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ニッポン チャチャチャ!!

納得できない事、頭にきた事、不可解な事、民主主義後進国ニッポンの“?”を感情的に綴っていきます。

【緊急連絡】13日、“本物の男”に殺される!

2006年07月11日 01時38分16秒 | 自分の事
それはmixiの中で、一枚の写真がきっかけでした。武蔵野たんぽぽ団(知らない人はごめんなさい)の写真に写っているひとりの人物の行方をたずねだしたことから始りました。
だいぶ前にアメリカのテレビ番組「ゴングショー」に出演していたのを観たという話題以降、その人物の行方は分らなくなっていたのです。その人物は「品川寿男」といって、ギターケースに下着だけを突っ込み、街から街へ何年もHoboの旅を続けていたというミュージシャンなのです。
そもそも品川寿男さんは、このブログでも何度も紹介した吉祥寺にあった「武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂」という店でも歌っていたのです。また武蔵野たんぽぽ団のライブに加わる事もあり、その当時から強烈なインパクトを与え多くの常連客に好かれていたそうです。
そんな品川さんは1974年にアメリカに渡り、一旦帰国するものの、またアメリカに渡って歌い続けていたそうなのです。残念ながら、私はぐゎらん時代に彼に会った記憶がなく、mixiの中で存在を知り、その人柄に痺れていたのです。
最初に行方をたずねる書き込みがあってから、今でもロサンゼスルあたりのストリートで歌っているという情報はすぐに入りました。それからも、矢継ぎばやに品川さん情報が書き込まれだしたのです。
品川さんを紹介しているサイトが見つかった、学生が作ったショートフィルムに出演している動画が見つかった。そしてついにロングビーチのストリートで毎週歌っているという記事と最近の写真が見つかったのです。
それにつれて様々なエピソードも書き込まれるようになり、「品川寿男」という人の破天荒ぶりを一層知ることができました。最初にアポ無しでジャクソン・ブラウン(知らない人はごめんなさい)の家を訪ねたのにはじまり、自分の尊敬するミュージシャンの家を訪ね歩きながら泊めてもらっていたそうです。また、ジェリー・ガルシア(知らない人はごめんなさい)のライブのステージにいきなり上がって握手したりとか…。
最初の書き込みからわずか3週間。「品川寿男に会ったら宜しくね!」というコミュニティが立ち上がり、再会への流れは加速していきました。そんな中でも、品川さんの音源が見つかったり、You Tubeで歌っている姿までも見つかっていったのです。
ちなみにYou Tubeではじめて観た歌っている品川寿男さん。凄いです。迫力あります。30年以上歌いつづけていた存在感とメッセージが伝わってきます。ギターはボロボロなのにイイ音。ハープの音も情熱的で、シンプルな英語の歌詞も鬼気迫ります。
そして先週、その品川さんが故郷の島根へ一時帰国しに帰ってきたのです。もちろん、連絡も取れ、あっとう間に東京のライブ開催も決まったのです。
7月13日(木)19:00開場 19:30スタート
場所 谷保「かけこみ亭」 チャージ 2,000円(カンパ歓迎)
ホームページ
http://homepage.mac.com/norimutsu/Hisao.html
普段の様子
http://www.youtube.com/watch?v=8f91ABwg2a4

最高なのはライブの実現に奔走した人への品川さんからの電話での言葉です。それは次のコメント。
『ライブに来たら、俺の歌でおまえら殺してやる!』

ベトナムの亮子ちゃんからのメール

2006年06月15日 15時01分03秒 | 自分の事
先日、私のところに以下のような書き出しから始まるメールが届きました。

あっという間に梅雨の季節となりました。皆様、いかがお過ごしですか?
典型的な熱帯モンスーン気候に属すホーチミンの雨季は5~10月。この間、外出にレインコートは欠かせません。短時間で止むスコールが殆どですが、バイクで走行中向かって来る人達がレインコートをかぶっていれば、そろそろ雨雲の下にさしかかるはず…。レインコートが無ければ、運転手の背中にもぐりこみます。道が悪いとたちまち巨大な水たまりができ、タイヤ半分まで泥水につかりながら走り続けます。濡れた足とサンダルも、雨が止めば乾く!路上の子供達もずぶ濡れになって元気に走ります。

