33年10月27日から11月6日まで、関西各地で講演会を開催するため再び来阪。11月5日、鉄幹、晶子、登美子の三人は京都・永観堂にて紅葉を観賞し、粟田山の辻野旅館に一泊します。
 晶子は三人の粟田山一泊の様子を、明治33年11月の『明星』八号から、翌34年1月の『明星』十号にかけて発表します。

   晶子「三たりをば世にうらぶれしはらからとわれ先ず云ひぬ西の京の宿」
         宿で「私達は世間から、打ち拉がれた者達ですね」と先ず口を切った晶子。

   晶子「人の世に才秀出たるわが友の名の末かなし今日(けふ)秋くれぬ」
         「登美子」の末の名の「美子」― 美しい登美子が悲しい、と思った晶子。
   
   晶子「あるときはねたしと見たる友の髪に香の煙のはいかかるかな」(亡き友の枕辺にて)
         あるときは憎いと思った登美子が今、鉄幹に愛されている・・・・。

   晶子「いづこまで君は帰るとゆうべ野にわが袖ひきぬ翅(はね)ある童(わらは)」
         (一人疎外された)粟田山から帰りたかったけれど、鉄幹を愛する気持ちに踏み止まった晶子。

   晶子「夕暮れの戸に依り君がうたう歌『うき里去りて往きて帰らじ』」
         「もうこの世から消えてしまいたい」と夕暮れの宿の戸に寄り掛かっていた晶子。

   晶子「さびしさに百二十里をそぞろ来ぬと云う人あらば如何ならむ」
         余りの淋しさに、東京から酔茗が来てくれたら・・・・、と願った晶子。

   晶子「ひとまおきてをりをりもれし君がいきその夜しら梅だくと夢みし」
         鉄幹と登美子の二人が襖一つ隔てた隣の部屋に泊まり、その息の漏れる様子に、鉄幹に愛される夢を見た晶子。
 通説では、鉄幹が寝ている部屋の一間おいて、晶子と登美子が寝ている部屋に鉄幹の寝息が聴こえている、と解釈されていますが、「ひとまおきて」=鉄幹と登美子の部屋の一間隔てて、の意。

   晶子「次のまのあま戸そとくるわれをよびて秋の夜いかに長きみじかき」
         次の朝、隣の部屋の晶子の部屋の雨戸を開ける音に、「秋の夜は長かったですか、短かかったですか?」と訊いてきた登美子。
 通説では、晶子と登美子が寝ている部屋の雨戸をそっと開けて、鉄幹が晶子に言った朝の挨拶と解されていますが・・・・、「あま戸そとくる」は、雨戸をそっと開けて、外からソットやって来る? ではなく、「あま戸そとくる」=「雨戸外繰る」=雨戸を外へ繰る→雨戸を開ける。二句切れの歌ではなく、「次のまのあま戸そとくる」は「われ(晶子)」に掛かります。
 鉄幹と愛し合えなかった晶子に、登美子が優越感を示した、というのが真相です。

   晶子「友のあしのつめたかりきと旅の朝わかきわが師に心なくいひぬ」
         鉄幹の次の日の朝、「登美子の足が冷たいです」と何気なく言ってしまった晶子。

   晶子「うたたねの君がかたへの旅つつみ恋の詩集の古きあたらしき」
         転寝をしている鉄幹の旅包みの中に、過去の私と、今の登美子への恋の詩集がある、と思った晶子。

   晶子「神よとはにわかきまどひのあやまちとこの子の悔ゆる歌ききますな」
         登美子を鉄幹に仲介してしまったことを後悔しないよう、神に誓った晶子。
 鉄幹と登美子が隣の部屋で愛し合っている。これは鉄幹が独り寝の晶子に「君はたゞ嵐ふく夜にひとえだのしろ梅いだき泣く神のごと」の歌を送ったことでも知れます。

   晶子「いはず聴かずただうなづきて別れけりその日は六日二人(ふたり)と一人(ひとり)」 
         十一月六日、何も言わないで頷き合って別れた三人。晶子と登美子の帰り道は一緒だったが、気持ちは鉄幹と登美子、そして一人の晶子だったこと。

