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私の毎日と心に浮かんだこと

凄腕さんたちとギター、そして第六回カディスの赤い星コンサート

2014-05-20 00:46:04 | フラメンコ
土曜日は久しぶりに千葉のフラメンコギターサークルの例会へ。
毎月参加したいのだけれど、スペイン語クラスの担当日と重なってしまうのが残念だ。
新しいメンバーや見学者も加わって、これまでで最高の10名になった。
高級外車に高価なギターを積んで集まってくるリッチで凄腕の方々だが、ギターにかける情熱は少年みたい。

練習曲目選定委員さんの工夫で、練習内容も充実している。
今回は、昨年他界されたフラメンコギタリストの松坂美樹先生編曲の<グアヒーラ3重奏>を採用していただいた。
<グアヒーラ>は、キューバで働いていたスペイン人労働者たちがスペインに持ち帰り、フラメンコのレパートリーとなった曲。
南国のゆったりとした雰囲気と、どことない哀愁が魅力的だ。
松坂先生の雑然としたスタジオで、フラメンコギターの初歩を習ったのは7~8年前になる。
先生のシンプルで明るい<グアヒーラ>が、5月の爽やかな午後によみがえって嬉しかった。

今月から、一人ひとりが「主役」になって演奏する時間が設けられ、私もへなちょこ独奏をした。すぐに忠告が飛んできた。
ラスゲアードがぐしゃぐしゃしている...。一本一本の指がしっかりと弦をはじかなくてはならないのに、私のは指が弦の表面を
なでているだけなのだ。で、企業秘密の練習方法を教えていただいた。

帰宅後、夕食の支度もそこそこに、お教室の合奏団の練習会へ。11月のギター合奏フェスティバルで演奏する曲はとても美しい。
ここでも指の力が足りなくて弾ききれない個所がある。隣の席の凄腕氏がアドバイスをしてくれた。

これまで、そんなに無理をしなくても弾ける合奏を楽しんできただけなので、私には基礎力というものが全く無く
最近は、いろいろな指摘を受けヘコむことが多い。この年になって無理がきくだろうか...と不安にもなる。
でも凄腕さんたちに囲まれて2重奏、3重奏、合奏、そして独奏にも挑戦できるのは幸せ。

...と気持ちも盛り上がった翌・日曜日は<カディスの赤い星コンサート>へ。
案内役の逢坂剛先生の軽妙なトークとメインギタリストの沖仁さんのギター、そして大物ゲストの演奏が楽しみなこのフラメンコ
コンサートは2008年に始まり、第六回目を迎えた。

今回のゲストはロシア出身のフラメンコギタリスト、グリーシャさん。
往年のフラメンコギタリストたちのレパートリーをバリバリ演奏するという。
独奏としてのフラメンコギター曲は、基本の形式はあるにせよ、巨匠たちが独自の世界を繰り広げるもの(ジャズのアドリブ演奏
みたいな)。それぞれの個性と超絶技巧をコピー演奏するのは神業に近いのに、グリーシャさんはなんなく弾きこなしていた。

最初の巨匠はサビーカス。私が学生だった頃、先輩たちが手本にしていた大御所のギタリストだ。
演奏された<ファルーカ>も<ソレア>も<グアヒーラ>も、いつかどこかで聴いたことがある。バッハやビートルズと同じように
いつの間にか私の心に刷り込まれていた。
当時付き合っていた人がサビーカスのコンサートに連れて行ってくれたような気がする(記憶曖昧)。
2本の弦を絡めてドラムのような音を出す奏法の曲があって、面白いと感じたことだけ覚えている。
フラメンコ界の大巨匠だということは意に介していなかった。
 サビーカス 当時はクレイジーキャッツの桜井センリにそっくりだと思っていた。今もそう思う。

続いてマノロ・サンルーカルの<サパテアード>。出だしを聴いたとたん胸がいっぱいになる。
私はやはりサンルーカルが一番好きだ。初めて訪れたスペインのバスの中、運転手さんがずっとサンルーカルのカセットテープを
かけていた。スペインの抜けるような青空と広い大地の間を走りながら聴いていたサンルーカル。今も感動は変わらない。
今回演奏の巨匠たちの中で、存命なのはサンルーカルだけ。逢坂先生、次回はサンルーカルを呼んでください!!!!
Manolo Sanlucar plays zapateado Flamenco
 マノロ・サンルーカル<サパテアード>

Grisha Goryachev plays Zapateado by Manolo Sanlucar (2012)
 グリーシャの<サパテアード>


エスクデーロの<インペトゥ~impetu 情熱~>。これもお馴染みの名曲。パコ・デ・ルシアも弾いていた熱い曲。

そしてパコ・デ・ルシアの再現。
このコンサートのテーマでもある「パコ・デ・ルシア追悼」に捧げられた演奏は、<コロンビアーナ><ファンダンゴ><ブレリアス>、
そして<アルモライマ(ブレリアス)>。
足を組み、ちょっと胸をそらした自信満々の演奏スタイルが目に浮かんだ。フラメンコ界の新風だった人は、歳月と共に古典となり、
急ぎ足で逝ってしまった。
PACO DE LUCIA: "Almoraima"
 アルモライマ


沖仁さんとの2重奏、パコ・デ・ルシアの<二筋の川~entre dos aguas>で追悼コンサートの演目は終了。息詰まる迫力の2重奏に
逢坂先生から「殴り合いみたいだったね。」と一言。

大迫力のコンサートの最後に、ご自分のギター演奏を披露する逢坂先生ってホント可愛い先生だと思う。腕は確かなのだけれど
カンテ(唄)の女性と打ち合わせ不足だったり...。とはいえ、日本のカンテはレベル高く、満足のお開き。

最後になってしまったが、沖仁さんの演奏も感動的だった。初めて沖仁さんの演奏を聴いたときはクールで現代的な印象を受けた。
今は深みも温かみも感じる。
クラシックギターを長く学んだグリーシャさんの音が美しくてクリアだったせいか、少し元気がなく聴こえてしまったのは気のせい?
でも沖仁さんのオリジナル曲は、巨匠たちの名曲のように、いずれレジェンダになるような気がする。

というところでレポート終了。
今回はスポンサーがつかなかったため、このコンサートのテレビ放映は無いそうです。行ったもの勝ち。

パコ・デ・ルシア逝く

2014-02-27 01:22:05 | フラメンコ
Muere Paco de Lucía. El famoso guitarrista de flamenco fallece a los 66 años en México.

