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昨日☆今日☆明日~金曜日のピュ

私の毎日と心に浮かんだこと

寂しい冬

2011-01-18 09:57:41 | 家・家族
母が入院している病院は、つくばエクスプレスの沿線にある。こんなことでもなければ乗ることがなかったろう。
秋葉原で乗り換える。そういえば秋葉原も通り過ぎるだけで降りることのない駅だった。

病院のある駅は寂しい。秋葉原から20分くらいなのに別世界に来たような気がする。
駅の傍には閑散としたスーパーマーケットとドラッグストアがあり、そのビルの2階にサイゼリヤがある程度だ。
駐車場がやけに大きい。もう片方の出口にはタクシー乗り場とバスターミナル…、土地が広い分、よけい寒々しい。

病院は歩いて15分ほどのところにある。通りに添って歩き始めると悲しいくらい何も無い。
畑ですらない広大な空き地の真ん中を道路が貫いている。途中にコンビニが一軒、ぽつんぽつんと人家が見える。
冷たい風に吹かれて歩いていると、頭の中は母のことでいっぱいになる。

病院に着くと少しほっとする。暖かいし人もたくさんいるから。けれど集中治療室に入ると、また悲しい気持ちになる。
母の他に2人、母と同様、目覚めない人たちだ。窓際の男性のベッドの傍らでは、私と同じ年くらいの女性が一生懸命、
夫に語りかけている。ときどき目を開けるらしい。もう1人も男性で60歳代くらいだろう。喉を鳴らしながら眠り続けている。

私は今まで、こんなに悲しい場所に来たことがなかった。でも母の傍に座って、少し汗ばんだ暖かい手を握っていると
心が安らぐ。眠っている母を見るのは好きだ。やつれてもいないし青ざめてもいない。ただ時おり苦しそうに咳をする。
痰がからまって呼吸が楽ではないのだ。今目覚めることが叶わないのなら、せめて眠りが安らかであってほしい。
そう願いながら時間を過ごす。

それから来た道をとぼとぼと引き返す。年が明けてから毎日寒いなあ…。

昨夜テレビで由紀さおりの<夜明けのスキャット>が流れていた。母が好きだった曲だ。その話をしたら、娘が
「じゃあ、録音しておばあちゃんに聴かせてあげよう」と言った。
今日はCDを探しに行こう。

お見舞いに行くほかは、私の日常は大して変わらない。ギターも弾くしフィットネススタジオにも行く。
ネットでスペインのドラマを見ている。スペイン語は半分も聴きとれないけれど不思議とストーリーは分かる。
人間の思いや迷いは一緒だから。
ときどき気晴らしもする。ただ、心の奥に今までは存在しなかった寂しさがある。

成人式、黒豆、大切なもの

2011-01-13 10:40:20 | 家・家族
10日は末娘の成人式だった。高校時代に所属していた吹奏楽部の後輩たちが成人式で演奏をすることになり、
20歳を迎える先輩たちも一緒に…と誘いがあった。振袖姿でトランペットを吹くのだと張り切って出かけて行った。
貸衣装店に着物を選びに行ったのは暑い夏の日だった。
娘はあまり着物が似合うタイプでない上、流行りの小ぶりの眼鏡をかけている。選んだ振袖は濃いコバルトブルーに
ショッキングピンクの花模様。帯は黄色の地に黒の模様が入っている。
こんな無茶苦茶な取り合わせで大丈夫なのかとハラハラしたが、出来あがった姿に親も惚れぼれ(?)。
着物マジックとはこのことだろう。日本人が作り上げた着物は、西洋のどんなに素晴らしいドレスにも負けない。
成人式から帰宅した娘を囲んで、家族全員でホームパーティ。賑やかなテーブルに、黒豆の小皿を出した。
この黒豆は入院中の母が煮たもの。お見舞いに行ったとき弟から渡された。料理の得意な弟は、このお正月のお節料理を
一手に引き受けた。
「おふくろさんは何もしなくていいからな。」と弟に言われ、母のライバル心が燃えたらしい(ふつうはお嫁さんに
ライバル心を燃やすのにね)。黒豆だけは自分が煮る…と言って、大粒の丹波の黒豆を取り寄せたのだそうだ。
母の煮た黒豆は柔らかすぎず甘すぎず、豆の味わいをしっかり残していた。母らしい煮かただ。
つややかに仕上がった豆は宝石みたいで、いつまでも取っておきたかったがそうも行かない。成人のお祝いに皆で
食べたからね。また母が台所に立つ日が来るだろうか。

昨夜、二十日ぶりにギターを弾いた。昨年秋、地元のギター合奏団の独奏発表会で弾いた「アルフォンシーナと海」。
あのときは上手く弾けなかったけれど、久しぶりに弾いたら最後までちゃんと弾けた。短期間でも一生懸命練習した曲は
指が覚えているんだろう。昨年末に貰った「チキリンデバチン」という曲の楽譜も取り出して練習を始めた。へんてこな
タイトルだが曲は美しい。「アルフォンシーナと海」もそうだけれど中南米の曲には不思議な哀愁がある。あんなに
陽気な人たちなのに、そのDNAの奥には悲しみが宿っている。
それから合奏曲の練習。母の容態を考えれば、2月6日のA合奏団の定期演奏会に必ず出演できるとは言えない。
トップギタリストの欠場が決まっている中、私なんかでも居なくなれば皆に迷惑をかけてしまう。心配しないで…って
言ってくれているメンバーの人たち。一緒にステージで弾きたい。きっと出られる。
その頃、母の意識が戻ってくれていたら嬉しい。

