『源氏物語』 - 巻之三十六 柏木
〔二〕 柏木、 小侍従を介してひそかに宮と贈答
* (柏木)「今は限りになりにてはべるありさまは、 おのづから聞こしめすやうもはべらんを、 いかがなりぬるとだに御耳とどめさせたまはぬも、ことはりなれど、 いとうくもはべるかな」 など聞こゆるに、 いみじうわななければ、 思ふこともみな書きさして、
(柏木) 「いまはとて燃えむ煙(けむり)もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ
あはれとだにのたませよ。 心のどめて、 人やりならぬ闇(やみ)にまどはむ道の光にもしはべらむ」 と聞こえたまふ。
―(中略)―
紙燭(しそく)召して御返り見たまへば、 御手もなほいとはかなげに、 をかしきほどに書いたまひて、 (女三の宮)「心苦しう聞きながら、 いかでかは。 ただ推(お)しはかり。 残らむ、 とあるは、
(女三の宮) 立ちそひて消えやしなましうきことを思ひみだるる煙(けぶり)くらべに
後(おく)るべうやは」 とばかりあるを、 あはれにかたじけなしと思ふ。
(柏木)「いでや、 この煙ばかりこそはこの世の思い出(いで)ならめ。 はかなくもありけるかな」 と、 いとど泣きまさりたまひて、 御返り、 臥(ふ)しながらうち休みつつ書いたまふ。 言の葉のつづきもなう、 あやしき鳥の跡(あと)のやうにて、
(柏木) 「行(ゆ)く方(へ)なき空の煙(けぶり)となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ
夕(ゆふべ)はわきてながめさせたまへ。 咎(とが)めきこえさせたまはむ人目をも、 今は心やすく思しなりて、 かひなきあはれをだにも絶えずかけさせたまへ」 など書き乱りて、 心地の苦しさまさりければ、 (柏木)「よし。 いたう更(ふ)けぬさきに、 帰り参りたまひて、 かく限りのさまになんとも聞こえたまへ。 今さらに、 人あやしと思ひあはせむを、 わが世の後(のち)さへ思ふこそ苦しけれ。
::: 源氏の正妻・女三の宮(朱雀帝と一条御息所の子)を身ごもらせてしまった衛門督・柏木(致仕大臣の子)は、 源氏に二人の関係を知られてから、 罪の報いの憂慮から病になり、 残された道は死しかない、 と一途に思う。 女三の宮への情愛を断ち切ることの出来ない柏木は、 小侍従を介して文を託すが、 それが最後の便りとなってしまった。
(柏木) 「いまはとて燃えむ煙(けむり)もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ」
【著者訳】 今となっては、 私の荼毘に付す煙が漂って、 絶えないあなたへの思いとして、 この世に残ることでしょう。
(女三の宮) 「立ちそひて消えやしなましうきことを思ひみだるる煙(けぶり)くらべに」
【著者訳】 あなたの煙と一緒に消えてしまいましょう。 辛いことを思い煩っている煙比べに。
(柏木) 「行(ゆ)く方(へ)なき空の煙(けぶり)となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ」
【著者訳】 行方も知れない空の煙となってしまっても、 私が恋焦がれるあなたの周辺を離れることはありません。
『とはずがたり』 ― 巻三 〔二四〕
〔二四〕 有明の月の死
* 十八日よりにや、 「世の中はやりたるかたはら病(やみ)の気(け)おはします」 とて、 医師(くすし)召さるるなど聞きしほどに、 「しだいに御わづらはし」 など申すを聞きまゐらせすほどに、 思ふ方(かた)なき心地(ここち)するに、 二十一日にや、 文(ふみ)あり。「この世にて対面(たいめん)ありしを、 限りとも思はざりしに、 かかる病(やまひ)に取(と)り籠(こ)められてはかなくなありなむ命よりも、 思ひ置くことどもこそ罪(つみ)深けれ。 見しむばたまの夢もいかなることにか」 と書き書きて、 奥(おく)に、
