木村真理子の文学 『みだれ髪』好きな人のページ

与謝野晶子の『みだれ髪』に関連した詩歌を紹介し、現代語訳の詩歌に再生。 また、そこからイメ-ジされた歌に解説を加えます。

 ブレイクタイム  - 詩仙堂 十三世乱筆 -

2013-04-16 11:18:05 | ブレイクタイム

  『とはずがたり』 は、 結構、後が曳きますよね。 春爛漫の4月1日、 後深草院二条が女楽事件で隠れていた 下醍醐へ行きたくなって、 お嬢様女子高出身のお嬢様でない三人組が、 繰り出しました ・・・・、 おばさん? じゃなく、 もう直ぐ私も孫が出来るので・・・・、 おばあちゃん三人組ですね。 

 一人は京都在住で実家が西陣の織り元、 ご主人を含めて三人分のお弁当を作って、 孫の面倒を見て、 家庭は明るく、 お料理上手で、 主婦の鑑、 主婦のエキスパートともいうべき人。 一人は滋賀在住、 社会活動に熱心で地域の面倒を良く見て、 絵手紙もお料理も裁縫も (着物の古布を現代風にアレンジして実用化) 上手で、 自慢のコックの息子さんがいる人 (私も賞をもらった料理を、 河原町御池のホテルに食べさせてもらいに行きました)。 もう一人は私、 兵庫県在住、 専業主婦から主人の仕事の都合でコンビニを始め、 お店の維持と、 スポーツクラブのフラダンスと、 訳の解からん執筆?をし、 たまに来る娘夫婦に料理を振舞っている今日この頃・・・・。  

 そんな三人組の桜見物、 醍醐の桜は豪華そのもの。 去年は滋賀の人に奥琵琶湖に連れられ、 船からの海津王崎の桜見物も良かったし、・・・・ 来年は私だけど、 どこにしょうかなぁ・・・・いつか行った奈良は室生口大野・大野寺から長谷寺へ抜けるコースも良いし、・・・・あれこれ言いながら、 醍醐寺の三宝院、霊宝尾館、理性院の拝観と、 清瀧宮、五重塔、金堂、観音堂、弁天堂、 そこから小野の小町邸の跡地・随心院を巡り・・・・、 結局は後深草院二条が籠っていたとされる、 勝倶胝院(しようくていゐん)の跡地に建つ一言寺(一言観音金剛王院)に行くのをすっかり忘れてしまい、  桜に浮かれて帰ってしまいました。・・・・ 何と、 いい加減な!

 ところで、 三~四年前でしたでしょうか、 京都の人の伯父さんが亡くなり、 跡継ぎが居ないということで、 家の整理をし、 その時に「掛け軸」だったか「額」だったかが出て来たので、 いったい何が書いてあるのだろう? ということになり、 私の所にも廻って来ました。    その時、 私も解読させてもらったのですが・・・・、確か、 深草という文字があった様な気がしたので、 そのコピーを持って来てもらったのですが、 詩仙堂のものでした。 

 京都の人の伯父さんが、 どの様にして詩仙堂から戴いたのかは解からないですが、 自宅が高野(たかの)にあったこともあり、 一乗寺の詩仙堂に近いことや、 美術書等の制作に携わっていらした関係かも知れません。 ・・・・ その詩仙堂 十三世乱筆が、 ちょっと面白かったので、 ここに公開させて頂きます。

  

        詩仙堂  十三世 乱筆 「忘磯壁書」

 

  詩仙堂は、徳川家の家臣だた石川丈山が59歳の時、 1641年(寛永18年)に造営したことに始まり、 本来は「凹凸窠(おうとつか)」 という。 中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間による銘々とされます。

 十三世乱筆の「忘磯壁書」は、 詩仙堂の 「六勿銘」(1645年(正保3年) 丈山63歳の作)、そして皇国史観 が根底にある様です。

 

       六勿銘

               勿レ  忘ニ                 棍賊(こんぞく)一              (盗賊を防ぐことを忘れるな)

               勿レ  斁(いとう)ニ    晨興(しんこう)一              (朝早く起きることをいとうな)

               勿レ  嫌ニ         糲色(れいしょく)一             (粗食をいとうな)

               勿レ  変ニ         倹勤(けんきん)一              (倹約と勤勉を変えてはならぬ)

               勿レ  媠(おこたる)ニ  払拭一                     (掃除をおこたるな)

                          (注: 本来は糲の字が草冠です。 パソコンになかったので) 