El hombre que hizo conocer el flamenco al mundo entero se encontraba en Cancún con su familia.
Según la Cadena Ser, Paco de Lucía se comenzó a sentir mal en la playa, mientras jugaba con uno de
sus nietos, y falleció siendo trasladado a un hospital.

México era su paraíso personal desde hace muchos años.
"En México hago pesca submarina, luego me cocino lo que pesco y ya está. No quiero más.
Ahora pienso mucho en el tiempo. Por primera vez creo que tengo que darme prisa", decía en una entrevista en
Magazine cuando cumplió los 50 años.

パコ・デ・ルシア逝く。名高いフラメンコギタリストはメキシコで66歳の生涯をとじた。

世界中にフラメンコを知らしめた男は、家族と共にカンクンに滞在していた。
La Cadena Ser(スペインのラジオ放送局)によると、パコ・デ・ルシアは、孫の一人と一緒に海岸で遊んでいる時に具合が
悪くなり、病院に運ばれる途中、息を引き取った。

メキシコは、もう何年も前から彼にとって楽園であった。
「私はメキシコで潜水漁をし、その魚を自分で料理する、それで充分。それ以上は何も望まない。
今、私は時間について考える。生まれて初めて私は、急がねばならないと思っている。」
パコ・デ・ルシアは50歳になったとき、Magazineのインタビューで語った。



"Desde que conocí a Paco, siendo un niño de tres años, ha estado presente todos los días de mi vida.
Esta noticia me ha dejado roto y vacío. Me tengo que agarrar al recuerdo de esos momentos tan bonitos
compartidos con él.No tengo palabras para expresar el dolor por la pérdida de alguien tan amado por mí,
desde siempre y por siempre." (Vicente Amigo)

パコを知った3歳の頃から、彼は毎日、私の人生の中に存在していた。彼の死の知らせは、私を砕き、空っぽにした。
彼と共有した、あの素晴らしい瞬間瞬間の思い出に、私はしがみついて生きなければならない。
幼い日に始まり、この先も永遠に愛し続けて行く人を失った痛みを表現する言葉を私は持たない。(ビセンテ・アミーゴ)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

偉大なギタリストなのに、皆から親しみを込めて「パコ」と呼ばれ愛されたパコ・デ・ルシア。
今、この時間、たくさんの人たちがパコ・デ・ルシアのアルバムを聴いているだろう。ギターでパコのレパートリーを
弾いている人もいるだろう。みんな、悲しんでいる。

訃報の第一報はフラメンコ合奏のお兄さまから届いた。Facebookでは若いギタリストが悲しんでいた。
私は大学時代の友人たちにメールした。すぐに返事が来た。
遠い国の偉大な人であると同時に、みんなの人生の中にいたパコ・デ・ルシア。

私は3回、実際にパコ・デ・ルシアの演奏を聴いた。
1980年代の初め頃、今は無い六本木の<ピットイン>でのライブ。小さなライブハウスが超満員だった。熱い演奏が終わると
パコとその兄弟は、私のほんの50cm先を通って行った。
子育てに明け暮れている頃、スーパーギタートリオ(パコ・デ・ルシア、アル・ディ・メオラ、ジョン・マクラフリン)の
コンサートに行った。夢のようなステージだった。
2005年、池袋の東京芸術劇場。円熟味を増し、楽しそうだった。

50歳のインタビューで、人生の残り時間について語ったパコ・デ・ルシア。まだまだやりたいことがたくさんあったのだろう。
それから16年を急いで走り抜けたのだろうか。66歳の若すぎる死…。

けれど、大好きなメキシコで、浜辺で孫を遊ばせながら、幸せな死であったのかもしれない。

Que descanse en paz.


フラメンコに気おくれした夜

2013-08-30 20:29:49 | フラメンコ
25日の日曜日、日本フラメンコ協会主催の<新人公演>に行ってきた。
フラメンコの明日を担うアルティスタ(アーティスト)の発掘と育成をモットーに毎夏3日間にわたって開催され、バイレ(踊り)、
ギター、カンテ(唄)の3つの部門で出演者たちが火花を散らす。
若い友人がカンテ部門で連続出演しているので、ここ数年、足を運んでいる。

行くたびにビックリしちゃうのね。3日も続いているというのに広いホールが満席。
シュッとしたお嬢サマやお姉サマが個性的なファッションに身を包み、「わあ、久しぶり!」「○○ちゃんのバイレ見た?」
「今度、ドコソコで踊るんだけど、来てね。」なんて声高に語りあっている。
フラメンコ女子たちは気が強そうな美人が多いから、まじ気おくれするのです。

私が若かったころは、フラメンコというとアウトサイダー的な御天道さまに背を向けるような世界だったけれど、
今の日本は明るく華やかなフラメンコ大国。ギターやバイレやカンテの先駆けとなった先生方のエネルギーと努力が、
そして日本という国の豊かさが、スペインの端っこからフラメンコを引き寄せ、ここに大輪の花を咲かせたんだろう。

私にとってのフラメンコは、今ここにあるフラメンコとは違うような気がする。
遠い過去の世界で、そっと鳴り響いているギター、質素なタブラオ、スペインで人相の険しいジプシーのオジサンたちに囲まれ
身を縮めて聴いたカンテ...。そんなのが私のフラメンコ。

でも一見華やかなフラメンコ女子たちも、地道な血のにじむような練習を重ね、一生懸命働いてお金をためて、晴れの日を
迎えているのだろう。

そうだね、見かけは変わっても、時代は変わっても、裕福に派手やかになっても、情熱を傾けて進む姿勢は同じだろう。

楽しい一夜でした。また来年も行きます。



松坂先生のこと

2013-08-22 03:03:38 | フラメンコ
フラメンコギタリスト松坂美樹先生の訃報を知ったのは7月末のことだった。
何か書こうと思っているうちに1カ月近くが過ぎてしまった。ちょっと心が辛かった。

いつも頭の片隅で思っていた。お菓子を持って「先生、お久しぶりです。」ってご挨拶に行こうと。
すごく忙しかったわけじゃない。いつでも行けたのに、行かなかった。
いつ頃からだったろう、先生のお宅がシャッターで閉ざされてしまったのは。
ご病気で施設に入られたという話を聞いたのは、この1月のことだった。