(有明の月) 身はかくて思ひ消えなむ煙だにそなたの空になびきだにせば
とあるを見る心地、 いかでかおろかならむ。 げに、 ありし暁(あかつき)を限りにやと思ふも悲しければ、
(後深草院二条) 「思ひ消えむ煙(けぶり)の末(すゑ)をそれとだに長らへばこそ跡をだに見め
ことしげき御中はなかなかにや」 とて、 思ふほどの言(こと)の葉(は)もさながら残しはべりしも、 さすがこれを限りとは思はざりしほどに、 十一月二十五日にや、 はかなくなりたまひぬと聞きしは、 夢に夢見るよりもなほたどられ、 すべて何と言ふべき方(かた)もなきぞ、 我ながら、 罪(つみ)深き。
::: 有明の月は、 世間で流行っている「かたはら病」の疑いがあるということで、 医師が呼ばれる。 次第に重態になられたと伺ううち、 二条に文が届く。 「この世で対面したのを、最後だとは思ず、 この様な病に捕らわれて、 儚くなってしまった命よりも、 あなたに恋の想いを残しておくことこそ、 罪深く思います。 見た暗い夢も、 どの様なことなのか?」 と書いて、 その奥に歌を書く。 そして、 二条の返し。
(有明の月) 身はかくて思ひ消えなむ煙だにそなたの空になびきだにせば
【著者訳】 私の身は、 こうして恋の想いに焼き尽くされてしまいますが、 荼毘の煙だけは、 あなたがいる空に靡けばよいのです。
(後深草院二条) 「思ひ消えむ煙(けぶり)の末(すゑ)をそれとだに長らへばこそ跡をだに見め
【著者訳】 恋の想いに焼き尽くされる煙の行く末さえも、 生き長らえればこそ、 その末を見ることが出来ます。
蕪村 「北寿老仙をいたむ」 (晋我追悼曲)
蕪村の詩 「北寿老仙をいたむ」 は、 蕪村没(天明三年・1783年)後、 十年を経た寛政五年・1793年、 早見晋我(はやみしんが)の五十回忌追善集『いそのはな』 編者・ 嗣子(しし)二世晋我(桃彦) に収められて、 世に紹介された。 「北寿」は、晋我の隠居号であり、 「老仙」は、 蕪村が冠した尊称。 晋我は、下総結城郡本郷の酒造家であり、 江戸で朱子学を学んだ後、 郷里で私塾丹涯(たんがい)塾を開き、 漢学を教えたという。 蕪村(宰鳥)は、 師・宋阿(そうあ)‐早見巴人(はじん) と死別(寛保二年・1742年)した二十七歳の時、 同門の故郷・結城の旧家に寄宿していた砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼って行った。 雁宕は、 巴人の高弟であり、 其角門の晋我とも蕪村と共に親しかった。 晋我が没したのは、 延亨二年・1745年正月二十八日、 七十五歳、 蕪村三十歳の時であった。 晋我の家は、蕪村が住む小川を隔て住んでいたという。
森本哲郎著 『詩人 与謝蕪村の世界』 (講談社学術文庫) によると、 蕪村のこの詩は、王維の「酬諸公見過」にイメージされるという。
王維 「酬諸公見過」 〔諸公の過(と)わるるに酬ゆ〕
晨往東皐 〔晨(あした)に東皐(とうこう)に往けば
草露未晞 〔草露(そうろ)未(いま)だ晞(かわ)かず〕
暮看煙火 〔暮(くれ)に煙火(えんか)を看(み)〕
負担来帰 〔負担(ふたん)して来帰(らいき)す〕
「北寿老仙をいたむ」
君あしたに去ぬゆふへのこゝろ千々に 君/翌朝(あした)に/去(いき)ぬ/夕べの/心/千々に
何そはるかなる 何ぞ/遙かなる
君をおもふて岡のへに行つ遊ふ 君を/想うて/岡の辺に/行きつ/遊ぶ
をかのへ何そかくかなしき 岡の辺/何ぞ/斯く/悲しき
蒲公の黄に薺のしろう咲たる 蒲公英(たんぽぽ)の/黄に/薺(なずな)の/白う/咲いたる
見る人そなき 見る/人ぞ/なき
雉子のあるかひたなきに鳴くを聞は 雉子(きじ)の/あるか/ひた鳴きに/鳴くを/聞くは
友ありき河をへたてゝ住にき 友ありき/河を/隔てて/住みにき
へけのけふりのはと打ちれは西吹風の へげの/煙(けぶり)の/ハと/打(うち)散れば/西吹く風の
はけしくて小竹原真すけはら 激しくて/小竹原/真菅原
