「被災地を救いたい」 その想いが会社の垣根を越えた
久野さん: 被災地で石油が不足する中、横浜から日本海側をまわり、1000キロ以上もの鉄路をつないで盛岡まで石油を輸送するプロジェクトが行われました。しかしこの列車を走らせるためには、2つの“大きな壁”を乗り越えることが必要でした。
土屋さん: 1つ目の「タンク貨車の壁」は、36トン積みのタキ38000を集めることで解決しました。後半では2つ目の「たくさんの会社の壁」をどう乗り越えたのか?について、この列車に携わった方々のインタビューを通して迫っていきます。
(2011年3月17日・夜のNHKニュース)
アナウンサー: 厳しい冷え込みが続く中、避難所では、ストーブの燃料の灯油が底をつき始めています。
宮城県南三陸町の入谷小学校の避難所には、およそ300人が避難していますが、燃料の灯油を節約するため、ストーブをつけるのは夜だけです。
避難している人たちは、毛布や服を何枚も重ねて、寒さをしのいでいます。
地震から丸6日が経ち、灯油が少なくなってきました。
町の担当者が、近くのガソリンスタンドなどを回って、灯油を確保しようとしていますが、まったく手に入らない状況だということです。
土屋さん: その頃、東北では追い打ちをかけるかのように大寒波がやって来ていました。
北海道の東側で低気圧が猛烈に発達して、盛岡では3月17日にマイナス5.6℃を記録。
東北だけでなく山陰から北海道まで広い範囲で雪が降りました。
久野さん: マイナス5.6℃だと服を着ただけで寒さをしのげる気温ではないので命に関わる状況ですよね。1日でも1時間でも早く石油を届けてほしい状況だったと思います。
土屋さん: 緊急石油輸送列車を走らせるための1つ目の壁、「タンク貨車の壁」はクリアしましたが、
でもタキ38000が“36両集まったから良かった”ではないのです。通常の3月には、盛岡に1日でタンクローリー150台分の石油を届けていたので、毎日この石油列車をピストン輸送しないといけません。
日本海側を経由すると、行くのに1日、帰るのに1日。さらに積み下ろしの時間も入れると、次に石油を積んで出発するには最低3日はかかります。つまり毎日届ける為には最低3本の列車編成が必要になるのです。
本来ならタキ1000のほうが積める石油の量も走行スピードも速いので、こちらのほうが望ましいです。しかし一部区間でタキ1000を走らせる許可が取れていませんし、許可を取るにも時間がかかります。これはJR貨物やJOT・日本石油輸送だけでは解決できません。これが2つ目の高い壁、「たくさんの会社の壁」です。
この壁を乗り越えて、3本目以降の列車を走らせたわけですが、ここで鉄道の“石油輸送の仕組み”について教えていただけますか?
野月さん: 石油の貨物列車を走らせるのにはたくさんの会社が関わっていて、次の3社が中心的な役割を担っています。
1社目は石油会社と鉄道会社の間に入って調整をする会社。今回の話ではJOT・日本石油輸送が該当します。さらにタンク貨車のほとんどがこの会社の所有になります。
2社目は貨物列車を走らせる会社。これがJR貨物です。タンク貨車を牽引するための機関車や運転士が所属しています。
3社目は線路などの走行するための設備を持っている会社。今回の話ではJR東日本になります。JR貨物は遠くまで運べる線路を所有していないので、JR東日本の線路を借りて走っている形になります。
さらに車両によって重さや長さが違うので、その路線を走っていいのか、線路を支える路面や橋などが重さに耐えられるか等を調べたり保線や補強をしたりするのも、今回で言えばJR東日本の役目です。
実際には、この3社の他にもっともっとたくさんの会社との連携が必要になってきます。
土屋さん: 普通に考えても調整に数ヶ月はかかりそうですよね…。
これを地震発生の混乱した状況下で、たった8日間で走らせたのです!さらに被害を受けていない全国にも通常の生活物資を運ぶ必要があるし、被災地には緊急の支援物資も届けないといけない。
このような中、石油を毎日運ぶためには3編成目を作らないといけない。ここでタキ1000を使う案が浮上しました。しかし一部区間で走行許可のないタキ1000を走らせるためには“入線確認”をして許可を取ることが必要。通常3カ月くらいかかるのですが、このときは要請した翌日に入線確認が取れました!