このメールの差出人は、20代後半(のはず)の女の子なのです。ベトナムのホーチミン市の様子を伝える内容ですが、彼女はここに観光に行っているわけでもなく、仕事で行っているのでもありません。現在、彼女は日本の看護学校に通う学生でありながら、この地でのボランティア活動のために毎回単身で訪れているのです。
彼女と私が知り合ったのは約5年前のこと。私がフリーで関わっていたあるテレビ局の新入社員として彼女が入社してきたのです。とてもお上品で物静か、一見してお嬢様育ちとうかがい知る事ができました。
そんな彼女が局を辞めると聞いたのは、入社して1年足らずの頃だと思います。難関の入社試験を乗り越えて、仕事も一生懸命に情熱的にこなしているのに「なぜ?」と疑問に思いました。すると彼女は「ボランティア活動をしたいんです」と言うのです…。
その後、紆余曲折があり、現在はベトナムの恵まれない子供たちに支援の手を差し伸べる活動をしているのです。それもまるっきり個人ベースで…。そして、その活動報告が先の書き出しから始まるメールで、毎回収支報告書と一緒に丁寧な内容で届くのです。
私としては、正直、彼女の活動に対する彼女の心の裏側を知りません。そればかりか彼女が必要としている金銭などの援助も一切していません。ただ、毎回そのメールに書かれている悲惨な状況を心にとどめ、そのままいれば安泰であったはずの会社を辞めた“大バカ女”の生き様を応援しているつもりです。
実は彼女が看護学校に通うのも、より実践的なボランティアが現地でできるようにと考えての事なのです。何がそこまで彼女を突き動かすのか訊ねてみたい気はあります。ただ、このメールの書き出しを読んでも、決して目を吊り上げて活動しているわけではない事は分りますよね。
また今回、このブログで紹介する許可をメールで訊ねたところ、その返信の中に「よく、組織化したらいい、と言われるのですが、個人で透明性・効率の高い活動を維持することに、今は力を入れたい思います」と力強く書かれていました。
もう彼女は、とても“お嬢様”と揶揄できない一人の“素敵な人”になっていました。私の認識を改めなければなりません。その前に、彼女の活動自体で自分自身の目を覚まさねばならないと感じています。

ご興味のある方はこちらのサイトをご覧ください。
「Ryoko Murayama's Soul Trip」
http://www.go2asdoing.com/ryoko/