先生にフラメンコギターの初歩を習ったのは、もう10年近くも前のことになる。
往年のフラメンコファンならたいていの人は先生のお名前を知っているだろう。
1980年代、ギター専門雑誌「現代ギター」に<やさしく学べるフラメンコ>を連載されていた。
先生のフラメンコは、スペインの土の匂いがする懐かしいフラメンコだった。
ジャズやボサノバと融合した最近のモダンなフラメンコを聞くたび、先生の演奏を思い出す。
すごいテクニックで素晴らしい速弾きではあったけれど、そこには素朴で純粋なフラメンコがあった。

日本人の心にしっくりするファルーカ。美しい旋律のソレア。しみじみ心に迫るシギリージャ。
昔ながらの明るいセビジャーナス。分かりやすいファンダンゴ。もう聴くことができない。

何故、先生のもとを離れたのだろう。あの頃の私は子育てが一段落し仕事にも慣れ、心が外に向いていた。
もっと面白い世界があるんじゃないか…。華やかな生徒さんや仲間たちに囲まれ、新しいフラメンコを
どんどん取り入れている別の先生のところに行った。

結局、私のフラメンコは中途半端で終わってしまった。でも、あの日々は無駄ではない。
私の現在は私の過去で作られているのだから、無駄になったものなど一つもない。

松坂先生のお宅には、長く連載した<現代ギター>も、出版された教則本も無かった。
先生の頭の中にはフラメンコがいっぱい詰まっていたから、過去の栄光なんて不要だったんだろう。
先生はいつも、スタジオで楽譜を書いていらした。きれいな手書きの楽譜。
レッスンが終わると、昔の話をしてくださった。1970年代、スペインに武者修行の旅に出たときの話だ。
楽しかった。

先生は、ある時期から表舞台に立つのをやめてしまわれた。何故だか分からない。
地元で、数少ない愛好家たちにギターを教えていらした。
先生はモダンなフラメンコと握手をするより、先生の時代のフラメンコを愛し続けたかったのかもしれない。

私の手元には、先生からいただいた楽譜やカセットテープがたくさんある。
私がそれらを演奏する日がまた来るだろうか。来ないかもしれない。でも先生のフラメンコを忘れない。
大切にします。ありがとうございました。

負けない赤い星

2011-04-08 09:42:49 | フラメンコ

2日の土曜日、スペイン語の勉強会で原宿に行くと街はあっさり活気を取り戻していた。その2週間前の静けさが嘘のように、
若い人たちが明るくお喋りをしながら行き交っている。山手線の中では可愛いお嬢さんが「原子力安全保安院の誰それはカツラを
かぶっている」と得意げに話していた。眉をひそめる私も、語学だ、ギターだと出歩いているのだから似たり寄ったりかもしれない。
被災された人たちのことを思い見えない放射能におののきながらも、ほんのちょっとの楽しみを求めることを忘れない。日本人は
忍耐強い、大人しい…と言われるけれど、したたかで割り切りの良い人種でもある。
悲しみは涙と怒りだけでは乗り切れないことを知っている。


昨夜はコンサートに出かけた。こんなときに歌舞音曲は…と中止になるイベントも多い中、カディスの赤い星は燦然と輝いた。

『カディスの赤い星ギターコンサート第4弾』
小説家でありフラメンコ音楽の愛好家でもいらっしゃる逢坂剛さんの、所蔵の名器を新進気鋭のギタリストたちに弾いてもらおう…
という思いから始まった『カディスの赤い星ギターコンサート』。もう4回目になった。
第1弾は渋谷のパルコ劇場だった。クラシックギター界の美しい星・村治佳織さんが、ピアノ伴奏でアランフェス協奏曲を弾き、
フラメンコでは新星・沖仁さんとベテラン・住田政男さんが異なるタイプの演奏をした。贅沢なコンサートに感激しながらも、
実は沖仁さんのフラメンコギターに違和感を持った。あまりにもキレが良く上手すぎる演奏は、透明なガラスの向こう側から
聞こえてくるような気がしたのだ。土の香りがする住田さん~昨年引退された~の演奏の方がヒシヒシと身体に響いて来た。
第2弾は沖仁さんのスペインの師・巨匠ビクトル・モンヘ・セラニートが招かれ、師弟が火花を散らす演奏会になった。このときも
実は、テクニック的には師を凌いだ演奏をする沖仁さんの矜持に少し疲れた。
で、スペインの天才若手ハビエル・コンデと沖仁さんの競演が企画された第3弾はパス。

昨夜の第4弾は再び村治佳織さんが招かれた。金色の線が入った黒いトレパン(…ファッション用語を知りません)に、スカートの
形がユニークな銀色のワンピース姿。女性としての美しさと迫力を増して登場。逢坂先生との会話も楽しい。
最初の2曲はバッハ「主よ、人の望みの喜びよ」とアルベニス「アストゥリアス」。ギターは逢坂先生所蔵マルセロ・バルベロ製作の
フラメンコ。扱いが難しそうな枯れたフラメンコギターで奏でられるバッハは何故かモダンな感じがした。
続いて名器サントス・エルナンデスでビラ・ロボスを2曲。気負いのない気持ちの良い音だなあ。最後は村治さんのギター、
ロマニリョスで「カルメン組曲」。3月のホマドリームコンサートの演奏者、佐藤弘和さんの編曲が楽しい。

続いて、太田正典さんのフラメンコ演奏。住職でありフラメンコギタリストである太田さんが奏でるフラメンコは昔ながらの雰囲気で
懐かしい。フラメンコギターを聴き始めた大学時代を思い出す。何年か前、フラメンコ奏法を教えて下さった松坂美樹先生の演奏を
思い出す。こういう古き良きフラメンコは、もうスペインでも滅多に演奏されないのだそうだ。むしろ日本の往年の愛好家たちが
守っている音楽なのかもしれない。ギターはこれも名器、アルカンヘル製作。