土曜日は原宿でスペイン語の勉強会。昨日は家での勉強会、昨日は新年会も兼ねていた。自分が主催している会だから
心が沈んでいても休めなかった。休まなくて良かった。気の置けない人たちと一緒に勉強したりコーヒーを飲んで
お喋りをしたり、ささやかな宴会をしたりすることが、どんなに励みになるか改めて気付かされた。

私はずっと胸のつぶれるような思いをすることなく生きてきた。これからは違う。そういう年齢になった。
でも私には、やりたいことがある、好きなことがある、一人ぼっちではない…。だから歩き続ける。

さて、これから母のお見舞い。


七草粥

2011-01-07 09:48:16 | 家・家族
珍しく七草粥を作ってみた。丁寧に昆布と鰹節で出しをとり、ご飯を入れてコトコトと煮る。
食べやすい大きさに切って茹でておいた七草を、お粥に混ぜ込むだけ。あとは塩と少しのお醤油で
味を調える。「せり、なずな、すずな、すずしろ、ほとけのざ…」全部の名前は出て来ない。
母のことを思いながら作った。

1月4日、一緒に暮らしている弟の家で、母は倒れた。
ちょうど駅ビルのあたりを歩いているとき携帯に連絡が入ったから、何も考えずに電車に飛び乗った。
病院のある駅は遠く、着いたときは暗くなっていた。タクシーに乗って病院の名前を告げる。
駅前のターミナルを出ると、ひっそりとした暗闇。人家もまばらな土地。向こうに白い病院が見えた。

母は集中治療室の奥で眠っていた。
1月1日に電話で話をしたばかりだ。弟の息子たちは成長し、弟夫婦も何かと忙しく、一日一人で家に
居ることが多くなった、寂しい…と言っていた。
今年はお習字を再開しようかな。そうだよ、お母さん、上手なんだから、また始めなよ。
暖かくなったら行くからね。
母は酸素マスクをして、少し苦しそうな息をして眠っていた。一時間そばにいた。
もう面会時間が終わりですと言われるまで。母の腕はしっとりとして温かだった。

翌日行くと昨日より少し楽そうに眠っていた。呼びかけたら目を開けた。
何だか不思議そうな童女のような目をして私を見た。何回も目を開けた。でも意識は無い。意識が無くても
私を見ていたね。

ずっと苦労をしてきたのだから、しばらく眠っていていいよ。ゆっくり休んだら目覚めて。
きっと、そのとき言うだろうな。「早く帰って家を片付けなくちゃ」って。苦労性なんだから。

明日は娘たちが行くよ。泣き虫の三女は泣いちゃうかもしれない。長女も次女も話したいことがあるらしい。
きっと聞こえるよね。

無病息災を祈って、昔の人は七草粥を作ったそうだ。ときどき頭の中が涙でいっぱいになる。

病み上がりの夢

2010-02-08 08:38:12 | 家・家族
金曜日の午後から体調が悪くなった。何回も何回も悪寒が走って熱が出てきた。
土曜日のスペイン語クラスの予習をしなくてはならないのに体中の筋肉が痛くて身動きするのも辛い。
引き出しを探したら一年前に医者から貰った薬が出てきた。PLという白い顆粒で、風邪薬の定番だと思う。
PLを飲んでも熱が下がらなかったので、3時間あけて解熱鎮痛剤を飲む。3時間したら今度はPL…。
一晩うなりながらこれを繰り返したら土曜日の朝には症状が治まっていた。大慌てでスペイン語の予習。
あたふたと原宿へ。ウンザリするほど寒い日だった。それでもクラスで皆の顔を見ると力が湧いてくる。
「演奏会はどうでした?」「楽しかったですよ。」「ピュさんが間違えたとこ見てましたよ。」(む!)
「来年も行きます。」…定演の話題も嬉しい。
帰宅すると胃がムカムカした。薬の飲み過ぎだろう。無性にアイスクリームが食べたくなって娘に
「爽」を買ってきてもらう。濃厚過ぎないミルク味が美味しかったが、一箱食べきったら体温が下がり
ブルブル震えはじめた。ストーブをつけて布団にもぐりこむ。

変な夢を見た。

私は牧歌的な風景の中を歩いている。どこまでも広い畑が続いているかと思うと、緑の丘に続く細道もある。
テントを張って酒盛りをしている人たちがいる。例によって道に迷い戸惑っているうちに辺りは暗くなる。
夜の高層ビルは怖いが、夜の田園も怖い。それでもやっと家に辿り着いた。
今住んでいる家ではなく、だだっ広い平屋で(奥沢で暮らしていた頃の家に似ている)誰もいない。
ひっそりとした家の中で雨戸を閉めていると、いきなり赤ちゃんの泣き声がする。
そうだ、赤ちゃんがいたんだった…。何故か納得して隣の隣の部屋に行く。そこには赤ちゃんがいて、
私は彼女を抱きしめた。

舞台は今住んでいる家のダイニングに変わる。夫も娘たちもいる。不意にドアが開いて、よちよち歩きの
女の子が入って来る。娘たちの赤ちゃん時代の顔をミックスしたみたいな顔をしている。
長女と次女が着ていた濃いピンク色のベビー服姿で、手には何か長細い物を持っている。
『ここに赤ちゃんがいるわけがない、これは幻だ』と思い、夫に聞いてみる。「あの子が見える?」。
夫は上ずった声で「見える」と答え、娘たちも見て見ぬふりをしている様子だった。赤ちゃんはまるで、
なじみの幽霊みたいに、あたりをよちよち歩き続けていた。