21世紀の“反戦フォーク集会”に行ってきた

2006年06月12日 13時22分48秒 | 自分の事
昨夜はこのブログでも紹介した映画『バッシング』の公開記念ライブに行ってきました。実は小林政広監督は、かつて「林ヒロシ」の名前でフォークを歌っていたのです。その上、やはり以前ここで紹介した「林亭」と一緒に活動していて、「林ヒロシ」自身も、あの高田渡氏に活動の場を紹介してもらっているという歴史があるのです。つまり、昨夜は私のブログで紹介した人物がつながるライブでもあったのです。
この日の出演者は、かつての仲間である林亭を先頭に佐藤GWAN博、いとうたかお、唯一若手のハンバート ハンバートのふたり、そして飛び入りのシバ、中川五郎、そして林ヒロシこと小林政広監督という顔ぶれ。そして客席には吉祥寺ぐゎらん堂の元経営者ご夫婦もいらっしゃり、出演者、客ともに平均年齢の高いライブでした。
オープニングのMCで小林監督が「今日は『バッシング』公開にちなんだ反戦フォーク集会です」と言って笑いをとっていましたが、数人のミュージシャンには実際に『バッシング』にちなんだ曲をやってくれと頼んでいたようです。
何人かのミュージシャンはライブの前に映画『バッシング』を観に行っていたようで、その感想を最初に語り歌いはじめていました。どうも“自分の立場”というものを考えされられる映画なんだろうと感じると同時に、みな、あの事件の異様さと、その背景にある今の日本の異様さを感じているんだと理解しました。
そんな流れで、中川五郎は故高田渡氏の私生活をバッシングした歌を歌い、選挙に出る友人のために作った曲という『憲法九条』についての曲も歌っていました。MCで「我々は『第九条』を語る前に『第九条』を知らないのではないか」と述べてから歌った曲は、“理想と現実”をテーマした内容の曲でした。
そしてミュージシャン林ヒロシは「ホリエモンにささげる曲」という副題だという曲で、格差社会と夢を忘れた男の姿をテーマにしていました。朴訥と歌う林ヒロシですが、後になって気がついたのですが、ボブ・ディランの『ライクア・ローリングストーン』の林ヒロシ版だったんだと理解し、改めて力強いメッセージを感じたのでした。
そして印象的だったのが、ライブの進行をしていた福岡風太(春一番コンサート主宰者)のMC。「今の日本はおかしな方向に向かっている。もう一度ヘルメットがぶったろうと思っている!」という言葉とそれに対する客席からの歓声と大きな拍手にこの日のライブの意味が集約されていたのでしょう。
おそらく全共闘世代の人たちは、今の日本のおかしさヤバさを敏感に感じているのでしょう。そんな中から生まれた映画が『バッシング』であり、『21世紀の反戦フォーク集会』が昨夜のライブだったのではないでしょうか。
ちなみに私は明日、映画『バッシング』を観にいこうと思っています。

◆映画『バッシング』◆
イラクでボランティア中に武装集団に拘束され、その後解放された女性をモデルにした映画です。
「渋谷シアター・イメージフォーラム」で上映中
http://www.bashing.jp/

この雑誌を潰してはいけない!

2006年06月08日 22時15分43秒 | 自分の事
私は以前、ある雑誌の創刊に関わる機会がありました。それは今でもエポックな雑誌だったと思っていたのですが、最終的にはつまらないトラブルと出版社の社内抗争が重なり廃刊に追いやられてしまいました。そして2年前、ある書店で偶然その雑誌のロゴを見つけたのです。15年振り位に見つけたそのロゴが嬉しくて、思わずその雑誌を買ってしまいました。

それは「DAYS JAPAN」という雑誌です。編集長は広河隆一氏になり、版元も変わっていたのですが知らない間に復活していたのです。内容は日本のマスコミが取り上げない問題を写真を切り口に紹介するフォトジャーナリズム雑誌。
実は、私はmixi内にある“DAYS JAPANコミュニティ”というのに登録しています。そこでは一般のマスコミでは得られない情報に触れられる事ができるからです。一連の“共謀罪”に関する催しの情報は、ほとんどここから入手していたと言っていでしょう。
つまり雑誌ばかりでなく、その読者の問題意識も高く、今後の日本と世界を考えるのに有用な指針となるメディアと信じています。ところがその雑誌の経営が芳しくないそうです。とにかく日本のマスコミの質の低下が激しい中、「DAYS JAPAN」のような雑誌は決して潰してはならないと思っています。以下、編集長のコメントを転記しますので、皆さんのお力をお貸しください。

