八木亜希子さんが、著書を出されたそうでその紹介文を読んで
思い出したことがある。
>「矢ガモ事件」について、「残酷な事件でしたが、よってたかって報道するほどのことなのか、と、報道する側の人間として疑問に思いました」
趣旨はまことにもって、よく分かるのだが、思い出すエピソードというのはこうだ。
川端健嗣さんが司会をやり、八木さんがアシスタントをやっていた頃の、フジの
朝のワイドショーに私は月1か2でコメンテーターで出ていたことがある。
その頃の逸話である。
番組エンディングの時間が近いCMの間に、ゲストは川端さんから当日の話題で
心に触れたものがあるかどうか訊かれ、エンディングはゲストの短いそのことへの
コメントで締めるという構成だった。
当日の話題には矢ガモが入っていて、私はそれについてコメントしたいことが
あったので、「矢ガモです」と答えたら、「そんなものもういいっ!!」と低い声音ではあったが、ヒステリックに叫んだのは八木さんで、川端さんは絶句、私も唖然とするうち、CMが明けて締めになったが結局、矢ガモは話題に出来ない有り様だった。
私は、彼女の著書でその時の真意を知るまでもなく、彼女のヒステリーの
原因はとっさに判断がついてはいた。連日の矢ガモは報道にうんざりしていたのであろうと。
それは私とて同じであったから。ただ、私がエンディングで言おうとしていたのは、
まさにそれで、うんざりはするだろうが、こんなことが連日話題になるということは
一面、日本人の優しさでしょう。というのが私の言いたいことであったのだ。
視聴者共々のうんざり感を感じていたからこそ、ちょっとひっくり返してみたかった。
局アナの身で、先輩でもあれば、メインの司会者でもある川端さんを遮って、ゲストの発言を封じる女子アナにたいそう驚いたので、記憶に残っている。
朝、スタジオに入りすでにアシスタント席にいる八木さんに
「おはようございます」と挨拶したら、手鏡に向かって口紅を塗っていた
八木さんは、鏡に視線をあてたまま「ふん」と顎を上げ、挨拶を返してくれたこともある。
いろんな局に出入りして、いろんなアナウンサーの方にもお会いしたが、
顎をしゃくってフンと挨拶してくださったのは八木さん唯一である。
今もテレビでにこやかに感じ良く務める彼女を見かけると、私は、表と裏の顔の
使い分けを知る者として、いつも思い出し笑いしてしまう。
脚本家としてはまことに面白い。もうちょっと観察していたかった。
ワイドショーという場がもともと嫌いだったようで、それは彼女の半端な知性の
証ででもあろうと思うのだが、テレビ局を職場に選んだ人が特別なのでもなく、
身分は他のサラリーマンと同じである。配属された仕事場が嫌いだからといって
外からの客に当たり散らすことはない。半端だというのは、真に知性の持ち主で
あるなら、ワイドショーというごった煮の卑近な場を飲み込んで、自分流に昇華することも
可能だからである。
だが、実のところ優等生よりも八木さんのような、癖のある破れた女性のほうが
観察対象としては、面白い。裏表の使い分けも、八木さんほど
正直に見せてくれる女性はいなかったので、物書きとしての財産になっている。
ヒロインキャラには使えないが、サブキャラの一つのパターンとして
面白い。
しかし、バンキシャでしばらくお付き合い頂いた女優さんも、現在の女性アシスタントさんも品よく人柄よく、頭脳優秀で礼儀正しく持ち場を心得、こちらはこちらで好もしい。
面白い記事を書いてくださいましてありがとうございます。 この八木亜希子というアナウンサーは、確か主婦からの評価がすごく低かったと記憶しています。もっちりとしたしゃべり方はアナウンサーらしくなく、可愛子ぶってはいても、可愛くなく、性格の悪さを濃厚にかもしだしていました。 今は、BSで政治番組のアシスタントをしていますが、相変わらず何が言いたいのか解らないしゃべりをしています。政治関係のみならず経済その他も無理でしょうという感じです。先生のエピソードを読み、やはり性悪だったんだなと再確認しました。