 これが明治33年11月5日から6日にかけての鉄幹、晶子、登美子の粟田山でに一泊の様子です。                              
 八首目の背景を知る手懸りとして、次の晶子と登美子の「一つふすま」とは何か? 前出した「ひとまおきて」と同じ意味ですが、が重要となります。

   晶子「星となりて逢はむそれまで思い出でな一つふすまに聞きし秋の声」

   登美子「おもひ出でな忘れはてよと誨(をし)へますか一つふすまの恋にやはあらぬ」(またしら萩の君に)

 晶子の〔星となりて〕は新詩社詠草(明治33年12月)初出であり、登美子の〔あもひ出でな〕『明星』(明治34年1月)は、晶子書簡『明星』(明治33年11月)[みだれ髪]と題する一文「さりし夜の如(ごと)一つふすまに、まこと涙のなかの間(ま)にておはしき」に応えたものです。
 即ち「一つふすま」とは、襖一つ仕切られた続きの部屋という意で、晶子と登美子が隣同士の部屋で寝ていたということであり、〔さりし夜の如〕の方は粟田山後、晶子の家で晶子と登美子は襖一つ隔てた隣の部屋にお互いに泣きながら寝ていた、ということです。

 以上から、三人が粟田山で一泊したとき、鉄幹と登美子が関係を持ったこと。それが登美子を一生苦しめ、以後「矢のごとく地獄におつる躓きの石」となりました。

 「おもひ出づな・・・・秘めよ」― 晶子が登美子に云った言葉。
 「恨に死なむ鞭の傷」― 粟田山で鉄幹と登美子が愛し合ったこと。
 「袖の女」― 袖に控えていた女=襖一つ隔てた部屋に控えていた晶子。
 「女に長き」― 女(晶子)に、長く口止めされていました。とか、女に、長く恨みを持っていました。とか、「女に長く・・・・」など、一番言いたい言葉の下部がカットされた形。


 


山川登美子「夢うつつ十首」 続 

2012-04-13 22:55:03 | 山川登美子

 
【9首目】「おもへ君柴折戸さむき里の月けずる木音(きおと)は経のする具よ」
 【訳】鉄幹よ、思ってもみて下さい。月が寒々しく照らすあの里の(宿に、あなたが私と睦んでいた時、)枝折戸が(ギイコギイコ)鳴っていました。その音は、私の身を削り、経を唱える音のように聴こえていました。

   『花のちり塚』「誰そや此の紫(ママ)折戸かたき梅月夜削る木の音経机とや」
     (訳)誰か、梅が咲く月の夜、此の枝折戸の硬いギイコギイコ鳴る音を、経机が軋む音という風に聴こえませんでしたかしら? (晶子さん、明治34年1月、鉄幹の一夜妻のあなたは、その夜、枝折戸の軋む音を経机の軋む音に聴こえませんでしたか?)
 
 「柴折戸」は『みだれ髪』にも、

    晶子「枝折戸あり紅梅さけり水ゆけりたつ子われより笑みうつくしき」

に登場しますが、これは明治34年1月の詠。 
 鉄幹の歌にも、

    鉄幹「かたへ梅かたへ竹なる戸の寒さ人まちわびてゆふべ歌なき」『明星』(明治34年5月)

があり、「竹なる戸」=枝折戸が登場します。
 それらは京都・粟田山辻野旅館の「枝折戸」で、登美子の歌の「柴折戸」は、それ以前の明治33年11月5日、三人で宿泊し、鉄幹と登美子が関係を持った時の歌。
 登美子「柴折戸かたき」や鉄幹「かたへ(側へ)・かたへ(固へ)」とあることからも窺えるように、辻野旅館の庭の梅の側にあって、竹製で、建て付けが悪く、風でも吹くとギイコギイコ鳴っていたのでしょう。
  
