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ニッポン チャチャチャ!!

納得できない事、頭にきた事、不可解な事、民主主義後進国ニッポンの“?”を感情的に綴っていきます。

吉祥寺70年代文化伝承の店“のろ”の30周年

2006年02月20日 19時08分30秒 | 自分の事
吉祥寺の“のろ”といわれて「知っている!」という人は、吉祥寺周辺に住んでいる人か、音楽好きな人くらいでしょう。そして、この店はライブをやっているのですが、それも月に4本ほど。だからなのか、この店は“LIVE HOUSE”といわずに“LIFE HOUSE”と自称しているのです。
先週末にこの店の30周年記念ライブが行われていたので、それに行ってきました。30周年ライブは2月の毎週土曜日に、ゲストを替えて開催されているのですが、その日のゲストは「律とイサト」、「佐藤GWAN博」といった面々なのです。“?”という方も多いでしょう。そう、この店は70年代フォークミュージシャンの牙城なのです。
30年前の76年当時、流行歌とちょっと遅れて入ってくる洋楽、それ以外に髪の毛の長い人間たちが演奏しているジャンル位しかなかったのですが、それ以降、日本の音楽シーンは吉祥寺の街と同様に大きく変わってしまいました。しかし、“のろ”という店はかたくなに“髪の毛の長い人間たちが歌っているジャンル”にこだわってきたというか、彼らに場所を提供し、守ってきたということもできるでしょう。高田渡、友部正人、大塚まさじ、加川良などを聞くことができる店だったのです。高田渡さんは亡くなってしまい、残念ながらどこでも生で聴くことはできなくなりましたが…
偶然、「ぐるり/ビレッジプレス」というミニコミ誌に“のろ”の店長である加藤幸和さんのインタビューが掲載されています。そこには、開店の経緯も出ていますが、こういった店を30年間続けるのは楽な事ではなかったはず。それでも「のろまの“のろ”でやっていこうよ」という姿勢をつらぬき、普段はくつろげる飲み屋にもなっているのです。
階段を下りて店に入れば、まるでそこは70年代そのもの。客は決して当時を懐かしむ人間ばかりではなく、逆に当時を知らない若い客のほうが多いくらいなのです。それこそれが30年間続けてきた賜物なのでしょう。間違いなく、“のろ”は70年代吉祥寺文化を伝承している場になっているのです。最近は、すぐに方針を変えてしまったり閉めてしまう店が多い現在、この店のかたくなな姿勢は特筆ものです。
さらに店長の加藤さんは、開店前からアドバイスしてくれていた高田渡さんの信奉者のひとりで、渡さんの追悼ライブや生誕祭ライブでは積極的に裏方の制作スタッフを努めるという人柄。それにみんな惹かれてやってくるのです。
ちなみに、この日のライブのアンコールは2曲とも渡さんの曲でした。吉祥寺ゆかりのミュージシャンとって高田渡という人間が大きな柱だったように、のろの加藤さんも、70年代吉祥寺文化のファンには、とても頼りがいのある止まり木になっているのではないかと感じたのでした。

ちなみに、私は25日の30周年記念ライブ最終日も中川五郎さんを聴きにいきます。

70年代にタイムトリップした週末 Vol2

2006年01月17日 01時59分04秒 | 自分の事
前回に続き、先週末に私が体験した“70年代再発見”の旅の続編です。相変わらず極私的な話ですのでご勘弁ください。