3番目に沖仁さんが登場。さっき生意気にも沖仁さんを批評するようなことを書いたけれど、私は今回、彼の大ファンになって
しまった。
最初の2曲はファルーカとソレア。モダンでテクニカルな奏法は変わらないのだけれど、古い愛好家がグッとくるような深みが
加わって素晴らしい。
「スペインのコンクールで優勝して、内側に入れたと思った」と沖仁さんは言っていた。外側からの挑戦者ではなく、スペインで
受け入れられた…という思いが深みとゆとりを生んだのだろうか。人間としても大きくなったのだろうか。すごいなあ。
続いてパッフェルベルのカノンや、エリーゼのために、トルコ行進曲などをブレリアのリズムで演奏するクラシックメドレー。
フラメンコを知らない人でも楽しめるように作られている。
最後は即興曲「スーパームーン」。震災の数日後、地球に最接近した丸くて大きな月を見て、この月が被災地を照らしている…
と感動して作った曲だそうだ。聴きながら涙が出そうになった。
ギターは沖仁さんのテオドロ・ペレスかな?と、逢坂先生のロマニリョス。

コンサートはこれだけでは終わらず、村治佳織さんと沖仁さんのデュエット~これがまた素敵~、カンタオール(フラメンコ歌手)の
瀧本正信さんの歌(逢坂先生伴奏)、賑やかなフィナーレ…3時間のステージだった。

☆ ☆ ☆

贅沢で幸せなコンサートから帰宅すると、また大きな地震。神様はまだ許してくれないのだろうか。
でも、どんなときも赤い星が輝いて応援してくれる、きっとね。

『カディスの赤い星コンサート第4弾』は、4月30日の夜にBSジャパンで放映されます。
写真はパンフレットと、募金をしたら頂いた逢坂先生のサイン入り御本。最後の一冊だった。

フラメンコな夜に思ったこと

2010-11-21 13:39:23 | フラメンコ
金曜日の夜はフラメンコパーティに行った。
ただの宴会ではなく、研鑚や発表の場でもあるこのパーティはスペイン語でペーニャと呼ばれる。
毎月開かれるペーニャに前回参加したのは師匠のお誕生会も兼ねた8月の会だった。
師匠…と言っても、私はもう唄もギターも習っていないから、元・師匠と言うべきかもしれない。
でも私にとっては師匠は師匠のままだ。
ギター合奏が忙しくて続けられなくなった…とお詫びしたとき「ギター合奏もフラメンコギターも
難しさや究めて行くという点では同じだから頑張りなさい。」と励まして頂いた嬉しさは忘れない。

3カ月ぶりに会場のドアを開けると、いつもと少し雰囲気が違う。ここ2年ほど、中心の席に
どかりと腰を据えていらしたゲストの大御所さんがいない。
師匠ももちろん大御所なのだが、その大御所さんは数々のライブをこなしCDも出している有名人。
味わいのある声と節回しに惹かれるファンは多いと思う。師匠の若い生徒さんたちも、大御所さんに
唄のアドバイスしてもらったりギターの伴奏を付けてもらったり有意義な時間を過ごしていた。
もちろん私にとっても、その人の唄を間近で聴けるのはラッキーなことだった。
なぜ大御所さんが来なくなってしまったかについては諸説あるんだけれど、ここでは触れない。

ドアを開けた時、少し参加者の人数が減ったかな、若い生徒さんが少ないな…と寂しく感じた。
でもそれは一時のこと、やはりフラメンコパワーは凄い。師匠はじめ往年の愛好家の皆さんの
ギターは冴えわたっていたし、コアな生徒さんたちの唄はこなれていて耳に気持ち良い。
感動したのはEさんがタラント(鉱山で働く男たちの嘆き唄)を唄ったとき。いつも明るくて笑顔を
絶やさない元気な彼女が、じっくり低めの声で聴かせてくれた。夏が、夏の美しさを残しながら
秋に移っていくような唄の成長を感じた。
少し年上のHさんが歌うカンパニジェーロス(信徒たちが鐘を鳴らしながら歌い歩いた宗教民謡)も
良かった。可愛らしいメロディーなのだが彼女が歌うとしみじみとした哀感が出る。
フラメンコの唄には、その人その人の人生や経験や感性が滲み出る。
だからどんな年齢になっても唄えるし感動を呼ぶのだろう。

帰り道、このペーニャを支えている人たちのことを考えた。参加者が多い時も少ない時も、
大物ゲストが来る時も来ない時も、いつもこの集まりを支えている人たち。。。
フラメンコ音楽の素晴らしさと人の情。大切な場所だと思う。


私は幾つかのサークル活動をしている。沢山人数がいて充実している時もあったし、どんどん人が
抜けて不安になったこともあった。華やかな存在が去って寂しかった時も…。
スペイン語サークルでは、たった2人のクラスだったことがある。
台風が近づいている日、誰も参加しないんじゃないかと心配していたら、何人も来てくれたことが
あった。帰りは風にビュービュー吹かれながら皆、急ぎ足で原宿の道を歩いた。
大雪の日のクラスも思い出深い。
台風や大雪の日に外出するのは、もちろんお薦めはできないが、そういった思い出の一つ一つが、
人生や人への感謝につながっている。
これからも支えたり支えてもらったりしながら、いろいろな活動や経験をして行こう。

人生は山あり谷あり…

2010-08-23 01:14:19 | フラメンコ
日曜日は忙しい一日だった。

Aギター合奏団の練習日。30分早く会場に出向き、Oさんと二重奏の練習。
アルゼンチンの作曲家、マキシモ・ディエゴ・プホールの二重奏曲「センテナリオ通り」を
初めて聴いた時のときめきは今も続いている。ネットで探してようやく楽譜を手に入れたものの、
自分の手に負える曲ではないと思った。一緒に弾いてくれる人も居そうになかった。
この春、恐る恐る合奏団のトップギタリストのOさんに楽譜を差し出すと「いいじゃない、
弾いてみようよ。」と言ってもらえた。以来、少しずつ練習している。
弾きにくいところ、苦手なところはOさんにお任せしている。それでも難しい。難しいけれど
弾いていると時間を忘れる。中南米の音楽家のセンスは何かが違う。それは文学作品にも言える。
素朴で独自の暮らしをしていた民族の元へ、いきなりヨーロッパの征服者たちがやって来る。
殺戮、苦しみ。そしていつしか融合が始まる。ずっと昔に観た映画の中で、インディオの女が
祈っていた。『風のキリストさま』…。キリストさまは風じゃない、自然界の存在ではない。
でも彼らの中で融合している。そして新しい芸術が生まれた。

