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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

山に生きた半世紀 俺の飯豊山 藤田栄一

2021年06月10日 13時29分29秒 | 読書・登山
心の山よ飯豊山沼澤ひろ子

春まだ浅き まだらの雪に
うすべに色の おおやま桜
芽吹くぶなの芽 萌黄の色に
ふるさとの山 飯豊山

稜線まぶし 紺碧の空
風吹きわたる お花畑を
ニッコウキスゲの 花かげゆれて
思い出の山 飯豊山

みねの風立ち 光る雪山
ぶなの林は 風逆巻きて
谷の水音 ひそと静もる
心の山よ 飯豊山


登拝路として、直接頂上に取り付くダイグラ尾根上に1本しかなかった登山道が、国立公園の指定とともに、丸森尾根、梶川尾根の順に新道が切られ、梅花皮沢には石転びに通じる沢ぞいのルートが整備されました。

ダイグラ尾根は長いうえに難所も多く途中どうしてもビバーグを強いられる結果となりました。今のような便利な燃料や炊事用具、携帯食料などもなく、露天で質素な夕食を済ませて、あとは笹薮の中にもぐりこんで寝るしかありません。
しかし今度は、薮蚊の歓待を受け殆ど寝付けず、長い長い夜の明けるのを待つのです。

梅花皮小屋の人気を高めたのは水の存在も大きな要因です。
今まで使っていた水場は水量が少なく登山者の増加で順番待ちが長くて困ったことだだ頭を痛めていました。そのことを前田治二さんに話したところ、それならば更に奥へ行けば水の出ている場所があるという心強い返事である。

昭和52年、突如熊の厳しい狩猟規制が出されました。
保護しなければ日本列島から熊が絶滅するというのだ。
熊は増えている、いや減っている、平和な小国の山里は大きく揺れ動いた。
熊の駆除と繁殖のコントロールは、私たちマタギ社会自ら守ってきた秩序です。何故ならば山の恵みや川の幸を大切にしていくことが、谷狭間で明日に生きる手段であるからです。

マタギは減る一方で、熊はどんどん増え続けています。
増え過ぎないよう、減り過ぎないようにコントロールするのは、マタギにしかできない仕事です。

ブッパと呼ばれる射手は登ってくる熊に気付かれないようにジイッと息を殺して待機します。
持ち場は自分で死守しなければならない。
堪らない孤独感、緊張感に息詰まる一瞬です。

射止めた熊は、シナリと呼ぶ紐で手足をくくられて、安全な場所へと運ばれます。

この地にマタギが発祥したとされる300年前の先人達は、どんな方法で狩りを続けていたのだろうか。武器は手槍しかなく、従って穴熊を専門に狙っていたと見るのが妥当だと思います。以前は山にある熊穴は、全部の共有の財産という位置づけであったようです。猟といっても穴の熊を捕るには、村中総出で当たる必要もなく5~6人もあれば事済むわけです。それで山に行かない人の大半の人は、お米を出し合い、猟に出た人の日当に当て、捕れた熊は村全体で平等に分け合ったということです。

ムカダテ(指揮者)は自然と決まる。
声が立つこと、山を知っていることが最低限の条件である。熊が逃げる先を読んで、作戦を立て直しながら、「鉄砲」や「勢子」を動かし、熊を追い詰める。
トランシーバーのない時代、いくつもの沢や稜線に散らばる仲間たちに、熊の状況や作戦を伝えるのは、ムカダテの声と大きな身振りだった。熊狩りが成功するか否か、それはひとえに、ムカダテの知識と才覚にかかっていたのである。

「鉄砲」が逃がしたときに備える「踏切」の役。

必ず第二弾を込めてから(単発の村田銃)、次の行動に移れ、という鉄則があった。
その教えを忘れ、熊の逆襲に遭った彼を、最後に救ったのは、先輩の教えだった。
熊に襲われたときには、捕まる寸前に直角に逃げろ・・・その遠い声が命を救った。

NHKが飯豊山を特集するために登山したことがあった。
その案内人として藤田栄一が言った言葉
「飯豊の山は日本一のやまである。わたしはこの山の管理人という仕事をさせてもらえたことを誇りに思っている。人間は7度生まれ変わるというが、もう一度生まれ変わっても、この仕事につきたいと願っている」

気がつけば
山しか見えない人生でした
ただ、ひたむきに登り続けた
踏み跡に悔いはありません
山が引き合わせてくれた仲間たち
多くの人々との触れ合いは
夢と、勇気と、自信を
残してくれました
7度生まれ変わると言われる人の世に
生まれ変わることが、もしあるならば
また迷わずこの道を選ぶでしょう
山は私の永遠の恋人だから




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