goo blog サービス終了のお知らせ 

昨日☆今日☆明日~金曜日のピュ

私の毎日と心に浮かんだこと

最後のプレゼント

2014-11-04 03:35:11 | 家・家族
私が所属している地元のギター合奏団は2年に一度、定期演奏会をする。
演奏会の無い年は、サークル内でミニ・コンサートが開かれる。各自1曲、独奏をしなくてはならない。
合奏や重奏が好きでギターを弾いている私にとって、身内のコンサートとはいえ、ちゃんとしたホールで、
皆の注目を集めてソロを弾くのは苦痛以外の何物でもない。2年前のミニ・コンサートの折は適当な理由を
つけて休んだが、今年は逃げなかった。
持ち曲はビラ・ロボスの「ショーロ1番」。私にとってはかなりの難曲で、人前で弾く勇気など無かった。
でも、弾こうと思った。


月曜日の夕方、入院中の母の容態が急変したと知らせがあった。電車とバスを乗り継いで病院に着いたときは
夜の8時を過ぎていた。一時は危篤に近い状態だったそうだが、だいぶ落ち着いていた。
それから毎日、見舞いに通った。木曜日の夜はもう疲れ切っていたけれど、ミニ・コンサートに出かけた。
母の病気を理由に苦手なことから逃げたくなかったのだ。口実に使われたら母は怒るだろう。そういう人だった。
演奏は、かろうじて弾けた...という程度だったが、自分では達成感があった。

翌朝、4時前に電話があった。まだ薄暗い街に飛び出す。電車に乗って次の駅に着いた頃、連絡が入った。
母は遠い世界に旅立ってしまった。
ギターなど弾きに行かず、病院に泊りこんでいれば良かった...とは思わなかった。母は、私が弾き終わるまで
待っていてくれたのだ。これからの人生、逃げちゃダメよ...と肩を押してくれた。

母の容態が悪化した日の一日前、母の若い甥の結婚式があった。母は、甥の結婚式が終わるまで待っていた。
そういう人だった。誰かの迷惑にならないように、邪魔をしないように、いつも人のことばかり気遣っていた。
最後までそうだった。

脳梗塞で倒れて3年10カ月。意識が戻らないまま、母は逝ってしまった。
年月をかけて、私たちが出来るだけ悲しまないように、母はゆっくりゆっくり別れを告げてくれた。
死顔は美しかった。母は美人だったから。誰もが「きれい...」とつぶやいていた。

通夜と告別式は、お寺や斎場ではなく、弟の家で行われた。母が暮らしていた、庭に面した和室に祭壇が作られた。
通夜の日は一日雨だった。告別式は晴れて心地よい風が吹いていたから、庭に椅子を並べた。母が丹精した庭木の間を
朗々とした読経の声が流れて行った。

母は小さな骨壷に入って、再び家に帰って来た。
ごく内輪の親族が残って、お線香をあげたり、庭木を眺めたり、お茶を飲んだり、思い出話をしたりした。
悲しかったけれど和やかなひとときだった。
弟の家族。私の家族。ずっと仲良くお付き合いしている母の妹の家族、結婚したばかりの母の甥もいた。
私の小っちゃな孫が何にも知らずにはしゃいでいた。
それから母の写真をまん中にして皆で写真を撮った。悲しかったけれど、何だか幸せな気持ちだった。

母の最後のプレゼントだと思った。

 母の告別式の朝、咲き始めた。西洋朝顔は夏には咲かない。秋になって静かに花開く。


言えなかった言葉

2014-06-17 01:10:39 | 家・家族
昨夜は、ずいぶんハッキリした夢を見た。
ある人が、こんなことを語っていた。「僕は若い頃、自分の奥さんがとても綺麗で素敵だ...と思った瞬間があった。それなのに、
そのとき素直に口にすることができなかった。今でも心に引っかかっている。」
目覚めてから考えた。一緒に暮らしている奥さんなのだから、今こそ素直に「あのとき、君のことをすごく素敵に思ったんだよ。」って
言えばいいのに。

でも違うんだろうな。<あのとき、あの瞬間に言うべきだった言葉>というのがあって、時を逃したら、一生 言うことができない、
言ったとしても、その輝きは失われている。そんな言葉があるのかもしれない。

夢は啓示だ…とか、深層心理だ…とか、学者さんたちは言っている。
だとしたら、こんな夢を見た私は何なんだろう。私には過去、誰かに言わなかった(言うべきだった)言葉があるのだろうか。つらつら
考えたが、それらしい場面は思い浮かばなかった。言いたいことはたいてい口にしてきたし、言わなかったことは、たぶん言う必要の
ない言葉だった。
逆に、仮に誰かが私に対して「言えば良かった」と思っている言葉があったとしても、それを聞きたかったとは思わない。過去という
櫃の中にあればいい。

それなら、あの夢を見た意味は何だろう。
本当は分かっている。シンプルで本質的なことだ。
私は父と母に「ありがとう」を言わなかった。言わないうちに父は他界し、母は物言わぬ人になってしまった。
翌日は母の見舞いに行く日だった。その前夜に見た夢...。

