雲追う民

難民キャンプで暮らすサハラウィの生活を紹介する写真

短信28サハラウイ8名の遺骸を確認

2013年09月17日 | 西サハラ短信

初めて読まれる方は「はじめに-このサイトについて」をご覧ください。

このサイトは、日本西サハラウイ協会の支援者が、同協会からの情報と活動を発信しています。
難民キャンプの生活を紹介する写真は1998年から2002年のもので、現在はモロッコ人捕虜が全員帰国したため、収容所がなくなるなどの変化がありますが、砂漠の中の生活が困難であることは変わりません。

難民キャンプへ無線機を贈るためのカンパを呼びかけています。詳しくはこちら

      


エル=パイス紙 2013年9月10日
集団で埋められていたサハラウイ8名の遺骸を確認



西サハラで見つかった墓穴二か所で、発掘作業にあたるスペインの法医学者グループ

バスク大学の法医学研究グループが西サハラで墓穴を二ヶ所発掘し、DNA解析の結果サハラウイ8名(内2名は未成年)の遺骸であることを確認した。遺骸は1976年2月12日、モロッコ軍兵士により銃殺された人々だ。

犠牲者のうち2名はスペイン国身分証明書(訳注1)を、別の1名は当時行われていた砂糖の配給手帳を持っていた。遺骨が発掘された場所からは薬きょうも出た。
この調査班は法医学・人類学のエチェベリア教授と心理学のベリスタイン教授に率いられ、去る6月8~10日、スマラ地方のファドレッ・レギアア、チンドゥフの難民キャンプから400km離れた砂漠の真っただ中へ赴いた。調査はサハラウイ囚人と消息不明者の家族の会(AFAPREDESA)が依頼し実現したもの。



今回の作業では当時13歳で銃殺現場にいたアバ・アリド・サイド・ダフさんの証言をもとに行われ、調査の結果はこれと全く一致していた。、
 
1976年2月12日、アムガラ一帯に配置されていたモロッコ軍が遊牧民たちを集団逮捕し、アバ・アリド・サイド・ダフさんもその中にいた。そこへ「午後8時ごろモロッコの軍人が一人ジープに乗ってやってきて、まずモハメド・ムールードを呼び出し<ポリサリオたちはどこにいる?><身分証明書を出せ>と言い、モハメドがポリサリオのことは何も知らないと言うと、心臓めがけて発砲しました。次にアブデラヒ・ラマダンを呼び同じことが行われました。軍人はピストルを携帯していましたが殺す時は小銃を使いました。」と調査班に語った。
今回遺骨で発見された当時14歳のバシール・サルマさんの死も、アバ・アリド・サイド・ダフさんは証言しており、それによるとバシール・サルマさんの父親が息子を殺さないでくれと嘆願する声がして、その後親子ともに銃殺された。
この日集団逮捕された者たちはみな、ラクダとヤギを連れて放牧中だった。


発掘班が発表した報告書によると、30年間モロッコは行方不明者たちの家族の願い出に対し何ら回答を出さずにいたが、2006年に「公正と和解委員会」(訳注2)が発表した名簿の中にこの集団逮捕の中の4名の名が記載されていた。
しかしそこには、前記の親子について「1976年6月スマラで王国軍により逮捕され、基地に連れて行かれた後死亡」と記され、アブデラヒ・ラマダンさんについては「1976年2月22日アムガラで軍により逮捕され、スマラ基地へ連行された後死亡」と記されている。



調査班はモロッコ当局が発表した情報は日付も事実も偽りとし、「逮捕の起きた日、人々はどこの宿営地にも連行されず、その場で銃殺されている」ことは遺伝子解析が示していると述べている。
モロッコ兵たちは犠牲者の遺体を浅く土に埋めた。そして今年2月末、この一帯で放牧していた一人のサハラウイが地面から人骨が散らばり出ているのを見つけた。

調査班は前記のスペイン身分証明書の他、犠牲者たちが身に着けていた衣類も収拾したが、墓穴発掘前に遺族から聞いていた証言とそれらは完全に一致した。例えば当時14歳だったマフムード・サルマさんは兄の青色セーターを来て、父親の祈祷数珠を常に持っていたという証言の通りだった。

遺骨の埋め方は浅かったものの、遺品の一部が非常によい状態で保存されたのは「砂漠という湿気のない環境と砂の特性が幸いした」ものとされる。
この地域は1991年停戦以来国連MINURSOの監視下にあるため、「遺骨は保護された状態で元の場所に置かれ、その場所には目印が設けられた。次の段階としては正式にサハラウイ当局の派遣団が訪れ、遺族に遺骨や遺品が手渡されるだろう、そして一帯にまだある他の墓穴を保護するため何らかの措置がとられねばならない」とし「サハラウイの強制行方不明者は400人以上いる」と報告書は述べている。


遺族の一人シディ・モハメド・シダハメドさんは「すべての工程が完了するまでは、その場所がきちんと保護されるよう求めます。父の遺骨が見つかったことに関しては、ただもう感謝の気持で一杯です。私たちにとっては光が差し込んだも同然です、これまですべては暗闇の中にあったのですから。私たちの宗教では、詣でる墓がなければ家族は喪に服することもできないのです。」と語る。

調査班は報告書を次のように締めくくっている。「国際人権の見方からすれば、今回のケースの法的影響は明らかで重要な意義がある。スペイン身分証明書を持つサハラウイ市民が問題となっている以上、今後はサハラウイ当局とスペイン当局、そして国連の人権擁護機関により追跡、評価がなされねばならないだろう。またモロッコ当局の責任は問われなければならない。」


訳注1:スペイン植民地だった西サハラは当時スペインの一地方で、人口調査に登録されたサハラウイはスペイン国身分証明書を持っていた。
訳注2:モロッコの現国王が、父王時代の人権問題解決処理のために2004年に作った委員会。


    

西サハラ難民キャンプ映画の上映情報はこちら