お勧め本(+雑談)Blog

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キリスト教のウソ?ホント

2006-06-03 17:39:11 | コマッタヨ
投稿者:librarian 投稿日:2004/07/28(Wed) 17:52

著者:石井希尚(Marre)
発行:いのちのことば社(百万人の福音04年7月号)
分類:入門(書)

 率直に言って、福音派の本・雑誌でコレ程ひどいキリスト教入門は見たことがない。ていうか、「キリスト教」入門ではない。単行本ではなく連載の一回分だが、あんまりに滅茶滅茶なのであえて批評。

 Marreなる牧師が何者やらは知らないが、彼の説明は大体次のようなものである。

1 イエスに向かって、「主よ主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではない。(マタイ7・21)
2 ローマ人への手紙2章で「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び・・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。」とある。
 だから、クリスチャンでない人には、良心が自分の律法であり、「「クリスチャンはみな天国、そうじゃない人はみな地獄」という単純公式で語られるべき問題ではないことが分かります」(引用のまま)。
3 天国行きと地獄行きを決定する完全な裁判官は神のみであって、「だれが天国に行って、だれが地獄に行くのか、というような問題を、人間は論じるべきではありません」(引用のまま)。

 Marre師(?)の論理には、たぶん意識的な混同が含まれている。

1では、「自称信者」と「信者」を混同させて、「「クリスチャンはみな天国、そうじゃない人はみな地獄」という単純公式で語られるべき問題ではない」という結論に持ち込んでいる。

2では、「ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にある」「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」というローマ3章の基礎的な聖句を隠して、異邦人が良心に従えば義人と認められて義と認められるかのような結論を述べている。文字の律法を完全に守って救われるユダヤ人がいないように、良心の律法を完全に守って救われる異邦人もいない。これは、キリスト教のABCのAであるはずだが、Marre氏はそれを語らない(ていうか信じてないのだろう)

3では、「だれが天国に行き、だれが地獄に堕ちるか」を「決定すること」と、「論じること」を混同させている。
 それを決められるのは神様だけ・・・そんなの当たり前である。そして、その決定者である神様は、
「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(ヨハネ第一5・12)
という基準を明示している。だからヨハネは
「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるため」(5・13)に、
第一の手紙を書いた。 Marre氏に言わせれば、だれが天国行きかをはっきり論じたヨハネは、思い上がったコンコンチキ、ということになるのだろう。

 ついでに、Marre氏が引用しているローマ10章はキリストの死と昇天を指しているのであって、信者のことを指してはいない。文脈上明らかでしょう、ていうか、引用滅茶滅茶だよ!

 聖書の最も基礎的な聖句を除いた残りで教理を組み立てたら、どんなにヘンテコな教理が出てくるかという見本である、というまで僕が酷評するのは後にも先にも、今回だけだろう。それくらいひどい、あんまりだ。何考えてんの、「百万人の福音」!
コメント (11)

親分はイエス様

2006-06-03 17:28:37 | コマッタヨ
投稿者:コマッタヨ 投稿日:2004/01/25(Sun) 14:34
映画評と言えばこういうのがありました。映画評もともかく、人間観察(未信者のクリスチャン観察)も鋭いと思いました。
ttp://home.att.ne.jp/blue/yamasita/cinemaindex/2001ocinemaindex.html

