七事式のひとつ、一二三(いちにさん)について。
亭主の点前を客が評価する方式のもので、この式を一回行うことを一順という。亭主は濃茶点前か、炭手前、薄茶点前をして、客はその巧拙、態度、緩急などを十種香札を用いて9段階評価する。月の一を最高として、月の二、月の三、花の一、花の二、花の三、一、二、三と続く。人数に制限はないが、5人が適当。
掲頌は、「修証即不無染汚不得
しゅうしょうはすなわちなきにあらずせんおすればえず」
これは中国禅宗史に由来する言葉だそうです。ある大師の下に初めて入門した禅師が、大師に「おまえは何者だ」と問われ、自分はなんだろうと八年も修行し、ある日大師のところを訪れ、「一応それらしい表現はできるが、本物のところには的中しない」と述べたところ、「悟る悟らぬとに関わらず本来具わっているもので、修行と悟りを二見的に見ている間は駄目だ」と答えたという話。(修=修行、証=悟りを表す)
修証が伴っていなければならない、禅の境地を極めるべく怠ることなく真剣な修行の積み重ねが大切だと教える式だそうです。
人の点前に点数をつけるだなんて面白い、ゲームみたいだなあ、人にじっくり見られるとは恥ずかしいなあ、点数が十種香札で月の一二三、花の一二三だなんて風流だなあというのが私の“一二三”の第一印象です。皆さんはいかがでしたか。
やってみると、自分が客になった時は亭主の点前に集中、亭主になった時は間違えないようにと真剣に点前に集中しました。その緊張感は点数をつけるゲームという印象とは全く異なったものでした。
どちらかというと点数をつけられる亭主側の方が大変そうにも思えますが、先生は、客側は客側でつけた点数にあまりにばらつきがあると恥ずかしいのですよ、とおっしゃっていました。それは、点前に対する目がなっていない、客ぶりがきちんとしていないということに繋がるのだと。だから、点数をつける側の客になったからといってうかうかしてはいられません。札を開ける最後まで、自分は他の客と違った点数を入れてないかしらと気になるものです。
他のことでもそうですが、人に見られることで磨かれ、人を見ることで磨かれるというのを実感します。“一二三”では究極的には人に見られている、人を見ていることも忘れてしまうほどさらりとした亭主ぶり、客ぶりになることが求められているのではないでしょうか。それがある種悟りの境地に近いとでもいうか。
“一二三”には利休百首の「稽古とは一より習ひ十を知り十よりかへるもとのその一」の精神も流れているとか。研究会でもまず最初にこれを唱えます。
稽古だけでなく我々の人生自体も一二三で始まり、三二一と帰っていく旅、全てのことが一から始まり一に戻ると教える深い式であることを知りました。
(参考)七事式の掲頌
http://blog.goo.ne.jp/m-tamago/e/cf8f0415f3fce4070df97ed92da8c88e
七事式に関する知識は裏千家茶道教科本、淡交別冊”茶の湯と禅”を参考にしています。
亭主の点前を客が評価する方式のもので、この式を一回行うことを一順という。亭主は濃茶点前か、炭手前、薄茶点前をして、客はその巧拙、態度、緩急などを十種香札を用いて9段階評価する。月の一を最高として、月の二、月の三、花の一、花の二、花の三、一、二、三と続く。人数に制限はないが、5人が適当。
掲頌は、「修証即不無染汚不得
しゅうしょうはすなわちなきにあらずせんおすればえず」
これは中国禅宗史に由来する言葉だそうです。ある大師の下に初めて入門した禅師が、大師に「おまえは何者だ」と問われ、自分はなんだろうと八年も修行し、ある日大師のところを訪れ、「一応それらしい表現はできるが、本物のところには的中しない」と述べたところ、「悟る悟らぬとに関わらず本来具わっているもので、修行と悟りを二見的に見ている間は駄目だ」と答えたという話。(修=修行、証=悟りを表す)
修証が伴っていなければならない、禅の境地を極めるべく怠ることなく真剣な修行の積み重ねが大切だと教える式だそうです。
人の点前に点数をつけるだなんて面白い、ゲームみたいだなあ、人にじっくり見られるとは恥ずかしいなあ、点数が十種香札で月の一二三、花の一二三だなんて風流だなあというのが私の“一二三”の第一印象です。皆さんはいかがでしたか。