☆ ☆ ☆

今日は母の見舞いに行って来た。長女のダンナが運転して、長女と孫くんと、夫と私の5人で。
今日に限って母は眠りっぱなしだった。はるばる初曾孫が来たというのに。孫くんのふくふくとした小さな手は、母の生気の無い手を
何回も撫でた。母の瞼が動く。何かを感じてくれたのだと思う。
皆で写真を撮った。そして私は、心の中で何度も「ありがとう」と言った。

人生は哀しくて可笑しい、得月の酒

2014-01-09 07:28:37 | 家・家族
母が脳梗塞で倒れたのは2011年のお正月だった。あれから3年が過ぎた。

昨日は夫と、母の見舞いに行った。年末は慌ただしくて行けなかったから、ずっと気になっていた。
バスに乗って、電車を乗り継いで、またバスに乗る。母のいる施設のあたりは、ずいぶん変わった。
以前は水田と畑だらけで遠くまで見渡せたが、今は新しい住宅が視界をふさいでいる。人の営みは変化を続け
母は変わらない。
もう私の顔も分からないのかもしれない。でも孫くんの写真には反応する。まじまじと見つめ、目が優しくなり、
口元が動く。母にとって、私の長女は初孫だった。ずいぶん面倒を見てくれた。その長女から生まれた孫くんは
私の初孫。母にとっては初曾孫。こんな風に時が流れ、血が受け継がれていく。

母の見舞いからの帰り道は、疲れと安堵が身体を包み、ビー玉くらいの悲しさが心の中に転がっている。
中学時代の親友から可愛い絵文字がいっぱいの陽気なメールが入って、ちょっと和む。
そのあと長女のメール。このお正月、婿さんの実家に孫を連れて凱旋?したのは良かったが、有楽町火災のせいで
新幹線が止まり、帰り道はさんざんだった。今度は、婿さんの会社のお土産にと買いこんだ和菓子「なごやん」から
ジクロロフェノールが検出されたと嘆いていた。回収対象の製品ではなかったが会社に持って行く訳にも行かず、
夫婦でひたすら食べているとかいないとか。何やら可笑しい。

帰宅して、煮込みうどんを作る。ありあわせのものを並べ、ほかほかのうどんを食べながら、このお正月のメイン銘酒の
残りを空けた。「得月」...。「久保田」で有名な朝日酒造の幻の銘酒だ。<ゆきの精>という酒米を28%にまで磨き、
低温で1ヶ月程かけて醗酵させる。すごい手間暇のかかったお酒なのだ。
 お米がこんなに小さくなるまで磨く。
その上品な味わいがすっと身体に入り、悲しさのビー玉が溶けていく。
夫の体調も良いし私の膝も小康状態だし、またスカッシュを始めるか、なんて話になる。今年は海外旅行もしたいよね。
でも離着陸のときの耳の激痛がネックなんだ...。

今日は地元のギター合奏団の初練習。金曜日はギター重奏おばちゃまトリオの新年会。重奏の新曲も決めなくちゃ。
土曜日はスペイン語の勉強会と、お教室のギター合奏団の新年会。日曜日はA合奏団の練習。

充実してるね...、そうかな。
A合奏団の定期演奏会は1月の末。私にとって最後のステージになる。彼らと、あと10年くらい一緒にギターを弾くという
選択肢もあった。そうならなかったのは何故だろう。考えても仕方ない。時が満ちたのだ。
打ち上げの酒も飲まない、静かに去りたい。
そのかわり大学時代の仲間たちが一緒に飲んでくれる。
大学の先輩たちとは年末に、7時間に及ぶ酒場放浪をした。あれは面白かった。

つまり、人生って、悲しかったり可笑しかったり、面白かったりしょげたり。

これが私。また一年が始まる。

土いじり

2013-05-15 14:40:21 | 家・家族
我が家で開いている小さなスペイン語勉強会に、新しいメンバーが増えた。ずっとお仕事をされていた人だから、昼間に集まって
お茶を飲みながら勉強したりお喋りしたりするのがとても新鮮で楽しいと言ってくれる。話題豊富で明るい女性なので、勉強会の
雰囲気も華やいだ。
その彼女が、ウチの庭~といっても通路みたいな猫の額みたいな場所なのだけれど~に感心してくれる。僅かなスペースでも、
土と緑があると気持ちが良いそうだ。

私は面倒くさがりだから殆ど何もしない。雑草があまりにもはびこってくると、ようやく重い腰をあげる。あとはゴーヤの苗を植えて
水をやるくらいのものだ。(今年はミニトマトも植えた)



これは楓の木の下の三寸アヤメ。もう花は終わってしまったけれど、満開の時は素敵だった。ま、こんなふうに、何の世話もせず
ボーボーとした感じを楽しんでいる。

でも、せっかく感心してくれる人がいるのだから少しは工夫をしよう...と思い立って、玄関わきの小さなスペースにツツジを植えることに
した。そのスペースには、ここ十数年、雑草だか灌木だか分からないものが生えている。やたらビュンビュン延びる植物で、夏になると
紫色の小さな花をつける。今 調べてようやく名前が分かった。サルビア・グアラニチカ。南アメリカ原産だそうだ。道理でたくましい。
サルビア・グラニチカさん、申し訳ないけれどツツジに場所を譲ってください。
 サルビア・グアラニチカ 

