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「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

警察・検察による冤罪事件

2013-11-30 | 秘密保護法

 警察・検察による有名な冤罪事件をまとめてみました。現在でも証拠捏造・隠滅、でっち上げや誤認逮捕などが横行している中で、特定秘密保護法が成立してしまうと、違反理由が具体的に知らされないまま逮捕されたり、警察の不祥事が闇から闇へと葬り去られてしまう危険が非常に高まります。

 以下の事件のうち、横浜事件は戦前の特高によるものですが、免田事件以降は戦後です。「無罪推定」「疑わしきは罰せず」とはかけ離れており、見込み捜査で長期間の拘束を強い、長時間の取り調べで自白に追い込むやり方は日本の警察・検察の常とう手段となっています。さらには、調書のねつ造に証拠の改ざん、証拠隠しなどで意図的に無実の市民を犯罪者に仕立て上げ、多くの冤罪事件を作り出しています。

 ここで挙げた多くは死刑や無期懲役などの凶悪犯罪での冤罪事件で、無罪が確定した足利事件と同時期に起こった飯塚事件のように、再審請求準備中に死刑が執行されてしまった例もあります。最近でも障害者郵便制度悪用事件、パソコン遠隔操作事件、堺署公務執行妨害事件における調書捏造事件など無数の冤罪事件が起こっています。また、葛飾共産党ビラまき逮捕事件や立川反戦ビラまき逮捕事件のように公安警察が数ヶ月も前からビデオ撮影するなど周到に準備して活動家を逮捕する、市民運動つぶしの露骨な弾圧もあります。
 
 真犯人を見つけるのではなくいかに犯行を自白させるかに重点を置いた自白偏重主義や成果主義、競争主義など多くの問題がある警察・検察にさらに強大な権力を与える秘密保護法は極めて危険です。今でも冤罪を晴らすには非常な困難があるのに、秘密保護法案が通れば、警察・検察に証拠を開示させることができなくなり、冤罪からの救済は絶望的な状況となります。

 

横浜事件

 1943年、特高は1枚の記念写真を「日本共産党再建準備会」と決めつけた。改造社、中央公論社、朝日新聞社、岩波書店、満鉄調査部などの関係者約60人が次々に治安維持法違反容疑で検挙された。神奈川県警特別高等警察(特高)は被疑者を革や竹刀で殴打するなどすさまじい拷問を加えた。4人が獄死。殺されないための虚偽の自白が有罪の根拠となった。
 横浜事件の遺族と支援者でつくる「横浜事件を語り、伝える会」のスタッフで、出版社「高文研」前代表の梅田正己さんは「人々を問答無用に検挙した治安維持法は『目的遂行ノ為ニスル行為』という条文が拡大解釈された。行政の長の一存で秘密の指定ができる今回の秘密保護法案は、権力の側が恣意的な運用ができる点で本質は同じだ」と指摘している。
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1311260002/

免田事件

 1948年12月、熊本県人吉市で殺傷事件が起こった。翌年1月、免田栄さんが連行され、拷問を受け、警察の言うがままの「自白」をしてしまう。裁判で無実を主張したが、1950年に1審で死刑判決、1952年に最高裁で死刑が確定した。無実の死刑囚として獄中から再審を訴え、1981年に再審開始、1983年7月に無罪判決を勝ち取り釈放された。獄中に34年6カ月拘禁されていた。

財田川事件

 1950年2月に起きた強盗殺人事件で、谷口繁義さん(当時19歳)が逮捕され、約2ヶ月の厳しい拷問の末、強要された自白により死刑判決を受ける。唯一の物的証拠とされたズボンが検察側によるねつ造で、自白調書も偽造されたものだった。再審の結果1984年3月、高松地裁は無罪を言い渡し、谷口さんは獄中生活34年目にして無罪放免された。

梅田事件

 1950年および1951年に発生した2件の強盗殺人事件で生じた冤罪事件。死刑判決を受けることになる犯人の虚偽の自白により梅田義光さん(当時28歳)は逮捕され、殴る蹴るの暴行を受け、自白を強要された。自白を根拠に無期懲役の判決が確定。仮出所後、発生から36年後に再審による無罪判決。

島田事件

 1954年3月、静岡県島田市で6歳の女児が遺体で発見された。疑われた赤堀政夫さん(当時25歳)が法的に正当な理由も無く身柄を拘束され、島田警察署で拷問を受け、被害者の女児を性犯罪目的で誘拐し殺害したとの自白を強要された。1958年5月、赤堀さんに死刑判決。1960年12月、最高裁判所は上告を棄却し、赤堀さんの死刑判決が確定した。しかし、赤堀さんが供述した殺害方法が鑑定と異なり、1989年7月、再審の静岡地裁は無罪判決をした。1989年8月、検察官は控訴を断念し、逮捕から34年8ヶ月後、死刑判決確定から29年8ヶ月後に赤堀さんの無罪が確定した。

