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「無我の境地」古来の知恵
東京大学名誉教授 養老孟司氏
人間の脳は言葉を話し、聞き、かつ読み書きもできる。一方、特定分野に突出して能力を持つ「サヴァン症候群」の人たちにとっては、この聴覚と視覚の間の連携がうまくいかない。だから音楽(聴覚)、絵画(視覚)など単体で飛び抜けた能力が現れる。コミュニケーションとは違うものをつなぐ能力だ。当然、他人とのコミュニケーションがうまくいかない。言葉もうまく出ない。
サヴァンの脳は異質な部位の連合ができないだけで、恐らく特別なものではない。脳の能力をフルに使えば、あれだけの驚くべき能力が出るということだ。我々は自分の脳のことを意識のもとですべて把握しているわけではない。
ところが現代人は脳で考えたことを外の世界に投影し、意識を中心にして人工物を営々と作ってきた。論理によって組み立てられたこの一面的な世界が「脳化社会」だ。文明、都市と言ってもいい。
そこでは「脳も体の一部に過ぎず、無意識が人間の行動を左右している」という重要な事実が忘れ去られてしまった。
人間は自分の脳のことはせいぜい、「眠い」とか「頭が痛い」ぐらいにしか把握できない。意識は決定的ではない。その証拠に、大事なことは論理で進まない。感情で決まる。誰が「あなたと一緒にいるのが論理的に得と判断した」と結婚を申し込むだろうか。
「衣食足って礼節を知る」ということわざの意味は深い。「頭ではなく、体を優先せよ」ということを教えているわけだ。
生物というのはもともと、次の瞬間にどう動くのか決まっていない。最も抵抗なく次の行動に移れるのは、ふわっとした状態だ。どこかに力が入っていると、ある方向に動きやすくても、別の方向には動きにくくなる。
剣の極意は「心をどこにも置くな」という教えだ。相手や自分の剣に集中しピンと神経が張っている状態ではなく、無心で構えている一見無防備な状態が、すなわち「隙がない」状態になる。日本人は古来、無意識の重要性をよく知っていたのだ。
キリスト教、ユダヤ教など一神教の世界の共通基盤は旧約聖書だ。天地創造という始まりと、最後の審判という終わりが決まっていて、すべての死者は最後に神の前で裁かれる。だから「不変の自我」という概念が、文化の根本に据え付けられてしまっている。
対照的に、禅宗などは昔から「自我を捨てろ」と説いてきた。無我で良かったのに、日本人は西洋流の自我を輸入し、「頭で考えれば何でも解決する」「みんな自我を持っている」と錯覚し始めた。
人間の知性を考える時に、体や無意識を含めずに考えても意味がない。知性とはそういう総合的なものだろう。
「無我の境地」古来の知恵
東京大学名誉教授 養老孟司氏
人間の脳は言葉を話し、聞き、かつ読み書きもできる。一方、特定分野に突出して能力を持つ「サヴァン症候群」の人たちにとっては、この聴覚と視覚の間の連携がうまくいかない。だから音楽(聴覚)、絵画(視覚)など単体で飛び抜けた能力が現れる。コミュニケーションとは違うものをつなぐ能力だ。当然、他人とのコミュニケーションがうまくいかない。言葉もうまく出ない。
サヴァンの脳は異質な部位の連合ができないだけで、恐らく特別なものではない。脳の能力をフルに使えば、あれだけの驚くべき能力が出るということだ。我々は自分の脳のことを意識のもとですべて把握しているわけではない。
ところが現代人は脳で考えたことを外の世界に投影し、意識を中心にして人工物を営々と作ってきた。論理によって組み立てられたこの一面的な世界が「脳化社会」だ。文明、都市と言ってもいい。
そこでは「脳も体の一部に過ぎず、無意識が人間の行動を左右している」という重要な事実が忘れ去られてしまった。
人間は自分の脳のことはせいぜい、「眠い」とか「頭が痛い」ぐらいにしか把握できない。意識は決定的ではない。その証拠に、大事なことは論理で進まない。感情で決まる。誰が「あなたと一緒にいるのが論理的に得と判断した」と結婚を申し込むだろうか。
「衣食足って礼節を知る」ということわざの意味は深い。「頭ではなく、体を優先せよ」ということを教えているわけだ。
生物というのはもともと、次の瞬間にどう動くのか決まっていない。最も抵抗なく次の行動に移れるのは、ふわっとした状態だ。どこかに力が入っていると、ある方向に動きやすくても、別の方向には動きにくくなる。
剣の極意は「心をどこにも置くな」という教えだ。相手や自分の剣に集中しピンと神経が張っている状態ではなく、無心で構えている一見無防備な状態が、すなわち「隙がない」状態になる。日本人は古来、無意識の重要性をよく知っていたのだ。
キリスト教、ユダヤ教など一神教の世界の共通基盤は旧約聖書だ。天地創造という始まりと、最後の審判という終わりが決まっていて、すべての死者は最後に神の前で裁かれる。だから「不変の自我」という概念が、文化の根本に据え付けられてしまっている。
対照的に、禅宗などは昔から「自我を捨てろ」と説いてきた。無我で良かったのに、日本人は西洋流の自我を輸入し、「頭で考えれば何でも解決する」「みんな自我を持っている」と錯覚し始めた。
人間の知性を考える時に、体や無意識を含めずに考えても意味がない。知性とはそういう総合的なものだろう。