なぜ、そんなことができたのか?その理由を車両の入線確認を担当するJR東日本で現在は水戸支社総務部・安全企画室長、当時は鉄道事業本部・運輸車両部・車両運用計画グループの課長をされていた白土裕之さんが教えてくれました。
白土さん: (JR貨物から)タキ1000を使って運びたいという話をいただいたのですが、そのときは日本海側の一部区間で入線確認ができていませんでした。しかし早急にやらないと石油輸送ができないという話を聞いた瞬間、私がいるフロアの端から端まで聞こえるぐらいの大きな声で「入線確認を早急に取れ!最低でも3日以内に取れ!」と部下や各支社に指示しました。
当時、被災地で石油がなくて苦労しているという話は報道などで見聞きしていたので、各支社の皆さんも一丸になって取り組んでいただけたのかなと思っています。
屋さん: JR東日本の協力もあって、タキ1000を使った3編成目以降が準備でき、盛岡へ毎日輸送できる準備が整いつつありましたが、会社の壁はまだあったのです。
そもそも盛岡へどういうルートで走らせればいいのか教えてくれますか?
野月さん: 今回の場合、盛岡への最短ルートは新潟・酒田・秋田まで日本海側を北上して、秋田から奥羽(おうう)本線を南下して大曲、そして田沢湖線で盛岡というルートになるのですが、いわゆる秋田新幹線も走っている在来線区間の秋田~盛岡間も含まれます。しかし新幹線と貨物列車では線路の幅が異なり、特に大曲~盛岡の間では線路幅を新幹線に合わせてしまったので、貨物列車は走ることができません。
次に短い距離のルートは、秋田から奥羽本線を大曲・横手と南下し、横手から北上(きたかみ)線で奥羽山脈を越えて岩手県の北上駅へ。そこから東北線で盛岡へ行くルート。
もうひとつ考えられるのは、秋田からそのまま奥羽本線を弘前・青森まで北上して、青森から八戸を通って盛岡に南下するルートです。
土屋さん: 北上線ルートと青森周りのルート、じつはどちらにも高い壁がありました。
このあたりをJR貨物の松田さんが教えてくれました。
松田さん: 北上線でのコンテナ貨物輸送はすでに終了していたため、この区間を運転できる運転士を集める必要もありハードルが高かったのです。
また北上線は電化されていないので、ディーゼル機関車で牽引しなければなりません。かつては東新潟機関区が機関車のメンテナンスをしていましたが、貨物輸送終了とともにメンテナンスもしなくなりました。
土屋さん: 野月さん、北上線ルートは大変そうですね。
野月さん: 北上線には険しい奥羽山脈越えがあって、急勾配や急カーブなどが多いのです。しかもこの路線を経由する貨物輸送も2010年に終了していましたので、特に重たい石油列車を走らせるというのは無理がありそうです。でも秋田~青森~盛岡の間は普段からコンテナの貨物列車がたくさん走っていました。
土屋さん: そうなると青森周りのルートに絞られていくのですが、こちらも問題がありました。
野月さん: 2010年12月に東北新幹線が新青森まで延伸開業しました。新幹線の並行在来線でもあった東北線は、青森駅と目時(めとき)駅の間は青い森鉄道。そこから盛岡駅までの間はIGR・いわて銀河鉄道という2つの第三セクターに経営移管されていました。
つまりこの区間を走るためには、それぞれの鉄道会社に石油列車の入線確認と運行ダイヤの調整が必要になります。さらにどちらの鉄道も被災したため、運転を見合わせていました。特にIGRいわて銀河鉄道では道床(線路の砂利)の流出が11箇所。信号機の破損が3箇所。線路内の倒木も3箇所あったそうです。
久野さん: このあたりについてIGRいわて銀河鉄道から文章でコメントが届いているので読み上げます。
(IGR・いわて銀河鉄道からのコメント)
3月15日の午後、JR貨物さんより、いわて銀河鉄道線の復旧状況と運転再開時期について問い合わせがあり、同時に青森経由で盛岡貨物ターミナル駅までタンク貨車を輸送したいとの要望がありました。
しかし当時の気象庁の発表でマグニチュード7以上の地震発生確率が70パーセントもあり、旅客列車の運転再開時期を議論せざるをえない状況だったことから、その場での回答は見送りました。