(笑)
追伸・・・「神道は宗教か宗教でないか」の最後のコメントへのご配慮ありがとうございました。
お願いしましたら明らかに嫌な顔をされ
ところがカメラを構えたらまるで別人のような
笑顔でした…終わると
同時に知らん顔して
後ろ向きに(笑)その方は再婚したご主人と○○
キャラの娘さんを残し
若くして亡くなってしまいましたが…裏と表を
ハッキリ見た気がしました
それでまた、其の類の女人は図に乗って~のループ状態になるのです。ああ、嫌だ嫌だ・・。
以前に話題にいたしました被爆した親類の話をしたいと存じます。矢張り、重い話なのでスラスラとは纏りませんでした。
長崎か広島かは伏せさせていただきます。
仮にAと呼ばせていただきます。
Aの暮らしていた村落は十二単の襟のように重なった山襞の遥か向こうに、微かに光る街並が望める場所でした。其の日、農作業中にふと街並の方を見ると、突然にポッと光が見え、直後に街並を包む光の玉となった。驚くとかではなく、胃が硬直するような衝撃だったといいます。
当時四十代、長男、兵役は終えていた。で、徴兵の代わりと言うか、よくわかりませんが村落の予備役的な組織の長の役目をしていたそうです。近隣の村落と救護隊を組織して、急いで出発した。
村の代表としてA一人だったのかは知りません。村落の男性が全員出たのではなかったようです。
鉄道が途中までしか通じていなかったので、歩いて市内に入った。同行した人と、「これは今迄の爆弾と違う。」と話し合ったそうです。私は当時の庶民が此処までの洞察力を持っていたことに驚いています。彼等の推測は爆発時の光の出方、その後の火災の煙の上がり方が基になっていたそうです。
話に戻ります。
市内に入る前から惨い状況を目にし、大変な事だと思いながら、何とか軍の救護所に辿り着いた。救援隊として入ったが、仕事は遺体の埋葬だった言っていました。救護所に歩いて来た人の殆どが次の日には亡くなってしまった。其のうち、薙ぎ払われた街中で放置された遺体を集めて兎に角埋葬する役に廻った。そんな作業をして何日目かに、吐き気と下腹部痛に襲われ、便所へ行く間もなく、物陰で用足しをしたら、吐血と下血をしてしまった。
それでも頑張って、決められた日数(一週間くらい?)は活動をし、村落へ帰った。軍からはやんわりと口止めをされたが、簡単に口に出来るような経験ではなかった。と言っていました。
帰宅してからAはガックリと寝込み、其の儘、終戦を迎えた。夏が終わってから、やっと歩けるようになったが『力士さん』と言われるほどに恰幅が良かったのに、ガリガリになっていて、元の体格には戻らなかった。
その後、二次被爆での被爆者手帳は貰ったが、妻にしか其の事は言わなかった。Aの子供達は大人になるまで、其の事実は知らなかった。戦後一年目くらいに生まれた子に影響は出なかった。
ずっと沈黙を通していたのを破ったのは、被爆記念施設で「リメンバーパールハーバー」の言葉を聴いたから。その後、近しい人に少しずつ話すようになりました。Aは戦後20年以上経ってから、すい臓癌で亡くなりました。
ワイドショーで井沢先生、山田美保子さん、井上公造さんと芸能界裏話のようなコーナーに出演されていたように思うのですが、
先生のブログに最近体重が増えたという内容のものを
お見かけしたので、
あの当時は痩せていた印象があったので何年くらい前だったのかとふと思いました。
もうたぶん、8年ぐらい前?
忘れました。山田さんや井上さんたちの
「まんさまー」というコールで登場するという
非常に恥ずかしい演出でしたね。
あれでも、肥っていたのです。一番痩せて
いた頃よりは、相当に。
ダイエットなど一生縁がないだろうと思っていたのに。