 

 

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               忘磯壁書

 

 

             

 

 

           

 

           不幸にして世に     背ける墨の衣にはあらじ                          

           頭髪結うが六ヶ(難か)しきまゝに     天窓を剃る

           茅萱(ちがや)の軒端(のきば)               

           竹の主(柱)に身を軽う 茲(ここ)に止めて    浮世を見るに

           東西に走り南北に行く人    多くは身を思ふ業のみ

           足を空に奈(な)して    吉野の花の衰(くさ)れも知らず

           深草の鶉(うずら)の声を聞いては    焼いてしてやりたいとばかり思ひ

           後には何と奈(な)ることぞ    

           楽(ら)くで安からざるこそ     人間のみに限らず

           山を出ずる雲は    雨を催す為に忙しく    

           森林の鹿は     妻恋ふ為に声を限りに鳴く

           それを思えば     此の身ほど閑(ひま)奈(な)事もの無し

           恵心(けいしん)の作    壱體(一体)持てども    後生(ごしょう)を願ふためには

           非(あら)ず持ち傳(伝)えたる道具奈(な)ければ    お宿もうすまで奈(な)り

           極楽え行(いく)奈(な)り    極楽え行きたい欲奈(な)ければ 

           地獄に行く恐れも奈(な)く    死(しぬ)るまで生きていようと思へば

           年齢(とし)のとるを爪牙(そうが)とも思はず

           曲垣(まがき・籬)の朝顔が曲ろうとす(直)ぐろうと    あん奈(な)物ぢやと思ひ

           日暮の小夜嵐が吹古(ふこ)うと降ろうと     我身一つの苦にならず

           膝(ひざ)を容(いれ)る二疂(畳)敷    土鍋一つで埒(ら)ちあけん

           雑煮食はぬ者には    聞かれまいと云はぬ

           鶯の初音も心好く聞き     夜金持たぬ家には光(ひかり)射(い)まいと云わぬ

           ?依估(怙)贔屓(えこひいき)奈(な)い雲(く)もる月を眺め 

           寝奈(な)ずの眼奈(な)れば晝(昼)も寝る

           歩く筈(はず)の足奈(な)れば     手の奴(やつ)足の乘(乗)物にて     心のおもむく処を彷徨あるけども      

           盗みせぬ身奈(な)れば人も咎めず     覚えたること奈(な)ければ     忘るることも奈(な)く

           年齢を数えど    幾年やら知らず   

           奈(な)んぢや    かぢや    婆婆(ばばあ)ぢや  浮世ぢや   苦ぢや   楽ぢや

           神ぢや   佛(仏)ぢや   云ふも苦しや

 

                    昭和四十七年      気櫻佳日(きおうかじつ)

                                                詩仙堂    十三世   ○ ○ 乱筆        

 

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               忘磯壁書(ぼうきへきしょ)       訳詩 木村真理子

 

           不幸にして世に背く僧の墨染めの衣を着てはいないが、

           頭髪を結うのが難しくなって、 頭を剃る。

           粗末な家の軒端(のきば)の竹の柱に身を置いて、 浮世を見れば、

           東西に南北に行く人の多くは、 身を煩(わずら)っている。

           天に足を向けて、 吉野山の花の衰えも知らない。  (吉野朝の存在したことも知らない)

           深草の深い所で鳴く鶉(うずら)の声を聞いては、  焼いて食べたいとばかり思い、

           (北朝の皇統を思っては、  無念に想い、)

