ロシア・サンクトぺテルブルク・その1(広場・街)

2019-02-28 23:02:10 | 旅行 ・ 装飾吊り看板

 

  こんにちは

  今回は去年の12月に出かけたロシアのサンクトペテルブルクのお話をいたします。

  この街は水の都とか北のベネツィアと呼ばれるように、ネヴァ川河口の三角州を中心に発達した

  運河の多い美しい港湾都市でした。

 

  ↓下の写真はネヴァ川の岸辺に飾られていたクリスマスのツリーとイルミネーション。

  空は夕焼けではなく、午前9時過ぎ頃の朝焼けです。ネヴァ川はご覧のように白く凍っていました。

          

 

  ↓北緯60度の地点ですので、冬は明けるのが遅く、夏は白夜の如く夜中の11時頃まで明るいのです。

  毎年6月の夏至の頃に「赤い帆」という白夜祭が街中で盛大に開かれ、100万人の観光客が集まる

  ということです。このネヴァ川では、赤い帆の帆船が航行し、豪華な花火大会が始まります。

         

 

  ↓下は、そのネヴァ川の岸辺にある観光名所のデカプリスト広場。

  中央は馬に乗ったピョートル大帝の「青銅の騎士像」です。ピョートル大帝(1672~1725)は、

  ロシア帝国の初代皇帝。この地にサンクトペテルブルクの街を建設し首都に定めた人でした。  

                  

  ↑上の右手の長い建物は、ピョートル大帝が設置した国政の最高機関である「元老院議事堂」。

  現在はロシア憲法裁判所になっています。

 

  ↓青銅の騎士像の後ろにある聖堂は「聖イサク寺院」。40年の歳月をかけ、1858年に完成。

  ソ連政権時代は宗教は許可されていませんでしたので、聖堂は博物館として使われていました。

  ここからですと小さく見えますけど、世界最大級の大きな聖堂です。  

         

 

  ↓下は、デカプリスト広場から見たネヴァ川。

         

 

  ↓ネヴァ川は地図の左端バルト海のフィンランド湾に流れ込んでいますので、ロシアがヨーロッパと

  直接往来でき効率よく交易ができる地は唯一、サンクトペテルブルクのみでした。

  しかも当時は船で荷を運んでいましたので、何としてもこの地に港湾の都市を作り経済的にも繁栄

  させ、ロシアの欧州化も進めたかったのです。ヨーロッパの仲間入りがしたかったのでした。   

                  

  ↑1703年に造成工事が始まったものの、三角州の地盤のゆるい荒れた沼地でしたので、過酷な

  工事で、一万人が命を落としたということです。きっと奴隷が働かされたのでしょう。

  1712年、サンクトペテルブルクが完成しこの地に遷都。貴族や商人たちも移住させました。

  こうやってロシア統一後初めて、サンクトペテルブルクからロシアの国造りが始まりました。

  

  名前のサンクトペテルブルクは訳せば「聖ペテロの街」。ヨーロッパとの交流を進める意向から

  ロシア風の地名ではなく、ブルクというドイツ風の地名にしました。

  その後ロシア革命が起こりソビエト連邦になってからはレニングラードに名前を改め、ソ連崩壊後

  はまたサンクトペテルブルクに戻りました。

  今回気づいたのですけど、私の地球儀ではレニングラードになっています。(笑)

 

  ↓下は、ネヴァ川沿岸の「ペトロパヴロフスク要塞」。現在は造幣局などに使用されています。

  スウェーデンとの戦争から街を守るために造られ、18世紀末からは政治犯の監獄として使用され

  ました。ドストエフスキーやレーニンも一時この監獄に収容されています。 

          

 

  ↓ネヴァ川は厚く凍っていても、表面がゴツゴツしていますのでスケートはできないそうです。        

         

 

         

 

  ↓右奥に見えているのは「血の上の救世主教会」。

         

 

  ↓下はその「血の上の救世主教会」です。宗教を禁じていたソ連時代は、物置に使われていました。 

  1881年、時のロシア皇帝アレクサンドル2世がテロリストによって殺害されたその場所に鎮魂のため

  に建立されました。アレクサンドル2世は農奴解放などの大改革を行った皇帝です。トップは修復中。

         

  中に入って見学できましたので、美しいモザイク画をいずれご紹介できたら、と思っています。

 

  ↓下の通りは「ネフスキー大通り」。サンクトぺテルブルクのメインストリートです。

  作家ゴーゴリーには「ネフスキー大通り」という小説がありますし、サンクトペテルブルクを舞台と

  するロシア文学にはよく登場する通り。ちなみにドストエフスキーの「罪と罰」はこの街が舞台です。

  ドストエフスキー、トルストイ、プーシキンなどがよく通っていたというカフェもまだありました。    

         

  作曲家のチャイコフスキーもサンクトペテルブルク音楽院で学び、最後はこの地で亡くなっています。

  

  ↓さて、昼食にはこのネフスキー大通りから少し入った所にある民話レストラン「マーシャと熊」に行

  きました。入るなり剥製の熊がお出迎え。

  ロシアではこういうお店に来たかったので、小躍りする気分でした。

         

 

  このお人形がマーシャでは?「マーシャと熊」の民話はこうです。

  小さなマーシャは森の中で遊んでいるうちに道に迷い、間違って熊の家に入り込んでしまいました。

  食べられてしまったら大変なのですけど、熊を上手に言いくるめて自分の家にお菓子を届けてくれる

  ように頼み、お菓子の箱の中に隠れます。そして無事に家に帰ることができたのでした。

         

 

         

 

  ↓ロシア料理のメニューは、まずボルシチ。赤かぶに似たテーブルビートで作ったスープ。

  スメタナという一見牛乳のようなサワークリームをたっぷり入れて頂きます。

  日本で広まっているビーフシチューのようなボルシチは ロシアではボルシチとは言いません。           

           

           

  ↓ピロシキです。中にお肉や野菜などの具が詰め込んであります。油で揚げたものもありますけど、

  これはオーブンで焼いていました。右端にあるのがスメタナです。

           

 

  ↓ロシア風餃子のぺリメニ。このぺリメニは蒸し餃子のようでした。

  ドイツにもドイツ餃子がありますけど、どこへ行っても餃子風料理はあるもので。

           

 

  ↓さて、食事が終わりますと写真タイムです。特に右のお人形が気に入って。        

         

  ヨーロッパのマリオネットにこんなお人形が出てきます。

          

 

  レストラン「マーシャと熊」を出て、エカテリーナ宮殿に向かいます。

  サンクトペテルブルクには地下鉄もあるのですけど、トローリーバスも市民の足。

  主要な通りには上のほうに電線が縦横に張り巡らされていて、トロリーバスが走っています。 

          

 

  ↓エカテリーナ宮殿に到着。  

        

  ベルサイユ風の美しいお部屋の数々は、また次回にご案内いたします。    

 

 

                                   

 

         

 

               


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