ずいぶん前の話だけれど、アメリカに留学していた友人が「今、アメリカでは、<It’s a SONY>っていうフレーズを
『すげー』とか『すばらしい!』という意味で使っている。」と教えてくれたことがあった。
<It’s a SONY>は、ソニーのコマーシャルのキャッチフレーズだった。ソニーの製品は革新的で性能が良く、しかも
洗練されていたから、さもありなん、と思った。
と同時に、アメリカ人からも感服されるような製品を作り出している我が日本を誇らしく感じたものだった。
ソニーのウォークマンが発売されたときは驚き感動した。音楽は家や名曲喫茶で聴くもの...という常識が覆されたのだから。
いつでもどんな場所でも、好きな音楽をきれいな音で聴けるなんて夢のようだった。
お小遣いをはたいて最初のウォークマンを買った。お弁当箱くらいの大きさで、それなりにかさばったけれど、もちろん
気にならなかった。間もなく更に小型のものが発売されてムッとしたが、最初のウォークマンはスペイン旅行にも連れて行った。
スペインの若者たちが目を見張り、私は鼻高々だった。
あれから長い歳月が過ぎ、今は小さな携帯電話で手紙も出せるし音楽も聴ける。写真も動画も撮れる。知りたいことはほとんど
出てくる、買い物もできる。
でも、お弁当箱くらいのウォークマンを手にした時ほどの感動は無い。どんなに機能が増えても、当たり前のような気がして
しまうのだ。
子供の頃、街はネオンサインで溢れていた。ただ光っているのではなく、様々な色の絵や文字が絶え間なく動いていた。どういう
規則で変化しているのだろう...と目をこらして見つめていた。
映画のポスターや大きな看板がいたるところで目を引いた。どぎついのや卑猥なのも平気で人目にさらされていた。チンドン屋が
町を練り歩き、空にはアドバルーンが浮かんでいた。品はなかったけれど活気があった。
子供の頃、時代はクレッシェンドだった。
それからソニーやパルコやJunやVanが台頭した。洗練が始まったのだ。まだ時代はクレッシェンドだった。右肩上がりの経済。
世界が注目する日本。CD、ビデオ、ディズニーランド。
スペイン語の仲間が、「部品を詰め込んだトランクを抱えて、南米の小さな空港に降り立ったときの不安と、奮い立つ思い」を
語ってくれたことがあった。そういう情熱が日本を支えてくれた。
デクレッシェンドはいつからだっただろう。
美しいビルが建ち、洗練された品物が売られ、これでもかこれでもかと機械の性能が向上しているのに、何だか豊かな気がしない。
将来への不安を、うわべの豊かさで紛らわしているように感じる。
<It’s a SONY>の時代はとっくに終わった。日本はもう世界の注目を集める経済大国ではない。
クレッシェンドの時代を知っている私は、どこかでそれを寂しく思っている。
『すげー』とか『すばらしい!』という意味で使っている。」と教えてくれたことがあった。
<It’s a SONY>は、ソニーのコマーシャルのキャッチフレーズだった。ソニーの製品は革新的で性能が良く、しかも
洗練されていたから、さもありなん、と思った。
と同時に、アメリカ人からも感服されるような製品を作り出している我が日本を誇らしく感じたものだった。
ソニーのウォークマンが発売されたときは驚き感動した。音楽は家や名曲喫茶で聴くもの...という常識が覆されたのだから。
いつでもどんな場所でも、好きな音楽をきれいな音で聴けるなんて夢のようだった。
お小遣いをはたいて最初のウォークマンを買った。お弁当箱くらいの大きさで、それなりにかさばったけれど、もちろん
気にならなかった。間もなく更に小型のものが発売されてムッとしたが、最初のウォークマンはスペイン旅行にも連れて行った。
スペインの若者たちが目を見張り、私は鼻高々だった。
あれから長い歳月が過ぎ、今は小さな携帯電話で手紙も出せるし音楽も聴ける。写真も動画も撮れる。知りたいことはほとんど
出てくる、買い物もできる。
でも、お弁当箱くらいのウォークマンを手にした時ほどの感動は無い。どんなに機能が増えても、当たり前のような気がして
しまうのだ。
子供の頃、街はネオンサインで溢れていた。ただ光っているのではなく、様々な色の絵や文字が絶え間なく動いていた。どういう
規則で変化しているのだろう...と目をこらして見つめていた。
映画のポスターや大きな看板がいたるところで目を引いた。どぎついのや卑猥なのも平気で人目にさらされていた。チンドン屋が
町を練り歩き、空にはアドバルーンが浮かんでいた。品はなかったけれど活気があった。
子供の頃、時代はクレッシェンドだった。
それからソニーやパルコやJunやVanが台頭した。洗練が始まったのだ。まだ時代はクレッシェンドだった。右肩上がりの経済。
世界が注目する日本。CD、ビデオ、ディズニーランド。
スペイン語の仲間が、「部品を詰め込んだトランクを抱えて、南米の小さな空港に降り立ったときの不安と、奮い立つ思い」を
語ってくれたことがあった。そういう情熱が日本を支えてくれた。
デクレッシェンドはいつからだっただろう。
美しいビルが建ち、洗練された品物が売られ、これでもかこれでもかと機械の性能が向上しているのに、何だか豊かな気がしない。
将来への不安を、うわべの豊かさで紛らわしているように感じる。
<It’s a SONY>の時代はとっくに終わった。日本はもう世界の注目を集める経済大国ではない。
クレッシェンドの時代を知っている私は、どこかでそれを寂しく思っている。