私が所属している地元のギター合奏団は2年に一度、定期演奏会をする。
演奏会の無い年は、サークル内でミニ・コンサートが開かれる。各自1曲、独奏をしなくてはならない。
合奏や重奏が好きでギターを弾いている私にとって、身内のコンサートとはいえ、ちゃんとしたホールで、
皆の注目を集めてソロを弾くのは苦痛以外の何物でもない。2年前のミニ・コンサートの折は適当な理由を
つけて休んだが、今年は逃げなかった。
持ち曲はビラ・ロボスの「ショーロ1番」。私にとってはかなりの難曲で、人前で弾く勇気など無かった。
でも、弾こうと思った。
月曜日の夕方、入院中の母の容態が急変したと知らせがあった。電車とバスを乗り継いで病院に着いたときは
夜の8時を過ぎていた。一時は危篤に近い状態だったそうだが、だいぶ落ち着いていた。
それから毎日、見舞いに通った。木曜日の夜はもう疲れ切っていたけれど、ミニ・コンサートに出かけた。
母の病気を理由に苦手なことから逃げたくなかったのだ。口実に使われたら母は怒るだろう。そういう人だった。
演奏は、かろうじて弾けた...という程度だったが、自分では達成感があった。
翌朝、4時前に電話があった。まだ薄暗い街に飛び出す。電車に乗って次の駅に着いた頃、連絡が入った。
母は遠い世界に旅立ってしまった。
ギターなど弾きに行かず、病院に泊りこんでいれば良かった...とは思わなかった。母は、私が弾き終わるまで
待っていてくれたのだ。これからの人生、逃げちゃダメよ...と肩を押してくれた。
母の容態が悪化した日の一日前、母の若い甥の結婚式があった。母は、甥の結婚式が終わるまで待っていた。
そういう人だった。誰かの迷惑にならないように、邪魔をしないように、いつも人のことばかり気遣っていた。
最後までそうだった。
脳梗塞で倒れて3年10カ月。意識が戻らないまま、母は逝ってしまった。
年月をかけて、私たちが出来るだけ悲しまないように、母はゆっくりゆっくり別れを告げてくれた。
死顔は美しかった。母は美人だったから。誰もが「きれい...」とつぶやいていた。
通夜と告別式は、お寺や斎場ではなく、弟の家で行われた。母が暮らしていた、庭に面した和室に祭壇が作られた。
通夜の日は一日雨だった。告別式は晴れて心地よい風が吹いていたから、庭に椅子を並べた。母が丹精した庭木の間を
朗々とした読経の声が流れて行った。
母は小さな骨壷に入って、再び家に帰って来た。
ごく内輪の親族が残って、お線香をあげたり、庭木を眺めたり、お茶を飲んだり、思い出話をしたりした。
悲しかったけれど和やかなひとときだった。
弟の家族。私の家族。ずっと仲良くお付き合いしている母の妹の家族、結婚したばかりの母の甥もいた。
私の小っちゃな孫が何にも知らずにはしゃいでいた。
それから母の写真をまん中にして皆で写真を撮った。悲しかったけれど、何だか幸せな気持ちだった。
母の最後のプレゼントだと思った。
母の告別式の朝、咲き始めた。西洋朝顔は夏には咲かない。秋になって静かに花開く。
演奏会の無い年は、サークル内でミニ・コンサートが開かれる。各自1曲、独奏をしなくてはならない。
合奏や重奏が好きでギターを弾いている私にとって、身内のコンサートとはいえ、ちゃんとしたホールで、
皆の注目を集めてソロを弾くのは苦痛以外の何物でもない。2年前のミニ・コンサートの折は適当な理由を
つけて休んだが、今年は逃げなかった。
持ち曲はビラ・ロボスの「ショーロ1番」。私にとってはかなりの難曲で、人前で弾く勇気など無かった。
でも、弾こうと思った。
月曜日の夕方、入院中の母の容態が急変したと知らせがあった。電車とバスを乗り継いで病院に着いたときは
夜の8時を過ぎていた。一時は危篤に近い状態だったそうだが、だいぶ落ち着いていた。
それから毎日、見舞いに通った。木曜日の夜はもう疲れ切っていたけれど、ミニ・コンサートに出かけた。
母の病気を理由に苦手なことから逃げたくなかったのだ。口実に使われたら母は怒るだろう。そういう人だった。
演奏は、かろうじて弾けた...という程度だったが、自分では達成感があった。
翌朝、4時前に電話があった。まだ薄暗い街に飛び出す。電車に乗って次の駅に着いた頃、連絡が入った。
母は遠い世界に旅立ってしまった。
ギターなど弾きに行かず、病院に泊りこんでいれば良かった...とは思わなかった。母は、私が弾き終わるまで
待っていてくれたのだ。これからの人生、逃げちゃダメよ...と肩を押してくれた。
母の容態が悪化した日の一日前、母の若い甥の結婚式があった。母は、甥の結婚式が終わるまで待っていた。
そういう人だった。誰かの迷惑にならないように、邪魔をしないように、いつも人のことばかり気遣っていた。
最後までそうだった。
脳梗塞で倒れて3年10カ月。意識が戻らないまま、母は逝ってしまった。
年月をかけて、私たちが出来るだけ悲しまないように、母はゆっくりゆっくり別れを告げてくれた。
死顔は美しかった。母は美人だったから。誰もが「きれい...」とつぶやいていた。
通夜と告別式は、お寺や斎場ではなく、弟の家で行われた。母が暮らしていた、庭に面した和室に祭壇が作られた。
通夜の日は一日雨だった。告別式は晴れて心地よい風が吹いていたから、庭に椅子を並べた。母が丹精した庭木の間を
朗々とした読経の声が流れて行った。
母は小さな骨壷に入って、再び家に帰って来た。
ごく内輪の親族が残って、お線香をあげたり、庭木を眺めたり、お茶を飲んだり、思い出話をしたりした。
悲しかったけれど和やかなひとときだった。
弟の家族。私の家族。ずっと仲良くお付き合いしている母の妹の家族、結婚したばかりの母の甥もいた。
私の小っちゃな孫が何にも知らずにはしゃいでいた。
それから母の写真をまん中にして皆で写真を撮った。悲しかったけれど、何だか幸せな気持ちだった。
母の最後のプレゼントだと思った。