病気の時とか病み上がりの時って不思議な夢を見る。
何でこんな夢を見たのかなあ…と思う。

結婚してすぐは新丸子という土地に住んでいた。スペイン語の先生は「Sin marco!?」と笑っていた。
『額縁無し』という意味だ。
子供が出来て田園都市線の藤が丘という所に引っ越した。小奇麗なアパートは、手すりのない急な階段を
15段くらい上ったところに建っていた。「どうして妊婦がこんなところに引っ越したの?」と
実家の母にはさんざん叱られたが、階段から転げ落ちることもなく無事に出産した。
出産のときは奥沢の実家に帰った。
藤が丘のアパートの名は<ヒルトップハウス>だった。階段の上り下りは大変だったが、部屋の前には
庭もあり、見晴らしも良かった。
アパートには赤ちゃんや小さな子供のいる家庭が多かったから、昼間は皆で庭に出て子供を遊ばせたり
お喋りしたりした。庭に花や野菜も植えた。あの日々、空はいつも晴れていた。雨の日を覚えていない。
平和な一日が過ぎて夜が来ると外は真っ暗になった。誰が入って来るか分からないから、庭に面した窓を
開けておくのは怖かった。クーラーも無かったが、真夏でも窓を閉めカーテンをかけた。
夫の帰宅が待ち遠しかった。夫が帰って来ると窓を開け、風を入れた。

夢は不思議だ。心や記憶の奥底から眠りのトンネルを通って吹き上げて来る。
忘れかけていた時代を思い出させてくれる。


ほどほど

2010-01-14 09:37:55 | 家・家族
これまでの人生を振り返って、自分が最も苦しかったのはいつだったかなあ…と考えると、
子育て初期の頃だったような気がする。
私には3人の娘がいるが、3人とも本当に優しくて純粋で素朴な子供だった。
誰かをいじめるとか上に立つとか、そういう傾向は皆無で、ゆっくり穏やかに成長していた。
彼女たちを育てるのは楽しかった。
だが近所の子や幼稚園の友達との付き合いが始まったあたりから苦しくなりだした。
長女は女の子たちの「ごっこ遊び」の中で、いつも赤ちゃんかペットの役だった。
小学生になると毎朝、気の強い女の子が迎えに来て、引きずられるように登校した。
次女は小学校低学年の頃に短期間だったが仲間外れになり、休み時間、一人ぼっちで
図工室で工作をしていた。あのとき彼女が作ったお盆のことは、このブログを始めた頃に
書いた。書かずにはいられなかった。
三女は幼稚園時代、二人のワガママ娘の板挟みになっていた。どちらの子といるときも
辛そうだった。
もちろん私も辛かった。我が子に良かれと思い、自分とは全然違うタイプのママたちとも
一生懸命お付き合いした。気の強い意地悪な女の子たちが悪魔に見えた。

何年か後、長女を毎朝迎えに来た気の強い女の子のお母さんから言われた。
「あの頃はごめんね。ウチの子はお宅の○○ちゃんのことが大好きでね。好かれてないのが
分かっていたから、余計しつこくしたみたい。」…、そうだったのか。
今なら分かる。
あの女の子たちは自我の目覚めが早く、何かが出来るようになるのが早かった。
ウチの娘たちは遅かった。それだけのことなのだ。
でも娘たちは一時期であったにせよ辛かったろうし、私も苦しかった。娘たちの優しさ弱さが
ふがいなくて腹を立てたことが何度もあった。
「あの頃のお母さんは怖かった。」…、飲むと時どき娘たちに言われる。
いろいろな事があったが、娘たちはそれぞれたくましく育って、今は家族で飲みに
行ったりもするし、彼氏を連れて来て食事会もする。
よくここまで来たな…と思う。いつも穏やかな夫にも感謝している。

で、そういう子育て経験を踏まえて自分が人間的に成熟したかというと、そうでもない。
そうでもないが、独身時代は気の合った人としか付き合わなかった私が、子供を介して
多くの人と同調・協力しようと努力したのは何かの役に立っているはずだ。

人のことを大切にしよう、何事にも誠実に当たろうとは思っている。
それも時には難しい。好きな人たちとのお付き合いを大切にしているうちに飲みすぎたり
食べすぎたりするし(そこですか?)、誠実に物事に当たろうとしているうちに、
余計なことまで発言したり、目立ってしまったりするウザい自分がいる。

とはいえ今日から来週まで仲の良い友人たちとの昼食会3回、A合奏団では定演担当係だし、
このまま行くしかない。

でも、それが終わったら今年のテーマは「ほどほど」にしようかな。
それが出来ないのが私でもある。幸か不幸か。

「さようなら」の夏

2009-08-21 02:25:03 | 家・家族
房総の小旅行から帰って来た夜、3つのメッセージがあった。
最初のメッセージのことは、まだ書いていなかった。

三女のボーイフレンドTくんのお父さんが亡くなった。
夏を乗り切ることは出来ないだろうと聞いていた。
50歳になるかならないかの年齢だと思う。面識は無い。
まだ三女が小学生だった頃、その人はテイクアウトの小さなお寿司屋さんを開いていた。
たまたま買いに行ったら、何度かPTA活動で顔を合わせたことのあるTくんのお母さんが
働いていた。お父さんは後ろで黙々とお寿司を握っていた。幸せそうに見えたが、
間もなくお母さんが家を出たと噂が流れた。
中学校の制服の採寸の日、Tくんはお父さんと来ていた。他の子供たちは母親と一緒
だったから父子連れは目立ったが、仲が良さそうだった。
お父さんが病気がちで働けずにいる…と聞いたのは、それから数年後だった。
Tくんは家庭的にも経済的にも大変な状況の中、高校を卒業して寿司職人への道を
歩み始めた。その矢先の別れだった。