 〔おもへ君〕は鉄幹を対象として、鉄幹と富子が関係を持ち、晶子が襖一つ隔てた隣の部屋に控えていた日、つまり登美子が鉄幹との別れを決定づけた日の詠。
 鉄幹との睦む音を、それは実際には枝折戸の軋む音だったのですが・・・・、経を唱える音に聴こえ、我が身を削る音に聴こえた登美子だったのです。
 恐らく、この三人で粟田山に泊まった時、誰かが・・・・、「枝折戸の軋む音が経机の軋む音に似ている」などと言い出し、話題に上がっていたのでしょう。何しろ「三たりをば世にうらぶれしはらからとわれ先づ云ひぬ西の京の宿」でしたから・・・・。
 一方『花のちり塚』の〔誰そや〕は、晶子『みだれ髪』の〔枝折戸あり〕を意識し、これを踏んで詠まれたものであり、晶子が鉄幹の妻と成ることを決定付けた時期の詠でした。
 鉄幹の妻になれなかった登美子は晶子に嫉妬して、鉄幹と晶子が睦む音を「此の枝折戸の硬いギイコギイコ鳴る音を、建て付けが悪い経机が軋む音、という風に聴こえませんでしたかしら?」と揶揄しています。

 〔おもへ君〕が『恋ごろも』編集の際、

    登美子「燃えて ゝ かすれて消えて闇に入るその夕栄(ゆふばえ)に似たらずや君」

に差し替えられましたが、
 竹西寛子氏の― かっての恋歌も亡き夫への挽歌として変貌したか? また、それは鉄幹への媚か?
 直木孝次郎氏の― 〔おもへ君〕と、登美子が駐七郎と祝言をあげる直前の明治33年11月の『明星』八号に発表された〔燃えて ゝ 〕と、詠まれた時期が違うのか?
のお二人の疑問については、もうお解かりだと思いますが・・・・、時期は、勿論明治33年11月5日、同じ日の詠であり、夫への挽歌ではなく、鉄幹への媚でもなく、滅茶苦茶良い歌だと思いますが、唯・・リアル過ぎたのではなかったでしょうか?

 「経のする具よ」― 「経(きょう)載(の)する具よ」ではなく、「経/の(助詞)/する(動詞) /具よ」。「けずる木音」を修飾し、枝折戸のギイコギイコ鳴る音が経を唱える音に聴こえ、その枝折戸自体が経音を発する「具」だという意味です。


【10首目】「夕庭のいづこに立ちてたづぬべき葡萄つむ手に歌ありし君」
 【訳】(明治34年1月、鉄幹と晶子の一夜妻の日の)夕方、(辻野旅館の枝折戸の)庭の、どの場所に立って鉄幹を訪ねたら良かったのでしょうか? 恋心を盗む歌人の鉄幹よ。
    (あの日、あの時、私があそこにいたら、晶子に代わって私があなと結婚し、私の人生も変わっていましたのに・・・・。)

十首目は、『みだれ髪』の次の三首を踏んで制作されています。

   *上句― 「夕庭のいづこに立ちてたづぬべき」に対比

         晶子「枝折戸あり紅梅さけり水ゆけり立つ子われより笑みうつくし」

         晶子「うらわかき僧よびさます春の窓ふり袖ふれて経くづれきぬ」           

   *下句― 「葡萄つむ手に歌ありし君」に対比

         晶子「歌の手に葡萄をぬすむ子の髪やはらかいかな虹の朝あけ」

*上句― 「夕庭のいづこに立ちてたづぬべき」に対比

 上句二首は明治34年5月初出ですが、同1月、粟田山にて、晶子が鉄幹の妻になることを決定づけた日の出来後事です。同じ日のことを鉄幹は、次のように詠んでいますから、恐らく、鉄幹を待っていた晶子は、落ち合った後ずーっと機嫌が悪かったのでしょう。 

         鉄幹「かたへ梅かたへ竹なる戸の寒さ人まちわびてゆふべ歌なき」(・・・・晶子を待ち侘びて、昨夜は愛し合いませんでした。)

 後は、私の想像で・・・・、順番は微妙で難しいのですが・・・・『みだれ髪』から辿ってみる事にします。

     ・・・・・・・・・・

         晶子「人そぞろ宵の羽織の肩うらへかきしは歌か芙蓉という文字」    (訳) うす暗闇の中、鉄幹の情愛が高揚して、羽織を脱ぎ捨てましたが、その裏地には滝野の雅名の「白芙蓉」や、登美子に与えた歌の「芙蓉」という文字が書いているのではないですか?

