バレンタイン。
別に企業戦略とか、カトリックの聖人の殉教の記念とか、そういう知識はあったけれどそれは私にとっては教科書の一ページのようなもので。今この国に浸透している、好きな人や友人にチョコレートを渡すなんていうのも、常識と言うか知識の中の一つに埋没していたもので。自分に関わりがあるとか思っていなかったし、そのことについてそこまで深く考えたこともなかった―今まで。
「バレンタイン、あたしの家においで」
彼女の家に向かう道中、当の彼女の言葉をリフレインする。そういう行事が好きな人だから、当然何かするんだろうなとは思っていたのだけど。それは勿論私以外の人にも向けられていたけど、別に嫉妬のようなものは湧かなかった。前日は学校で、私たちいつものメンバーに外部さん、うさぎちゃん経由で衛さんやちびうさちゃん、ルナやアルテミスやダイアナ、私の知らない部活仲間や後輩にもそれぞれチョコレートを嬉々として渡していた。むしろ、よくそこまで出来るものだな、と感心して尊敬もしてしまうくらい。
そんなまこちゃんは、私に皆と同じチョコレートを渡しながら、こっそりと私だけ家に来いと言ってくれた。これはつまり、私のこと、きちんと特別に扱ってくれているんだな、って。
期待していないわけじゃなかったけれど、正直怖くもあったから。まこちゃんが私を数あるうちのひとりとして思っているわけではないと頭では分かっていても、とにかく優しい人だから。少しだけ、不安もあったから。
だから、嬉しかった。だから、歩調を知らず知らず早めてしまう。こんな行事に心を弾ませてしまうのは、結局は私はただ彼女が好きなだけで、バレンタインなんてきっかけの一つに過ぎないのだろうけど。
こっそりと、鞄に私も彼女へのチョコレートを忍ばせて、寒風の中を一人歩いた。味見はしたし、まこちゃんには到底及ばないけど、まずいと言うほどではないものにはしたつもりだし。
それにまこちゃんは優しいから、きっと私の作ったものでも喜んでくれると思う―けど、私が渡す勇気がいつ湧くかが問題で。
のぼせた頭には冬の風が心地よくて、ぐるぐるとそんなことばかりを考えながら気がつけばアパートの前まで来ていた。
「いらっしゃい」
アパートのチャイムを鳴らすと、まこちゃんはインターフォンを取ることもなくすぐにドアを開けてくれた。一人暮らしは危ないことも多いのだから、せめて誰が来たか確認はして、と玄関先で咎めたけれど、当の本人は亜美ちゃんが来るって分かってるから、なんて、まるで何でもないことのように言うから。
そこで言い返せない私を、まこちゃんは柔らかい笑顔で出迎えてくれた。
皆と一緒に入ることはあっても、一人で入るのには未だに緊張してしまうリビングに通されると、ふわふわと甘いチョコレートの香りがした。入ったらすぐこちらからチョコレートを渡してしまおうと思っていたけど、あまりにいい匂いだったから、タイミングを逃してしまった。
それでも、何か作ってくれたのかしら―そう思うと頬が緩んだ。
「チョコレートの香りね」
「あ、分かるかい?」
「ええ、すごくいいにおい」
「そっかー。まだ匂っちゃう?これでも大分収まったんだけど、あたしはここに住んでるから鼻がぼけちゃったかなー」
「もう、まこちゃんたら」
彼女の妙な言葉回しに思わず苦笑してしまう。まだ、なんておかしいわよ、と注意すると、まこちゃんは間違ってないよ、と頬をかきながら苦笑した。
「実はさ、昨日の夜うちにうさぎちゃんと美奈子ちゃんが来てね、バレンタインチョコ作るから監督してってさー」
「・・・え?」
「で、作り方教えたはいいけど、もーね、色んなとこにチョコレート飛び散っちゃって。ほんとすごかったんだよ昨日」
「・・・・・・・・・・」
「きっちり掃除したつもりなんだけど、チョコレートって意外と匂い強いんだね」
「・・・・・・・・・・」