三女と2人でお葬式に行こうと思っていたが、式は無く、ひっそりと荼毘に伏すらしい。

一昨夜、Tくんが訪ねて来て、三女と長いこと話をしていた。最後には少し笑い声も
聞こえたからホッとしたが、「辛そうだったよ」と娘がポツリと言った。

その人はどんな人生を送り、どんな思いで短い生涯を終えたのだろうか。
やっと社会に巣立った息子に安心して旅立ったのだろうか。そうではないだろう。
まだまだ息子を守りたかったと思う。無念さを思うと涙が出そうになる。

私たちの人生は楽しいことばかりではないけれど、生きて家族がいれば他に何を望むだろう。

今日も蒸し暑かった。久しぶりにギターの練習をしていたら汗まみれになった。
それでも夕暮れ時になると、窓から心地よい風が吹き込んできた。静かな夕暮れだった。

さようなら。。。ご冥福を祈ります。

三連休のあとの静かな午後

2009-07-21 15:38:22 | 家・家族
少し雨が降った。
三連休を終えて仕事に戻った人たちには憂鬱な雨だったかもしれないけれど
家で連休中に溜まった雑用を片付けている私には心が休まる静かな雨だった。

久しぶりにテニス肘にお灸をした。先週は忙しくてギターが弾けなかったので、
日曜日の<いきなり合奏練習>がこたえたのだろう。
腱鞘炎でお休みだったジェントルマンが久しぶりに姿を見せた。「痛くて弾けない。」と
こぼしながらも笑顔だった。
合奏は皆で作るものだから、皆も私も病気や故障が無く続けて行けたらいい。

土曜日はスペイン語クラス。帰りは原宿のお洒落なカフェテリアで休憩した。天井が高くて
中庭もある。中庭には南国風のパラソルが幾本も立っていて、その下で寛ぐ若い人もいた。
表参道の若者たちはみんな美しく見える。私も華やかな気持ちになって歩く。鏡は見ない。
メンバーの女性が最近クロアチアに旅行して、そのお話をしてくれた。
クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア…。バルカン半島というと、
私はテオ・アンゲロプロス監督の映画を思い出す。「国境」がある故の紛争、苦しみ。。。
でも今、クロアチアとその周辺の国は世界中の旅行者を癒す美しい観光の土地に
なっているらしい。お話を聞きながら何だかホッとして、未知の国の風景を思い描いた。

昨日は7月生まれの長女と三女の合同誕生会。久しぶりに料理の腕をふるった…って
言うほどの腕もないけれど。
長女と次女の彼氏たちも来て賑やかになった。「彼ら」は私にとっては他人の男の子たちだが
最近は違和感が全くない。夫も妙に寛いでいる。7人で、飲んだり食べたりテレビを
見て笑ったり。いずれは本当の家族になるのだろうか。先のことは分からないけれど、
こんな風に自然に物事が進行していくのは私の流儀にかなっている。

三女には、まだ彼氏がいない。ボーイフレンドのTくんは寿司職人になるために、
少し離れた街で一人暮らしをしている。最近、三女が浮かない顔をしているのは、
Tくんのお父さんの病気がおもわしくないからだった。年齢は、まだ50歳そこそこだと思う。
お母さんはTくんが小学生の時に家を出てしまったから、Tくんにとってお父さんの存在は
どんなに大切だろう。大変な子供時代を過ごし、今、お父さんを失おうとしているT君の
ことを思うと胸が痛くなる。三女はもちろん私以上に心を痛めている。
でも、どうしてあげることもできない。

三連休が終わって、私の心にはいろいろな思いがある。
人とかかわって生きているからこその嬉しさや癒しや悲しさが。

父の日のお祝いの、思わぬ展開

2009-07-07 08:40:49 | 家・家族
昨夜は遅ればせながら「父の日を祝う会」が開かれた。なかなか家族5人が揃う夜が無く、
こんなに遅くなってしまった。会場は近所の居酒屋。次女の彼氏も来て賑やかになった。

家族が集まって飲むと必ず思い出話になる。
長女が小学校一年の時、ある女の子のジャンパーが無くなった。「誰が隠したの?
正直に言ってくれないと先生はつらい…。」と悲しげに担任の先生に言われ、
お人好しの長女は名乗り出てしまった。やってもいないのに名乗りを上げた女の子が
長女のほかにも3人いた。「どこに隠したの?」と聞かれたって隠していないのだから
返事ができない。仕方なく当てずっぽうに花壇を指さし、土を掘り返す大騒動になった。
あの時、お父さんとお母さんは菓子折を持って先方のお宅に謝りに行ったよね。
ジャンパーは後日どこからか戻ってきた。
本当はやっていなかった、と長女から告白されたのは彼女が中学生の時だった。
先生を悲しませたくないと小さな心を痛めてのことだったらしい。
次女がアンパンマンの衣装で商店街を練り歩いた話。骨折した時は、夫が毎日
教室までおぶって行った。
三女が小学生の頃の我が家には、男の子たちが入り浸っていた。私が仕事を終えて
帰るとキッチンにまで男の子たちがいてカードの交換をしていた。
今までに何度も語られた話なのに、皆、初めてみたいに笑ったりしんみりしたりする。
最近は次女の彼氏の思い出話も加わって楽しい。