 その高揚した情愛が晶子を揺り動かします。

          晶子「うしや我さむるさだめの夢を永遠(とは)にさめなと祈る人の子におちぬ」    (訳)私は我を失い、これは直ぐに消える定めにある夢ですが・・・・、今は鉄幹が愛してくれているという気持ちが、永遠に消えないようにと祈っている人(晶子)の身を揺り動かし、結ばれました。

          晶子「経はにがし春のゆふべを奥の院の二十五菩薩歌うけたまへ」    (訳)お説教は沢山、奥の院の二十五の菩薩達よ、春の宵の私達の情愛を見届けて下さい。

          晶子「鶯は君が声よともどきながら緑のとばりそとかかげ見る」      (訳)「鶯の声は、あなたの夢よ」と非難して、鳴き声を真似ながら(視界を遮る)木の枝を上に遣り(鶯を探し)ました。 

 晶子は鉄幹への愛を取り戻し、宿に帰ってから事件発生。

          晶子「枝折戸あり紅梅さけり水ゆけり立つ子われより笑みうつくし」    (訳)(宿の庭に) 枝折戸があり、紅梅が咲き、遣水が流れている所に立っている乙女、それを見た鉄幹は恋心が芽生え、乙女の所に行ってしまいました。鉄幹と乙女が笑いながら話しています。  

 鉄幹と晶子が宿・辻野旅館に帰って来ると、その枝折戸の奥、紅梅が咲き、遣水が流れている所に立っている美しい人を見た鉄幹は、その人の所に行ってしまい、晶子との気持ちが一つになったにも関わらず、晶子を置いてその人とお喋りをします。 その後、部屋に帰って来た鉄幹と晶子が愛を深めていると、    

          晶子「うらわかき僧よびさます春の窓ふり袖ふれて経くづれきぬ」     (訳)私と愛し合っている最中にも、振袖を着た(美しい人が出立する声を聞いて)、鉄幹が窓から外を眺めました。

これは、鉄幹宛て晶子書簡にも表出しています。  

   

鉄幹宛て晶子書簡(明治34年3月20日頃)

 私何度かこのごろかの山のミこひしくていたしかたなく候    これかの時のミをおもひでのかなしき兆しにはあらずやなどわりなきことおもはれ候  筆もそれ筆のすざびもそれかの時今は恋しきに候  それのミうたひ候       

             あひやどのひと近江路へたちしよひをおばしまによる春の神の子              

             舟なるは僧の二人とさすゆびのつまべにうすきはづかしの朝    

             山ごもりかくてあれなとみをしへよべにつくるころ梅の花さかむ   

 さ云へ追想はたのしきものに候かな  たのしく候  まこと皆ひとのかざしになる世春のうらめしのミこゝちすいし参候   わがにわの紅梅はよき花に候   花ことにもも色なるうに候   十日ばかりすればさかむとおもひ居り候 

 

(訳)私、何度か、この頃、あの粟田山のみ、恋しくて致し方ありません。これ、あの時のみ、思い出の悲しい兆しではない等、致し方ない事の様に思われます。  筆のこともそれ、筆の嘆きもそれ、あの時、今は今は懐かしいです。それだから詠みます。   

        晶子『みだれ髪』「うらわかき僧よびさます春の窓ふり袖ふれて経くづれきぬ」  

        晶子『みだれ髪』「歌筆を紅(べに)にかりたる尖(さき)凍(い)てぬ西のみやこの春さむき朝」 

        晶子『みだれ髪』「山ごもりかくてあれなのみをしへよ紅(べに)つくるころ桃の花さかむ」 

 そうは言っても、追憶は楽しいものです。楽しいです。誠、みな人の目立つことになる世の中、恋心が恨めしい気分です。私の家の庭の紅梅はよい花です。    花が得に桃色になります。十日程すると咲くと思います。 

                

  「山ごもりかくてあれなのみをしへよ紅つくるころ桃の花さかむ」 とは、この一首によって晶子は、鉄幹との結婚の約束をしたことが窺え、これによって駆け落ちへと発展します。