2001年 分 日本 カラー
監督:野淵昶 脚本:野淵昶
撮影:三木滋人 音楽:佐藤顕雄
出演:渡瀬恒彦 ナ・ヨンヒ ユン・ユソン 奥田瑛二 渡辺裕之 ジョン・ヨンスク 渡辺哲 ジョン・ウク ガッツ石松 増田恵子 岡崎二朗 金山太一 ミッキー・カーティス 夏樹陽子 誠直也 中村嘉葎雄
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2001/10/5/金 劇場(銀座シネパトス)
観ている時は割と単純に楽しんでいたんだけど、後からオフィシャルサイトのBBSを読んでいたら、やっぱりちょいと引いてしまう気分は否めなかった。ということを極力避けるために本作は、“神様ではなくてカミさん”のためにこの十字架行進をしたと告白させているのではないか。多分それは本当の部分とは違って、実際は本当の本当に神様、イエス様を信仰したゆえの行動だったのではないかと思うのだが、あえてそうしたにもかかわらず、やはりクリスチャンの方々から見れば、これはイエス様に帰依した物語であり、この真実の物語を観て、数多くの人たちが神の愛に触れるのではないかと期待するらしいんである。うーむ、一体、どこを見ているのかなあ、と思わなくもなかったのだが……。多分この映画を観て、クリスチャンになるとか、キリスト教に興味を持つという人はいないんではないか。そして監督も、そういう方向で映画を作ってしまったら、それこそ資金力にモノを言わせて宗教宣伝映画を作り、実際は信者しか観ていない某宗教団体と同じことになると危惧したから、それを避けたのではないか。それにしても、これほどしっかり台詞に言わせ、あからさまに避けていると判るのに、そういう風に感じてしまうのは、やっぱり信仰しているからなのかなあ……。
というわけで、これはノン・クリスチャン、一般的な映画観客にとっては、キリスト教の映画と言うより、やはりヤクザである人間がカミさんの愛によって人間が生まれ変わる物語、と言った方が正しいように思う。カミさんはクリスチャンな訳だが、別に彼女たちの祈りが神に届いたわけではなく、ただただ祈り続ける=愛しているがゆえの、心痛なる心配が、彼らの心に届いたと、こういうわけなんである。祈る、信仰という行為は、愛を描くための象徴的行為に過ぎない。それは、どうしようもない極道、島をかばって刺され、ハンドバッグに入っていた聖書がクッションになったという、一見すればそれこそ神に助けられた現象だとクリスチャンの人ならば感じてしまうかもしれない場面でも同様である。それは神の奇跡ではなく、愛の奇跡なのだ。血にまみれた聖書を見て涙にくれる島は、神に感謝しているのではなく、明らかに妻の愛に感謝しているのだ。そこを間違えてはいけない。
繰り返して言うけれど、それは事実とは多分違う。原作となった元ヤクザでミッション・バラバの方たちは、真に神の愛に触れ、真にクリスチャンになったのであろうと思う。もちろん奥さんの愛、クリスチャンである奥さんの導きもあったとは思うけれど、それは又、別の意味合いにおいてだ。どちらが上とか下とかいう問題でもない。この真実の物語が私たちの胸を打つのだとしたら、それはどんな人間でも救いたもうキリスト教の素晴らしさとか、神の愛とかそんなことではない。それはキリスト教でも仏教でも、あるいは別の仕事とか、友人とか、それこそカミさんの愛とか、何でもいいのだ……一人の人間が、どうしようもなく絶望の淵にまで落ち込んでしまった人間が、全く違う人間と言っていいくらいにまで、生まれ変われる、そのあくまでも“本人”の、“人間”の底知れぬ力に対してなのだ。
それには、元ヤクザというのが、決定的な説得力を持つ。振り子の幅が大きくてわかりやすいという点であって、一般的なサラリーマンとかに置き換えて考えても、一向に構わない。ことに、組織から捨て駒にされて、見捨てられたというくだりは、確かに他に全くつぶしのきかない極道であるという点において、ヤクザというのはインパクトがあるけれども、いわゆるサラリーマン社会において、昨今しょっちゅう見られる風景である。彼らほどの絶望ではないにしても、同じように会社に捨てられ、途方にくれた人たちは、現代の日本には大勢いるに違いない。いわば、これは現代人に向けられた応援歌であって、ヤクザとかキリスト教とかイエス様というのは記号にしか過ぎない。実に普遍的な物語なのだ。
その“記号”は、しかしやはり魅力的である。重要な記号として、韓国人の妻、というのも出てくる。日本と韓国の至極複雑な歴史的背景を考え、その夫がヤクザであり、精神世界のキリスト教が絡んでくるとなると、これはもう、いかに魅力的な記号をそろえるかが大きな問題となる映画的世界においては、勝利は確実である。ちょっと昼メロっぽい造形の二人の韓国人妻が、しかしその昼メロっぽい泥臭さもまた記号であり、あっさり涙を誘ってくれる。彼女らそれぞれの夫であるヤクザ、渡瀬恒彦にしても、奥田瑛二にしても、もともと役者という、さまざまな方向のベクトルを持つ記号的職業の中でも、それを演じる時、いささかも迷うことない、ハッキリとした記号を指し示すタイプの役者である。もう齢50を越え、かつてはシブい魅力で女を泣かせ続けたにしても、そろそろ年貢の納め時であり、しかもダメ押しに組織から捨てられ……という、社会、人生、男という様々な方向からの記号に満ちたキャラクターを、固めまくって演じている。
ことに、ああ、やっぱりこの人は全身映画俳優だなあ……と改めて感じさせる奥田瑛二は、全く違う役柄ながら、やはり同じことを感じた、「少女」に続いて、やりすぎと思えるほどの熱演。この人は本当にスタイルが良くって、いっつもこんなイカツイ表情を作っているから判らないけど、実は笑うとかなりのハンサムで、本当にイイ男なの……。その手足の長い、八頭身の骨格の美しさ、女を抱きしめた時にぎゅっという感じが色っぽく出る、その長く美しい指……あー、あー、あーもう、私は実を言うとこの映画を観ている最中ずーっとずーっと奥田瑛二に見とれ続けてニヤニヤしていたのだ。殆ど本筋なんかどうでもいいぐらい。彼が自分をかばって刺された奥さんの枕もとで、彼女から、十字架を背負って歩いてくださいと言われ、それまでのいかつい顔がどこへやらと飛んでしまい、くしゃくしゃの、子供のような泣き顔で、うん、うん、とうなづく場面には、ああ、やっぱりこの人は全身映画俳優だあ……と嬉しくなったのであった。
まあ、彼に見とれ続けていたとはいえ、脇キャストの魅力的なメンメンにも、楽しんでいたのだが。何よりヨイのは、民宿、と呼ばれる、民宿屋のオヤジ、渡辺哲。全身に見事な刺青を施した主人公の勇次に、最初は対抗意識で近づき、彼の話を一晩中聞いてすっかりホレこみ、自らついて歩くことを志願する。十字架に車輪をつけることを思いついたのも彼で、いかにもラシくて、チャーミング。彼の奥さんである宿屋を切り盛りする女将、夏樹陽子も、この人はほおんと、幾つになってもチャーミングで、実は日本のメグ・ライアン風?などと思ったりもするのだが。年相応の色香もありつつ、チャーミングというのは、なかなかすごいと思うんだなあ。
教会でのゴスペルシーンで、陣頭指揮を取っていた女性、絶対柴田理恵さんだと信じて疑わなかったけど、キャストに名前ないし、違うんだ……うっそお、ちょっとドッペルゲンガー並みに本人そのものなのに!★★★☆☆
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The Apostle