A合奏団では来年2月の定期演奏会に向けて後期の練習曲に入っている。その中の2曲は私が
推薦した曲だ。
テレビでもおなじみのメロディーをフラメンコ風に編曲した曲。ジブリの作品に登場する曲。
この合奏団は、どんな曲でも弾きこなす力がある。

練習を途中で早退して、日本フラメンコ協会主催の『新人公演』に行く。
新人公演…といってもある程度の実績のある踊り手、唄い手、ギタリストたちが力を競う年に一度の
祭典だ。審査員も日本では一流の人たち。
早めに会場に着いたのに殆ど席が埋まっている。今年もフラメンコパワーに圧倒された。
年若い友人のA子ちゃんはカンテ(唄)部門で出演。声の気取りや音程の揺れがなくなり、
感動がストレートに伝わってくる歌い方だった。フラメンコの唄には潰れたハスキーボイスが
ふさわしい…というのが定説だが、決してそんなことはない。確かにハスキーな声は魅力的だが、
それだけでは感動は伝わらない。
A子ちゃんの声はフラメンコ的ではないが、その心はフラメンコだと思う。
これからも真っすぐに進んで下さい。

会場で、知り合いのFさんに会う。今週の金曜日は師匠の誕生祝いを兼ねたパーティがあるそうだ。
師匠からはフラメンコのギター伴奏を習っていたが、今はお休みしている。
ギター合奏で精いっぱいになってしまったから。
でも久しぶりに行ってみよう。熱いフラメンコを感じたくなった。

一時間ほど聴いてA合奏団の練習会場に戻る。練習は終わっていて酒宴の真っ最中。
ギター演奏あり、音楽談義あり、下ネタあり…。いつもの雰囲気にホッとしてお酒もすすむ。

さて、帰宅すると次女が深刻な顔をしている。彼と別れるそうだ。
アナタノコトヲイツモタイセツニミテイテクレタヒトナノニ…。本当にそれでいいの?
長女も付き合っていた人と別れたばかりだ。。。

2年前の9月、私は「人生は山あり谷あり、蟹ありホタテあり」というブログ記事を書いた。
あのとき、私はなけなしの腕をふるい、娘たちの彼氏たちも招いて家族パーティを開いた。
あのときの若い2人の男の子たちは、もう縁のない人たちになってしまったのだろうか。
溜息をつきながら2階に行くと、クーラーがガンガンきいた部屋で夫が気持ちよさそうに
寝ていた。長生きして下さい。私一人では心細いことがあります。。。

暑い夏の一日は、そんな風に終わった。

足元ゆらゆら

2009-06-19 09:06:27 | フラメンコ
土日はAギター合奏団の友人たちと山梨県の山奥の村に行く。
最寄りの奥多摩駅からバスで一時間。
バスの便は一日に4本しかないから乗り遅れたら大変なことになる。
村のキャンプ場で開かれるコンサートで5曲合奏をする。今練習中の3曲に加え、
この前の定期演奏会のアンコールで弾いた「崖の上のポニョ」(ちょっと流行遅れ?)、
フラメンコ合奏曲(ぶっとびフラメンコ合奏団のレパートリーを拝借したもの)も弾く。
私はトップギタリストとラテンの曲の2重奏もさせてもらう。うまく行くかな。
観客は狐さんと狸さんだという噂もあるけれど、きっと人間さんも来てくれるだろう。

キャンプ場に行くには吊り橋を渡らなくてはならないらしい。
足元がゆらゆらするのは怖い。吊り橋をダーっと走って渡り、真ん中あたりで
揺らして喜ぶ憎々しい子供が時々いるが、そういう子供とは絶対に同乗したくない。
これも運動神経の鈍さがなせる業だろう。
人の何倍も運動神経が鈍いのに、人の何倍も上手にできるものは一つもない。
世の中には美人で歌が上手いとか、スポーツ万能のイケメンとか、絵が上手くて
ダンスも手芸も得意とか、2つも3つも利点がある人もいるのに不公平だと思う。。。
ま、今日まで無事生きてきたことに謙虚に感謝しましょう。

水曜日の夜は久々フラメンコクラスに行ってきた。カンテ~フラメンコの唄~の
ギター伴奏を見よう見まねで習っているのだが、ギター合奏団の掛け持ちで、もはや
目いっぱい。休みがちな上、進歩の見込みは無く、これでは月謝の運び人ではないか…
と心が揺れるときもあるけれど、ギターを弾きながら熱心に唄の指導をする師匠や
夢を持って唄修行に励む女性たちを見ていると何だか元気が湧いてくる。
それにフラメンコのリズムは小気味よく感性を刺激してくれるから、揺れながらも
続けて行きたい。

フラメンコで知り合った年下の女性たちから時々メールが来る。パソコンの画面の
向こうに、一生懸命生きている彼女たちのキラキラした心が見える。
A子ちゃんは、秋にはスペインに出発する。
踊りや唄を満喫しているEさんは、いつも私に元気をくれる。
国籍不明の浮遊感を持つ歌手のSさんは、彼女の独自の世界にフラメンコの香りを
織り込んでいる。
3人とも、悩んだり考えたりしながら、少しゆらゆらする人生を一生懸命生きている。
彼女たちよりずっと年上の私だって、固い大地を踏みしめて生きている訳ではない。
皆そうだろう。それでいいんだ。ゆらゆらを恐れてはいけないよね。

昨夜、Sさんに頼まれてフラメンコの唄の訳詩をした。

Quitate de la ventana        窓から、おどきなさい
porque voy a susupirar        私はため息をつく
mis susupiros son de fuego    私の息は炎のように
y te puenden abrasar         あなたを焼き尽くすかもしれないから

情熱的なジプシー女の黒い瞳がこちらを見ているような気がする

私の人生は、ゆらゆらしながら、私に様々な世界を見せてくれる。

カディスの赤い星コンサート 第2弾

2009-03-31 10:05:29 | フラメンコ
日本で少しでも名前を知られているスペインのフラメンコギタリストといえば、
せいぜいパコ・デ・ルシアくらいだろう。1947年生まれのパコはフラメンコ界に
新しい風を送った。それまでの伝統的なフラメンコを大きく革新してスペインから
羽ばたいた。アル・ディ・メオラ、ジョン・マクラフリンと3人で結成した
【スーパー・ギター・トリオ】は世界中のギタリストの憧れとなった。
パコのように世界でメジャーにはならなかったが、パコと共にフラメンコを革新した
偉大なギタリストが二人いる。ビクトル・モンへ・セラニートとマノロ・サンルーカル。