 ◆◆◆以下、転記開始◆◆◆

DAYS JAPAN編集長
広河隆一

●写真展をごらんください
新宿のコニカミノルタプラザの写真展「地球の上に生きる2006」と、京王線明大前のキッド・アイラック・アート・ホールの写真展「メディアは命を救えるか」が9日目を迎えました。入場者は昨年を上回る勢いです。日本が主催するフォトジャーナリズム関係の写真展としても、世界の中でも、最高の内容を持っているのではないかと思っています。写真展は両方 とも6月19日まで続きます。それまでに時間を作って見ていただくだけ でもありがたいのですが、できるだけ早いうちに見ていただいて、周りの 人に広めていただきたいのです。見ない人が誘うのと見た人が誘うのでは効果がぜんぜん違うのは、ご存知のとおりです。
●開催地募集します
写真展はこのあと高知、名古屋、大阪、京都と回ります。今来年の写真展開催地を探しています。各地でDAYS JAPANと共催していただける方、ご連絡ください。
●DAYS JAPANの定期購読者になってください。
正直に言いますと、DAYS JAPANは順風満帆というわけではありません。雑誌は創刊から27号を出版し、英語版も4号を出しました。写真展も日本各地を回っています。国際的評価も増していっています。それでDAYS JAPANは安泰だと考えられる人が多くいらっしゃいます。DAYS JAPANが出版し続けることができることは奇跡だと何回も言われました。しかし奇跡はただ待つだけでは来ないことを、私はよく知っています。
まず応援してくださっている方々に、お願いをします。DAYS JAPANを購読という形で支えてほしいのです。定期購読でも書店での購入でもかまいません。今6月号が発売中です。この号の結果が、9月に数字となって出てきます。そしてその9月にDAYS JAPANは決算期を迎えます。DAYS JAPANはそのときに大きな決断を迫られることになります。本誌は現在書店で販売しているほか、6500人の定期購読者がいます。あと1000人増えたら安定します。ご購読いただいている方は、ぜひとも知人、友人にお勧めいただきますようにお願いします。万が一、将来に雑誌 の刊行が困難になったときでも、返金は保証いたします。ご迷惑をかけることはいたしません。
●時代に迎合しない雑誌を作り続けてここまで来ました。先代のDAYS JAPAN(講談社)は1年8か月で姿を消しました。すでに2年3か月発刊し続けている今のDAYS JAPANはよくがんばったと、言っていただけるかもしれません。こうしたことを過去形でいう事態にならないように、皆さんのご協力を心からお願いします。
 

2006年6月6日
DAYS JAPAN編集長
広河隆一

 ◆◆◆以上、転記終わり◆◆◆

正直言いますと、私も復刊を知った時以来DAYS JAPANは買っていません。編集長のコメントにもある通り、雑誌を買うだけがすべてではありません。まずは下のURLにある写真展に行って、日本に報道されていない事実があるのを知る事からはじめるのもいいでしょう。とにかく、潰してはいけない雑誌だと考えています。

★「地球の上に生きる2006」DAYS JAPANフォトジャーナリズム写真展
http://www.daysjapan.net/news/060515.html

【更新200回記念】このブロクの誕生秘話?

2006年05月22日 23時58分17秒 | 自分の事
このブログ、実は前々回の更新がちょうど200回目でした。そこでちょっと遅れましたが、今回は200回更新記念として、すこし私の紹介をしようと思います。

