ポツダム会談の館

2013-08-16 22:24:58 | 日記

 

 

  こんにちは

  まさに猛暑襲来。 全国たいへんな気温が続いていますね。

 

  8月15日の終戦記念日のころに一度、ご紹介したいと思っていた写真を今年こそ

  はアップしたいと思います。

  ポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿です。

  2009年に、ドイツの首都ベルリンに行ったときに立ち寄りました。

  ポツダムは、ベルリンから26kmの近郊にある都市ですけど、第二次大戦が終っ

  た後は実質、ソ連に占領されてきた街です。

  そしてこのツェツィーリエンホーフ宮殿は、1945年の夏に、日本の命運を決めた

  ポツダム宣言の内容が話し合われた現場でもありました。

 

  終戦に一と月ほど先がけた7月17日、アメリカ大統領のトルーマン、イギリス首

  相のチャーチル、ソ連共産党書記長のスターリンの三首脳が政府関係者を伴って

  この宮殿に集まりました。

  興味深いのは、集まっただけではなく、8月2日までの17日間をここで共に滞在し

  て、まだ降参していなかった日本への対応を含む世界の終戦処理について話し合

  いを持ったことです。

  世界の首脳が寝泊まりして17日間も一緒に過ごし、会談するなどということは、

  おそらく歴史上、最初で最後のことではないでしょうか。

  

  下の写真は、そのツェツィーリエンホーフ宮殿。

 

       

 

         

 

  瀟洒で立派な宮殿を想像していましたので、意外に質素で田舎家風な建物に 

  びっくり。 え、ここで・・?という印象でした。

  もとはドイツの皇太子の別荘だったそうなんです。

  ドイツ・ナチスはこの時にはもう降伏しており、ベルリンは壊滅状態になっていたた

  め、警備のしやすいポツダムのこの宮殿が選ばれたということです。

 

  下は、宮殿の中、ポツダム会談が行われた部屋です。

  日本についてどのくらいの話し合いが行われたかは定かではありませんが、ソ連

  のスターリンは当時、日本本土に上陸侵攻すべきだと主張していたというのです

  から想像しただけでぞっとします。

  もしそうなれば、仮説ですけど、北海道はソ連領になっていたかもしれない。 

        

           

  上の写真は、その円卓で会談中の当時の写真。

  資料として壁に掛けられていました。 左手に、のけ反るようにして座っているベー

  ジュ色の軍服の人がスターリン、その両隣りがトルーマンとチャーチルのようです。

 

  下の写真は、やはり資料として掛かっていた三首脳のその時の写真です。

  左からスターリン、トルーマン、チャーチル。

              

 

  もちろん、世界の戦後処理が主な議題ですから、和気あいあいと話し合われてい

  たはずはなく、お互いに戦後の自国の利害損得、主義主張、腹の探り合い、駆け

  引きの攻防、神経戦が17日間のあいだ展開していたのでした。

 

  三人が使ったそれぞれの個室も見ることができましたけど、パッとしない普通の

  部屋でした。 スターリンがいちばん広い部屋を使っていました。

  首脳が動き回ったエリアもそれほど広くはなく、正直言って、こんなところに17日

  間も顔を突き合わせていたら、うんざりかも・・と思いました。

 

  また、これは偶然の一致ではない、と思うのですけど、集合した7月17日の朝に、

  ここで、トルーマンは原子力爆弾が完成したという極秘電報を受け取っています。

  その暗号文は「ベイビーが誕生した」というものだったそうです。

  会議は17日の午後5時から始まりましたので、おそらく実験のほうを会談に合わ

  せて早めたのではないかと・・

  これでアメリカはソ連のスターリンに対して優位に会談を進めることができたので

  した。

  

  その後、会期中の7月26日に、日本軍の無条件降伏を求める13か条のポツダム

  宣言が出来上がり、日本政府に向けて表明されました。

  アメリカのトルーマン大統領とイギリスのチャーチル首相、中国の蒋介石主席の共

  同声明というかたちですが、実質はアメリカの主導で作成されたということです。

  蒋介石はポツダム会談には出席していませんでしたので、無線で承諾。

  ソ連はこのときはまだ、日本との戦争には参戦していませんでしたから、ポツダム

  宣言とは無関係の立場です。(終戦の直前に参戦してきました)

  ご存知のように、日本政府はこのとき、ポツダム宣言を受諾しませんでした。

 

  下の写真は、宮殿の庭つづきの公園。

  この道路にはかってベルリンの壁があったそうです。

  ほんとうに、このあたりは歴史的に深刻な場所だったのでした。

     

     

 

  8月2日に、17日間のポツダム会談は終了しました。

  奇しくも同じ2日に、アメリカは日本に原爆による攻撃を8月6日に実行することを

  決定。 第一目標地は広島、予備の第二目標は小倉、予備の第三目標は長崎。

  さらに9日には長崎に。小倉上空は視界不良で投下できなかったということです。

  日本政府は、8月14日にポツダム宣言を受諾し、翌15日に国民に玉音放送で

  そのことが発表され、戦争が終わりました。

 

  改めて書くまでもなく、みなさんがご存知のことばかりをまとめてみましたが。

  ポツダム宣言と原爆の取り決めは、この17日間、この宮殿の中で並行して進ん

  でいったのでした。

  日本の運命を決めた17日間だったのです。

 

  下の写真は、ツェツィーリエンホーフ宮殿の正面入口です。

  わたしの写真よりも分かりやすい写真がYahoo画像にありましたので、お借りしま

  した。 

  イギリスの田舎家を模倣して建てられたそうです。 屋根の上に立つのは煙突。

 

        
                                        (Yahoo画像より)


  花壇の赤いお花で埋められた星の形は、ソ連のKGB(秘密警察・諜報機関)の

  マークです。  

  終戦からソ連崩壊までの間、この宮殿はKGBの本拠地として使用されました。

  また、ポツダムの街なかにもKGBが使った建物がたくさん残っていました。

    

        

 

  この宮殿は、今では世界文化遺産に登録されていて、観光地になっています。

  上の写真のように、宮殿の一部はレストランや観光用のホテルとしても使われて

  います。

  

  宮殿を出たとき、ほんとうに平和のありがたさを実感しました。

  戦争の恐ろしさも実感しました。

 

        
                                        (Yahoo画像より)

 

                            

 

 

 

 

 

 

 

  


最新の画像もっと見る