いよいよ70年代振り返りの旅の最終回は、15日の日曜日に下北沢のラ・カーニャというライブハウスで行われたライブでした。それは「林亭」という1973年に自主制作アルバムをわずか200枚しか出していない、大江田信と佐久間順平という二人組みのユニットなのです。彼らの活動期間は短く、今回のライブは公式には30年ぶりの再結成ライブだったのです。
異様に客の年齢層の高い会場はまさに大入り満員。お客の中には中川五郎やシバなどの多くの吉祥寺系のミュージシャンの姿があり、こんなにミュージシャンの客の多いライブは初めてでした。そして、誰より彼らを応援していたのが、去年亡くなった高田渡氏だったのです。当時、自分のライブの中で度々、彼らのために自分の演奏時間を分け与えていたそうです。
そんな彼らの「夜だから」というアルバムは、高校生の頃、私が通っていた吉祥寺の“ぐゎらん堂”というライブハウスとも飲み屋ともつかない店で、本当によくかかっていました。それを聴いて、その頃その店に通っていたお客もみんな「林亭」のファンになったのです。もちろん、私もそのひとりでした。
そして去年の暮れ、その「林亭」の再結成ライブがあることを知り、すかさず予約していたのです。実は昨年8月にここのブログにも書いたのですが、彼らの「わたしが一番きれいだったとき」という曲に、インタビューと映像をつけて私がDVDに編集したのです。それを二人に渡し、曲を唄っている大江田さんからは感謝のメールをいただいていたのです。そして、直接そのお礼もしたくて予約したのでした。
会場には友人と一緒に行ったのですが、当時の“ぐゎらん堂”の常連で、やはり林亭のファンである漫画家のいしかわじゅん氏と並んでライブを観ることになりました。最初は30年ぶりの硬さが感じられた二人ですが、後半はまるで1973年か74年の往時のライブを演じているようでした。とにかく二人とも楽しそうに演奏しているのです。
気がつくと客も単に昔を懐かしむだけでなく、会場は演者と客の一体感につつまれ、曲の途中で客席からシバがハープをかぶせるなど、おそらく何十年に一度というレベルの素晴らしいライブだったのではないでしょうか。
わずか、70人位の人数しか体験できなかったタイムトリップ。とても貴重な時間を楽しめました。そして、私が素晴らしいユニットを知る機会をかつて持てたことを、とても幸せに感じる事もできました。
ライブ終了後には大江田氏にメールのお礼も直接できて、非常に満足できた一夜でした。

こうして、3夜にわたる70年代への旅は終わったのです。ただ、時差ボケならぬ年差ボケは、しばらく続きそうです。


70年代にタイムトリップした週末 Vol1

2006年01月16日 23時48分10秒 | 自分の事
私の先週末の3日間は、まさに“70年代再発見”の旅でした。それはとても懐かしく、感動的でもあり、自分の原点を見つける旅でした。今回も極私的な話題です。

旅のスタートは13日の金曜日。私の最初に勤めていた会社の新年会の二次会に渋谷にある「ストロベリーフィールド」という店に行きました。その名前からも分かる通り、60年代・70年代の音楽をアナログ盤で聴かせてくれる店なのです。
オジサンばかり7人の集まりだったのですが、WHOにREEにDOORSにジャクソンブラウンやドゥビィーやロッドスチュアートにアリスクーパー、もちろんビートルズも…。全員が、われ先にリクエストするのです。そして曲がかかる度にみんな想い出話を語り、当時の自分自身に浸っていました。
そんな中、先輩の一人がポツンと「やっぱりアナログ盤の音はいいな、iPodの音とは全然違う」と言うのです。久しぶりに聞いたアナログ盤の音は、たしかにノイズはあるのですが、全体の音はCD以上にナマの音に近い音だと再認識しました。
と同時に、私はこんな音楽に一番多感だった頃に触れる事ができて幸せだったと思いました。それは、違う場所で育っていながら、オジサンになっても、こうやって共通の想い出として語り合う事ができるのですから。
ちなみに、その日のベストチョイスはバングラディッシュ・コンサートでのレオンラッセルの「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」でした。私も約四半世紀ぶりに聴いたのですが、高校時代にバンクラディッシュの映画で観たレオンラッセルに痺れた記憶を思い出させてくれました。やはり、ストロベリーフィールドはフォーエバーでした。

翌日の土曜日、今度はボブティランの映画「NO DIRECTION HOME」を吉祥寺の映画館に観に行ったのです。3時間40分という長いドキュメンタリー映画なのですが、とにかく色々な事に気づき、色々な発見がありました。
まず私たちの世代は、今のようにビデオクリップというものがなく、動く映像を観る機会がほとんどなく、画像すらなかなか見ることができなかったのです。ですから、こんなにしゃべるディランを見るのが、まず初めてでした。
それ以上に驚いたのは、当時あんなに難しげなミュージシャンと思っていたディランがとてもカワイイ男の子に感じられて、まるでアイドルのように見えたのです。それもそのばす、当時のディランより今の自分の年齢の方が倍以上なのですから、そう見えるのも当然でしょうが、自分の年齢にも驚いてしまいました。
それでいて、映画に出ていた私よりずっと年上のはずの、今のジョーンバエズやディランの昔の恋人がとっても綺麗で魅力的なのです。これも別の意味で驚きでした。
不思議だったのは、映画を観ていると何故か涙が流れるのです。何でもない場面であったりするのですが、気が付くと涙が出てくるのです。自分でも理由がわからないのですが、故郷に帰ってきたような感覚だったかもしれません。

そして、まだまだ私の70年代への旅は続くのでした。

ありがとう、ニコン!