そもそも、私がこのブログをはじめようとしたきっかけは、大きくふたつあります。そのうちのひとつが、このブログでも何度が紹介したと思いますが、高田渡さんの死という出来事でした。
70年代前半、私は高校時代に吉祥寺にあった「武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂」という店に通いだしました。そこは、ライブハウス兼飲み屋みたいなお店で、元早稲田全共闘という経歴をもつご夫婦が経営していました。
常連客は学生運動経験者はもちろん、ノンポリのアーティスト系やフォークミュージシャンなどが集まっており、一様に過激な人ばかりでした。そんな中に高校生が入っていって、影響されないはずはありません。日常生活の中での“左翼思想”みたいなものをここで擦り込まれたような気がします。
その店の重鎮が「高田渡氏」でした。誰からも親しまれ、それでいて社会に対して常に反骨精神を持って向かっていった高田渡…。彼の追悼ライブが行われた小さな小金井公会堂には、ぐゎらん堂関係者はもちろん、満員のファンと日本のフォークの歴史を語るようなミュージシャンたちが大勢集まり、「こんなライブはもう二度とないだろう」と口々に語られていました。
その日以降、私の中にうまれた感情は「なんて素晴らしい人たちに囲まれて育ったのだろう」という再発見。それと「自分でも何かしなくては!」という焦燥感でした。ちょうどそんな頃“憲法改正論議”が盛んになり、「70年安保」の人たちに囲まれて育った私の心の中の小さな火種に火が点いた感じがしたのです。
そして、もうひとつの理由はある番組の終了でした。それは“ニュースステーション”です。私は久米宏氏を強きをくじくという、報道に求められる基本姿勢を貫き通してきた人だと思っています。そして旺盛な好奇心と、うやむやにさせないしつこさ。さらに鋭い観察眼と話術。まさに最高のニュースキャスターと感じていました。そんな久米氏をを擁するニュースステーションは日本の“健全野党”であるとすら思っていたのです。
その久米氏が番組終了が近づいたある日、「私は憲法九条は日本の宝であると思っています」と言い切った時、やはり私はこの人を信じていきたいと思うと同時に、久米氏に代われる人物はいないだろうと確信していました。案の定、後続番組は、私にとっては惨憺たるものにみえます。
また、私は報道番組のスタッフをしていた経験があり、後半の数年、住民の反対運動を特集するコーナーを担当していました。その中で感じた事は“官”の横暴がとめどない事。そしてどこの反対運動の人たちからも聞かされたのは「自分が反対運動して直接行政と接してみて、日本が民主国家ではないと感じた!」という言葉。つまり、その時すでに“日本民主主義の危機”を感じていたのです。
そして去年の7月、自分の中の感情と感覚と経験を形にする方法を考え、社会派ブログの制作を思いついたのです。それも単なる反対野党にならず、微力ながらも日本をよくする事に寄与できるのを理想とし、タイトルは「ニッポン チャチャチャ!!」としたのです。
さらに不偏不党であるのは当然として、“ゼロ”からスタートして、自然発生的に何か新しいものが生まれてくる事を願い、ハンドルネームは「無所属ひとり」という名前にしたのでした。

「大いなる存在」を信じるという事

2006年05月11日 20時23分43秒 | 自分の事
あなたは、こう言われて、素直に受け入れる事ができますか?

 『これからは、外界と思考だけに意識を注がないことを、人生の目標にしましょう。どんな時にでも、いくらかは、自分の内側を意識しているのです。人と交流している時や、自然に接している時には、特にインナーボディを感じましよう。インナーボディの奥にある、「沈黙」を感じてください。「目に見えない世界」の入口を、いつでも開けておくのです。一生を通じて、「目に見えない世界」を意識していることも、決して不可能ではありません。外界でなにが起こっても、「目に見えない世界」を感じていれば、るゆぎない心の平安、静けさを得られます。こうすることで、「目に見えない世界」と「目に見える世界」をつなぐ、パイプ役をしているのです。「神」と「この世」をつなぐ、パイプ役とも言えます。これこそが、「さとりをひらくこと」であり、「大いなる存在」とひとつになることなのです。』