その後、社内で検討をし、大きな余震などがない限り17日以降は全区間で運転を再開することが決定しました。
同じ15日の夜、JR貨物さんとJR東日本さんから『タキ1000の入線が可能か確認を至急お願いしたい』と電話がありました。
ゼロから入線確認を行なうとなるとかなりの時間がかかることから、当時の担当者は経営移管時に取りまとめた入線資料の確認を改めて行い、そこにタキ1000に加え、国鉄時代からの代表的なタンク貨車の記載を確認。その後、改造等がないことを確認して、乗り入れに支障ないと判断しました。また貨物列車のダイヤの設定も可能であることが確認できたため、輸送手配可能である旨を回答しました。
余震も続発し、余震後に再び点検をし直したりしながらも、一刻も早い復旧を目指し、協力会社も含めて全力で応急復旧工事に取り組みました。また計算上はタンクに満載であっても運転に支障なしと判断しましたが、まだ雪の残る季節であったため、奥中山(おくなかやま)付近の連続勾配の峠越えなど、悪天候での空転による難航を心配しました。そこでJR貨物さんに万が一に備えて八戸貨物駅に救援の機関車の待機もお願いしました。
土屋さん: このようにIGRいわて銀河鉄道に石油列車の打診があったのが15日の午後。それから余震が続く中、線路を復旧させて17日に全線で運転再開。翌18日には石油列車が横浜を出発しています。
久野さん: 青い森鉄道も、同じく17日に全線復旧させたと文章でコメントをいただきましたので、大変だったと思いますよ。
野月さん: どちらの会社も少ない人員でやりくりしていたと思うので、本当に大変だったと察します。
土屋さん: こうして2つ目の高い壁「たくさんの会社の壁」を乗り越えて、石油列車が青森ルートで走ることが決まったのですが、当初の予定では横浜出発が19日だったのです。
なぜ1日早まることができたのか?JR東日本の白土さんが教えてくれました
白土さん: 日本海側に行くルートの途中に上越線があり、こちらも若干被害を受けました。当初は18日に復旧作業が終わる予定でしたが1日早い17日に完了しました。
我々としても「一日でも早く被災地に石油を届けたい!」という想いがありましたので、1日前倒しが実現できたのかなと考えています。
土屋さん: JR東日本からJR貨物へ連絡が入り、1日前倒しが決まったというわけですね。
その連絡を受けた、JOT・日本石油輸送の遠藤さんもこのように語ってくれました。
遠藤さん: 早くても19日から運転すると聞いていたので、貨車や製油所の装置の準備も19日に合わせて進めていたのですが、直前になって18日から運転可能だという連絡を受けて社内では大騒ぎになりました。
とにかく被災地に1日でも早く油を届けるのが我々の使命だと思い、18日の運転開始に間に合わせるための作業工程の組み換えを行っていました
土屋さん: こうして3月11日から僅か8日間で、石油列車を出発させることになったわけです。
久野さん: 大寒波が迫っている状況下だったので、1日でも1時間でも早く被災地に石油を届けたい。その目標がみんな一緒だったからこそ、会社の垣根を越えて頑張れたのだと思います。
ついに“前例なき緊急石油貨物列車”が出発。そのとき鉄道マンたちは何を思ったのか
(3月18日・昼のNHKニュース)
アナウンサー: 鉄道や貨物も日本海側から青森を経由して、岩手県の内陸部にある盛岡・北上(きたかみ)まで通れるようになりました。JR貨物は今夜にもタンクローリー40台分以上の燃料を運ぶことができるタンク貨車を、横浜から盛岡に向けて運行する予定です
土屋さん: 震災石油輸送の1番列車、列車番号8569、通称「盛岡1号」は、3月18日の夜7時44分に横浜の根岸を出発しました。本来なら数ヶ月はかかるプロジェクトはたったの8日で形になりました。
JOT・日本石油輸送の遠藤さんは、どういう想いで当日の作業を見ていたのかを伺ってみました。