 書簡中、〔あひやどの〕の詠が、〔うらわかき僧〕に関することであり、「うらわかき僧よびさます春の窓」とは、「おばしまによる春の神の子」であって、恋心を持って窓の欄干に寄る鉄幹。

 上句は以上の二首を踏んで、登美子は「夕庭のいづこに立ちてたづぬべき」と詠い、あの日の夕方、辻野旅館の枝折戸の庭の、どの場所に立って鉄幹を訪ねたら良かったのでしょうか? と問うています。

 明治34年1月のこの日は、晶子が鉄幹の妻に成ることを決定づけた日でしたから、登美子の気持ちとしては、この日に返れるものなら、この日に返って、登美子が鉄幹の妻に成れる日に返りたい、という想いがあります。

 

*下句― 「葡萄つむ手に歌ありし君」に対比

  晶子「歌の手に葡萄をぬすむ子の髪やはらかいかな虹の朝あけ」

 これは『みだれ髪』最後から二番目のエピローグ歌であり、藤村『若菜集』「狐のわざ」に述べましたので、即ち晶子の「葡萄をぬすむ子」→ 鉄幹の恋心を盗んだ私(晶子)。

 ここから、下句「葡萄つむ手に歌ありし君」は、恋心を盗む歌人の鉄幹、の意。

 素晴らしい歌を詠む鉄幹だからこそ、どの女性も憧れ、恋心を持つようになり、その結果次々と女性を狂わせてしまいます。『恋ごろも』にも、

      登美子「狂へりや世ぞうらめしきのろはしき髪ときさばき風にむかはむ」

      登美子「狂う子に狂へる馬の綱あたへ狂へる人に鞭とらしめむ」

などが詠われ、「狂う子」=登美子、「狂へる馬の綱あたへ」=鉄幹との交わりを謀った晶子、「狂へる人に鞭とらしめむ」=鉄幹となるでしょうか。

 

 『花のちり塚』「ふくませてその実のあぢをとひよりぬ葡萄つむ手に歌ありし君」       (訳)鉄幹との交わりを謀って私を狂わせたのは、『みだれ髪』の作者のあなた(晶子)。

 こちらは「夢うつつ」とは違って、晶子を指していて、毒を含んだ意味となりますが・・・・、しかしよく考えれば、下句「葡萄つむ手に歌ありし君」は、鉄幹を指していて、元々晶子のキャッチコピーなのに変だ、と気付いた登美子は、晶子を主題とした上句に題材を切り替えた、というのが案外真相かも知れません。

                                      ― 「夢うつつ十首」  完 

 

 『みだれ髪』の「白百合」の章が、登美子に関する歌ですが、

     晶子「ゆあみする泉の底の小百合花(さゆりばな)二十(はたち)の夏をうつくしと見ぬ」   『小天地34・8 黒髪』 

 こちらも登美子の美しさを讃えたものでしょう。

        晶子「罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ」

晶子は肌が白く、黒髪が長い自分であると歌っていますが、自身を決して自信溢れる容姿だとは思っていないし、常に登美子を美しい人だと考えていました。美しい故に、悲しいと・・・・。

     晶子「人の世に才秀でたるわが友の名の末かなし今日(けふ)秋くれぬ」

     

     真理子「さくら咲き花艶(あで)やかでさくら散り散るは戯れ生むは芸術」  (晶子に)

     真理子「さくら咲き花艶(つや)やかでさくら散りふゆ越して後(のち)芽が吹くさくら」  (登美子に)

 

      参考文献  『山川登美子全集 上・下』  坂本政親  文泉堂出版 (1994・1)

               『山川登美子と与謝野晶子』  直木孝次郎  塙書房 (1996・9)

               『山川登美子』  竹西寛子  講談社  (1985・10) 

               『新みだれ髪全訳』  逸見久美  八木書房  (1996・6)

               『与謝野晶子『みだれ髪』作品論集成 Ⅰ』  逸見久美  大空社 (1997・11) 

               『日本近代文学大系 第十七巻 『みだれ髪』』  坂本政親 角川書店 (1971)