隣の席で若い女の子が二人、お喋りをしていた。2歳になるやならずの小さな子供を
連れていた。茶髪の若いママは一人で働きながら子供を育てていると言っていた。

カラオケや居酒屋に赤ちゃんを連れてくる若い親のことが時おり問題になる。
眉をひそめる人も多いが、私はたまには良いんじゃないかなと思う。
私も子育て時代は実家の母に来てもらって羽を伸ばしたことが何度もある。
スペイン映画祭、コンサート、友達との語らい…。子供たちのことを気に掛けながらも
自分の世界に遊べたことが今につながっている。
実家に助けてもらうことが出来れば良いが、誰にも助けてもらえずストレスを抱え込む
若い親たちが沢山いる。そのストレスが不幸を呼ぶこともある。

隣の席の若いママは人懐っこくて、私たちにいろいろ話してくれた。まだ20歳を
少し過ぎたばかりなのに大変な人生を走り続けてきたらしい。
こうして友達と居酒屋で過ごす時間がストレス解消になるのだろう。
途中で赤ちゃんがぐずり始めた。泣きながら、食べた物を戻してしまった。ママは
それでも帰ろうとしない。何か複雑な事情があるみたいだった。
「もう帰りなさい」と言えなかった。子供と自分を大切にしてほしいと思いながら
居酒屋を出た。

世の中には良い大学を出て好ましい結婚をし、親の援助を受けながら子育てと
仕事を両立させている幸せなカップルもいるが
何かがちょっとズレてしまったばっかりに、きりきり舞いをするような苦労をして
子供を育てている若い人たちもいる。
ギリギリのところで生きている彼らと彼らの子育てを、支援してあげられる体制が
~心のある体制が~整っていれば良いと思う。

思わぬ展開に「父の日」の主役は茫然としていた。言いたいこともあったようだけれど
黙って聞いていた。
帰宅してから娘たちが言った。私たちは幸せなんだな。お父さん、ありがとう。

土曜日の夜は心地よく疲れている

2009-04-05 01:35:50 | 家・家族
月に2回、土曜日はスペイン語のクラスに行く。1時から3時までと、3時から5時までの
2クラス。どちらのクラスでもスペインの小説を原書で読んでいる。
スペイン語は殆ど日本で独学したものなので、小説の読解は難しい。
でも文法の約束事を当てはめながら、少しずつ糸をほぐすようにして訳していくのは
楽しい作業でもある。こんな地味な勉強を一緒に続けてくれる仲間が20人くらいいる。
「あ、そうか。なるほど。」と言ってもらえる時が嬉しい。理解不能だった文が、
皆と考えているうちにスルスルと解けるのも嬉しい。どちらのクラスも楽しい。
4時間の勉強のあと帰宅すると心地よく疲れている。

スペイン語クラスの無い土曜日は、ぶっとびフラメンコギター合奏団の練習が月に一回ある。
クラスとかち合ってしまう場合もあるが、このところは3回に2回くらいは参加している。
沢山の課題曲をガンガン弾きまくって帰宅すると、やはり心地よく疲れている。

その他の土曜日もコンサートやライブがあったりして家にいることは滅多にない。
だから土曜日の夜は、いつも心地よく疲れている。

夜更けになるとパソコンを開けてメールを読んだり、友人のブログやmixi日記を
訪問したりする。そんなにたくさん訪問するところがある訳ではないが、それぞれ
個性的な世界が展開していて知的に情的に刺激を受ける。

ぶっとびフラメンコ合奏団のメンバーのお一人が指を骨折してしまった。
練習熱心な人なので気落ちしている様子。皆が励ましている。(メールは全員に
届くようになっている)
真面目な励ましもあれば、ちょっと冗談めかしたのもあるが、どれも心がこもっている。
彼らは友達なんだなあ…。そういう感じ、好きだ。私も隅っこで仲間入りしている。

パソコンを眺めながら娘たちのお喋りを聞いたりする。
長女には行きつけの居酒屋がある。仕事でメゲた時その店に寄って寛ぐらしい。
この前、初めて連れて行ってもらった。ご夫婦でやっている小さな居酒屋さん。
お客は常連さんばかりで、さっぱりとした気性のママを中心に話が弾んでいる。
マスターは物静かだが楽しげに会話に加わる。50歳から60歳代の人たちばかり。
長女だけが飛びぬけて若い。皆が可愛がってくれるのが嬉しいのか、居酒屋の常連さん
という立場を楽しんでいるのか。酔っ払った大人たちの世界だから危ない?ことも
あるだろうけれど、ママとマスターが守ってくれているので安心して飲んでいる。
頑張って働いているのだから、こんな居場所を持つのも良いかもしれない。
私もこの居酒屋さんが気に入ったが、娘のシマを荒らすのはやめておこう。