これは、私が最近読んだ本で、非常に気に入った本『わたしは「いま、この瞬間」を大切にいきます』(徳間書店)の中の記述です。この本、女優のメグ・ライアンが推薦し、全米でベストセラー1位になった本の続編ということですが、私はそんな事情を知らずに読んでみて気に入ったのです。
内容は、“すでにそうであるもの”を認め、過去や未来にとらわれずに“大いなる存在”にすべてをゆだねれば、すべてが解決できるというようなものです。最近は精神世界の本が書店にも多く並び、この本をご存知であったり、内容を受け入れられるという人も多いでしょう。
ところが、この本の翻訳者があとがきで触れているのですが、「この本を無神論者の日本人が理解するのは困難かも、キリスト教社会の米国だから受け入れられた」という事を書いています。確かに子供の頃から“神”という偉大なる存在を日常的に教え込まれていれば、それを“大いなる存在”と結びつけてとらえることは容易でしょう。
しかし、日本人は八百万の神を信じ、正月はあれだけ沢山の人々が神社に初詣に行き、お守りが家にひとつもないという家庭もないでしょう。そこでは「神頼みはするけど神の存在を信じない」という、不思議な現象があります。
その上オウム事件以降、宗教的な話はかなり神経を使ってしないといけない話題になっています。一種、タブーに近いという人たちや社会も多いでしょう。はたして、それが整合性のある反応なのでしょうかと思っています。
自分の心の平和、世界の平和を求めた時、自分以外と「どっちの方が正しい、○○以外はありえない」という論議では、決して目的を達成できないでしょう。その論理では、どちらかが必ず否定されるわけですから…。それよりも「どっちも正しい、違いには問題がない」という発想が必要だと思うのです。
そんな心持ちでいられるように、今が満たされていないという人にほど、このような本を読んで“見えない力”の威力を信じる習慣を身につける必要があると考えているのです。

復活祭の今日は、高田渡氏の一周忌

2006年04月16日 19時58分20秒 | 自分の事
今日は復活祭の日。キリスト教では最も重要な祝いの日だそうです。
私の好きなというか興味のある人物に「ルドルフ・シュタイナー」という人がいます。人智学協会の創始者という以上に、日本では教育者として有名なのでしょうか。同時に神秘思想家、建築家でもあるのですが、著作はとても難解な事柄が多く、とても簡単には要約できません。
そんな彼の著作に「魂のこよみ」という本があります。この本は人間の精神が、一週一週の季節の気分の中で、その都度自分の魂の季節のイメージを感じとれるように考えられていると前書きに書かれています。そして、今日の復活祭の週が、52週にわたるこよみのスタートになっているのです。

 第1週 復活祭の情景

 太陽が宇宙の彼方から
 感覚に語りかけると
 視ることの喜びが魂の奥底から湧き上がり
 陽光とひとつになる。
 その時想いが自分のからだから
 遠く空間の果てにまで流れ
 暗く不確かに
 人間の本性は霊なのだと感じ始める。
           「魂のこよみ」(高橋巖 訳)より

こうして季節のイメージを感じる事が大切で、それによって自己を認識することが問題だとしています。私は、今年こそ(去年は途中で挫折したので)毎週のイメージを感じてみようと思っています。

そして実は今日、あの高田渡氏の一周忌の日でもあるのです。私が高校時代から通っていた吉祥寺の「ぐゎらん堂」という店の常連でもあり、吉祥寺フォーク界の重鎮でもありました。自らの音楽活動の他に多くの才能を見出し、彼らに発表の場を与えた渡氏。その素晴らしさは、皮肉にも自身の追悼ライブの顔ぶれで証明されました。
まるで日本のフォークの歴史をなぞるような出演アーチストの面々。「こんな顔ぶれは、渡の追悼ライブでなければ見ることはできないだとう」と語られていた言葉に深く納得しました。
そしてその追悼ライブ以降、私の周囲は一変しました。まるで渡さんがそうしたのではないかと思えるほど、昔の仲間集いだし、30年ぶりの再会と30年ぶりの「はじめまして」がいまだに続いているのです。そして、その全員の心の中心には必ず“高田渡”がいるのです。
そんな事を想うと、“人間の本性は霊なのだと感じ始める。”というのが感じ始められるのです。