松山事件

 1955年10月、宮城県志田郡松山町の農家が全焼し、刀傷らしきものが認められる焼死体が発見された。殺人および放火の犯人として斎藤幸夫さん(当時24歳)が拘束された。取調べで自白しては、撤回を繰り返していたが、警察は留置所にスパイを送り込み、「警察の取調べで罪を認めても、裁判で否定すればいい」と斎藤さんに言って自白に追い込んでいたことが判明。また証拠とされた男性の掛け布団の血痕は、警察の捏造であるとされた。1957年10月、仙台地裁で死刑判決。1960年11月に最高裁で上告が棄却、死刑が確定。1984年7月11日、無罪判決。28年7ヶ月の獄中生
活に終止符が打たれた。

狭山事件

 1963年5月、埼玉県狭山市で女子高校生が遺体となって発見された。警察は「あんなことをするのはの者に違いない」という差別意識を持って、市内の被差別に見込み捜査を集中。石川一雄(当時24歳)さんを別件逮捕し、ーか月にもわたる強引な取り調べでウソの自白をさせた。一審では罪を認めたが、それは警察が石川さん一家の生計を支える実兄を「逮捕するぞ」と脅かし、自供すれば10年で出してやると約束したためだった。しかし、一審の死刑判決後、騙されたことを知った石川さんは一転して冤罪を主張。その後、無期懲役刑が確定して石川さんは服役、31年7か月の獄中生活を余儀なくされた。1994年12月、再審請求中に仮出獄、現在、東京高裁に証拠開示と第3次再審請求を申し立てている。
 
袴田事件

 1966年、静岡県清水市(現静岡市清水区)で発生した強盗殺人放火事件。逮捕した袴田巖さん(当時30歳)への取調べは過酷をきわめ、炎天下で平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせるなどの虐待を行った。睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者に大声を上げさせるなどの安眠妨害を行った。そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜を問わず、2、3人がかりでの棍棒を使った殴る蹴るの取調べになっていき、袴田さんは勾留期限3日前に自供へと追い込まれた。裁判で死刑が確定した袴田さんは冤罪を訴え、再審を請求している。

布川事件

 1967年、茨城県で発生した強盗殺人事件の40日後、桜井昌司さん(当時20歳)は別件逮捕され、アリバイを警察に握りつぶされたあげく、長時間の取り調べによって、虚偽の自白をしてしまった。自白を根拠に無期懲役が確定したのであるが、自白では両手で首を絞めたとしたが、実際には被害者は紐で絞殺されていた。また、現場では毛髪が8本発見されている。鑑定書では毛髪は桜井さんのものでないことを証明していたのに、この鑑定書を検察側が隠していた。鑑定書は2005年にようやく開示されたが、裁判所はこれらの証拠が裁判時に提出されていたら無罪になっていた可能性を指摘ている。2009年、再審が開始され、2011年5月、水戸地方裁判所土浦支部にて無罪判決が下された。

足利事件

 1990年5月、栃木県足利市で女児が遺体となって発見された。犯人として逮捕された菅谷利和さんへの取り調べは酷かった。「証拠は挙がってるんだ、お前がやったんだろ」「早く吐いて楽になれ」と責められ、菅谷さんが無実を訴えても聞いてもらえず、「お前がやったんだ」と同じ事を繰り返し言われ続けた。さらには、殴る蹴る、頭髪を引きずり回されたり体ごと突き飛ばされるなどの拷問に等しい暴行が横行した取調べ時間は15時間近くにも及んでいる。逃げ場のなくなった菅谷さんはやむなく虚偽の自白をしてしまう。起訴され、実刑が確定して服役を余儀なくされたが、遺留物のDNA型が菅谷さんのものとは一致しないことが2009年5月の再鑑定により判明、冤罪であったことが証明された。その後の再審で無罪が確定した。

飯塚事件

 1992年に発生した2人の女児が殺害された事件。状況証拠しかなく、犯人とされた久間三千年さんは取り調べ時から一貫して無実を主張し自白もしなかったが、被害者の衣服についていた体液の警察庁の科学警察研究所(科警研)での精度の低いDNA鑑定と状況証拠だけを根拠に有罪が確定。体液DNAの再鑑定を帝京大学で行ったところ、被疑者のDNAが検出されない結果が出た。そのために冤罪の疑いが濃厚となるが、再審請求準備中の2008年10月に死刑執行されてしまった。DNA鑑定は足利事件で無罪を証明したのと同じ検査方法であった。2009年、遺族が再審請求している。

