きょうも上着はいらないんだけど、
ふとした時にちょっと寒い、っていう微妙な天気。
雨降るかと思ったら降らないし。
あした降るほうがイヤなんだけどなあ。
変な夢を見た。
兄が母親を連れて田舎に帰るという。
深夜バスで。インコを連れて。
しかもインコは素手で持っていくと言う。
なついてもないし、鳥かごもなしにどうするのか、と。
なぜかうちにはヨウムとセキセイと2羽いて、
さすがにヨウムは無理だと思ったらしいけど、
一生懸命とめてた自分。
お金に余裕ができたら買うぞ。って決めて、
ずっとお店に行くたんびに、
いつか、いつか、って見ているうちに、
お店のほうが待ちきれなくてなくなってしまうっていう…
「いつか」なんて永遠に来ないんだな。
買いたいと思ったときに買わないと。
「すばらしき愚民社会」と、
「2020年新聞は生き残れるか」を読む。
大衆を啓蒙するべきと意気込んだ知識階級こそが愚民。
わかりやすく解説することのうさんくささや、
新書の濫造や「事実」よりもイデオロギーを優先する人たち。
いろいろおもしろかった。
タバコのにおいも煙も苦手で、TVで見るだけでのどがイガイガするので、
最後の章だけは共感できなかったけど。
騒音もたいへんだけど、喫煙者のひとよりは避けることができそうだし。
そして、新聞。
2020年が近づいて、この本に書かれているようなことが起きつつある。
個人的には新聞大好きで、チャンスさえあれば4紙読みたいくらい。
必要性が揺らいでいることもわかるけれど。
新聞が必要なものであり続けるためには、
『幅広く国民に情報を提供できているかどうか』
やっぱりこれにつきるのではないかな。
政府や官僚の意をくんで”特ダネ”をめぐんでもらって喜んでるのなら、
政府の広報を読めばすむ話。
だからといって、誰かの足を引っ張るだけでもしかたがないし、
自分でなんの取材もせずに週刊誌に書かれてる内容を聞くだけで、
取材相手を怒らせるだけが目的の記者も困るけれど。
そして、右も左もあっていいはずなのに、
中立や客観を装って、自分たちの意見や思想を押しつけるのはやめるべき。
必要性、というか、信頼性が揺らいでいるのはそこだと思う。
あとは、新聞の読み方とか、ネットの情報の扱い方なんかは、
小学校くらいできちんと教えるべきなのでは。
今度の選挙でも、けっこうとんでもない人が当選していたり。
演説やポスターでは人となりがわからなくても、
インターネットなら名前を検索すれば、どういう人かすぐにわかるのだから、
それすらやってない人が投票してるのだろう。
逆にネットのニュースはピンポイントすぎて、
流れがわかりにくいような気がするけれど、
しばらくのあいだ新聞を読んでいれば、なにがどうしてこうなったのか。
実は政治も経済も社会も文化も海外の動きも、全部つながってることもわかる。
まとめてるのがあったりもするけど、
そのまとめこそが新聞だったりするわけで。
そうだったのかとかサルでもわかるとか10分でわかるとか、
簡単にわかると謳ってるものなんて、わかるような気にさせられてるだけで、
まずはいろんな情報にふれてみて、そこから自分の意見を持つことに意味があるのだと思う。
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