遠藤さん: 我々のほうにも「根岸製油所、充填完了」という連絡が入り、続いて18両編成に仕立てられたタキ38000が根岸駅に揃ったという情報も来ました。そして機関車に連結され、我々としては「JRさん、あとは頼んだよ」とタスキがJR貨物さんのほうに渡った瞬間でありました
土屋さん: そのタスキを受け取った、JR貨物で当時の指令室長だった安田さんはどういう想いだったのか伺いました。
安田さん: 3月18日の夜に「盛岡1号」が根岸駅を出発したときは嬉しかったです。
被災している皆さんの命を救えればという気持ちで、列車が無事に着くことをずっと祈っていました。
久野さん: 2011年3月18日・午後7時44分。地震発生から7日と4時間58分後にタンク貨車18両・石油792キロリットルを積んだ1番列車は、EF210形・直流電気機関車の牽引で横浜の根岸を旅立ちました。
新鶴見・府中本町・大宮とまわり、群馬県の高崎で峠越えに強いEH200形に機関車を交換し、翌19日の深夜1時28分に発車。上越線を進み、新潟県の南長岡で交流・直流の両方で走れるEF81形に交換し、早朝4時38分に発車。
日本海側を新津・村上・酒田・秋田と進み、青森でEH500形に交換して夜6時9分に発車。青い森鉄道、いわて銀河鉄道の区間を走り、26時間かけて3月19日・夜9時51分、盛岡貨物ターミナルへ着きました。
走行距離は我が国の鉄道石油輸送では前例のない1032.8キロにもなりました
野月さん: この盛岡への石油列車は、翌日の19日もタキ38000の18両で出発。20日出発分の第3便以降は、45トン積みタキ1000の16両での運行を開始。21日からは1日2便に増やして4月19日まで続きました。
盛岡に運んだ1ヶ月の合計は、ガソリン1万1688キロリットル、軽油9403キロリットル、灯油8325キロリットル、重油8266キロリットルの合計3万7682キロリットル。タンクローリーに換算するとおよそ1885台分にもなりました。
さらに3月25日からは、皆さんも報道や絵本などで知る、福島県郡山への磐越西線経由・DD51“デーデ”の石油輸送も始まりました。こちらには「たちあがろう東北」というヘッドマークを付けたり、ホコリで汚れているタンク貨車の最後部に、そのホコリをぬぐうように「まけるな」って書いて送り出したりもしたそうですよ。
東日本大震災の経験で改めて感じた「鉄道の使命」とは
土屋さん: JR貨物の社長で、当時は東北支社長だった真貝さんは、こんな話もしてくれました。
真貝さん: 貨物は24時間365日、安全を確保しながら荷物を預かって運んでいます。
平常時から社会的な使命、人々の生活を支え、その源となる産業を支えている。気概を持っている社員1人1人が使命を感じている信頼関係がある。それが鉄道魂につながっていると思います。
土屋さん: さらにJR貨物の代表取締役会長で、当時は副社長だった田村さんは、
この東日本大震災の経験をどう今に生かしているのか、どう進化させたのかも教えてくれました
田村さん: リスクマネジメントがより徹底してきたと思います。
リスクに対してどう備えるかの経営感覚を持っておかないといけないと改めて認識しました。
それは列車を走らせることだけではなく、いろんな意味でのリスクをどう捕まえるかにつながっていると思いますね
スタジオトークよりひと言
土屋さん: いろいろとお話を聞いて、これまでの経験が積み重なって、今日の鉄道があると改めて思いました
久野さん: 災害時だけでなく、ふだんから私たちの暮らしを支えてくれている、鉄道に従事する皆様に改めて敬意を払いたいと思います。
野月さん: 鉄道マン魂というのを思い知らされました。ふだん何気なく使っている鉄道も、こうやって支えている人たちがいることを知っていただければと思います。
「この列車は、もっと明るくて暖かい未来へ、発車します!」
左から土屋礼央さん、野月貴弘さん(リモート)、久野知美さん
久野さん: 被災地で石油が不足する中、横浜から日本海側をまわり、1000キロ以上もの鉄路をつないで盛岡まで石油を輸送するプロジェクトが行われました。しかしこの列車を走らせるためには、2つの“大きな壁”を乗り越えることが必要でした。
