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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

昭和新山  新田次郎/著

2021年06月25日 13時25分44秒 | 読書・登山
有珠山火山の寄生火山として明治火山が活動を起こしたのは明治43年だった。
明治新山が新生するときもやはり今夜のような地震が続いた。
小さい地震だが、執拗に続く地震だった。
この附近一帯の住民は、火山性地震という呼称を知る知らないにかかわらず、此処には地震が時々起ることをよく知っていた。

記録に載っている有珠火山の大噴火は、
寛文3年;1663年
明和5年;1768年
文政5年;1822年
嘉永6年;1853年
明治43年;1910年
の五回であった。

文政6年;1853年の噴火はものすごく、熱雲のために多くの死傷者を出した。

地底で大砲を打つような音と共に大地が揺れ動いた。

有珠岳の西北西にある金比羅山から始まって
西丸山、明治新山、東丸山、松本山と寄生火山が並んでいる。
またひとつ寄生火山が誕生してもいっこう不思議なことではなかった。

地震発生以来1年9ヶ月にわたって活動を続けていた新生火山は、その頂上において、元の地面より、264mの背丈に達したところでその成長を停止した。

彼は新生火山の観測に尽瘁(じんすい)することによって、戦後に生きる価値を求めようとした。

真っ先にこの新生火山に眼を向けたのは、鉱山師であった。
彼らは次々と鉱区を申請して、その許可を待たずに、硫黄の採掘にかかった。
まだ熱い、良質の硫黄が多量に搬出された。

美松新山がどうだろうかと田口博士が相談に来た。
「昭和新山がいいでしょう」

オスローの火山の会議における田口博士の昭和新山の講演は、最も注目すげき課題とされた。
最後に田口博士は、美松五郎が観測した新山生成の過程を図にして示した。地震発生以来、1ヶ月おきの新山のプロフィールを図に重ね合わせたものであった。一目で新山の生成過程がわかった。

「未だ地球上において為し得られなかったことが、日本のミマツ氏によって完成されたことを記念するために、このダイヤグラムにミマツダイヤグラムと名づけよう。そして、このミマツダイタグラムはわれわれ火山学者のもっとも貴重な宝物となるであろう」

昭和新山が観光の対象となったのは、昭和30年以後であった。
このころは、物好きが見に来る程度だったが、35年を過ぎて、やがて観光ブームが訪れると、昭和新山を訪れる人が急に増えた。
洞爺湖を訪れる人は例外なしに昭和新山を見たがった。

「昭和新山の噴き出した降灰は植物の成長に効果を与える灰であり、その効果は世界一」
分析の結果、降灰中には、肥効補助剤となる成分が多量に含まれていることが証明された。



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