「でさ、あいつらが持ってきた材料もうちにあったのも使い尽くしちゃってねー。亜美ちゃんにチョコ作ろうと思ったんだけど、掃除してたら材料また買いに行く暇なくってさ」
まこちゃんはそこで、しゅん、と、まるで自分が失敗した子どもみたいに微かに拗ねた表情をした。本当に残念だったのだろう、うさぎちゃんや美奈子ちゃんを責めているわけではないんだろうけど、その分、落ち度のないはずの自分の不手際を責めているのかもしれない。
優しい人、だと思う。私は慌てて取り繕うように言った。
「で、でも、私はまこちゃんからちゃんとチョコレート受け取ったし」
「昨日皆に配った奴だろ?本命は今日だよ。だから今日改めてちゃんと、亜美ちゃん専用のを作って渡すつもりだったんだ」
「でも―」
「ごめんね」
「ま、まこちゃんが謝ることじゃないわ。私は今日呼んでもらえただけで嬉しかったし―そ、それに・・・・・・・・」
むしろ私のものが出しやすくなった、と少し、安堵してしまっていたのだ。いつ出そうか、とか、どうやったってまこちゃんのよりは美味しくないだろうし、とか、色々思っていたから。
でも、そこで言いよどんでしまった私の言葉を聞く前に、まこちゃんは、私の肩を叩いて切り出していた。
「だからね、亜美ちゃん」
まこちゃんはポケットから何かを取り出すと私の掌に乗せた。
私はどうして、こんなに勇気がないんだろう。ただ渡すだけなのに。また、タイミングを逃してしまった。そう思いながらも私は掌に乗せられたものを見ていた。
それは掌にちょうど収まるくらいの、粉末の袋。パッケージには板チョコレートのイラストがプリントされていた。
「―ココア?」
「いや、よく見てみな」
「・・・・・・あ、入浴剤ね、これ」
「そ、チョコレート風呂ってやつ。食べられないけどいい匂いで、お肌にもいいらしいよ」
そういえば最近食品を模した入浴剤が流行っているとか、仲間内でも特に流行に聡い彼女に聞いたことがある。そしてまこちゃんがそういうものに興味を持っているのはよく知っている。アロマとか、シャンプーとか、そういう香りものにまこちゃんはよくこだわっているから。
「・・・これ、くれるの?」
「あげるっていうのかなーうん、あげるんだけど」
「どういうこと?」
「あたしも使いたいから―一緒に入ろうよ」
にこり、と笑われて言われた言葉を租借するのに数秒かかった。租借してからは頭がぐらりとした。
「―え、え?」
「駄目かい?」
「だ、駄目って言うか・・・!そ、そんな、こと・・・」
思わずしどろもどろになってしまう私を見るまこちゃんは暢気なままで。
「あ、もしかして、あの日かい?」
「ち、違うっ・・・けど」
「じゃあインフル注射してきたとか?」
「注射もしてないけどっ・・・」
「毛染めやパーマは・・・してないよね」
「・・・してない・・・けど・・・」
まこちゃんは私が断る理由を推定しては列挙していくけど、口調は相変わらず暢気で。否定しているわけではないけどすぐに肯定なんて出来る筈ないのに、そんな至極当然のことしかあげてくれないで。
まこちゃんは優しい人だと思ってるのに。
「じゃあ、断る理由―ないよね?」
そう当然のように言う彼女は、酷く意地の悪い人に見えた。こういう表情を今まで見たことないわけじゃないけど、こういう表情のまこちゃんは優しいとき以上に私に鼓動をもたらしもする。
それがずるいと思うけど、真っ当に反論できた例なんてなくて。それでもどうしてもこのまま流されるなんて出来なくて、何とか形勢逆転に持ち込もうとして。
それは、結局、本音を言うしかないのだけど。
「―い、や」
「え、何で?」
断られるなんて思ってない表情が、悔しすぎる。私は蚊の鳴くような声で反論した。
「―は、ずかしい・・・から」
でも、私が彼女を拒絶する理由なんて―こんなことくらいしかない。私にもっと勇気があれば、そもそも彼女のペースに持ち込まれることもないのに。