母が植えて行ったような気もするので半分は残すことにした。地中に根が張り巡らされていて、抜くのに一苦労した。まだお休み中の
蝉の幼虫を5匹も起こしてしまった。別のところにソッと埋めておいたけれど大丈夫かな。
ようやく50cm平方ほどのスペースを作り、このまえ根津神社のツツジ祭りで買ってきた鉢植えの赤いツツジを植え替えた。花の時期は
過ぎて、今は優しい緑の若葉が出ている。このまま根付いてくれると嬉しい。
 手前の雑草は抜いてしまえばサッパリするかな。でも一生懸命 花を咲かせているので抜けない。

カーネーションの鉢は、数年前に娘たちがプレゼントしてくれたもの。毎年、花を咲かせてくれる。今年も蕾が沢山ついている。
まっすぐに育ってくれないのが悩みの種。
最近は花より団子だと思われているのか、カーネーションじゃなくて、こんなプレゼントを貰う。
 カステラ

土いじりをすると気分は爽快。シャワーを浴びてビールでも飲みたくなる。午後の仕事に差し支えるからアイスコーヒーで我慢。


このところ娘たちが赤ちゃんだった頃の服を取り出して、洗濯したりシミ抜きしたりもしている。
6月に孫が生まれるから使えそうなものは利用したい。
ベビー服の始末に困っていた時、母に言われた。「取っておけば、孫のときに使えるわよ。あっという間なんだから。」
そのときは孫が生まれる日が来る...なんて想像もできなかった。確かにあっという間だったかもしれない。
苦労して私を育ててくれた母に比べれば、私の子育ては平和に過ぎた。
ちっちゃなベビー服を着ていた娘が間もなく出産する。
 こんなのも出てきた。編み物にハマったこともあったっけ。

タフな経験

2013-02-14 12:04:03 | 家・家族
夫の病気は、しばらく前から血液検査で危険信号が出ていた。
自覚症状が殆どないので~あったとしても老化現象だから仕方ない…と納得できる程度のものだったのだろう~、
ほったらかしにしていたのだと思う。私も気にはしてはいたが、楽観的に受け止めていた。
夫が精密検査を受けると言いだしたのは小学校のクラス会のあとだったから、同年齢の人たちの話を聞いて、何か
気になるものを感じたのかもしれない。

よく「ある程度の年齢になると病気話で何時間も座が持ってしまう…」なんて話を聞くけれど、笑いごとではない。
お酒や食事の席で、冗談まじりに脅かされたり情報を得たりして、命が助かる人だっているのだもの。

手術は2月8日の午前8時に始まった。生まれてはじめて手術室の扉の前に立ち、扉が開くのを見た。夫は歩いて中に入った。
手術は、前日に説明をしてくれた若いドクターの他、ベテランの2人の先生による3人体制。頼もしい。私はPHSを手渡された。
摘出したら連絡するので○○号室に来るようにとの指示だった。
11時半過ぎに呼ばれた。若いドクターが「無事に摘出しました」と、ビニール袋に入った臓器をこともなげに差し出す。
ショックだったけれど、ちゃんと見なくてはと思った。ついさっきまで夫の体の中にあった臓器は、病に侵されているとは思えない
くらい生き生きとした色をしていた。「ありがとうございました」と頭を下げて部屋を出る。

朝から何も食べていなかったことに気付いて、作ってきたお弁当を、屋上庭園で開いた。
ああいう臓器を見せられたあとでよく物が食べられるなあ…と我ながら驚いたが、ホッとした気持ちの方が先だった。
無事に摘出...という言葉を頭の中で繰り返しながら、少し冷たい風に吹かれていた。

夫の回復も順調な昨日、家でスペイン語の勉強会があった。
臓器を見た話をしたら、メンバーの人たちが「私は妹の筋腫を見せられた」「私は父の胃を見た」と口々に経験を語りだした。
そうか、知らなかったけれど、みんなタフな経験をしているのだ。そういうことを胸に秘めて、みんな元気に生きているのだ。
私ももっと強くならなくては。

気にかけてくれた友人たち、毎日メールをくれた人、一緒に祈ってくれた仲間。皆さん、ありがとうございました。元気です。

夫の入院

2013-02-08 00:27:05 | 家・家族
夫の病気は殆ど自覚症状が無いから、新年を祝ったり、新年会で賑やかに過ごしたり、趣味を楽しんだり、恵方巻きを食べたり、
誕生会をしたり、そんなことをしているうちに入院の日を迎えてしまった。


