島崎藤村「おくめ」 (うすごほり) 明治29年12月『文学界 四八号』
『若菜集』-六人の処女-より
第ー こひしきまゝに家を出で こゝの岸よりかの岸へ
越えましものと来て見れば 千鳥(ちどり)鳴くなり夕まぐれ
第二 こひには親も捨てはてゝ やむよしもなき胸の火や
鬢(びん)の毛を吹く河風よ せめてあはれと思へかし
第三 河波(かはなみ)暗く瀬を早み 流れて巌(いは)に砕くるも
君を思へば絶間なき 恋の火炎(ほのほ)に乾くべし
第四 きのふの雨の小休(をやみ)なく 水嵩(みかさ)や高くまさるとも
よひ 〃 になくわがこひの 涙の瀧におよばじな
第五 しりたまはずやわがこひは 花鳥(はなとり)の絵にあらじかし
空鏡(かゞみ)の印象(かたち)砂の文字 梢の風の音(ね)にあらじ
第六 しりたまはずやわがこひは 雄々(をゝ)しき君の手に触れて
嗚呼(あゝ)口紅(くちべに)をその口に 君にうつさでやむべきや
第七 恋は吾身の社(やしろ)にて 君は社の神なれば
君の祭壇(つくゑ)の上ならで なににいのちを奉げまし
第八 砕かば砕け河波よ われに命はあるものを
河波高く泳ぎ行き ひとりの神にこがれなむ
第九 心のみかは手も足も 吾身はすべて火炎(ほのほ)なり
思ひ乱れて嗚呼(あゝ)恋の 千筋(ちすぢ)の髪の波に流るゝ
藤村「おくめ」 (訳)木村真理子
第1 君を恋して家を出て、 この岸よりあの岸へ
渡って行こうと来てみれば、 千鳥が夕暮れに鳴いている。
第2 恋のため、 親も捨て、 それでも断ち切れない胸の炎。
鬢の毛を吹く川風よ、 せめて私を憐れめよ!
第3 太陽が沈んだ川瀬を浪が 足早に流れて巌に砕け散り、
君を想う我が心は、 絶えず恋の炎に渇いている。
第4 昨日から降リ続く雨が、 水嵩(みずかさ)を増やそうとも、
夕暮れに泣く恋の涙に まさることはない。
第5 知っているでしょう、 我が恋は 蝶よ、 花よ、 の恋ではなく、
空に描く文字、 砂の文字、 そよ風そよぐ恋ではない。
第6 知っているでしょう、 我が恋は 雄々しい君の手に触れて、
ああ、 口紅を君の口に 移さないではいられようか!
第7 恋は私の全てだから、 君は私の全て。
君のためなら、 私の命を奉げましょう。
第8 砕くなら砕け、 川浪よ、 私に命があるのなら、
この浪を泳ぎ行き ひとり君を恋す。
第9 心のみか、 手も足も、 身は全て炎となり、
思い乱れて、 ああ恋の 千筋(ちすじ)の髪が浪に流れる。
藤村「おくめ」 『みだれ髪』との対比
第一
*こひしきまゝに家を出で/こゝの岸よりかの岸へ/越えましものと来て見れば/千鳥(ちどり)鳴くなり夕まぐれ
―「348 人とわれおなじ十九のおもかげをうつせし水よ石津川の流れ」
「こひしきまゝに」は、鉄幹を想ってであり、「こひしきまゝに家を出で/こゝの岸よりかの岸へ/越えましものと来て見れば/千鳥(ちどり)鳴くなり夕まぐれ」の続きが、『みだれ髪』の「348 人とわれおなじ十九のおもかげをうつせし水よ石津川の流れ」となります。
第二
*こひには親も捨てはてゝ/やむよしもなき胸の火や/鬢(びん)の毛を吹く河風よ/せめてあはれと思へかし
―「1 夜の帳(ちやう)にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢(びん)のほつれよ」
「鬢のほつれよ」の「鬢」は、何処から来ているのか? を考えた時、私は藤村「おくめ」の第二フレーズによるものだと初めて知りました。 即ち、歌集『みだれ髪』は、「こひには親も捨てはてゝ/やむよしもなき胸の火や/鬢(びん)の毛を吹く河風よ/せめてあはれと思へかし」が根底に流れていて、このことにより歌集が編まれたのです。