2006年01月13日 16時36分48秒 | 自分の事
今回は、極私的な感傷的な話題です。それは、ニコンがフィルムカメラから事実上撤退するというショッキングなニュースを知ってしまったからです。

私は生意気にも高校時代からニコンユーザーでした。それも名機Nikon F2です。写真にあるのがそのNikon F2で、レンズは自慢のF1.8の85mmです。シリアルを見ると1972年製ということが分りますが、たまにですけど今でも使っています。
私が高校のサークルを選ぶとき、本当はバスケット部に入りたいと思っていたのです。ところが当時、母校はとても運動部が強く、とても私にはムリだとすぐに悟りました。そんな中、ライフル射撃部という微妙なサークルを見つけたのですが、これは親の強烈な反対で諦めざるを得ませんでした。そこで、選んだのが写真部でした。
そして、入部してまもなく手に入れたのがNikon F2だったのです。以後30年以上、とにかくこのカメラで撮影しまくりました。高校時代はほとんどモノクロフィルムで撮影し、当然現像も自分でやりました。そして自宅でも現像の道具を一式揃えて、休日はニコンをかかえて出かけるという事が習慣に近くなっていて、完全に写真が生活の一部になっていました。それもニコンで撮影の楽しさを知ってしまったからなのです。
ですからそんな流れで、大学時代はいつも撮影担当になり、サークルや遊び仲間が集まるときはいつもNikon F2を持って参加しなければならないという立場になっていました。というか、何かあるときは、自発的にカメラを手に出かけたという印象があります。
そしてその後は友人の結婚式のカメラマン。そんな時にはこの85mmレンズが活躍しました。人物を撮るのにとってもイイ感じで、とにかくお気に入りのレンズで、その後も仕事で様々な著名人もこのレンズで撮影してきました。
思い返せば、私の様々な想い出をこのNikon F2で撮影し、フィルムに焼き付けてきたのです。ですから、そのニコンがフィルムカメラから撤退するというのは時代の流れとはいえ、ショックでもあり感傷的にもさせてくれます。といいつつ、実はこのNikon F2の撮影をNikonのデジカメでしているというのも皮肉というか自己矛盾ですよね。
これはコンサバな考えかもしれませんが、30年以上経っても使える機械というのはなかなかないでしょう。今私が使っているNikon D70'sが、30年後も使えるかどうか疑問です。こんなタフな機械がもう作られないというのは感慨深いです。間違いなく時代が変わったのでしょう。しかし、それは理屈抜きで認めなけばならない流れなのでしょう。

とにかく今回の件で、私は死ぬまでこの想い出のNikon F2を手放さないぞ!と心に決めたのでした。

最近のニュース番組がつまらないから

2005年12月29日 23時13分30秒 | 自分の事
このブログのここ数日のアクセス数を見て、その数の多さに驚いています。もちろん、ランクインするほどの増加ではありませんが、これも冬休み効果と分析しています。そこで、初めてこのブログに辿り着かれた方も多いと思いますので、以前にも一度書きましたが、このブログでの私の姿勢について再度書きたいと思います。