病院は新しく立派で、埋め立て地にそびえている。中に入って機械に診察券を入れるとPHSが出てくる。これを首からぶら下げて、
呼び出し音が鳴ったら診察室に行けば良い。診察室の前で、いつ名前が呼ばれるかと聞き耳を立てる必要もないのだ。
まるでホテルにチェックインするみたいに入院手続きをする。5階の4人部屋だった。窓際で明るい。微かに、お小水の匂いがするのは
仕方ない、幸いなことに人間の嗅覚は麻痺しやすいのだ。


気持ちの良い屋上庭園もあるし、喫茶室は光にあふれている。
昼から夫は病院食。私は三女と一緒に喫茶室でコンビニ弁当を開いた。

病気というのは、手術や入院の費用だけでなく様々な出費がある。たとえば血の巡りが滞らないようにするためのストッキングとか、腹帯とか
食事代とか、交通費とか、10000円くらいあっという間に無くなってしまう。夫は比較的手厚い保険に入っていたから良かった。
速やかに診断給付金が出た時は驚きもしたし安心もした。メットライフアリコさん、ありがとう。宣伝するわけじゃなけれど、こういうことって
大切なんだよね。
でも「払ってばかりで元が取れないね。」って苦笑してた頃がなつかしい。

看護婦さんも、麻酔のドクターも執刀のドクターも皆、若くてきれいな人たちばかりだ。自分の娘とさして変わらない年齢の人たちが、支えて
助けてくれる。夫は回復を信じて落ち着いている。私も娘たちも、おろおろしてはいけない。
ドクターからの説明は予定よりも2時間遅れて始まった。オペが長引いたとのことだった。
大変なお仕事の疲れも見せず、「明日は万全を尽くします。」と言ってくれた若いドクターに頭を下げる。
夫がエレベーターのところまで送ってくれた。頑張って!!
今できるのは、信じて祈ることだ。心を込めて。

外に出ると、もう夕闇だった。モダンなデザインの駅の前には大きなホテルもある。

古ぼけた町で日常生活を送っている私は、こういう新しい街に来ると気おくれがする。
専業主婦をしている私は、きびきびと人の命を守って働いている人を見ると、自分が情けない。
自分が小さく無力に思える。でも落ち込んではいられない。気を取り直し、深呼吸して帰途についた。

一年の終わりの日々

2012-12-26 00:55:52 | 家・家族
12月24日、クリスマス・イブ。
三女が所属している団体のクリスマスイベントに招待された。
若い人が主流の集まりだが、壮年の人たちもいる。娘を通じて、いつのまにか夫や私にも新しい友達ができた。

ユーモラスな劇を見て久しぶりに笑いこけたり、本格的な歌や演奏やダンスに感心しているうちに、最後のコーラスになった。
舞台の上に、若者たちに交じって3人のオジサンが登場した。その中に特別出演の夫もいた。
娘と一緒に一生懸命リズムをとったり歌ったりしている夫を見て、ちょっぴり涙ぐんでしまった。

先月、夫はある病気を宣告され、来年2月には手術を控えている。心の中には不安があるにちがいないのに、夫はいつも淡々と
している。淡々どころか、こうやって陽気に歌っている。意気地が無いのは私の方だ。

隣の席には1年前に知り合ったM子さんがいた。プロとして音楽活動をしている彼女はとっても元気がいい。先週、腕の手術を
したばかりだというのに、イベントの応援に駆けつけてきた。コーラスが終わるなりM子さんは嬉しそうに言った。
「アイディアが浮かんだわ。来年のクリスマスは壮年だけでやりましょ!ピュさんもギターで出演してね。」

来年のクリスマス...。私は夫と共に舞台に立つだろう。いろんなことを克服して。

今年の初め、夫と私はスカッシュを始めた。初めは別々に打つ練習をしていた。ようやく打ち合えるようになった頃、私の膝が
ダメになった。それから夫が幾つかの検査で引っかかるようになった。
こんなはずじゃなかった。私たちは平和にアクティブに年を重ねていくはずだった。
今年はロクでもない年だ...。

そんなことないよね。
長女が結婚した。来年は初孫が生まれる。
夫と出会ったスペイン語サークルは30周年を迎えた。
夫は、初めて大舞台でオーケストラと共に「第九」を歌った。
私は、ずっと憧れていたエクセレントなギター合奏団に入れてもらって、合奏フェスティバルに出演した。
次女がディズニーシーに連れて行ってくれた。姑の97歳のお祝いに皆で湯河原に行った。
高校時代、大学時代、OL時代の友人たちと楽しい時間をいっぱい過ごしたし、新しい友達もできた。

そう、今年も良い一年だった。
来年の今頃も、きっと同じことを考えているだろう。

とりあえずお酒の話から

2012-11-24 06:12:44 | 家・家族
11月も残り少なくなった。
駅ビルはすっかりクリスマスの装いになり、売られている服もシックな秋の雰囲気から華やかな色とデザインに代わった。何歳になっても
この季節は胸が弾む。
スケジュール帳には忘年会の予定が3つ。他にクリスマス会とコンサートと落語、小旅行もある。まだ増えそうだし、家族の集まりも計画
しなくてはならない。
実は、2012年の残りの日々と来たるべき年を心から楽しむためには越えなくてはならないハードルが1つある。でも思い悩んでも仕方ない。