マノロ・サンルーカルは私の大好きなギタリストだ。今では髪も髭も真っ白に
なってしまったが、若い頃は端正な顔立ちで貴公子のようだった(写真)。
彼との出会いはスペインの旅。オリーブ畑やブドウ畑を貫いて走るバスの中で
運転手さんが、ずっとマノロ・サンルーカルのアルバムをかけていた。
陽気で親しみやすいフラメンコのメロディーは旅の始まりの高揚感にピッタリだった。

そして一昨日は、ビクトル・モンへ・セラニートの演奏を聴いた。
小説家でありフラメンコ音楽の愛好家でもいらっしゃる逢坂剛さん企画の
「カディスの赤い星コンサート第2弾」。
第1弾のコンサートは昨年の今頃だったと思う。あの時はフラメンコだけでなく
クラシックギタリストの村地佳織さんが出演したが、今回はフラメンコ一色。
日本の若手No.1フラメンコギタリストの沖仁さんと、彼のスペインの師である
ビクトル・モンへの競演だった。
今や日本でフラメンコといえばバイレ(踊り)だが、昔はギターだった。
まともな教則本も無い時代、レコードを擦り切れるほど聞いてフラメンコの音楽や
テクニックを学んでいた若者達は、多くはフラメンコ以外の仕事につき、60代になり
定年後の人生を迎えようとしている。
そんなオジサマたちがビクトル・モンへ・セラニートを聴きにやってきた。
ロビーには~もちろん沖仁さん目当ての若い女性たちも居たが~、懐かしげに
語り合うオジサマたちがたくさんいた。
コンサートの企画者である逢坂剛さんも60代。たまにフラメンコパーティで
お目にかかる。パーティといっても3000円会費の質素なフラメンコの唄の会だが、
いつも楽しそうに語りギターを弾いていらっしゃる。

さて演奏。ものすごいテクニックと感性、透明感のある張りつめた音、殆どミスの
ない沖仁さんに比べると、セラニートの演奏には多少のミスも音のビビリもあったが
何と言ったら良いのだろう、スペインの血だろうか魂だろうか、まるで彼自身が
ギターそのものみたいだった。時どき唸りながら弾いていた。1942年生まれ、
彼の音楽は進化し続けている。
師弟2重奏は素晴らしかった。笑顔を交わしながらも、2つのギターは火花を散らした。

「私は毎日、朝起きると、自分が新しい自分になっているような気がします。そして、
その気持ちでギターを弾いています。」セラニートはインタビューに笑顔で答えていた。


帰りの地下鉄で、顔見知りの紳士と一緒になった。学生時代からフラメンコを
教えるほどの腕前だったが生きる道として別の職業を選んだ…と話してくれた。
それでも人生は常にフラメンコと共にあった、と。

「あなたにとってフラメンコは何ですか?」と質問されたセラニートは即座に
答えていた。「Flamenco es vivir」~フラメンコとは生きることです~
趣味であれ職業であれ何であれ、それが自分の人生だと断言できる何かを
持っている人は幸せだと思う。


ブラックなフラメンコ・コンサートと、私の歴史

2009-02-14 18:32:44 | フラメンコ
初めて本場のフラメンコショーを見たのは、独身時代にスペイン旅行をした時だった。
本当に興が乗るのは観光客が帰ってからだ、と聞いていたので遅くまでねばったが、
唄とギターだけという演目が多くて驚いた。
当時(今も?)日本では、フラメンコショーといえば華やかな衣装を着た女性たちの
踊りだったから、唄とギターだけというのには損をしたような物足りなさを感じたものだ。
フラメンコの真髄は唄だと聞かされても何だか納得がいかなかった。
マドリーに落ち着いてから、フラメンコのコンサートに何度か行き、そんなステージにも
慣れた。
よく覚えているのは、深夜のジプシーコンサート。下宿のオバサンから
「何で、そんなのに行くの?お金が勿体ないでしょ。何が起こっても知らないからね。」と
さんざん説教されたが、スイス人の友人と強行。
浅黒い肌、縮れた黒髪の険しい人相のジプシーたちが続々と集まってくる。
皆、安っぽい黒いスーツ姿、ワイシャツにネクタイはしていなくて胸をはだけている。
場違いなどんくさい日本の女の子と、ヒッピー風の衣装のスイス女性は、ぎょろりと
睨まれ、あとは無視された。
ステージは、やはり唄とギターが主流のブラックな感じだった。
あれから長い年月がたって、私がまたフラメンコの世界に心惹かれたのは、
若い頃にそんな経験をしたからだろう。

昨夜は、フラメンコギタリスト沖仁(おき・じん)のコンサートに行った。
メジャーなスターがいない日本のフラメンコ界では異色の存在で、NHK大河ドラマ
「風林火山」の紀行テーマ曲を担当して、テレビに出ることも少なくない。
凄いテクニックで洗練されている。私の中では和製ビセンテ・アミーゴかな。
去年の『カディスの赤い星コンサート』では、ベテランフラメンコギタリストの
住田さん~もうドロドロに土臭いフラメンコだった~との共演だったせいか、
まるでCDを聞いているような綺麗過ぎる演奏に感じたが、今回は近くで聞いたので
人間臭さを感じてとっても良かった。フラメンコのような民俗音楽は、人間の
息づかいが大切だと思う。
共演はカンテ(唄)の石塚隆充、パーカッションとバイレ(踊り)の伊集院史朗、
ギターの小林智詠、ダークな服装の男性ばかり。
フラメンコ慣れしていない観客が多かったわりには、客受けを狙った雰囲気ではなかった。
ああ、日本でもこんなブラックなフラメンコのステージを楽しむことが出来るように
なったんだな。


このコンサートには、旧い知り合いと一緒に行った。
そう、まさに私がスペインに行った頃の知り合い。再会することは無いと思っていた。
最近、自分の過去と現在が繋がっているのだなあと感じることが多い。
複雑な動きのマリオネットみたい。人形が今の私、沢山の糸の端っこが過去。
糸を少しいじると、人形のどこかが動き出す。私が行動すると、過去が反応している。
私という人間のちっちゃな歴史を感じたりする。トシかな。

(写真は私のお気に入りのホセ・メルセー。54歳、バリバリ現役のフラメンコ歌手)

