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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

深田久弥の山がたり 1 山嶺の風

2021年07月05日 16時55分21秒 | 読書・登山


1 山がたり(すばらしい雲
地図を見ながら
南アルプスの印象 ほか)
2 山行(白峰三山
鹿島槍岳
剣岳 ほか)
3 ヒマラヤ随想(ヒマラヤの先駆者たち
単独登山者
私のヒマラヤ十年史 ほか

「遭難事故のあった直後、きっと山が美しく晴れあがる」と信州の山案内は言う。
告別式の弔辞に友人代表として同行の一人が
「山は貴い犠牲を召されて、充ち足りたように美しく輝きだしました」

「彼の霊は此世を棄てて去った。無言に去っていった」

山の湖沼の景色ほど毀誉褒貶(きよほうへん)まちまちのものはない。

モーリス・ウィルソン
世界第三位の高峰カンチェンジュンガ
標高8586mの主峰など5座が連なる「カンチェンジュンガ山群」の巨大な姿を一枚画に捉える!山がほほ笑む一瞬を狙う!
標高8000mを超える山々を望み1700kmにわたりネパールを横断する天空の縦走路「グレートヒマラヤトレイル」。世界第3位の高峰など8000m級が5座も連なる世界最大級の山塊「カンチェンジュンガ山群」、チベット語で「五大宝蔵」を意味する山塊だ。二人の山岳カメラマンは聖なる山の全容を捉えるため、ブルーアイスに覆われた標高6143mのピークに挑む!様々な難関を乗り越え目にした光景は


即ち、もし人間が3週間も物を食わずに過ごすことができたら、生と死の間の境界で半意識の状態に達する。その時人間の心は、その霊とじかに通じあうことができる。そしてこの状態をくっぐり抜けた時、人間は肉体的、精神的わずらいから浄められる。新しく生まれた赤ん坊のようになり、しかも前世の経験に恵まれ、肉体的にも精神的にもその力を著しく増すというのである。

ウィルソンはこの理論を狂信的に信じた。

私は引き続き『岳人』にヒマラヤのことを書いていたので、毎月幾冊かの本を読まねばならず、おかげでヒマラヤの知識はだんだん私の頭の中に蓄積されて、延長2,500kmに亙るヒマラヤの大山脈も、眼をつむれば、日本アルプスくらいに掴めるようになった。

さて、かくなる上はこの肉眼をもって一ぺんは実物のヒマラヤを見てこないことには、腹の虫が収まらなくなった。しかしどうしてそれを実現しよう。

戦後、私より前にヒマラヤに行ったのは、数度のマナスル隊と、京大学士山岳会のアンナプルナ隊と、京大探検部のヒンズークシ学術調査隊があるきりだった。

ロジックとしても完璧であった。
「エヴェレストの頂上は地上の最高地点である。
だからこの地上ではもっとも天に近いところである。
我々の生きている間に、できるだけ天に近づきたいと願うのは当然ではありませんか」

足立たば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
正岡子規のこの歌が私のヒマラヤ雑記帳に控えてある。
子規のいつ頃の歌か知らないが「足立たば」とあるからには病臥してからの作であろう。
ヒマラヤやエヴェレストを詠みこんだ歌を他に知らない。
その世界の視聴を集めたエヴェレストが、明治30年代にすでに日本の歌になって現れていることは、子規がいかに旺盛な好奇心を抱いていたかを示すものであろう。

エヴェレストが地球上の最高峰であることが確認されて、エヴェレストという名が付けられたのは、1852年のことであった。わが国の新聞に初めてエヴェレストという名が現れたのは、明治6年;1873年である。
その後もエヴェレストという文字は折々新聞の片隅に現れたかもしれない。
そして好奇心の強い子規はそんな記事にも眼を留めて、前記の歌一首を成したのであろう。

子規には富士山を詠んだ歌が十二首ある。その中に
「足立たば富士の高嶺のいただきをいかづちなして踏みならさましを」
「富士を踏みて帰りし人の物語聞きつつ細き足さするわれは」

おそらく健康であったなら、子規は富士山に登ったであろう。
そしてエヴェレスト登頂の報を聞いて、直ちに数首の歌をなしたかもしれない。

机上登山という言葉がある
西洋ではアーム・チェア・マウンテニーアリング;安楽椅子の登山という。
地図と登山記によって、居ながらにして山登りを楽しむ法である。
私は壁の地図を前に、古びた籐椅子に腰をおろして、探検記や登山記に読み耽る。
一枚の地図と一冊の文献で、私の魂は遠く世界の屋根の上に飛ぶのである。




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