そもそものきっかけは、最近のテレビのニュース番組がつまらないと感じたからです。さらに、つまらないだけならいいのですが、視聴者をミスリードするのではないかという報道があまりに多いと思ったからです。
たとえば11月の株価のニュースで、1万4600円台を回復した日の報道はNHKをはじめ、私の観た各局のニュースがすべて「これは小泉政権発足後の最高値を更新しました」と報じていたのです。これに気になった方も多いと思いますが、それを言うなら具体的に効果のあった経済政策なりの例を挙げないと、まるで小泉政権が株価を引き上げる成果を果たしたように聞こえてしまうと思うのです。
これは、たぶん兜町記者クラブの発表をどこの局もそのまま流していたと想像されるます。つまり、報道機関が世論形成の遠隔操作をされていたと言ってもいいでしょう。しかし、報道機関内にその危惧を感じる人間がいないんでしょうね。とにかく最近は、記者クラブの発表そのままではないかというニュースが多く流れ、それに対してキャスターが批判するコメントがほとんど聞かれないという印象です。
この時期、憲法改正問題を契機に、国会の総与党化傾向が進んでいると感じています。そんな時だからこそ国民の立場に立って、政治を監視する責務が報道機関に求められていると思うのです。いわゆる第四の権力を志向しないと、戦前の過ちを報道期間はまた繰り返すのではないかと心配するのです。しかし、少なくとも毎日のテレビニュースには影響力が大きいのに、そんな骨太の姿勢を感じられません。結局、番組のニュースデスクが弱腰になっているのでしょう。
そこで私は、“このニュースってこっちの側面を見ないといけないんじゃないの?”、“そもそも何でこんな事が起きるの?”、“かつてこんな事があったの忘れてない?”というような視線でニュースを切って、ニュースを考える提案をしていきたいと思っているのです。
気持ちはニュースデスクなのですが、いかんせん情報不足と確認作業の難しさで、事実誤認があるかもしれません。それは大目に見ていただいて、それよりもニュースの切り口や着眼点を注目していただきたいと思っています。
とにかく、ニッポンを間違った方向、もしくは危険な方向には向かわせないためにも、今は一人ひとりが考えないといけない時代だと思っていますので、こんな見方もあるんだなぁ~と、このブログを読んで考えていただければ大変な幸せです。

やはり、行動に移さねば

2005年12月11日 20時45分44秒 | 自分の事
最近このブログを書いていて感じるのは、善くいえば“ただの反対野党”悪くいえば“負け犬の遠吠え”という風に感じてしまうのです。とにかく、世の中にイチャモンをつけてるだけではないかと。
たしかに、ずっと反対を続けている憲法改正問題にしても、“変える必要はない”と、一見、動く必要はないように言っていても、護憲のための活動の方法はあると思うのです。まして、改憲派が勢力をつけているからこそ、何か行動に移さなければならないと思いはじめているのです。
また、現憲法の前文を尊重するという事も、それができるような具体的な方法を示すなり、次の段階に進まないと“ただの反対野党”になってしまい、結局は独りよがりのオナニーに陥ってしまうと感じだしたのです。
このブログのアクセスが限りなく“ゼロ”に近いのであれば、私もそんな考えにはならなかったのでしょうが、そうではないということは、少なくとも多少なりとも私の意見への賛同者が存在するということを知ってしまったのです。つまりそれは、私と同様に、今の社会に不満なり不信を抱いている方がいらっしゃるという事です。
「反省だけなら猿にでもできる」かどうかは知りませんが、「言うだけなら簡単」というのは真実だと思います。だから、「言うだけでない」または「ただ反対するだけでない」という姿勢をこのブログにも反映して、当初このブログをはじめたときに目論んだ方向を強く意識しないといけないと思い直しました。別に大したきっかけがあったわけではないのですが、まあ、更新100回を過ぎての軽い反省みたいなものです。
という事で、今後はもう少し行動につながる発言、もしくは行動が先にあるような、言ってみれば社会運動のはたらきかけもしてみようと思います。何もそれはデモをするとか署名運動に動こうとかではなく、もっと身近にできる提案を盛り込んでいかなければいけないと思っています。
そのためには、より一層の勉強が必要になってくる上に、私たちが動ける範囲は決して広くはないと思うので、簡単にはいかないなとは感じています。ですが、ちょっとそんな方向を意識してみますので、今後ともよろしくお願いいたします。

実は100回目なのです。

2005年11月29日 13時00分08秒 | 自分の事
たぶん、これに気がついた人は誰もいないと思うのですが、実は今回でこのブログ100回目の更新となるのです。
今年の7月に第九条の事を書いて以来、自分なりに、少しでも世の中を良くする活動ができないかと思って始めたこのブログ。お陰さまで、最近はブックマークされている方も多いみたいで、予想以上にアクセス数も増えてきました。いつも私の文章を読んでくださって本当にありがとうございます。