           後世には、 どうなってしまうことやら・・・・。    楽で、 簡単なことばかり・・・・。 

           人間のみに限らず、   山から湧く雲は、  雨に成る為に忙しく、  

           深い林の鹿は、  妻恋いの為、   声を限りに鳴く。

           それを思えば、  我が身ほど、   閑(ひま)な者は無い。

           良い詩を一体持っていても、    死後を願うためではなく、

           持ち伝えられる道具でもないので、    死んだら御終(おしま)い。

           極楽へ行きたい欲がなければ、    地獄に行く恐れもなく、

           死ぬまで生きていようと思えば、    齢を取るのも、   残酷な事とも思わない。   

           垣根の朝顔が曲ろうが、   真っ直ぐであろうが、   あんな物だと思い、

           日暮れの夜風が弱かろうが、   強かろうが、   一つも苦にならない。

           座わるだけの二畳敷きに、  鍋一つで用が済む。

           正月祝いをしない私には人に聞かれたくない、  とは云わない。

           鶯の初音も快く聞き、   宵越しの金を持たない家には、   光が射さないとは云わない。

           遍(あまね)く照らす雲から洩れる月を眺め、   寝れない身であるから、  昼も寝る。

           歩くべき足であれば、  手は足の向くまま、  気の向くままに彷徨(さまよ)うけれど、

           盗みをしない身であるから、    人も咎(とが)めはしない。

           覚える事も無いので、   忘れる事もなく、    歳を数えることも無くなった。

           何や彼(か)や、   婆(ばばあ)や、   浮世や、  苦や、   楽や、

           神じゃ、   仏じゃ、   と言うのも苦しい。   

           

                        昭和四十七年      桜咲く吉日

                                                  詩仙堂    十三世  ○  ○  乱書

             

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      【注釈】  

  * 忘磯壁書(ぼうきへきしょ) ― 京都の人の友人は、 「荒磯壁書」と読み、 「荒磯」で成る程とも思いましたが、 ここは「六勿銘」の忘れる勿れ、 を踏んでいるので、やはり 「忘」 でしょう。 磯の壁に書いた詩を忘れる勿れ、 又は、 その反対の詩の内容も忘れてしまった、 の両方を含んでいるのでしょう。   「磯壁書」 は、三国志の 「赤壁の戦い」、 魏の曹操軍と戦い勝利した、 呉・蜀連合軍の周瑜の長江に刻んだ「赤壁」を想いますが、 作者は恐らく、 三国志のファンだったのでしょう。

 

   * 吉野と深草 ― 吉野を拠点とした南朝(大覚寺統)と、 京都を拠点とした北朝(持明院統)を示す。 南北朝は、 その両統迭立(ていりつ) を言う。  1336年、 吉野に逃れた大覚寺統の後醍醐天皇による南朝と、 足利尊氏が京都に持明院統の光明天皇を立て、朝廷が別れたことに始まる。 1392年、 吉野の後亀山天皇は、将軍足利義満のすすめで京都に帰り、 北朝の後小松天皇に譲位することにより、 南北朝統一が成された。  『とはずがたり』は、その元である弟兄の亀山院と後深草院の両院迭立の宮廷を垣間見ることができる資料でもある。  現在の皇室は、北朝の崇光流皇統・伏見宮家の流れだという。

  * 足を空に奈(な)して/吉野の花の衰(くさ)れも知らず/深草の鶉( うずら)の声を聞いては/焼いてしてやりたいとばかり思ひ/後には何と奈(な)ることぞ ― ここは、詩仙堂十三世の皇国史観が表出されている部分です。

     今の私達一般市民は、 多少の温度差はあれ、 南朝だろうが北朝だろうが、 皇統であるからにはそれで良いのでは・・・・、 という感じですが、 特に昭和の太平洋戦争以降には、 皇国史観 ( 足利尊氏を天皇に叛いた逆賊とし、 楠正成や新田義貞を忠臣とするイデオロギー的な解釈。) が盛んであったようです。 実際、 私も子供の頃に、 南朝の末裔の熊沢天皇という名を耳にしたことがあります。  この詩が書かれた昭和47年から推測すると、 平泉澄(きよし)の名が浮かびますが、・・・・南朝の吉野を「吉野時代」と表現し、 昭和天皇に楠正成の功績を進講(1932年)、 東京帝大の学生団体「朱光会」会長に就任。 それ以後、公職追放となり、 銀座にあった国史研究室を閉鎖(1974年・昭和49年)という経歴の持ち主ですが、 そういう人々の影響があったのではないでしょうか。 

 

  * 恵心の作/壱體(体)持てども ― は、 この詩 「忘磯壁書」 を指す。

 

  * 後生を願ふためには/非(あら)ず持ち傳(伝)えたる道具奈(な)ければ/お宿もうすまで奈(な)り ― 「非ず」 は、前後に掛かり、 非後生 (後生を願うためでは非ず) と、 非ず持ち伝える道具 (持ち伝えることが出来ない道具) の両方に掛かる意。

     

  * 爪牙(そうが) ― 爪と牙。 残酷な例え。

 

  *  雑煮食はぬ者には ― 「正月祝いをしない者」 と訳したが、 これも、 十三世の皇国史観を意図する。

 

  * ?依估(怙)贔屓(えこひいき)  ―   「依估贔屓」 の前の一文字「?」が良く解かりませんでしたので、「?」としました。