第六
*しりたまはずやわがこひは/雄々(をゝ)しき君の手に触れて/嗚呼(あゝ)口紅(くちべに)をその口に/君にうつさでやむべきや
―「373 病みませるうなじに繊(ほそ)きかひな捲くきて熱にかわける御口(みくち)を吸はむ」
(373)単独だと、どちらかと言うと、抑えた調子の歌だと思っています。 ですから私は、ズーット熱に渇いた自分自身の御口を吸うと想っていました。 しかし、藤村「おくめ」の「嗚呼口紅をその口に/君にうつさでやむべきや」 (やむべきや)という緊迫した勢いを知り、やっとその真意が理解出来たのです。 歌は前出しました。
第九
*心のみかは手も足も/吾身はすべて火炎(ほのほ)なり/思ひ乱れて嗚呼(あゝ)恋の/千筋(ちすぢ)の髪の波に流るゝ
―「260 くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる」
「おくめ」の第九フレーズそのままが、『みだれ髪』(260)であり、第九フレーズの続きが(260)です。
藤村「おくめ」は、『みだれ髪』の存在に関わる、根底に流れるものを秘めていたのです。
島崎藤村「おきく」 (うすごほり) 明治29年12月『文学界 四八号』
『若菜集』-六人の処女-より
第一 くろかみながく やはらかき
をんなごゝろを たれかしる
第二 をとこのかたる ことのはを
まこととおもふ ことなかれ
第三 をとめごゝろの あさくのみ
いひもつたふる をかしさや
第四 みだれてながき 鬢(びん)の毛を
黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)に かきあげよ
第五 あゝ月ぐさの きえぬべき
こひもするとは たがことば
第六 こひて死なんと よみいでし
あつきなさけは たがうたぞ
第七 みちのためには ちをながし
くにには死ぬる をとこあり
第八 治兵衛はいづれ 恋か名か
忠兵衛も名の ために果つ
第九 あゝむかしより こひ死にし
をとこありと しるや君
第十 をんなごゝろは いやさらに
ふかきなさけの こもるかな
第十一 小春はこひに ちをながし
梅川こひの ために死ぬ
第十二 お七はこひの ために焼け
高尾はこひの ために果つ
第十三 かなしからずや 清姫は
蛇となれるも こひゆゑに
第十四 やさしからずや 佐容姫(さよひめ)は
石となれるも こひゆゑに
第十五 をとこのこひの たはぶれは
たびにすてゆく なさけのみ
第十六 こひするなかれ をとめごよ
かなしむなかれ わがともよ
第十七 こひするときと かなしみと
いづれかながき いづれみじかき
藤村「おきく」 (訳)木村真理子
第1 黒髪が長く 柔らかな
女ごころを 誰が知るでしょう。
第2 男が語る 言葉を
真実と思う ことがないように。
第3 乙女ごころは、 浅いとのみ
思われる 不思議さ。
第4 乱れて長い 鬢(びん)の毛を、
黄楊(つげ)の櫛(くし)で 掻揚(かきあ)げましょう。
第5 ああ、月々の絶え間ない 語り草となる
恋話を提供するとは、 誰の言葉でしょう。
第6 恋して死んでしまおうと 詠み始める
情熱の想いとは、 誰の歌でしょう。
第7 道の為に 血を流し、
故郷には死ぬ 男があります。
第8 治兵衛は 恋か名に迷い、
忠兵衛も名の ために死ぬ。
第9 ああ、昔より 恋に死んでしまう
男があると、 あなたは知っていますか?