やめる、やめない

2009-02-09 06:46:14 | フラメンコ
昨日は久しぶりにフラメンコクラスに行った。
月に2回フラメンコの唄(カンテ)のクラスで、唄ではなくギター伴奏を習っているが、
しばらく前から伴奏に興味をなくしている。唄の呼吸に合わせて伴奏を付けていくのは
「楽譜命」の私には難しい。同じギターを弾くなら合奏の方がずっと楽しい。
行きの電車の中で考えた。やめることは出来るだろうか。

何かに興味をなくしたり疲れたりして続けることにストレスを感じる→やめる→
そこに費やしていた時間やお金を他のことに使う…。
しごく論理的な行為のようだが、私の場合、論理で何かを切ると心に傷がつくみたいだ。
一年前、地元の合奏団をやめたときは既に今の合奏団に入っていた。
地元の合奏団の練習の仕方とか音楽性とか運営方針とかに不満を抱いていたし
今の合奏団の方が音楽的に優れて楽しかったから、やめるのは簡単で自然なことに思えた。
でも一年が過ぎた今も何となく引きずっている。

私にとって「何かをする」というのは「何か」だけではなく、そこに付随する
「場の空気」を味わうということなんだろう。
スペイン語のクラスも、ギター合奏団も、フラメンコクラスも、そこにそれぞれの
小宇宙がある。人がいて雰囲気がある。簡単に切り捨てられるものではない。

ずっと休んでいたから、練習会場に入るのに少し勇気が必要だった。
扉の向こうから唄とギターの音がかすかに漏れ聞こえてくる。新曲をやっている。
師匠の原点となったスペインの歌手、故カマロン・デ・ラ・イスラの曲。
歌詞は詩人ロルカのものだ。フラメンコ歌手たちは、よくロルカの詩を唄う。
スペイン内戦で惨殺されたロルカはジプシーたちの音楽を愛していた。
師匠のギターは冴え渡っていた。65歳を過ぎていると思う。
何でこんなに上手いんだろう。
唄っている3人の女性にはそれぞれ個性と魅力がある。仕事を持ちながらプロ活動も
している。ギターを学んでいる男性たち3人。見学の新人もいる。
最後の椅子に私が座った。
やっぱりやめられない。最後の椅子が残っていた。

帰宅してパソコンを開けるとmixiにメッセージが入っていた。さっきまで一緒だった
クラスの女性から。長女より少し年上。悩みながら自分の唄や人生の方向を探している。
私も探している。これからの私。

写真はカマロン・デ・ラ・イスラ。癌でボロボロになった身体で最後まで唄い続けた。
伴奏のギタリストはトマティート。
「僕は生涯カマロンのギタリスト(伴奏者)と言われたい」
トマティートはソリストとして超一流だが、カマロンの伝記にこの言葉を捧げた。


ひどいじゃないですか! ステキじゃないですか!

2008-11-17 10:07:55 | フラメンコ
金曜日はフラメンコ宴会に行った。私たちはこれをペーニャと呼んでいる。
ペーニャというのは単なる飲み会ではない。研鑽の場でもある。

月に二回、フラメンコの唄のクラスに通っている。
師匠はもともとフラメンコギタリストで、今はギター伴奏をしながら唄を教えている。
初めは唄を習うつもりで入った私だが、あまりの音痴と音域の狭さに、すぐ挫折して
今は見よう見まねでギター伴奏をやっている。
といっても全く進歩せず、このところはサボってばかり。
いつ破門されても文句は言えないが、月に一回のペーニャにはなるべく参加して
会場のセッティングのお手伝いをするようにしている。あとは大人しくお酒を飲み飲み
生徒さんたちの唄や、師匠はじめゲストの凄腕ギタリストたちの演奏に耳を傾けている。
門下生の発表会は今月末。私も舞台の片隅でギター伴奏をさせていただく予定だったが
従妹の結婚式と重なって断念した。
金曜日のペーニャは発表会直前の熱気に溢れていた。(写真の雰囲気)

このペーニャの凄いところは、毎回大物ゲストが来ること。
師匠の交友関係の広さや、友達を大切にする心が表れ実を結んでいる。
日本フラメンコ界の重鎮のK氏。唄の世界の一人者のT氏。若手ギタリスト。
スペインを舞台にした小説で直木賞を得た有名な作家さんも時どき顔を見せる。
安いワインと買ってきたものを並べただけの簡素なツマミで、往年のフラメンコ
ファンも、若いお嬢さんも、有名人も、無芸大飲の私も素敵な時間を過ごしている。

ペーニャで楽しい時間を過ごしてフラフラと品川駅の階段を下りていた時、
後ろから走り下りてきた若い男性に体当たりされた。幸い手すりの側にいたので
とっさにしがみつき、階段を転げ落ちずにすんだ。手すりは平行に2本渡してある。
下の手すりにしたたか肘を打ちつけ、上の手すりを掴んだんだと思う。
謝る男性に対し、思いもかけず大きな声を発してしまった。
「ひどいじゃないですか!」
こんな場合、「だ、だいじょうぶです」とヤセ我慢してしまうお人よしの私にしては
珍しいことだった。
この10月、私は心の中で「ひどいじゃないですか」とつぶやいたり叫んだり
していたような気がする。そういうのが溜まって、一気に出た声だったのかもしれない。

痛む肘が心配だった。来月のギター合奏の発表会に向けて練習を頑張らなければ
ならない時だから。正直、帰宅して涙が出た。やっと血圧騒動から脱したのに。。。

翌朝、布団の中で肘を動かしてみた。う・うごく!
土曜日はスペイン語の勉強会だった。場所は原宿。血圧と更年期障害的症状に
悩んでいた先月は若者たちの群れがこわかったが、もう平気だった。
日曜日はギター合奏の練習日。肘にアンメルツを塗り塗り6時間の練習に耐えた。
演奏会では合奏の他に7人でフラメンコのリズムの曲を弾く。居残りで、その練習もした。
ああした方がいい、こうした方がいい、ちょっと速すぎるんじゃない?そこは音を
控えたら?…皆、遠慮せず、言いたいことを言い合って曲を作っていった。
初めのイメージとは少し違うが、私たちの曲が出来てきた。すごく楽しかった。

「ひどいじゃないですか」「ひどいじゃないですか」と心の中で言いながら、
私はいつのまにか、ぬかるみを脱していた。足元の土はまだ少し柔らかいが、
私はしっかり立っている。