のかるへきかたそなき 逃るべき/方ぞ/なき
友ありき河をへたてゝ住にきけふは 友ありき/河を/隔てて/住みにき/今日は
ほろゝともなかぬ ホロロとも/鳴かぬ
君あしたに去ぬゆふへのこゝろ千々に 君/朝(あした)に/去(いき)ぬ/夕べの/心/千々に
何そはるかなる 何ぞ/遙かなる
我庵のあみた仏ともし火もものせす 我が庵(いお)の/阿弥陀仏/燈火(ともし火)も/物(もの)せず
花もまいらせすすこ ヽ と彳める今宵は 花も/参らせず/すごすご(悄悄)と/佇める/今宵は
ことにたうとき 殊(こと)に/尊き
釈蕪村百拝書 (仮名と漢字変換は、木村真理子)
:::
● 「去ぬ」- (さりぬ ・ さんぬ ・ いぬ)。 この内、 山本健吉著 『与謝蕪村』 講談社(昭和62年)によると、― これまで注者によってイヌかサリヌかと議論され、 おおむね「イヌ」に傾いていた。 「きのう去(い)ニ けふいに鴈のなき夜哉」 「酢つけてやがて去(い)ニ たる魚屋かな」 などの作例によっての判断というが、 「芭蕉去(サツ)てそのゝちいまだ年くれず」 「去年去(さ)り移竹移りぬ幾秋ぞ」などの作もあるから、 当てにならない。 漢詩からこの新体の詩はヒントを受けたと思われ、 私はむしろ朗詠めかして、 「サンヌ」と訓みたい。― と書いておられます。 子供の頃遣っていた和歌山弁では、 「イヌ」は、「帰る」 という意味で遣われ、 例えば、「インでくる」 というのは、「帰るから、バイバイ」 という意味です。 つまり、「死」に対して、「イヌ」 とは遣わないのです。 江戸中期は如何だったか? は疑問ですが、 やはり、 文字としてではなく、 言葉としての遣い分けはされていたでしょうから・・・・。 ここは、「サリヌ」 にしたいと、 この時点では考えていたのです。
ところが、何と、 『蕪村全集 一 発句』 校注者 尾形仂・森田蘭(1992年5月)講談社 に添付されていた小冊子に、 飯田龍太氏の小論があり、 尾形氏の発言部分には、 ― 「北寿老仙にいたむ」の制作時期は、 晋我没後の直後ではなく、 「春風馬堤曲」 と同時期の晋我三十三回忌の時だということ。 それと、 ・・・・ 私は、「(去る) ゆきぬ」 と訓む可能性があると思いますけど、その、「君」 という言い方も、 若い頃の晋我と蕪村の年の隔たりでは、 これは出てこないんじゃないかと思うんです。 ― が掲載されていました。 制作時期についての論考は、 以前から知っていましたが、それは置いて於いて・・・・、 「去る」 を 「ゆきぬ」 という訓み方には、 衝撃を受けました。
そう、私自身も、 漢字に惑わされていたのです。 死んだ人には、 「あの人は、 イッテしまった」 と言います。 「逝く」 です。 それが、「去る・ゆきぬ → いきぬ」、 関西弁では、 「い」と「ゆ」の間の音、「ゐ」 か「ヰ」かどう表記するのか解からないですが、そういう訓みにちがいないと思いますが、 ・・・・ここでは、「いきぬ」 としました。 「行(い)く」 に対する 「去(い)く」 です。
● 「咲たる」― (さきたる) → 「さいたる」。 普通は、咲(さき)たる と訓んでいるようですが、 新体詩と言えども、 「はるかなる」 「おもふて」 「しろう」 「あるか」 「住にき」 「ものせず」 「まいらせず」 等のように、健吉氏がおっしゃる朗詠めかして・・・・、 プラス関西風?を加味して、 私は、「さいたる」 としました。
● 「雉子(きじ)」― キギス か、 キジ か? については、 「キジ」 です。 キギスは、「ほろゝ」 とは鳴かないでしょう。
● 「へけのけぶり」― 「へげ」 については、 諸説があります。 竃(へっつい・かまど)の煙、 片木(へぎ)を燃やした煙、 変化(へんぐゑ)の煙、 中には、 猟師の鉄砲の煙というものもあり、 こうなれば、 詩とはかけ離れてしまいます。 やはり、 『源氏物語』 の柏木や、 『とはずがたり』 の有明の月のように、 友である晋我の屍を火葬した煙でしょう。