三女は大学生になった。オリエンテーションで友達もできたらしい。前髪を作って
少しお洒落になった。

次女はパソコンの立ち上げを請け負う会社に勤めている。勉強嫌いだった彼女が、
一生懸命仕事を覚えて一人前になっていく姿は頼もしい。

そんなこんなの家族の中で、私の心地よい土曜日は日曜日に移行して行く。。。

写真は勉強会場のある原宿。代々木公園でお花見を楽しむ人たちで、いつにも増して
ごったがえしていた。
原宿駅は可愛い建物だ。老朽化が進んでいるようにも見える。
いつまでもこの姿をとどめていてほしい。


私の小さな災難

2009-02-19 01:54:34 | 家・家族
昨年は1月から花粉症の症状に悩まされたが、今年は何事も無かった。5日前までは。  
そしてまたクシャミと涙目の日々。あ~あ、やっぱり今年も来たか…と思いながら
野菜を切っていて指先を切った。かなり深手。あとからあとから血が溢れ出て、
でも何だか他人事のように見ていた。
テニス肘に加えてこれでは当分ギターなど弾けないだろう。その前に日常生活…どうなる。
こんな時、やはり長女は頼りになる。めずらしく早く帰ってきて夕食を作ってくれた。
血圧が急上昇した時も、たまたま家にいて病院に付き添ってくれたっけ。
夕食後、気落ちして横になっていると三女も体調が悪いと言い出した。
2人でグッタリしているうちに、いつの間にかウトウトしていた。
不意に笑い声で目覚めた。さっきまで生気のない顔をしていた三女だ。
携帯で話している声は妙に弾んでいる。ははあ、なるほど。
冬休みのバイト先で知り合った人に、昨日、遅ればせながらチョコレートを贈り、
そのお礼の電話がかかってきたらしい。
10歳近く年上の男性だから、お兄さんみたいな感じなのかな。
いや、年上好みは母親似かも。やばい。
電話を終えた後も大はしゃぎは続いた。
「あのう、お母さんは、指がこんなでメゲてるんですけど。10日後には
ギター合奏団でイベントに出演するのに…(泣)。」
「え?コンサートあるの?でも彼は仕事だろうな。」
なーに言ってんだか。。。
(ウチの娘たちは私のギターイベントには彼氏を連れてくるしきたりになっている)

せっかく固まった血が、バンドエイドを取り替えるときに、また噴き出してきた。
でも今は、それほど不幸な気持ちではない。右手だけでキーを叩いている。
私はこのところ、心も身体も小さめな災難に見舞われることが多い。
その都度、家族のありがたみを知る。励ましてくれたり助けてくれる人もいる。
嬉しいお誘いやイベントもある。
私の小さな災難は、自分の周りにそういう小さな幸せがあることを思い出させてくれる。


娘たちの彼氏たち

2009-01-30 02:43:19 | 家・家族
三女には小学校の低学年時代からTくんというボーイフレンドがいる。
Tくんは、ずっと三女のことが好きで何度か交際を申し込んできたらしいが、
2人は友達のまま10年が過ぎた。
Tくんは高校を卒業すると、寿司職人の修行をするために住み慣れた町を離れる。
先日、久しぶりにTくんとデート?した三女は、真剣な顔つきで帰ってきた。
「あいつ、苦労してるよなあ。」
聞けば、ここ数年病気がちだったTくんのお父さんは今、入院中。仕事も出来なく
なっているという。Tくんのお兄さんはニートのような状態で頼りにならないらしい。
お母さんは彼が小学生の頃、家を飛び出してしまった。
小柄でクリクリ頭だったTくんは、沢山の苦労を背負ってここまで生きてきたのだった。
「私、これからもTの友達として励ましていくよ。」…娘が何だか大人びて見えた。
2人で撮ったプリクラを見せてもらった。Tくんは背が伸び眼鏡をかけてハンサムに
なっていた。写真には【友情】とか【ずっと友達】とか書き込みされていて、
そんなに【友達】を強調しなくても…と、私は少し笑ってしまった。
2人はこれから異なった青春を生きることになる。温かく見守ってあげたい。

長女の彼氏、Mくんにはお父さんがいない。もうずいぶん前に家を出て別の女性と
暮らしているという。Mくんはお母さんを支え、マンションの家賃を払い、
家の借金を完済した。
Mくんの唯一の楽しみはファッションに凝ることだった。
初めて家に遊びに来た時のMくんは、ぴっちりとしたズボンに、胸をはだけたシャツ。
その胸には派手なネックレス、派手な金属はズボンのベルトにも付いていた。
口下手でちゃんと挨拶も出来ない。夫はガッカリしたようだった。私も少し…。
でもMくんの素朴な人柄は、仕事で苦労している長女を癒している。
夫も私も、もう、そのことに気が付いている。

次女の彼氏Yくんは幸せな家庭に育った。2度ほどお母さんと電話で話をしたが、
温かで誠実な人柄が伝わってきた。YくんはIT関係の仕事で真面目に働いている。
次女も感化されたのだろう、ずっとフリーターだったが昨年同じ業種の会社に就職した。
高校時代から波乱万丈の青春を送っていた次女が、落ち着いている様子を見ると
ホッとする。良い出会いをしたのだと思う。

娘たちはまだ若い。今のボーイフレンドや彼氏と付き合い続けるのか、別の道を行くのか
誰にも分からない。
でも、遠い将来か近い将来、私のところには私を「おかあさん」と呼ぶ男の子たちが
来るのだ。その彼たちは、私の孫になる子供たちの父親になる。
そんな風に考えると、自分の人生の先にポッと明かりが点るような気持ちになる。


