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(紹介)『東京の「教育改革」は何をもたらしたか--元都立高校長の体験から』(上)

2011-11-21 | 大阪「教育基本条例」

(紹介)『東京の「教育改革」は何をもたらしたか--元都立高校長の体験から』(上)
(渡部謙一著 高文研 2011年9月)

 1995年に都立高校の教頭となり、99年には校長となって、まさに断行されようとしていた「教育改革」の中で苦悩し闘い続けた元校長が書いた本です。

 大阪府教育基本条例の成立が狙われている中、大阪に先行する東京の「教育改革」がいかに教育現場を破壊していったのかを知りたいと考え読み始めました。ところが東京の「教育改革」の実態のすさまじさもさることながら、教育とはどうあるべきかという筆者渡部謙一さんの教育観に圧倒されました。以前、同じく元東京都立高校長の土肥信雄さんの講演を聴き「スーパー校長」という印象を受けましたが、渡部さんはひたすら教育のことを考えて実直に子どもたちに向き合ってきた教育者という読後感でした。渡部さんが強調するのは、「一人の優れた教師より、協働する全教職員集団を」という考えです。

東京の「教育改革」が狙うのは、教育現場からの民主主義の一掃

 この本を読んでわかったのは、東京の「教育改革」が目指してきたもの--それは一言で言えば、教育現場からの民主主義の一掃だということです。
 2003年10月23日の通達と「国旗掲揚・国歌斉唱職務命令」の意味について、あわただしい卒・入学式を終えた後に考え、渡部さんは以下のような結論に達します。

 東京都教委の攻撃は、国旗掲揚・国歌斉唱が適正に行われていないから指導を徹底させるというようなレベルのものではない。学校から自主性を完全に奪い、校長の命令のもとで教員、職員、さらには生徒までもがそれに従う体制を作り上げるための試金石なのだ。卒業式では、国旗を掲げる場所はもちろん、式次第、司会の発声の仕方、イスの配置、席順まで細かく決められ、紅白幕をどうするかくらいしか校長の裁量は残されていない。職員会議の校長補助機関化、教職員の挙手・採決の禁止、議論の禁止、校長・副校長・主幹・・・と細分化された職階制度などで上意下達の厳格な管理体制を構築し、学校から、自分の意見を言い教育のことで悩み相談し共に議論し、教師集団として教育を作っていく作業そのものを破壊していく--「教育改革」とはそのような過程なのだ。

 「都立学校における『国旗・国歌の適正な実施』は学校経営上の弱点や矛盾、校長の経営姿勢、教職員の意識レベル等がすべて集約される学校経営上の最大の課題であり、この課題の解決なくして学校経営の正常化は図れない」(都教委設置の「都立学校卒業式・入学式対策会議」文書)

 このように都教委は「国旗・国歌の適正実施」を「学校経営上の最大の課題」とし、「戦後都立高校最大のターニングポイント」とさえ位置づけるのです。それは戦後民主教育からの転換、教育現場からの民主主義の徹底した排除を意味していました。

「協働性こそ教育活動の命」

 筆者がとりわけ学校現場での民主主義の破壊に危機感をもつのは、「協働性こそ教育活動の命」、教育とは教職員集団の協力・協同による集団的営みであるという強い確信があるからです。校長の立場から、とりわけ教職員との議論、協議とそれを通じて培われる厚い信頼関係をなによりも重視します。

 「校長、教頭、教諭、養護教諭、事務職員、助教諭、養護助教諭、講師、実習助手、技術職員、学校栄養職員、給食調理員、学校用務員など数多くの職種の職員がいる。・・・学校はこれらの多くの職員によって、校長を中心として児童・生徒に対する教育の場として運営がなされなければならないのである」

 これは渡辺さんの言葉ではありません。『教職員人事と学校運営』(1996年)の中で、教育庁の推薦の辞として紹介されている、教育委員会の言葉です。渡辺さんは、教育委員会自身が、校長の独断や一部の教員だけで事を運ぶと言うことがあってはならないと言いながら、実際にやっていることは、「協働」を破壊していくことだと厳しく指弾します。(つづく) 

(ハンマー)

 


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