思えば血圧上昇とそれにまつわるアレコレごときのこと、「ひどいじゃないですか」の
部類に入らないかもしれない。
これからの人生、もっともっと厳しい現実が待っているかもしれない。
でも、パンドラの箱から最後に希望が出てきたように、「ひどいじゃないですか」のあとには
「ステキじゃないですか!」が出てくる人生にしたい。


凄腕ギタリストたちの夜

2008-05-22 00:33:32 | フラメンコ
ジンマシンの薬を飲んでいる間は飲酒を控えなくてはならない。薬は8日分。
8日も禁酒生活するのはつらいので、薬の代わりにお酒を飲む日も作ることにした。
火曜日がそうだった。その日は高田馬場のスペインレストランでフラメンコギターのライブが
あった。私のフラメンコの師匠が古くからのお仲間と演奏する~ということで
駆けつけたのだが、勿論あの「赤い飲み物」の誘惑もあった。
ライブを企画したのはベテランギタリストの住田政男さん。
住田さんは三月に渋谷で開かれたコンサートで、新進気鋭のフラメンコギタリスト沖仁さんと
共演した。洗練された感性と完璧なテクニックを持った沖仁さんに比べ、住田さんは
幾度かミスもあったし早弾きにも少しハラハラさせらた。
それなのに時間がたつにつれて住田さんの方が存在感を増してきた。
アンコールの演奏では明らかに若き天才・沖仁を喰っていた~と、私には思えた。
あっぱれ、オジサンパワー。

といってもパワーの陰にはものすごい努力があった。
住田さんが子供の頃、近所にギターを弾くお兄さんがいて憧れていたそうだ。
そのお兄さんのギターが壊れて胴体だけになったのを貰い、空き缶をくっつけて
弾く真似をしていた。それを見て親が不憫に思って質流れのギターを買って
くれたという。住田さんはひたすらギターに打ち込み、フラメンコを学び、スペインに渡り、
指にパワーをつけるために星飛雄馬もビックリするような練習をした。
ギター一本で生きてきた人のトークには胸を打つものがあった。
最初のギターは質流れ…。まだ日本が貧しかった時代だろう。

私の最初のギターは6000円だった。
練馬の商店街の楽器店に立てかけてあったギターを毎日横目で見ていた。
お年玉をためてやっと買った。教則本も一緒に買って独学だった。
私は住田さんみたいに上手くならなかったが、子供時代のギターへの憧れは
同じだったかもしれない。

住田さんのパワーと味わいのある演奏の後、師匠登場。
お友達とのフラメンコ合奏は歯切れよく気持ちの良い演奏だった。
いつかこんなフラメンコ合奏がしてみたい。
写真、向かって右が師匠。
お仲間は会社で地位を築きながらフラメンコギターを続けてきたお二人。彼らも凄腕だ。

オジサマたちにパワーを貰い、友人とワインボトル一本を空け、フラメンコな夜は更けていった。



伝説のフラメンコ酒場

2008-05-06 03:17:35 | フラメンコ
大学時代、クラシックギター研究会に在籍していた。一学年上の先輩と付き合っていた。
夏と春には一週間の合宿があり、最後の夜のミニコンサートでは全員が独奏をした。
ある合宿の折、彼は独奏に「熊蜂」という曲を選び、暇さえあれば練習していた。
とても速い難曲で、上手く弾けば蜂がブンブン飛んでいる雰囲気が伝わってくる曲だったが
練習に練習を重ねてコンサート本番、彼の指は途中で止まってそれ以上は弾けなかった。
彼は椅子から立ち上がり、ギターを持ったまま部屋を飛び出していった。
そんな不器用な人だった。
その人がフラメンコギターを始めた。最初のうちはとつとつと弾いていたが
次第に凄みを帯びてきた。そんな風にして私はフラメンコ音楽を知った。

当時フラメンコギターを弾く人たちの間で、伝説のフラメンコ酒場が3軒あった。
高円寺の「カサ・デ・エスペランサ」、新宿ゴールデン街の「ナナ」。
そしてホアン・一色という異色のギタリストが大久保で経営する店、
店の名前は知らなかったが「ホアン・一色の店」で十分通用した。

「カサ・デ・エスペランサ」には時々連れて行ってもらった。
今のようにフラメンコダンスがポピュラーな時代ではなかったから、
苦悶の表情を浮かべて踊るバイラオーラたちは仄暗い世界に咲く花のようだった。
亡き俳優の天本英世さんが、スペインの詩人ロルカの詩を朗詠している時もあった。
…私が死んだら 埋めてください 私のギターと共に 砂の下に…

ゴールデン街の「ナナ」と、ホアン・一色の店は学生には近づきがたい存在だった。
ホアン・一色という人(日本人)は、上下真っ赤な服を着て、モミアゲを伸ばし
夜な夜な店で狂ったようにギターを弾いているという噂があった。

この3軒のフラメンコ酒場は今も存在する。
長い年月を経て、ついに私は先週ホアン・一色の店に行った。
時刻は夜の10時をとっくに過ぎていた。
大久保から新大久保に行く途中の角を曲がって少し行くとその店はあった。
扉を開けるとギターとパルマの音。ショーの最中だった。
席に着くとすかさずワイングラスが運ばれ、まだ小学校の低学年と思われる男の子が
ニコニコしながらワインを注いでくれた。え?こんな時間に?
立ち去ろうとする男の子をギタリストが呼びとめ舞台に上がらせた。
男の子は少しぎこちなかったが魅力的に2曲踊ってくれた。そこへホアン・一色の登場。
真っ赤なシャツに真っ赤なジーンズ。もちろんモミアゲを伸ばし頬髯もあった。
学生時代に聞いた通りの姿が私の目の前にあった。
男の子は一色さんの息子さんだという。若い奥様が生ハムを運んできた。
綺麗に発色した自家製の生ハムを得意げに紹介するホアン・一色は、
むしろ穏やかな印象だった。
長い年月が過ぎ、大学生だった私はオバサンになって、今、伝説を確認した。

私にフラメンコ音楽を教えてくれた先輩は、その後、ギターを抱えてスペインに旅立った。
今もスペインにいるという。
激しい練習の結果、腱鞘炎になってギターを断念したと風の便りに聞いた。

私は、あなたの愛したスペインとギターを愛して今も元気に生きています。