忘年会の皮切りは大学のOB仲間との飲み会。今回は、お酒や肴を持ち寄るホームパーティに決まった。みんな筋金入りの酒飲みだから、
どんなお酒を持っていくかが思案のしどころ。
バーボンの<オールド・グランダッド>はマイルドな味わいで今年の大発見。スコットランドのアイラ島で作られたウイスキーも美味しかった。
オールドグランダッド     マクレランズ アイラ

でも、冬はやっぱり日本酒だな。
で、思い出したのが9月のギター合宿のときに飲んだ<楯野川・出羽燦々>。バランスが取れた爽やかで飲みやすいお酒だった。
まだ仲間内で知っている人はいない。とっても美味しいのに、720mlだと1500円以下なのも自慢できる。
そういえば、先ほど書いたバーボンやウイスキーも1000円台で買える。
このくらいの価格で美酒を見つけるのが酒飲みの楽しみというものだ。
 楯野川

そのほかの最近飲んだ美味しい日本酒。
☆醸し人 九平次
  最初口に含んだときは独特の酸味に意外な気がしたけれど、日本酒特有のまったり感が無いから、いくらでも飲めてしまう。ネットで
  調べると売り切れ続出だなあ。サラブレッド米の山田錦を使った愛知県のお酒。うん?愛知県は娘のダンナの郷里…(してやったり顔)。

☆麒麟山
  辛口でスッキリと洗練された新潟のお酒。キレが良すぎるかもしれない。お刺身と相性抜群。
   麒麟山大辛



☆ ☆ ☆ ☆ ☆

今日一番書きたかったことは、照れ臭いから最後に。
昨日、三女と一緒に湯河原に行った。親子で参加するツアー企画で、娘が誘ってくれた。
あいにくの雨のためメインのみかん狩りは中止になってしまったけれど、ホントに素敵な一日だった。
プログラムの一つが「親子で褒めあい感謝しあう」というもので、手を握り合い目を見つめてお互いの良いところを言う。こういうの、
照れ臭くて苦手なんだけど、娘は素直に私を褒めてくれた。私は言葉に詰まり「生まれてきてくれてありがとう」と、それだけ言った。
口に出したら自然と涙が出てきた。周りの親子も、目を潤ませて語り合っている。こういうの、照れ臭くて苦手なんだよね。でも、とっても
幸せだった。
私は自分の母親に心から「ありがとう」と言ったことがあっただろうか。母の良いところを褒めたことがあったろうか。もう遅い。遅くない、
今度お見舞いに行ったら言おう。

長女は誠実な男性と結婚した。次女は来週、夫と私をディズニーシーに連れて行ってくれる。ワガママ母には、過ぎた幸せかもね。

竹島のストレス、ささやかな家族の幸せ

2012-08-17 02:31:50 | 家・家族
「冬のソナタ」に端を発した韓流ブーム、私は最初から乗り損ねていた。
ヨン様の笑顔にも惑わされなかったし、イ・ビョンホン様に至っては顔も浮かんでこない。韓国映画で心を動かされたのは「友へ~チング」
だけだった。 この映画、主演のユ・オソンの顔がイマイチだったせいか、日本のオバサマたちには受けなかった。
似たり寄ったりの日本の連ドラに比べれば、韓国のドラマは作りが丁寧で良いものが沢山ありそうなのだけれど、なぜか見る気にならない。
だからといって韓国嫌いというわけではない。韓国料理は大好きだし、感じの良い知り合いもいる。
でも今回の竹島問題は嫌な気持ちがした。支持率低下でヤケクソになった大統領の暴挙…ということなら致し方ないけれど、オリンピックという
場所で「独島(竹島)は我々の領土」とメッセージを掲げたり、島まで泳いで渡る俳優や歌手も現れ、日本のお嬢さんや奥様たちがお小遣いや
ヘソクリをはたいて築き上げた日韓友好もカタナシって感じがする。
韓国では反日感情が渦巻いているらしい。彼らの愛国心は、客観的に物事を見つめることを拒んでいる。
私たち日本人はどう対応すればよいのだろう。日本人は、韓国の旗を焼いたり反韓デモをしたりしない。それは冷静というより無関心や愛国心の
欠如から来ているような気もするけれど、それで良いのかもしれない。ここで日本までもがいきり立ったら状況はますます悪くなるだろう。
日本は「まことに遺憾である」とか言いつつ、様子を見るしかないのだ。
尖閣諸島も同様...。ストレスがたまるし、溜息が出る。
それにしても慰安婦問題。日本はひどいことをしてきた。それだけは忘れてはならないと思う。