やってみると、自分が客になった時は亭主の点前に集中、亭主になった時は間違えないようにと真剣に点前に集中しました。その緊張感は点数をつけるゲームという印象とは全く異なったものでした。
どちらかというと点数をつけられる亭主側の方が大変そうにも思えますが、先生は、客側は客側でつけた点数にあまりにばらつきがあると恥ずかしいのですよ、とおっしゃっていました。それは、点前に対する目がなっていない、客ぶりがきちんとしていないということに繋がるのだと。だから、点数をつける側の客になったからといってうかうかしてはいられません。札を開ける最後まで、自分は他の客と違った点数を入れてないかしらと気になるものです。
他のことでもそうですが、人に見られることで磨かれ、人を見ることで磨かれるというのを実感します。“一二三”では究極的には人に見られている、人を見ていることも忘れてしまうほどさらりとした亭主ぶり、客ぶりになることが求められているのではないでしょうか。それがある種悟りの境地に近いとでもいうか。
“一二三”には利休百首の「稽古とは一より習ひ十を知り十よりかへるもとのその一」の精神も流れているとか。研究会でもまず最初にこれを唱えます。
稽古だけでなく我々の人生自体も一二三で始まり、三二一と帰っていく旅、全てのことが一から始まり一に戻ると教える深い式であることを知りました。
(参考)七事式の掲頌
http://blog.goo.ne.jp/m-tamago/e/cf8f0415f3fce4070df97ed92da8c88e
七事式に関する知識は裏千家茶道教科本、淡交別冊”茶の湯と禅”を参考にしています。
七事式は本当に奥が深く、やるほど、しるほど、形にやどる精神的な部分の大切さを思い知らされます。
七事式の詳細については、カテゴリー”七事式”ごらんになってみて下さいね。あとは最後員茶を残すのみとなりました。
私もまだまだあたふたとしています。
まだまだ修練が必要です。。。。。。
一二三は、2回ほどやった記憶がありますが、良く覚えていません。*^^+; 法磨・・・ちんぷんかんぷん。プンプン。。。
七事式自体は、もともと表千家七代如心斎の制定したものとされていますが、裏千家特有のものもあるのですね。裏千家の方も合わせて、約10人位が参画したと聞いています。幾多の苦心研究の末、ようやく実を結んだものだと。
本来の茶の湯の修練を目的として仕組まれたものだけに、普通の茶の湯とは違った点があって、私もそれぞれ混乱します。滅多に練習しないので特に・・。
確か、数茶だけですよね?席中で、お菓子を頂けるのは。。*^^*
とにかく、修証する事によって初めて、本当の生き生きとしたものが身についてくると言う事でしょうね。
ママさんの先生も客ぶりが大事だとおっしゃっていたのですね。客も修練が必要ですね。
確かにあまりにひどい札をだしても失礼だし、花の一か二、でも見事な方もいらっしゃいますね。
客ぶり亭主ぶり学びたいと思います。
法磨は一二三を基に作られたし、七事式は裏千家特有のものもあって混乱しますね。
>香札の箱にいれるのが、私は、不器用でみぐるしい。
私もそうです。ばらばらと手のひらに広がって上手に選べない。
>普通は、花の二ぐらいですか?
そうですね、無難なところで花の一か二か。
でも、月の札も見たことがあります。
で、「一二三」は・・・?
チャチャさんのおっしゃるようにどっちがどうだったかわからなくなる事が・・・
きっとチャチャさんは謙遜でもでもママはマジでわかってない事が多いです。
で、「一二三」ですが。
ママの花月の先生も「客の札があまり違いすぎないように・・・」っておっしゃってた事がありました。
点前だけでなく客ぶりもお勉強しなくっちゃね。
大体「花一」「花二」ってところで札が出揃ってますが・・・それはそれで本当に点前をちゃんと見ているのか不安ですね。
香札の箱にいれるのが、私は、不器用でみぐるしい。
指が太いからかしら?
普通は、花の二ぐらいですか?
無印の三をもらったら、どうしましょう。
花月は、役を逃げたくて、ずるして札を盗み見て、選んでしまい、みんなに怒られている私でした。スミマセン。