投稿者:librarian 投稿日:2004/07/28(Wed) 17:52
著者:石井希尚(Marre)
発行:いのちのことば社(百万人の福音04年7月号)
分類:入門(書)
率直に言って、福音派の本・雑誌でコレ程ひどいキリスト教入門は見たことがない。ていうか、「キリスト教」入門ではない。単行本ではなく連載の一回分だが、あんまりに滅茶滅茶なのであえて批評。
Marreなる牧師が何者やらは知らないが、彼の説明は大体次のようなものである。
1 イエスに向かって、「主よ主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではない。(マタイ7・21)
2 ローマ人への手紙2章で「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び・・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。」とある。
だから、クリスチャンでない人には、良心が自分の律法であり、「「クリスチャンはみな天国、そうじゃない人はみな地獄」という単純公式で語られるべき問題ではないことが分かります」(引用のまま)。
3 天国行きと地獄行きを決定する完全な裁判官は神のみであって、「だれが天国に行って、だれが地獄に行くのか、というような問題を、人間は論じるべきではありません」(引用のまま)。
Marre師(?)の論理には、たぶん意識的な混同が含まれている。
1では、「自称信者」と「信者」を混同させて、「「クリスチャンはみな天国、そうじゃない人はみな地獄」という単純公式で語られるべき問題ではない」という結論に持ち込んでいる。
2では、「ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にある」「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」というローマ3章の基礎的な聖句を隠して、異邦人が良心に従えば義人と認められて義と認められるかのような結論を述べている。文字の律法を完全に守って救われるユダヤ人がいないように、良心の律法を完全に守って救われる異邦人もいない。これは、キリスト教のABCのAであるはずだが、Marre氏はそれを語らない(ていうか信じてないのだろう)
3では、「だれが天国に行き、だれが地獄に堕ちるか」を「決定すること」と、「論じること」を混同させている。
それを決められるのは神様だけ・・・そんなの当たり前である。そして、その決定者である神様は、
「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(ヨハネ第一5・12)
という基準を明示している。だからヨハネは
「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるため」(5・13)に、
第一の手紙を書いた。 Marre氏に言わせれば、だれが天国行きかをはっきり論じたヨハネは、思い上がったコンコンチキ、ということになるのだろう。
ついでに、Marre氏が引用しているローマ10章はキリストの死と昇天を指しているのであって、信者のことを指してはいない。文脈上明らかでしょう、ていうか、引用滅茶滅茶だよ!
聖書の最も基礎的な聖句を除いた残りで教理を組み立てたら、どんなにヘンテコな教理が出てくるかという見本である、というまで僕が酷評するのは後にも先にも、今回だけだろう。それくらいひどい、あんまりだ。何考えてんの、「百万人の福音」!
著者:石井希尚(Marre)
発行:いのちのことば社(百万人の福音04年7月号)
分類:入門(書)
率直に言って、福音派の本・雑誌でコレ程ひどいキリスト教入門は見たことがない。ていうか、「キリスト教」入門ではない。単行本ではなく連載の一回分だが、あんまりに滅茶滅茶なのであえて批評。
Marreなる牧師が何者やらは知らないが、彼の説明は大体次のようなものである。
1 イエスに向かって、「主よ主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではない。(マタイ7・21)
2 ローマ人への手紙2章で「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び・・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。」とある。
だから、クリスチャンでない人には、良心が自分の律法であり、「「クリスチャンはみな天国、そうじゃない人はみな地獄」という単純公式で語られるべき問題ではないことが分かります」(引用のまま)。
3 天国行きと地獄行きを決定する完全な裁判官は神のみであって、「だれが天国に行って、だれが地獄に行くのか、というような問題を、人間は論じるべきではありません」(引用のまま)。
Marre師(?)の論理には、たぶん意識的な混同が含まれている。
1では、「自称信者」と「信者」を混同させて、「「クリスチャンはみな天国、そうじゃない人はみな地獄」という単純公式で語られるべき問題ではない」という結論に持ち込んでいる。
2では、「ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にある」「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」というローマ3章の基礎的な聖句を隠して、異邦人が良心に従えば義人と認められて義と認められるかのような結論を述べている。文字の律法を完全に守って救われるユダヤ人がいないように、良心の律法を完全に守って救われる異邦人もいない。これは、キリスト教のABCのAであるはずだが、Marre氏はそれを語らない(ていうか信じてないのだろう)
3では、「だれが天国に行き、だれが地獄に堕ちるか」を「決定すること」と、「論じること」を混同させている。
それを決められるのは神様だけ・・・そんなの当たり前である。そして、その決定者である神様は、
「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(ヨハネ第一5・12)
という基準を明示している。だからヨハネは
「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるため」(5・13)に、
第一の手紙を書いた。 Marre氏に言わせれば、だれが天国行きかをはっきり論じたヨハネは、思い上がったコンコンチキ、ということになるのだろう。
ついでに、Marre氏が引用しているローマ10章はキリストの死と昇天を指しているのであって、信者のことを指してはいない。文脈上明らかでしょう、ていうか、引用滅茶滅茶だよ!
聖書の最も基礎的な聖句を除いた残りで教理を組み立てたら、どんなにヘンテコな教理が出てくるかという見本である、というまで僕が酷評するのは後にも先にも、今回だけだろう。それくらいひどい、あんまりだ。何考えてんの、「百万人の福音」!