さて、昨日は母の見舞いに行った。
娘の夫もしくは彼氏の運転でドライブする..という数年来のささやかな夢がようやく叶った。長女夫婦が、母のところに入籍の報告に行くと
いうので私も乗せてもらったのだ。
彼の運転はとてもなめらかで快適、やはり男の子は頼りになると思う。
久しぶりに首都高速を走る。「首都高を走ると東京の姿が良く見える」と言ったのは、若いころのボーイフレンドだったっけ。あれからン十年、
東京の姿は変わり、スカイツリーも名所の一つに加わった。
雲は多くても日差しが強かったから、景色がくっきりとして美しかった。
母はずいぶん穏やかな表情をしていた。去年の今頃は、つくばエキスプレスの三郷中央の病院にいた。人手が足りなかったのだろうか、舌に
白い苔のようなものが付着して固くなり、私のような素人が拭っても取り去ることができなかった。今の施設では丁寧に世話してもらっている。
舌もきれいだし、唇はリップクリームでつやつやしている。
「結婚したよ」と娘が報告すると、なんだか笑っているみたいだった。写真も撮った。
帰り道、弟夫婦のところにも寄った。
母の意識が戻らないのは悲しいことだけれど、皆が落ち着いてそれなりに幸せでいることは分かってくれているような気がする。

 首都高速からスカイツリーを見る。
 母のいる施設の近くの風景。ジリジリと暑い。
 おまけ。大田区の花火大会。

寂しい銘酒

2012-06-18 10:21:32 | 家・家族
昨夜、長女とお相手の青年が来た。いよいよ入籍ということになり、その挨拶だった。
一緒に暮らす→入籍→お式…という今どきのコース。
父の日でもあるし気の利いた店で食事でも…と思っていたら、長女は近所の居酒屋が良いと言う。
三女が幼稚園児の頃に開店した串焼きの美味しい店。家族連れが多く、お勘定のとき子供たちに
アイスクリームのお土産が渡される。アイスクリームを貰って喜んでいた娘たちは三人共とっくに成人した。

高級感のひとかけらもない狭い居酒屋が家族の思い出の場所…というのは情けなくも滑稽でもある。
でも、家族で笑ったりぶっちゃけ話をしたり楽しかった。
いつもかしこまっている彼氏は~これからは何と呼んだらいいんだろう。名前を「さん」づけで呼ぶのだろうか~
ようやく寛いだ様子を見せ始めた。

あちらのお父さまから青森の銘酒が届いた。なかなか手に入らない田酒、しかも大吟醸の「山田穂」と「短稈渡船」。
どちらも一万円くらいする。
酒好きの私にはもちろん喜ばしいけれど、高級酒と引換えに娘を取られるみたいな気がしないでもない。…などと
馬鹿げたことを考えるのは、娘の姓が変わることに気付いたからだった。
新しい姓名をつぶやいてみる。シンプルだけれどなかなか素敵な響きだ。ホッとしたような寂しいような。



人生は初体験に満ちている

2012-02-13 07:50:52 | 家・家族
長女の彼氏のご両親が挨拶に来た。
前夜は、古いアパートをそのまま使っている素敵な居酒屋さんで大酒を飲み、カラオケで暴れて?いた私だけれど、
もちろん180度違うすました顔をしてお客様をお迎えした。女もこの年齢になるとしたたかなのである。

父君は地位のあるお方で、なかなかとっかかりが見つからない。母上は、私のようなグ―タラ主婦とは違うキャリア
ウーマン。したたかなはずの私は背中に汗をかき、言葉を選び、次の出方をさがす。
テーブルをはさんで「今後共よろしく」と頭を下げる両家。落ち着き払って見えるあちらのご両親にしても、私たちと同様
こういうのは初めての経験だから、内心は緊張していたのかもしれない。
新幹線で帰るご両親を見送る。いつかこういう日が来るのかなあとボンヤリ考えていた。そしてその日がきた。
全く違う土地で異なった人生を歩んできた2組の夫婦が、偶然や必然の糸をたぐって出会う。次女のときも三女のときも、
また違う人たちと挨拶を交わすのだろう。

夜は若い2人の招待で、2人が知り合った路地裏の小さな居酒屋さんで飲んだ。
仕事で悩んでいた頃の長女が、ふっと足を踏み入れた店。若い女の子が一人で入って来たとき、マスターとママは心底
驚いたという。その店に仕事の先輩に連れられて来たのが彼だった。店は2人を温かく見守ってくれた。
「今日は貸し切りだからゆっくりしてね」とママが陽気にビールを注いでくれた。おめでとう...と乾杯。心づくしのお料理が
次々に出され、私は珍しくお湯割りの泡盛を頼んだ(いつもはロック)。なんだか温かい気持ちだったから。
夫も寛いで飲んでいる。

嬉しくもあり温かくもあり寂しくもあり、親としての人生が確実に「老い」に向かっていることも感じる一日だった。
そんなことを考えながら帰宅してパソコンを開けると、いろんなメールが来ていた。忘れていた3月のプランもあった。
そう、私は親であると同時に、誰かの友達だったり仲間だったりもするんだ。だからまだ若い。
何に出くわすか分からない日々を楽しまなくちゃ。何歳になっても人生は初体験に満ちている。

