コメニウスは亡命生活中に数多くの教育書を書き、1657年にはそれらをまとめ上げた書物として『大教授学』を出版しました。そこには「貴族の子どもも身分の低い子どもも、金持ちの子どもも貧乏人の子どもも、男の子も女の子も、あらゆる都市、町、村、農家」にすんでいる子どもも含めたすべての青少年を教育の対象とすると書かれています。
教育がすべての人を対象とするというコメニウスの考えは反発を招きかねないものでした。コメニウスは「手工職人、百姓、荷運び人夫、それに女までが学問をおぼえたらいったいどんなことになるだろう」という疑問を呈する人を想定しています。肉体労働者や女には学問は必要ないというのが当時の一般的な考えでした。コメニウスは、こうした意見に対して聖書に基づき「神の似姿」たる人間の平等を説きました。
聖書の中に収録されているパウロの手紙の中には、女性を男性と同等に扱ってはならないとする文言があります。「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません」(テモテへ手紙一2-12)
この言葉は長い間女性を教会の要職から退けてきました。女性の牧師を認める教派が現れたのはようやく20世紀になってからのことです。教会の中での女性の地位だけでなく、社会一般における女性の権利が男性と同じように認められるようになったのも、20世紀、あるいは第二次大戦以降のことでした。
ところが、コメニウスはこの聖書の言葉に言及した上で、女性を知恵の探求からのけ者にしないようにと訴えているのです。プロテスタントは聖書の言葉に立ち返ることによって、腐敗したカトリック教会を批判しました。そんなプロテスタントの牧師の立場からすれば、聖書の言葉は一字一句が金科玉条のように扱われてもおかしくないはずですが、コメニウスはそれよりも平等主義を徹底させる方を優先させました。
『大教授学』の出版後に執筆された『汎教育』においては、彼の考える「すべての人」の範囲はさらに拡張されていきました。そこでは「すべての民族の者」、青少年だけでなく「すべての年齢段階」の人々も教育の対象と考えられるようになりました。
特に注目すべきは、障碍を持った人々に対する態度です。コメニウスの初期の著作では、そうした人々に対する教育の限界が述べられていましたが、『汎教育』では、次のような問題が提起されています。
「眼の見えない人や耳の聴こえない人や感覚の麻痺した人たちが、認識手段に欠けているために事物を十分に印象づけることができないとしても、養育が受けられるべきであろうか?」
これに対してコメニウスの答えはこうです。
「一、完全な養育から閉め出されるのは、人間以外の被造物だけである。その人の人間らしい本性に関与する程度に応じて、養育が分かち合われなければならない。とりわけ内的な欠陥のために自ら助けることができないところでは、外からの援助が必要である。」
「二、それゆえこの養育を中止することはできない。なぜならば、人間の本性はある方向に展開することを拒まれても、援助が得られる場合には別のところで豊かに発展するからである。」
さらに、コメニウスは、「すべての人」に教育を保証するための具体的な手だてとして、貧しい子どもでも学校に通えるよう、授業時間を4時間以下とし残りを家事の手伝いに使うよう指導していました。また、制度的保証として奨学金制度などを提案していました。(鈴)