土屋さん: 1つ目の「タンク貨車の壁」は、36トン積みのタキ38000を集めることで解決しました。後半では2つ目の「たくさんの会社の壁」をどう乗り越えたのか?について、この列車に携わった方々のインタビューを通して迫っていきます。
(2011年3月17日・夜のNHKニュース)
アナウンサー: 厳しい冷え込みが続く中、避難所では、ストーブの燃料の灯油が底をつき始めています。
宮城県南三陸町の入谷小学校の避難所には、およそ300人が避難していますが、燃料の灯油を節約するため、ストーブをつけるのは夜だけです。
避難している人たちは、毛布や服を何枚も重ねて、寒さをしのいでいます。
地震から丸6日が経ち、灯油が少なくなってきました。
町の担当者が、近くのガソリンスタンドなどを回って、灯油を確保しようとしていますが、まったく手に入らない状況だということです。
土屋さん: その頃、東北では追い打ちをかけるかのように大寒波がやって来ていました。
北海道の東側で低気圧が猛烈に発達して、盛岡では3月17日にマイナス5.6℃を記録。
東北だけでなく山陰から北海道まで広い範囲で雪が降りました。
久野さん: マイナス5.6℃だと服を着ただけで寒さをしのげる気温ではないので命に関わる状況ですよね。1日でも1時間でも早く石油を届けてほしい状況だったと思います。
土屋さん: 緊急石油輸送列車を走らせるための1つ目の壁、「タンク貨車の壁」はクリアしましたが、
でもタキ38000が“36両集まったから良かった”ではないのです。通常の3月には、盛岡に1日でタンクローリー150台分の石油を届けていたので、毎日この石油列車をピストン輸送しないといけません。
日本海側を経由すると、行くのに1日、帰るのに1日。さらに積み下ろしの時間も入れると、次に石油を積んで出発するには最低3日はかかります。つまり毎日届ける為には最低3本の列車編成が必要になるのです。
本来ならタキ1000のほうが積める石油の量も走行スピードも速いので、こちらのほうが望ましいです。しかし一部区間でタキ1000を走らせる許可が取れていませんし、許可を取るにも時間がかかります。これはJR貨物やJOT・日本石油輸送だけでは解決できません。これが2つ目の高い壁、「たくさんの会社の壁」です。
この壁を乗り越えて、3本目以降の列車を走らせたわけですが、ここで鉄道の“石油輸送の仕組み”について教えていただけますか?
野月さん: 石油の貨物列車を走らせるのにはたくさんの会社が関わっていて、次の3社が中心的な役割を担っています。
1社目は石油会社と鉄道会社の間に入って調整をする会社。今回の話ではJOT・日本石油輸送が該当します。さらにタンク貨車のほとんどがこの会社の所有になります。
2社目は貨物列車を走らせる会社。これがJR貨物です。タンク貨車を牽引するための機関車や運転士が所属しています。
3社目は線路などの走行するための設備を持っている会社。今回の話ではJR東日本になります。JR貨物は遠くまで運べる線路を所有していないので、JR東日本の線路を借りて走っている形になります。
さらに車両によって重さや長さが違うので、その路線を走っていいのか、線路を支える路面や橋などが重さに耐えられるか等を調べたり保線や補強をしたりするのも、今回で言えばJR東日本の役目です。
実際には、この3社の他にもっともっとたくさんの会社との連携が必要になってきます。
土屋さん: 普通に考えても調整に数ヶ月はかかりそうですよね…。
これを地震発生の混乱した状況下で、たった8日間で走らせたのです!さらに被害を受けていない全国にも通常の生活物資を運ぶ必要があるし、被災地には緊急の支援物資も届けないといけない。
このような中、石油を毎日運ぶためには3編成目を作らないといけない。ここでタキ1000を使う案が浮上しました。しかし一部区間で走行許可のないタキ1000を走らせるためには“入線確認”をして許可を取ることが必要。通常3カ月くらいかかるのですが、このときは要請した翌日に入線確認が取れました!