流石!? ROLLING STONES

2006年03月23日 17時56分49秒 | 自分の事
それは散々待たされた末に“Jumpin' Jack Flash”で幕を開けました。そう、私は昨日、ローリングストーンズの東京ドーム公演に行ってきたのです。90年の初来日の東京ドーム公演以来、16年ぶりの「生ストーンズ」でした。
幻に終わってしまった73年公演のチケット購入に並んだ経験をはじめ、世代的にもストーンズは「特別な」バンドのひつです。そこで、知り合いにチケットが余っていると言われ、思わず手を挙げたのでした。
しかし、ライブが進むうちに私の中に違和感がうまれてきました。目の前で演奏しているのは間違いなくストーンズなんだけど、何かが違うのです。何かが足りないのです。例えるなら、へんてな選曲のベストアルバムを聴いているみたいで、「ストーンズなんだけどオレの知ってるストーンズじゃない!」という感覚…。
変わりようの無いはずのロン・ウッドに派手さが薄れ、チャーリ・ワッツは木工職人の名人という風体でドラムのキレがない。キース・リチャードはサービス精神が旺盛で「そんなにイイ人を演じていいの?」という感じ。その上、トレードマークのテレキャスターをあまり弾かない。そしてミック・ジャガーは明らかに運動量が減少していて、曲間のインターバルが長くて一気にまくし立ててこない。
結局、私は前に見た初来日の時のストーンズと比べていたのです。「あの時の、一気にぐゎーっと怒涛のように押し寄せてきた迫力とパワーはどこにいったんだ!」と感じたのでした。そう、そして何より大切な彼らの「毒」が薄れてしまったと感じたのです。
これは、一日置いて考えられるようになったのですが、結局私は彼らの「歳」を受け入れられなかったのです。でもやはり、平均年齢60歳以上であのライブは確かに凄いのです。そして初来日の時、彼らは今の自分の年齢に近い歳だったと気がつきました。そこで「今の自分にはあの時のパワーは決して出せないぞ」と、改めてストーンズの「凄さ」が理解できたのです。
それ以前に、キース・リチャードがしっかりと両足を伸ばして立ち、テレキャスでイントロを奏でる曲が続く終盤のお約束タイムでは、思わず私は立ち上がりミックと大合唱していました。そして“ブラウンシュガー”ではもちろん「フウ、フウ、フウ、フ~ウ~!」と完全にレイザーラモンHG状態。つまり最後には、いつものストーンズがいたのです。
決して今回「痛さ」は感じなかったのですが、今後のストーンズには、もっとバンドのイメージを大切にした演出を最優先して欲しいと痛切に感じました。例えばスーバーボウルのハーフタイムショーのライブみたいに・・・。
なぜなら、それはROLLING STONESというバンドが愛すべき「唯一無二」のロックバンドだと信じているからなのです。

あるコミュニティの閉鎖で考えること

2006年03月11日 19時27分04秒 | 自分の事
私の加入しているある会員制サイト内のコミュニティが閉鎖される事になりました。私は非常に残念な想いと共に、様々な事を考えはじめました。一応、ご存知ない方のために補足すると、コミュニティというのは掲示板みたいなものだと思ってください。