その言葉を聞いたまこちゃんは、何が嬉しいのかふわっと笑った。美奈子ちゃんとうさぎちゃんが撒き散らしたらしいチョコレートの匂いが漂う中、そんなものよりも笑顔はずっと甘かった。
「そっか、ならよかった」
「な・・・ん、で?」
「だって、恥ずかしがってる亜美ちゃんが、可愛いんだもん」
その言葉に思わず反論しようとしたけど、言葉は喉から出なかった。勇気がないからじゃなくて、反論する言葉が見つからなかったのだ。
駄目だ。どうやってもこの人には勝てない。こんなに悔しいのに、そうやって扱われることを嬉しく思ってる自分が―いる。
反論も出来ない私はもう白旗を上げているつもりだったのに、今日のまこちゃんは本当に意地が悪かった―さも、今気付いたみたいに肩をすくめてまこちゃんは言う。
「あ、でも、それはもう亜美ちゃんにあげたものから」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「実はお風呂はもう沸かしてるんだ。だから、もしよかったら、だけど」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「本気で嫌なら別にいいけど?」
してやったり、と、と笑う表情は本当に酷く―可愛かった。どうしてそこまでされなきゃいけないのか、どうして私がそこまでしなきゃいけないのか、少しだけ目頭が熱くなったけど、僅かに滲む視界で見るまこちゃんは本当に可愛かった。
ここまでしておいて、私が自分から動くのを、この人は待ってる。勇気のない私をいじめて、楽しんでる。
それが分かってて、拒絶できないなんて、どうかしてる。
そんなまこちゃんを思い切り睨みつけ、私は鞄からずっと出すタイミングをうかがっていたチョコレートを叩くように押し付けた。
「―お?」
「お返し!」
「あ・・・あ?え?」
「―わ、私は、まこちゃんに食べられるつもりはないから!だから食べるのならそっちにして!」
まこちゃんのぽかんとした表情に、ようやく一矢報えた気がしたけど、それでもそれ以上その表情を見ていられなくて私はまこちゃんに背を向けた。
そんな私を見るまこちゃんのからかう声が背中から聞こえた。何も聞こえないようにしようと思ったけど、心とは裏腹に体は正直なもので、しっかりとまこちゃんの言葉を聞いていて。立ち止まるのも進むのも恥ずかしくて戸惑っていたら後ろから覆いかぶさるように抱きとめられた。
耳元に囁かれる声は、とても綺麗だった。
「でも、あたしは亜美ちゃんに昨日と今日と―ふたつあげたからね」
「―!」
「お返しならもうひとついるんだよ、亜美ちゃん?」
「・・・っ」
「これ食べたらバスタオル用意して、そっち行くから先入っててね」
耳元でまこちゃんがチョコレートをかじる音がして。微かにチョコレートの残った指先で唇をすっとなぞられて、おいしいよ、なんて言われて。
そこで足の力ががくがくと抜けて。
結局、どうしようにも彼女に全てを任せるしかなくて、恥ずかしさのあまりまともでなくなっていく思考回路は、濃厚なチョコレートの香りだけをしっかりと認識していた。
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久々まこ亜美!自分の中で攻めまこがかなり来てるってのもあるんですが、アニメ亜美ちゃんはまこちゃんにいじめられてなんぼとか(笑)Mっつーかヘタレ+惚れた弱みですかね。
行事ものは全員出したいので原作ネタにしようと思いつつ話も脳内に作りつつ、どっこいここはアニメのまこ亜美メインサイトなので何が何でもまこ亜美やりたかったです(笑)
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