なぜ、そんなことができたのか?その理由を車両の入線確認を担当するJR東日本で現在は水戸支社総務部・安全企画室長、当時は鉄道事業本部・運輸車両部・車両運用計画グループの課長をされていた白土裕之さんが教えてくれました。
白土さん: (JR貨物から)タキ1000を使って運びたいという話をいただいたのですが、そのときは日本海側の一部区間で入線確認ができていませんでした。しかし早急にやらないと石油輸送ができないという話を聞いた瞬間、私がいるフロアの端から端まで聞こえるぐらいの大きな声で「入線確認を早急に取れ!最低でも3日以内に取れ!」と部下や各支社に指示しました。
当時、被災地で石油がなくて苦労しているという話は報道などで見聞きしていたので、各支社の皆さんも一丸になって取り組んでいただけたのかなと思っています。
屋さん: JR東日本の協力もあって、タキ1000を使った3編成目以降が準備でき、盛岡へ毎日輸送できる準備が整いつつありましたが、会社の壁はまだあったのです。
そもそも盛岡へどういうルートで走らせればいいのか教えてくれますか?
野月さん: 今回の場合、盛岡への最短ルートは新潟・酒田・秋田まで日本海側を北上して、秋田から奥羽(おうう)本線を南下して大曲、そして田沢湖線で盛岡というルートになるのですが、いわゆる秋田新幹線も走っている在来線区間の秋田~盛岡間も含まれます。しかし新幹線と貨物列車では線路の幅が異なり、特に大曲~盛岡の間では線路幅を新幹線に合わせてしまったので、貨物列車は走ることができません。
次に短い距離のルートは、秋田から奥羽本線を大曲・横手と南下し、横手から北上(きたかみ)線で奥羽山脈を越えて岩手県の北上駅へ。そこから東北線で盛岡へ行くルート。
もうひとつ考えられるのは、秋田からそのまま奥羽本線を弘前・青森まで北上して、青森から八戸を通って盛岡に南下するルートです。
土屋さん: 北上線ルートと青森周りのルート、じつはどちらにも高い壁がありました。
このあたりをJR貨物の松田さんが教えてくれました。
松田さん: 北上線でのコンテナ貨物輸送はすでに終了していたため、この区間を運転できる運転士を集める必要もありハードルが高かったのです。
また北上線は電化されていないので、ディーゼル機関車で牽引しなければなりません。かつては東新潟機関区が機関車のメンテナンスをしていましたが、貨物輸送終了とともにメンテナンスもしなくなりました。
土屋さん: 野月さん、北上線ルートは大変そうですね。
野月さん: 北上線には険しい奥羽山脈越えがあって、急勾配や急カーブなどが多いのです。しかもこの路線を経由する貨物輸送も2010年に終了していましたので、特に重たい石油列車を走らせるというのは無理がありそうです。でも秋田~青森~盛岡の間は普段からコンテナの貨物列車がたくさん走っていました。
土屋さん: そうなると青森周りのルートに絞られていくのですが、こちらも問題がありました。
野月さん: 2010年12月に東北新幹線が新青森まで延伸開業しました。新幹線の並行在来線でもあった東北線は、青森駅と目時(めとき)駅の間は青い森鉄道。そこから盛岡駅までの間はIGR・いわて銀河鉄道という2つの第三セクターに経営移管されていました。
つまりこの区間を走るためには、それぞれの鉄道会社に石油列車の入線確認と運行ダイヤの調整が必要になります。さらにどちらの鉄道も被災したため、運転を見合わせていました。特にIGRいわて銀河鉄道では道床(線路の砂利)の流出が11箇所。信号機の破損が3箇所。線路内の倒木も3箇所あったそうです。
久野さん: このあたりについてIGRいわて銀河鉄道から文章でコメントが届いているので読み上げます。
(IGR・いわて銀河鉄道からのコメント)
3月15日の午後、JR貨物さんより、いわて銀河鉄道線の復旧状況と運転再開時期について問い合わせがあり、同時に青森経由で盛岡貨物ターミナル駅までタンク貨車を輸送したいとの要望がありました。