東電OL殺人事件

 1997年3月に東京電力の従業員だった女性がアパートで殺害された事件。警視庁は、不法滞在(オーバーステイ)していたネパール人ゴビンダ・プラサド・マイナリさん(当時30歳)を殺人事件の実行犯として逮捕した。逮捕されたゴビンダさんは、捜査段階から一貫して無実を主張した。検察には、被害者の胸から第三者のものである唾液が検出され、この唾液がゴビンダさんの血液型と異なることが分かっていた。検察はゴビンダさんの無罪を証明する証拠を隠していたのだ。その上で検察側は状況証拠を複数積み上げることでゴビンダさんを犯人に仕立てた。2000年12月、東京高等裁判所は、状況証拠を理由に有罪とし、2003年10月、最高裁判所で上告が棄却され、無期懲役の有罪判決が確定した。2011年7月、東京高検がDNA鑑定を実施の結果、遺体から採取されたDNAは、ゴビンダさんのものと一致しないことが判明。再審初公判は2012年10月に開かれ、同年11月、東京高裁が無罪判決を言い渡した。検察は上訴権を放棄し、ただちに無罪判決が確定した。

富山氷見事件

 2002年、タクシー運転手をしていた柳原浩さんは、突然、警察に連行された。強姦未遂事件と強姦事件の容疑をかけられたのだが、事件を知らされず、訳が分からないまま早朝から深夜までの長時間の取り調べで自白を迫られた。犯行の時間帯に柳原さんは、電話をしており、その記録を警察は入手していた。つまり、柳原さんのアリバイを警察は握っていたのだ。しかし、警察は証拠を隠したまま、威嚇して自白に追い込んだ。自白のみで有罪判決を受け、服役。仮出獄後に真犯人が判明している。

志布志事件

 2003年4月の鹿児島県議会議員選挙で当選した中山信一県議会議員の陣営が志布志市の集落で住民に焼酎や現金を配ったとして中山議員やその家族と住民らが公職選挙法違反容疑で逮捕され、鹿児島県警察が自白の強要や数ヶ月から1年以上にわたる異例の長期勾留などの違法な取り調べを行ったとされる事件。中山陣営の運動員をしていたホテル経営者の男性の取り調べでは、家族からのメッセージに見立てた「お前をそんな息子に育てた覚えはない」「こんな男に娘を嫁にやった覚えはない」「早く正直なじいちゃんになって」と書いた紙をホテル経営者の座る椅子の前に置き、警部補がホテル経営者の両脚を持ってそれらの紙を強引に踏み付けさせる踏み絵ならぬ「踏み字」を強要。ホテル経営者は精神的苦痛から体調を崩し入院した。
 県警は、女性ら13名の取り調べで「認めれば逮捕はしない」と自白を強要。別の女性に対しては、出頭要請時に「容疑を認めなければお前の家族も全員まとめて逮捕してやるぞ」と脅され、やむなく出頭に応じるが、以後115日間にわたる長期間の勾留を強いられた結果、身に覚えのない買収行為を認める旨の供述調書にサインした。それにより、この女性の夫も逮捕され181日間にわたり勾留される。しかし、この事件も、物証であるはずの封筒が出て来なかったりなど、不自然な点が多くあった。そして、集落にある7世帯の住民が次々と逮捕・起訴され、102〜186日の長期勾留を強いられる異常事態となった。6名は捜査担当者の自白強要や「村八分」への恐怖心から容疑を認める旨の供述を行い、県警は中山議員と妻を公選法違反容疑で逮捕した。中山議員と妻は一貫して容疑を否認したものの、妻は273日間の、さらに中山議員は395日間と実に1年以上の長期勾留を強いられた。鹿児島地方裁判所における公判では、全員が容疑を否認。一方、検察側も物証を欠いたまま供述調書を唯一の証拠として争ったが、2007年2月、鹿児島地裁は、唯一の証拠とされた供述調書の信用性を否定。主犯とされた中山議員を始め被告12名全員に無罪判決を言い渡した。検察側が控訴しなかったため、そのまま無罪が確定している。

(ここで挙げたのはほんの氷山の一角です。これ以外にも戦後直後の松川事件や三鷹事件、帝銀事件など大きな政治的背景のある事件や、名張毒ブドウ酒事件、松本サリン事件などがあります。)

(高)

 

 


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