どこか寂しいハッピーニューイヤー

2012-01-01 05:25:42 | 家・家族
毎年、年末最後の3日間は慌ただしい。掃除、買い物、年賀状書き…。大晦日の夕方からは、お節料理作りが始まる。
そして一年の最後の最後はテレビ東京のジルベスターコンサートを見る。番組は、年を越す瞬間に曲の演奏が終了するように
構成されている。そして私も、その曲が終わると同時に皆で年越しソバが食べられるようカウントダウンで調理を始める。
いつも大騒ぎだ。「お母さん、早く!」「もうすぐ曲が終わっちゃうよ!」「10、9、8、7…」。必ず間に合う。
今年は曲(ラヴェルの『ボレロ』)が4秒くらい早く終わってしまいテレビが一瞬しいんとなったが、年越しソバは例年通り
ピッタリ出来あがった。夫と2人で食べた。

娘たちが小さかった頃の賑やかな年越しのことを、記録に残しておけばよかった。毎年同じように過ぎたから当たり前すぎて
大切にも思わず意識もせずに過ごした。こんな風に夫と2人だけで年越しをする日が来るなんて考えてもいなかった、あの頃。
仕方ない、娘たちは大好きな人や気の合った仲間たちと楽しい新年を迎えているのだから。

あと何時間かすると年賀状が届く。
母からは毎年、私たち夫婦、長女、次女、三女、それぞれに年賀状が届いた。娘たち3人には5000円ずつお年玉も届いた。
膝が悪くなってから母が東京に来ることは無くなった。7~8年、もっとかもしれない。その代わり母は、娘たちの誕生日と
新年に必ずお小遣いを送ってよこした。アルバイトや就職でお金を得るようになった娘たちにとって、5000円はいつか
大金ではなくなった。それでも母は少ない年金の中から送り続け、娘たちは受け取り続けた。それが絆だったから。
娘たちは「おばあちゃん」に電話をかけ、礼状やプレゼントを送った。クリスマスカードや年賀状に寄せ書きをした。
それが絆だった。

今年は母から年賀状が来ない。お年玉も来ない。私たちも寄せ書きの年賀状を出さない。
母が倒れて、間もなく1年になる。意識が戻ることは無かった。
母がこんこんと眠り続けている施設は遠い。でも娘たちは月に1~2回は見舞いに通っている。
ここ7~8年(もっとかもしれない)滅多に会うことのなかった「おばあちゃん」を、彼女たちは忘れることが無い。

大晦日に松前漬けを作った。今ではスルメも昆布も細切りされたものがセットになっている。ニンジンを刻んで一緒に調味液に
漬け込むだけの簡単な作業だ。
私が子供の頃はセットなんて無かったから、スルメも昆布も根気よく鋏で切った。切るのが私の役目。母はニンジンを刻んだ。
高価な数の子は入れなかった。だから私も入れないで作った。

今、私は2012年の最初の朝を迎えようとしている。夫は眠ってしまって、私1人でパソコンに向かっている。
つかの間の独りぼっち。この延長線上に何があるのだろう。
でも、先のことは考えないことにしよう。今が大切。

2011年は悲しいことが多かった。2012年は平和な年になりますように。



お見舞い

2011-06-24 11:21:32 | 家・家族
母が倒れてもうすぐ半年になる。駅から病院までの殺風景な道をコートの襟を立てて見舞いに通っていたのが、今では日傘を
差すようになった。一昨日は思いきり暑かった。
きちんと整地された分譲地だらけの道に飽きて、最近は裏道を行くようにしている。裏道の方は草ぼうぼうの空き地だらけ。
うわんと生い茂った雑草の熱い息づかいを感じる。道ばたの花も美しい。
近くに小学校があるはずなのに子供の姿を見かけたことが無い。極めて人口密度の低そうな地域だから子供の数も少ないのだろう。
それにしても、こんなに魅力的な雑草が満ち満ちているのだから、こっそり探検をしたり、おままごとをしている子供がいても
良さそうなものだ。私が小さかった頃は、徒党を組んで暗くなるまで空き地をほっつき歩いていた。葉っぱや花や種を刻んだり
すり潰したりして、様々な料理を作ったものだ。
今の子は、「危ないから外で遊ばないように」と言われているのだろうか。病院に近づくまで、大人の姿さえまばらだ。
「幅員減少。注意」という立て看板がある。幅員ってどんな係の人たちのことなんだろう…と思ったら、人ではなくて道幅の
ことだそうだ。道幅って書けば良いのに。

母は意識がもどらないまま、それでも落ち着いた様子を見せはじめていた。先月、夫と訪ねたときは微笑んでいるような表情だった。
そのあと腹膜炎を起こし手術後は強い薬で眠っていたが、一昨日は傷も癒えて普通病棟に戻っていた。
予想していたより早い回復にホッとして病室に入った。だが母は険しい顔をしていた。
声をかけても聞こえないのか、こちらを見ようともしなかった。首のところが赤く化膿していた。
母は、こんな風に生かされていることに腹を立てているのではないか…。母は、こういう状態になることを望んでなどいなかった。
潔い人なのだ。そう思うとつらくて、あまり長いこと病室にいられなかった。
でもいつかまた母が穏やかな顔をするようになったら、そんな風に考えたことを悔いるだろう。