しかし当時の気象庁の発表でマグニチュード7以上の地震発生確率が70パーセントもあり、旅客列車の運転再開時期を議論せざるをえない状況だったことから、その場での回答は見送りました。
その後、社内で検討をし、大きな余震などがない限り17日以降は全区間で運転を再開することが決定しました。
同じ15日の夜、JR貨物さんとJR東日本さんから『タキ1000の入線が可能か確認を至急お願いしたい』と電話がありました。
ゼロから入線確認を行なうとなるとかなりの時間がかかることから、当時の担当者は経営移管時に取りまとめた入線資料の確認を改めて行い、そこにタキ1000に加え、国鉄時代からの代表的なタンク貨車の記載を確認。その後、改造等がないことを確認して、乗り入れに支障ないと判断しました。また貨物列車のダイヤの設定も可能であることが確認できたため、輸送手配可能である旨を回答しました。
余震も続発し、余震後に再び点検をし直したりしながらも、一刻も早い復旧を目指し、協力会社も含めて全力で応急復旧工事に取り組みました。また計算上はタンクに満載であっても運転に支障なしと判断しましたが、まだ雪の残る季節であったため、奥中山(おくなかやま)付近の連続勾配の峠越えなど、悪天候での空転による難航を心配しました。そこでJR貨物さんに万が一に備えて八戸貨物駅に救援の機関車の待機もお願いしました。
土屋さん: このようにIGRいわて銀河鉄道に石油列車の打診があったのが15日の午後。それから余震が続く中、線路を復旧させて17日に全線で運転再開。翌18日には石油列車が横浜を出発しています。
久野さん: 青い森鉄道も、同じく17日に全線復旧させたと文章でコメントをいただきましたので、大変だったと思いますよ。
野月さん: どちらの会社も少ない人員でやりくりしていたと思うので、本当に大変だったと察します。
土屋さん: こうして2つ目の高い壁「たくさんの会社の壁」を乗り越えて、石油列車が青森ルートで走ることが決まったのですが、当初の予定では横浜出発が19日だったのです。
なぜ1日早まることができたのか?JR東日本の白土さんが教えてくれました
白土さん: 日本海側に行くルートの途中に上越線があり、こちらも若干被害を受けました。当初は18日に復旧作業が終わる予定でしたが1日早い17日に完了しました。
我々としても「一日でも早く被災地に石油を届けたい!」という想いがありましたので、1日前倒しが実現できたのかなと考えています。
土屋さん: JR東日本からJR貨物へ連絡が入り、1日前倒しが決まったというわけですね。
その連絡を受けた、JOT・日本石油輸送の遠藤さんもこのように語ってくれました。
遠藤さん: 早くても19日から運転すると聞いていたので、貨車や製油所の装置の準備も19日に合わせて進めていたのですが、直前になって18日から運転可能だという連絡を受けて社内では大騒ぎになりました。
とにかく被災地に1日でも早く油を届けるのが我々の使命だと思い、18日の運転開始に間に合わせるための作業工程の組み換えを行っていました
土屋さん: こうして3月11日から僅か8日間で、石油列車を出発させることになったわけです。
久野さん: 大寒波が迫っている状況下だったので、1日でも1時間でも早く被災地に石油を届けたい。その目標がみんな一緒だったからこそ、会社の垣根を越えて頑張れたのだと思います。
ついに“前例なき緊急石油貨物列車”が出発。そのとき鉄道マンたちは何を思ったのか
(3月18日・昼のNHKニュース)
アナウンサー: 鉄道や貨物も日本海側から青森を経由して、岩手県の内陸部にある盛岡・北上(きたかみ)まで通れるようになりました。JR貨物は今夜にもタンクローリー40台分以上の燃料を運ぶことができるタンク貨車を、横浜から盛岡に向けて運行する予定です
土屋さん: 震災石油輸送の1番列車、列車番号8569、通称「盛岡1号」は、3月18日の夜7時44分に横浜の根岸を出発しました。本来なら数ヶ月はかかるプロジェクトはたったの8日で形になりました。
JOT・日本石油輸送の遠藤さんは、どういう想いで当日の作業を見ていたのかを伺ってみました。