「へげ」 を漢字に変換するなら、 「変化(へげ)」 や「剥(へげ)」(肉体を剥ぐを意図) も理に適うと思いましたが、 「斃 (ヘイ)」 の文字を当てるのが良いのではないかと思います。 直接、「ヘゲ」 とは訓みませんが、・・・・「へげ」 に通じるでしょう。 ことばとは、 語彙があっての漢字の当て字だし、 表象であると思うからです。
「斃」(ヘイ・ベイ・ タフル)― 大字典(講談社)― たふれ死ぬること。 斃は、独りで死んでたふれ、 又人が殺したふすと也。(中略) 斃は、死したふる也。
● 「あした」― 「翌朝」 と 「朝(今朝)」 を使い分けました。 詩は二部構成で、 晋我の死を迎える前日の夕べと、 死を迎えた日ですが、 この日は、 時間に伴って 今日・夕べ・今宵 と変化していきます。
「北寿老仙をいたむ」 訳詩 木村真理子
あなたは翌朝、 死を迎えられるだろう、 夕暮れが迫るこの時、
私の心は、 千々に乱れる。
あなたを想って、 岡の辺に行って遊ぶ、
岡の辺は、 何と、 こうも哀しいのだろう。
見る人もいないけれど、
蒲公英(たんぽぽ)が黄に、 薺(なずな)が白く咲いている。
雉子(きじ)が居るのか? ひた泣きに鳴くのを聞けば、
私も友がいる、 川を隔てて住んでいる友がいる・・・・。
西に吹く風が激しくて、
友の屍(しかばね)を焼く煙が、 パッと打ち散り、
小笹や真菅の野原を漂うばかり・・・・。
友が・・・・、 川を隔てて住んでいた友がいた・・・・。
今日は、 あの雉子は、 ホロロとも鳴かない。
今朝、 あなたは、 この世を去られた。
夕暮れの私の心は、 千々に砕ける。
私の庵の阿弥陀仏の
燈明も灯さず、 花も供えずに過ごす今宵は、
あなたを想って、 仏の加護を願う。
::: 私は、 いつか 「北寿老仙」 を訳したいと思っていました。 『とはずがたり』 を知ることにより、 その 「へげの煙の詩」 が、 近付いて来たのでした。 昔、 娘が小学校の頃、 お友達か近所の子だったでしょうか、 お姉さんを亡くした男の子がいて、 患っていたお姉さんが死んだその日、 ズーット近所の公園のブランコに何時間も座っていて、 そして、 誰も、 その子に声を掛けられなかった、 という身近な話を思い出しました。
蕪村も、 当時は宰鳥(さいちょう) でしたが、 じっとしていられなくて、 かと言って、 親戚でもない、 単なる風来坊が、 側にも行かれず、 小川を隔てた川堤から、 晋我の家の方を見守っていたのでしょう。 次の日は、 晋我の火葬の煙を見て、 天に昇るかと思いきや、 風に吹き飛ばされて、 野原一杯に充満して、 宰鳥を包んだのです。
この部分は、 非常に重要です。 『源氏物語』 では、 柏木の歌 「いまはとて燃えむ煙(けむり)もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ」 や 「行(ゆ)く方(へ)なき空の煙(けぶり)となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ」 にもあるように、 恋する 女三の宮 の周辺を・・・・、 『とはすがたり』 では、 有明の月 は、 「身はかくて思ひ消えなむそなたの空になびきだにせば」 と、 二条 の周辺を煙となって、 巡るのです。
そして、 宰長は、 日なが一日、 川堤に過ごしました。 今日、 夕暮と・・・・、 そして暗くなった宵になって、 庵に帰って、 阿弥陀仏と対座したのです。
参考文献: 『源氏物語 七』 完訳日本の古典 第二十巻 小学館 (昭和62年5月) 『とはずがたり 一』 完訳日本の古典 第三十八巻 小学館 (昭和60年4月) 『蕪村の世界』 古典を読む27 尾方仂著 岩波書店 (1993年3月) 『与謝蕪村』 山本健吉著 講談社 (昭和62年5月) 『詩人 与謝蕪村の世界』 森本哲郎著 講談社学術文庫 『与謝蕪村』 大谷晃一著 河出書房新社 (1996年4月)