第10 女ごころは それ以上、
深い情けが 込められています。
第11 小春は恋に 血を流し、
梅川は恋の ために死ぬ。
第12 お七は恋の ために焼け、
高尾も恋の ために死ぬ。
第13 悲しくも 清姫が
蛇となったのも 恋のため。
第14 優しくも 佐夜姫は、
石となったのも 恋ゆえに。
第15 男の恋の 戯れは、
旅から旅へと 流れて行きます。
第16 恋をするなよ 乙女達。
悲しむなよ 我が友よ。
第17 恋をする時と 悲しみと、
どちらが長く どちらが短いでしょう。
(注)第八の「治兵衛はいづれ/恋か名か/忠兵衛も名の/ために果つ」は→ 「治兵衛はいづれ/恋か名か」=(治兵衛は、恋か名のどちらか) + 「治兵衛はいづれ/・・・・/・・・・/ために果つ」=(治兵衛は、やがて死ぬ。) という「いづれ」の意味を多様した複合文章 と、 「忠兵衛も名の/ために果つ」(忠兵衛も、名のために死ぬ)が合体した節。
藤村「おきく」 『みだれ髪』との対比
第一・第二・第三
*くろかみながく/やはらかき/をんなごゝろを/たれかしる *をとこのかたる/ことのはを/まこととおもふ/ことなかれ
*をとめごゝろの/あさくのみいひもつたふる/をかしさや
―「362 罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ」
(362)は、「をとこのかたる/ことのはを/まこととおもふ/ことなかれ ・・・・ をとめごゝろの/あさくのみいひもつたふる/をかしさや」を暗々裏に踏み、 だから晶子は「罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ」と生れ出たのだと思います。
第一・第二・第四
*くろかみながく/やはらかき/をんなごゝろを/たれかし *をとこのかたる/ことのはを/まこととおもふ/ことなかれ
*みだれてながき/鬢(びん)の毛を/黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)に/かきあげよ
―「6 その子二十(はたち)櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」
以前、晶子自身ではなく、登美子のことだと述べましたが、 第二節「をとこのかたる/ことのはを/まこととおもふ/ことなかれ」を暗々裏に踏み、晶子の悲しい嫉妬心を含んだ歌ではないだろうか? と老婆心ながら思いました。
(6)と(362)は、登美子と晶子の対峙した歌ではないでしょうか? (6)美しい登美子には、第四節「みだれてながき/鬢(びん)の毛を/黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)に/かきあげよ」を与え、 (362)歌の晶子自身には第三節「をとめごゝろの/あさくのみいひもつたふる/をかしさや」の言論を与えています。 両歌共に「をとこのかたる/ことのはを/まこととおもふ/ことなかれ」をキーワードとし、陰陽の意味づけをしています。 う・・・・ん、晶子の性格が出ている・・・・??
第三
* をとめごゝろの/あさくのみいひもつたふる/をかしさや
―「393 庫裏(くり)の藤に春ゆく宵のものぐるひ御経のいのちうつつをかしき」
以前、河野鉄南の所で述べましたが、「うつつをかしき」は、「をとめごゝろの/あさくのみいひもつたふる/をかしさや」を暗に踏み、 女をバカにするんじゃないよ、と言いたいのではないでしょうか?
第七
*みちのためには/ちをながし/ くにには死ぬる/をとこあり
― 晶子「君死にたまふことなかれ」 詩(明治37年9月)『明星』
第十七
*こひするときと/かなしみと/いづれかながき/いづれみじかき
―「98 人ふたり無才(ぶさい)の二字を歌に笑みぬ恋(こひ)二万年(ねん)ながき短き」 (訳)意味の通じない歌を詠んでいる私達二人を、「無才」だと笑い合いました。(鶴は千年、亀は万年共に白髪が生えるまで・・・・、お互い一万年づつ生きたとしたら)「こひするときと/かなしみと/いづれかながき/いづれみじかき」でしょう。
(98)は、「鶴は千年、亀は万年」の俗謡と、藤村「おきく」の第十七節が一首に詠み込まれています。
(注)漢字は、新漢字を採用。 詩の節の番号は、便宜上付けました。 佐容姫は、佐用姫、小夜姫の当て字があり、夫を想う余り、石と成ってしまったという伝説が付随しています。 尚、晶子の歌集『佐保姫』は、奈良方面の春と織物に関係した女神のようです。