ちいさなあなたへ~Someday~

2008-11-28 01:48:20 | 家・家族
三女との会話。
お母さん、最近、顔がカサカサなんだ。じゃ、お母さんのクリーム使ってみたら。
翌日。お母さん、あのクリーム使ったら、顔がスベスベになったよ。
若いんだなあ、お母さんなんて毎日使っているのにスベスベにもプリプリにも
ならないなあ。。。

高校三年の三女は指定校推薦で大学が決まった。
長女と次女は中学受験で私立の女子校に入ったが、三女は区立中学、都立高校を経て
来年は大学生になる。親が干渉しなかった分、自分でナントカしなくちゃと
進学相談室に日参し、好きな学科のある大学を見つけた。
年末のアルバイト先も決まり、年が明ければ吹奏楽部の卒業記念コンサートに向け
忙しくなるだろう。おめでとう、残り少ない高校生活を楽しんでね。

昨日は久しぶりに友人とショッピングを楽しんだ。
土曜日の従妹の結婚式に付けるアクセサリーを探しに。綺麗なものを見るのは大好き。
大きな書店の前を通ったとき、UGさんが推薦してくれた絵本のことを思い出した。
題名は確か『ちいさなあなたへ』だった。
本はすぐに見つかった。『ちいさなおうち』『ぐりとぐら』『はらぺこあおむし』…、
昔からの名作絵本に囲まれて、その水色の本はあった。

家に帰って本を開いた。2ページ目で、もう涙。
   はじめて ゆきが ふったひ、そらへ むけて だきあげた あなたの 
   まあるい ほっぺのうえで、ゆきがとけていった。
生まれてきた可愛い女の子は成長し、喜びも悲しみも経験し、わたし(母)のもとから
旅立って行く。あなた(娘)もあなたの子供を育てるようになり、いつか銀色に輝く
髪になる。そのときには、わたしはもうこの世にはいないけれど、
   どうか わたしのことを おもいだして。


次女が生まれたとき、長女は2歳だった。次女を乳母車に乗せ散歩や買い物に行く時、
長女は乳母車の持ち手をしっかり握り締め一生懸命な顔で歩いていた。
三女が生まれて家は賑やかになった。笑い声やお喋りの声や泣き声が
家中に響いていた。
三女が小学生になって私は仕事を始めた。
夕方帰宅すると3人はダイニングテーブルを囲んで楽しげにお絵かきをしていた。
だんだん3人揃って家にいることがなくなった。三女が一人で本を読みながら
私の帰りを待っていることもあった。その三女が塾に通うようになると、
誰も「おかえりなさい」と言ってくれなくなった。

長女は私の期待を一身に受けてプレッシャーを感じて育ったかもしれない。
あんなに上手だったピアノを捨てたのは私への反抗だったのかもしれない。でも
今、彼女は、とても家族思いだ。夫と私が喧嘩すると(たまに)、いちばん気にしてくれる。
お母さん、飲もうよ。ね?聞いてる?。よく語りかけてくれる。
次女はずっとフリーターだったが、今年、正社員として働きたいと言い出した。
就職活動を始めた彼女の履歴書を見て涙が出た。高校中退。。。
自己PRの欄はぎっしり埋まっていた。コンビニで商品のレイアウトを考えて
店長に褒められた、お客様とのふれあいを大切にした…。
ある会社で何回も何回も面接を重ね、夏に就職が決まった。毎日、元気に働いている。
三女が大学生になれば、家は今よりもっと静かになるだろう。

築20年を超えるこの家は、だいぶガタついてきた。
あと数年したらギシギシいう廊下の上を孫たちがにぎやかに駆け回っているかもしれない。
そんな日が来たら、私はまたお菓子作りを始めよう。


嬉しいニュース

2008-09-26 09:13:13 | 家・家族
昨夜は日比谷の『クリエ』という劇場にラブ・コメディーを観に行った。『青猫物語』。
新劇青年と可愛い娼婦のレトロな恋の物語。笑いだけじゃない。軍国主義の暗い足音も、
屈しないぞという意気込みもちゃんと織り込んである。演劇は大好き。
笑いあり、涙あり、考えさせられるところあり…。最後はきちっと感動をくれる。
脚本、上手いよなあ。役者さんたち、芸達者だよなあ。カーテンコールも大好き。
笑顔で挨拶する役者さんたちを見ながら、一つ一つの場面を思い出す。
彼らの達成感と観客の満足感が一体になる。
でも演劇は高い。昨夜の席だって8500円だ。
…実は劇場関係の仕事をしている友人から招待券を貰った。
こういう思わぬプレゼントが平凡な人生を彩ってくれる。ありがとう。


帰宅したら高校三年の末娘がニコニコしていた。
「Tの就職先が決まったよ。お寿司屋さんになるんだって。」
「メールがあったの?」「うん。」
Tくんは小学校低学年の頃からウチの娘のことが好きだった。
マルコメくんみたいな可愛い坊主頭の頃から…。
ちっちゃくて喧嘩っ早い男の子だった。
小学校6年の連合運動会を見に行った時のこと。Tくんは自分よりはるかに身体の
大きな子に喧嘩を売っている最中だったが、娘が徒競走に出てきたとたん
グラウンドに向き直り「○○さん、頑張って!」。
中学生になっても喧嘩っ早いのは治らず、友達に怪我をさせたりもしたが
無事、卒業の日を迎えた。夫は「T、頑張れよ!」と声をかけていた。
ずいぶん背が伸びハンサムになっていた。
Tくんの家庭は大変だった。小学生の頃は、お父さんとお母さんが小さなお寿司屋さんで
仲良く働いていたが、いつの間にかお店は無くなり、お母さんが家を飛び出したと聞いた。
中学の制服注文の日は、お父さんと来ていた。
中学を卒業した時、娘は交際を申し込まれたが、友達でいようと断ったらしい。
Tくんはそれからも時々遊びに来た。
娘の誕生日には小さなプレゼントを持って来たりもしていたが、昨年ついに彼女が出来た。
「あいつ、彼女が出来たとたん、メールもくれないんだよ。」と娘は不服そうだったが、
それは仕方ないでしょ。