そこで、次の200回を目指し、今回はこのブログを読んでくださっている皆さんのご意見を聞かせてください。
どこが良くてこのブログを読んでくださっているのか? どこに面白さを感じているのか? どの回が印象に残っているか? どんな内容を掘り下げて欲しいか? 今後こんな展開をしてみたらなどのご提案、今後書いて欲しい内容、など…。もちろん、お叱りも結構です。

すべてのご意見を反映できるとは思えませんが、このブログの今後の参考にしたいと思っています。たまには、読むだけの方もコメントをお願いします。

これで、全然コメントがないと本当にへこんでしまいますので、よろしくお願いします。

ブチギレ Part2

2005年11月27日 23時46分31秒 | 自分の事
今日の日曜日、気になっていた風呂の排水の悪さを直すのと、風呂の掃除を一緒にしようと午後の早い時間から作業にとりかかりました。
まず、通販で買った何年か前に流行った温水をジェット噴射にして洗い流すヤツ(一般名詞で何というのでしょう?)で、浴槽の汚れを落としました。そしてそれを、浴槽に注ぐ水道にホースを付けで洗い流しました。しかし、排水が詰まっているようで「ヤバイな」と思い、先に排水口の詰まりを直さねばと思い直しました。そして水道の栓を閉めたのですが、水が止まらないのです。
ここで私は頭を働かせました。「そうだ、一度も使った事はないけど、水位をチェックするフロートみたいなのがあった。これを水に沈ませれば止まるのでは」と思い実行に移しましたが止まりません。
こうしている間に浴槽の水は徐々に水位を上げ、掃除をしても一向に配水口は流れる様子がありません。段々パニックに近づく私…。
まず、木曜日にブチ切れた大家に電話しました。相変わらず要領を得ず、「日曜だから水道屋に連絡できるのは明日だ」との答え。すかさず私は24時間対応の水道工事屋さんに電話。すると「借家の場合は大家の許可がないと…」の答え。
徐々に「これが絶望というものか!」と思いつつ、私はさらに頭を働かせ「ひょっとすると、お湯が溢れると流れるところまで水が届くと止まるのでは」と考えたのです。浴槽に蓋をして、恐る恐るそこまで水が溜まるのを待っていました。すると…。
「止まらなーい!」無常にも浴槽の水位は増し、浴槽から溢れそう。ホースの水を流しに流しても途中で配管が一緒になってるみたいで、床の排水口からは水が逆流し出すのです。私はユニットバスから水が流れ出す様子を想像し、悪寒を感じました。
ところが、神はいました。「そうだ!トイレだ!」私は早速ホースの先をトイレに。すると水洗便所の水は溢れてこないのです。その事を今回初めて知りました。
これで落ち着きを取り戻した私は、まず湯沸し器の元を切ってガスのムダをセーブ。次に再度、大家に電話しました。ずっと水が止まらないと言っているのに「お湯が止まらないんじゃないのか?」と横柄な態度。いや違うんですと言うのをやっと理解してもらい、水道屋さんを連れてやってきました。
結局、水道の蛇口は原因不明の故障。「そんな事ってあるのかよ!?」と思う私。これ昼間だから良かったけど、夜ならどうするの? とあきれてしまいました。配水管の詰まりも水道屋さんがあっさり解決。大家は電話で「下の階の人の承諾を取って、天井裏から作業して、それはあなたの実費負担だな」と言っていた事を思い出し、本当に頭にくる大家だ!「ケツの穴から手突っ込んで目玉グリグリいわしてやるぞー!」という気持ちを心に留め、明日の光回線再工事の下見に不安を感じるのでした。