それで、なぜ残念に思っているかというと、それが“戦争反対”というテーマのコミュニティだったからです。閉鎖の理由は、コミュニティーのルールを無視した度重なる発言に対して発せられた管理人の警告が無視され続け、不毛の論議が支配的になってしまったという事でした。
それは自由に参加できるコミュニティでしたので、私も勉強の意味も含めてメンバーに登録することにしました。コミュニティの内容を見てみると、私の知らない事柄や考え方が紹介されいてるばかりか、発言しいる方々の知識レベルも高く非常に参考になると思っていました。
それがいつ頃からかでしょうか、書き込みは“戦争反対”というテーマから離れてしまい、反戦の落書きは許されるか、劣化ウランは有害なのかというような論議になり、私は違和感というか不快感を感じて推移を傍観していました。
コミュニティの管理人さんも、度々「論議禁止」などのコミュニティのルールを書き込み、沈静化を図りました。ところが、そんな管理人の発言に対しても「論議禁止なら、はじめからコミュニティを作るな」という発言がなされる状態。
このコミュニティは、かつて同じ管理人さんが別の名前で戦争反対のコミュニティを主宰していたのですが、そこでは論議がぶつかり合い敵対することが多発してしまい、それで「解釈の違いからの論議は禁止」というルールのもと、新たに作ったという経緯があるそうです。
結局、新たなコミュニティも似たような状態になり、管理人さんは前回の経験からハンドリング不能と判断して閉鎖を決意されたのだと想像します。やはりこれがネット掲示板の現実と限界なのでしょうか?
私たちは60年前に思想の自由という権利を手に入れ、さらに最近はインターネットという優れた手段を手に入れたのに、こんなふうに消耗させてしまっていいのでしょうか?
また、“戦争反対”は意見の違う人たちが一人ひとり理解しあって進めていく作業だと思っています。そして、世界中には様々な考えの人がいることも事実です。しかし、わずか3000人ちょっとの日本のコミュニティの中ですらも、ひとつにまとまれなかった事は非常に残念であり、勉強にもなりました。
ただ、閉鎖が決まってから、いままで書き込みしなかった人たちが続々と書き込みはじめ、みな閉鎖を残念がり、何らかの形での存続を望むコメントを見て、希望を感じる事はできます。
ただ、今の私は管理人さんの警告を無視しつづけコミュニティを閉鎖に追いやった人物たちとのコミュニケーションの術を見つけられません。

やはり“戦争反対”の実現は一筋縄ではいかないのでしょうか?

茨木のり子さんの遺志を

2006年02月21日 22時10分03秒 | 自分の事
私が高校生だった73年頃、当時通っていた吉祥寺の「ぐゎらん堂」というお店でよくかかっいるアルバムの中にとても気になる曲があり、その後、忘れられない曲となった曲がありました。それは「林亭」という二人組が歌っていた「わたしが一番きれいだったとき」という曲です。

「わたしが一番きれいだったとき」

 わたしが一番きれいだったとき
 街々はがらがら崩れていって
 とんでもないところから
 青空なんかが見えたりした

 わたしが一番きれいだったとき
 まわりの人達が沢山死んだ
 工場で 海で 名もない島で
 わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった

 わたしが一番きれいだったとき
 だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
 男たちは挙手の礼しか知らなくて
 きれいな眼差だけを残し皆発っていった

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしの頭はからっぽで
 わたしの心はかたくなで
 手足ばかりが栗色に光った

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしの国は戦争で負けた
 そんな馬鹿なことってあるものか
 ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

 わたしが一番きれいだったとき
 ラジオからはジャズが溢れた
 禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
 わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしはとてもふしあわせ
 わたしはとてもとんちんかん
 わたしはめっぽうさびしかった
 だから決めた できれば長生きすることに
 年とってから凄く美しい絵を描いた
 フランスのルオー爺さんのようにね

この曲のことは、30年以上たって私を突き動かしたとしてこのブログでも何回か書きました。とにかく、私はこの詩に心動かされ、惹きつけられたのです。
ところが、この詩を書かれた詩人の茨木のり子さんが先日、他界されてしまったのです。79歳だったそうです。茨木さんは、ずっと戦後女性の生を歌い続けていたそうですが、実は私は他の作品を知らないのです。しかしこの作品だけは曲を通じて、当時15、6歳の私の心にすっと入ってきたのでした。
それから30年以上たって自分の中で醗酵し、昨年、“この曲の映像を作る”という衝動が生まれ、“この曲をより多くの人に知ってもらいたい”という気持ちになりました。そんな衝動は私にとって初めての事です。それほど私の琴線を刺激した詩だったのです。
ところが茨木さんが亡くなってしまったことで、私は去年の自分の気持ちを思い出し、微力ながらも彼女の遺志を伝える責任みたいなものを感じ出しているのです。それはやはり日本がヤバイ方向に向かっている印象が強いから…。そして昨日から、その方策に苦慮しているところです。どなたかお知恵をください。

最後に、心から茨木さんのご冥福をお祈りいたします。
合掌。