遠藤さん: 我々のほうにも「根岸製油所、充填完了」という連絡が入り、続いて18両編成に仕立てられたタキ38000が根岸駅に揃ったという情報も来ました。そして機関車に連結され、我々としては「JRさん、あとは頼んだよ」とタスキがJR貨物さんのほうに渡った瞬間でありました
土屋さん: そのタスキを受け取った、JR貨物で当時の指令室長だった安田さんはどういう想いだったのか伺いました。
安田さん: 3月18日の夜に「盛岡1号」が根岸駅を出発したときは嬉しかったです。
被災している皆さんの命を救えればという気持ちで、列車が無事に着くことをずっと祈っていました。
久野さん: 2011年3月18日・午後7時44分。地震発生から7日と4時間58分後にタンク貨車18両・石油792キロリットルを積んだ1番列車は、EF210形・直流電気機関車の牽引で横浜の根岸を旅立ちました。
新鶴見・府中本町・大宮とまわり、群馬県の高崎で峠越えに強いEH200形に機関車を交換し、翌19日の深夜1時28分に発車。上越線を進み、新潟県の南長岡で交流・直流の両方で走れるEF81形に交換し、早朝4時38分に発車。
日本海側を新津・村上・酒田・秋田と進み、青森でEH500形に交換して夜6時9分に発車。青い森鉄道、いわて銀河鉄道の区間を走り、26時間かけて3月19日・夜9時51分、盛岡貨物ターミナルへ着きました。
走行距離は我が国の鉄道石油輸送では前例のない1032.8キロにもなりました
野月さん: この盛岡への石油列車は、翌日の19日もタキ38000の18両で出発。20日出発分の第3便以降は、45トン積みタキ1000の16両での運行を開始。21日からは1日2便に増やして4月19日まで続きました。
盛岡に運んだ1ヶ月の合計は、ガソリン1万1688キロリットル、軽油9403キロリットル、灯油8325キロリットル、重油8266キロリットルの合計3万7682キロリットル。タンクローリーに換算するとおよそ1885台分にもなりました。
さらに3月25日からは、皆さんも報道や絵本などで知る、福島県郡山への磐越西線経由・DD51“デーデ”の石油輸送も始まりました。こちらには「たちあがろう東北」というヘッドマークを付けたり、ホコリで汚れているタンク貨車の最後部に、そのホコリをぬぐうように「まけるな」って書いて送り出したりもしたそうですよ。
東日本大震災の経験で改めて感じた「鉄道の使命」とは
土屋さん: JR貨物の社長で、当時は東北支社長だった真貝さんは、こんな話もしてくれました。
真貝さん: 貨物は24時間365日、安全を確保しながら荷物を預かって運んでいます。
平常時から社会的な使命、人々の生活を支え、その源となる産業を支えている。気概を持っている社員1人1人が使命を感じている信頼関係がある。それが鉄道魂につながっていると思います。
土屋さん: さらにJR貨物の代表取締役会長で、当時は副社長だった田村さんは、
この東日本大震災の経験をどう今に生かしているのか、どう進化させたのかも教えてくれました
田村さん: リスクマネジメントがより徹底してきたと思います。
リスクに対してどう備えるかの経営感覚を持っておかないといけないと改めて認識しました。
それは列車を走らせることだけではなく、いろんな意味でのリスクをどう捕まえるかにつながっていると思いますね
スタジオトークよりひと言
土屋さん: いろいろとお話を聞いて、これまでの経験が積み重なって、今日の鉄道があると改めて思いました
久野さん: 災害時だけでなく、ふだんから私たちの暮らしを支えてくれている、鉄道に従事する皆様に改めて敬意を払いたいと思います。
野月さん: 鉄道マン魂というのを思い知らされました。ふだん何気なく使っている鉄道も、こうやって支えている人たちがいることを知っていただければと思います。
「この列車は、もっと明るくて暖かい未来へ、発車します!」
左から土屋礼央さん、野月貴弘さん(リモート)、久野知美さん
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