Tくん、お母さんがいなくて、高校のお弁当はどうしているんだろう。
お父さんが入院したこともあった。よく頑張ったね。
お父さんに負けない寿司職人になってね。


人生は山あり谷あり、蟹ありホタテあり

2008-09-06 07:51:45 | 家・家族
自慢じゃないが(全然自慢じゃない)、かつて私は教育ママだった。
長女と次女はなかなか成績の良い小学生だったし、地元の中学校は当時あまり
評判が良くなかったから、これはもうお決まりの中学受験しかなかった。
かくして競争には向いていない奥手マイペースの娘たちは、いやいやながら
○能研やら○○大塚やらに送り込まれ、私もテキストに首っ引きの毎日となった。
小学生は方程式が使えないので、算数は回りくどい計算方式を勉強しなければ
ならなかった。四字熟語、県庁所在地…。
長女は伝統あるお嬢様学校に進学。次女は英語教育に優れた新設校に入った。
だが、そこまでだった。力を使い果たしてしまったのか、私への反発だったのか
その後二人とも勉強を好きにならなかった。
環境の良い中高一貫教育で、ゆったり過ごす?とんでもない。先取りで勉強勉強。
長女は高校生になって好きな科目ができたことから持ち直したが、
次女は高校を中退した。彼女は通信高校というのに再入学し、少人数の入学式と卒業式の
どちらにも私は行かなかった。
夫が会社の休みを取って、どちらにも出席した。私は幸せでない教育ママだった。

あるとき夫が言った。「子供達の勉強の事では、ガッカリしたろうね。」
それがねぎらいの言葉だと気付くまで時間がかかった。肩の力が抜けた。
遅ればせながら思った。子供たちには何も言うまい。『勉強しろ』と言いたくなったら
私が勉強しよう。『趣味に打ち込め』と言いたくなったら、私が趣味に打ち込もう。
三女は、自分の行きたい高校に進学しノビノビと部活に励んでいる。
長女と次女には可哀想なことをした。。。
だが成績という色眼鏡を外したら、長女も次女も明るく心優しく育っていたことに気付いた。
それが大きな救いだった。
子供には、それぞれの『時期』があるのだろう。
親が決める『時期』と子供の『時期』が上手く合えば良い結果となる。
上手く行かない場合もある。

先日、次女の彼氏の実家(北海道)から、大量の蟹とホタテとイクラが送られてきた。
不器用な私だがキッチンバサミを武器に蟹と大格闘して、生まれて初めて蟹の姿盛を
完成させた。他に献立は、蟹のクリームパスタ、蟹肉のトマトソース和え、海鮮鍋、
蟹の殻でダシをとった蟹足入り味噌汁、ホタテの炊き込みご飯、青椒肉絲風炒め物etc. 
次女の彼氏と長女の彼氏も招待し、豪華な晩餐となった。
その日は私たち夫婦の結婚記念日でもあった。

テキストと格闘した私よりも、蟹と格闘した私の方が、何十倍もチャーミングだ。
でも過去を否定したくない。全ては連鎖して今日を迎えているんだと思う。


身長180cm体重80キロを超える、もう一人の息子

2008-08-17 07:29:55 | 家・家族
お盆休みは、もうすぐ19歳の甥~弟の次男~が遊びに来ていた。
弟のところには男の子が2人いる。
大学4年の長男は、子供の頃から野球少年。高校3年の夏まで野球に燃え、その後は
大学受験にまっしぐら。大学生になってからはラグビーに明け暮れ、就職も良いところに
決まった。我が家に遊びに来たのは子供時代に2~3回くらいのものだろう。
一方、次男はマイペースな癒し系で、大学進学はせず地元の製菓工場に就職した。
小さい頃からよくウチに遊びに来た。やせっぽちの小さな男の子は、私の母に連れられ、
リュックを背負って年に2~3回泊まりに来た。
母が膝を痛めてからは、越谷の先から2時間かけて一人で来るようになった。
だんだん身体が大きくなり、身長180cmを超え体重80キロを超えてもなお、
リュックを背負って遊びに来る。
ウチは3人姉妹。何が面白くて遊びに来るのか良く分からない。
もしかしたら何でもバリバリこなす兄貴と比較されることに少し疲れて
女の子ばかりの我が家が居心地良いのかもしれないが、深く考えないことにしよう。
今夏は、就職した会社で作っているというチョコレートを保冷剤にくるんで
山ほど持ってきた。工場の仕事は大変らしい。さすがの巨漢も6キロ痩せて
男前が上がっていた。2泊して昨日、帰っていった。
「免許が取れたら、お祖母ちゃん(私の母)を乗せて連れて来ます。」…。
人の良さそうな笑顔を次に見るのはいつだろう。