ここは社会派ブログを自負しているつもりなのですが、今回も私怨パニック・スペクタクル・ストーリーとなってしまいました。ごめんなさい。

高田渡生誕会 57

2005年11月20日 23時50分03秒 | 自分の事
昨日(19日)は、吉祥寺のライブハウスで行われた「高田渡生誕会 57」というライブに行って来ました。これは、この春に亡くなられた高田渡さんの誕生日に、親交の深かったアーチストたちが二日間にわって集まり、生きていれば57回目の誕生日を祝うという趣旨のものでした。
私は以前にも書いたと思いますが、高校受験は吉祥寺を通って通学する学校を選んだほど、吉祥寺に憧れていました。当時はフォークブームのはしりで「武蔵野火薬庫ぐゎらん堂」という店に多くのミュージシャンが集まっていて、私はその店に通いたかったのです。そしてそこに集まるミュージシャンの中心が高田渡氏だったのです。
当然(?)、当日の会場は40代後半以上の人が多分9割以上だったと思います。出演するアーティストも馴染みの面々。だけど、ほとんどテレビで観ることのない人たちですが、渡さんの近くでずっと音楽を続けてきた人たちです。
客席の一番後ろで立ち見だったせいで、私は比較的に落ちいて演奏を聞くことが出来ました。そして気が付いたのですが、みな“詩”がいいのです。というか人間の内面をしっかり見つめた歌詞が多かったと言ってもいいかもしれません。つまり、大人の曲のオンパレードだったのです。
それに気づき、ライブ中に「自分はここまで自分や人生と向き合ったことがあるのだろうか」などと考えされられもしました。
この日の出演アーチストは、佐久間順平、青木ともこ、佐藤GWAN博、斉藤哲夫、アーリータイムスストリングスバンド、ゲストに武蔵野マーガレット(?)といった、決してチャートに出ることはないベテランばかりでしたが、とってもハートウォーミングなライブでした。
最近、ある人に「日本の文化は若者中心のモノばかりで、大人の文化がない」と言われましたが、その意見に私も同感です。しかしこの日は大人ばっかりが集まって、大人たちが大人のために演奏し、大人の時間が楽しめたという印象のライブでした。

最後に、死んでもなお、こんな素敵なライブをする事ができる高田渡さんのご冥福をお祈りいたします。

エンケンは“不滅の男”だった!

2005年11月10日 20時04分59秒 | 自分の事
また、ほかで書いたネタの流用で恐縮です。ただ、あまりに強烈な体験だったので、ここにも書いちゃいます。でも、画像はこのブログだけのものですので、それでご勘弁を。

そもそもは、吉祥寺にある“のろ”というライブハウスに置いてあったチラシで知ったのです。「なにっ! エンケンの映画があるの!?」当然、私はその場で映画を観に行くことを即決しました。
ご存じ無い方に説明すると“エンケン”こと“遠藤賢司”は日本のフォーク界の巨匠のひとり。必要以上に群れることを嫌い、常に孤高のアーティストとして活躍してきました。当初はアコースティクギターでの曲が多かったのですが、途中からレスポール一本でひとりメタルバンドのような音を奏でている心優しいアーティストなのです。
映画は、全編が客のいない武道館でのエンケンの演奏だけ。MCも一切なく、ひたすら歌いまくる90分でした。それは本当に凄かったです! 凄すぎました! とても60歳ちょい前の男のパワーではありません。帰りに酒を飲む気力を失うほど、そのパワーに圧倒されてしまいました。映画でこんなに疲れたのは、大学時代に高田馬場の映画館でヴィスコンティの二本立てを二回ずつ観たとき以来という疲れ方でした。
伴奏は一切無く、エフェクターを貼り付けたギター一本だけで歌うエンケンはジミヘンゃアルベンリー、シドビシャス、そしてもちろん“Like A Hurricane”を歌うニールヤングを彷彿させたり、ひとりWHOやひとりSEX PISTOLSではないかとも感じさせました。それは、とてもひとりだけで創り出す音ではありません。アコースティクギターで歌う“夜汽車のブルース”も中津川フォークジャンボリーで歌っていた当時以上の迫力とパワー! まさに孤高のアーティスト・エンケンの魂の叫びを聴くことができました。ですから、エンドロールの後に拍手が起こったのも当然。
たしかに、近くにこんなオッサンがいたら周囲の人は大変かもしれませんが、このパフォーマンスが出来る努力と節制、自らの内面を突き詰める力、孤独に耐えられる意志の強さ、すべてがとても格好よかったです。
よく、中年男性の励みになる人物という評価がありますが、エンケンはそんなレベルを通り越しています。こういう人物を日本の社会は受け入れないとイカン! という流れの開拓者と感じました。「いい歳して何やってるんだ」という日本の一般的な風潮に強烈な”メガトンパンチ”を喰らわしているエンケンの生きざまが痛烈に届いてきた強烈な映画でした。