母が倒れてから半年の間に震災があり多くの命が失われた。親しい友人二人のお父さまが病死された。
母は生きている。私も生きている。
私は暗い気持ちで暮らしている訳ではない。気持ちが沈むこともあるけれど、家族や友人たちと明るい時間を過ごし、ギターを弾き、
スペイン語を学び、仲間たちとコーヒーやお酒を飲む。コンサートやライブを楽しみにし、定期演奏会に着る衣装を女友達と
探している。いろんな私がいる。いろんな私に支えられている。

今、母はどんな顔をして眠っているだろう。優しい顔になっていてくれたらいい。

浅草 煮込み通り、別名、ホッピー通り

2011-02-15 11:54:21 | 家・家族

ギター演奏会の写真をプリントしに近くの写真屋へ行く。気弱そうなオーナーは実は仕事がとても丁寧。出来あがりを
待っていると元気なオバチャマが入ってきた。よく喋る。年に何度も海外旅行に出るらしい。丈夫で気力があって裕福。
聞けば母と同い年だという。神様は不公平だな…と苦い気持ちになったが、すぐにそういう思いを振り払う。母だって
倒れる直前まで弟一家と暮らし、忙しいお嫁さんの代りに主婦業までしていた。なくてはならない存在だったのだ。
誰にも明日の姿は見えないから、人を羨むことなく今日を大切に生きるしかない。

母のお見舞いに行くようになって、つくばエクスプレスが親しい存在になった。秋葉原→新御徒町→浅草→南千住→北千住…
このあたりまでは馴染みのある駅名だが、そのあとは青井とか六町とか聞いたこともない名称になる。
埼玉県・千葉県を通り、茨城県の「つくば」まで一時間弱で行く。筑波山は今、梅が見頃らしい。

病院のある駅は数年前まではのどかな田園地帯だったはずだ。つくばエクスプレスが開通したせいで、分譲地だらけになって
しまった。
あと5年もすると整った住宅地になるのだろうけれど、今は町でも村でも田畑でもない中途半端な風景が続いている。
空がやけに大きい。

日曜日は夫と一緒にお見舞いに行った。
一人で行って一人で母と向き合うと帰り道が妙に寂しいが、夫が一緒だと心強い。
浅草で降りてみよう…ということになった。

娘たちが小さかった頃は毎年のように浅草に初詣に行った。銀座線の浅草で降りて、雷門から仲見世をぶらつきながら
浅草寺の観音堂へ向かうのが常だった。
ちょっとしたお土産を買い、何か食べて帰る。電気ブランで有名な「神谷バー」に寄ったり、どことなくいかがわしく
インチキくさい遊園地~花やしき~で遊んだことも何度かあったが、それ以外の浅草は知らなかった。

つくばエクスプレスの浅草駅を出ると何だか雰囲気が違う。観光地の仲見世の賑わいとはまた違う、もっとオープンで
生活臭さのある通りが幾筋もある。
銀座線のある通りはどこ?浅草寺はどっち?などとウロウロしていると、いきなり目の前にスカイツリーが現れる。
うわ、いつも見ているのより大きい。大きいのは苦手だけれど、空が青いせいか夫が一緒のせいか嫌な気はしない。
そういえば浅草にはスカイツリーを眺める絶景スポットがあるらしい…こんな感じ(これは、拝借した画像)。

そのスポットもどこにあるのか分からない。

歩いているうちに驚くべき通りに出た。右も左も飲み屋ばかり。

店先にまでテーブルが並び、昼間だというのに酔客でごったがえしている。
これ、以前ネットで見たことのある「煮込み通り」かもしれない…と飲兵衛の血が騒ぎ始めた。
せっかく来たのだからと賑やかな店に入ると、威勢のいいお兄さんがすぐに注文を取りに来た。このあたりはホッピーが
主流らしいので、白と黒を頼んでみだ。
実は今までホッピーというお酒を飲んだことが無かった。ビールを炭酸で割ったものなど邪道だし不味いに決まっている
と思っていた。意外にさっぱりして不味くはなかった。白と黒はビールの違いで、黒の方がややコクがある。
氷の入った大ジョッキに注いで夫と乾杯。
肴は、焼き鳥の盛り合わせ、牛筋煮込み、ピリ辛こんにゃく、味噌キャベツ…食が進む。特に美味しいという訳でもなく
値段も安くは無かったが、気取りのない昭和の香りがする浅草を感じて楽しかった。

外に出て、またウロウロと浅草寺を探す。木馬亭という大衆劇場があった。

ちょうど舞台がハネたらしく、役者さんたちが外に出てお客さまと握手を交わしていた。こんな大道芸人もいた。

そうこうしているうちにやっと浅草寺に辿り着いた。

つくばエクスプレスに乗らなければ知ることのなかった浅草。
ギター合奏も良いけれど、少しはダンナとデートでもしなさい…と、母が取り計らってくれたのかもしれない。