2006-06-03 17:27:55 | コマッタヨ
投稿者:あだち 投稿日:2004/01/14(Wed) 16:10

映画評でお邪魔します。

ペンテコステ派の牧師ゾニーは、豊かな個性と奔放な生活の持ち主。しかし、ないがしろにしてきた妻ジェシーが若い副牧師と不倫。さらにジェシーの陰謀で教会を追い出されることになり、暴力ざたを起こしてしまう。全てを失ったゾニーは素性を隠してルイジアナへ。そこで親しくなったブラックウエルとともに、新しい生活を始める。

名優ロバート・デュバルが監督・主演したこの作品、人間の性を実に絶妙に表わした作品として評価も高く、アカデミー賞主演男優賞部門にノミネートされた。ペンテコステ(カリスマ)派=セックス、田舎の老人=癒しと包容というシンボルがアメリカンなイメージを反映していて面白い。一時日本でも大人気だったファラー・フォーセットの円熟の演技も必見。

聖書の暗号(原題:THE BIBLE CODE)

2006-06-03 17:26:42 | コマッタヨ
投稿者:コマッタヨ 投稿日:2003/12/08(Mon) 16:47

著者:マイケル・ドロズニン
訳者:木原武一
発行:新潮社
分類:トンデモ本

 この本には、99.99%の日本人にとって未知の言語であるヘブライ語が敷き詰められた、「暗号表」が頻出します。一般の読者は読み飛ばしている所でしょうが、あえて「暗号」を味わうためにも(意地悪)、ここで、ヘブライ語の基礎的な特徴を簡単に紹介しておきます。

 まずヘブライ語には母音にあたる字(A/E/I/O/U)がありません。たとえばエルサレムは「YRWSLM」と表記します。子供用の絵本などには各文字に母音記号が付されていますが、普通に教育を受けたユダヤ人は記号がなくてもイェルシャライムと読めます。ちょうど日本人が、漢字にルビを振らなくても熟語を読めるようなものです。

 したがって、「広島」は「HRSM」という綴りになりますが、この本は母音記号というものの存在を完全に無視していますので、読もうと思えばハルサメとも読めます。だから、暗号文に「HRSM」と現れたからって、それが広島の事を表しているとは限らない。実は暗号の作者は1945年に原爆がどこかの春雨工場を破壊した悲劇を予言していたんじゃないか、という解釈もできます(←それじゃ『ノストラダまス』だよ!)。

 そしてヘブライ語アルファベット22文字には各々1から400までの「数価」があり、数字を使わずとも文字で数を表す事ができます(オカルトでおなじみの数秘術などにもこの数価が利用されている)。暗号文中の「年号」(と著者が言っている部分)も数字や言葉ではなくこの数価で表されています(例:HTSNW=5,400+300+50+6→5756)。要するに聖書のヘブライ文字は全部数字に置き換えられるわけで(笑)、組み合わせ次第でほぼ無限の年号を導き出す事が可能です……っておいこら!

 いちおう年号はユダヤ暦でカウントして「それらしさ」を演出していますが、これがまたズサンで。たとえば《日本》《原爆によるホロコースト(暗号表では「ホロコースト」じゃなくてちゃんとヘブライ語の「虐殺」にあたる「ショアー」SW'H になっている所はまぁほめてあげよう)》と一緒に《5705年(西暦1945年)》という年代が現れているという【暗号表45】を見ると、「705」としか書いてない。1997年を「'97」と表記するように千の位は省略してオッケーと思っているんでしょうが、数千年単位のスパンで書かれた予言が年号の千の位を省略しちゃ何の役にも立たないと思うんですけどねぇ。

 ついでにツッコむと、「広島」は「原爆が投下された年と同じ 1945字の文字間隔で記されている」(P.123)んだそうですが、何故ここだけいきなり西暦になるんだコラ。


 何にせよ本書に紹介された予言解読法の最も困った所は、最初に特定のキーワードを得て検索しない限り、聖書の中にどんな予言が隠されているか知る由もないという点です。つまり、ラビン暗殺や広島の原爆など、すでに起こった事件のキーワードならいくらでも検索できますが、未来に起こるであろう予想外の事件事故に関する予言は探しようがないのです。つ、使えねぇー……(涙)。可能なのはせいぜい、たとえば《日本》と《滅亡》が一緒に出てくる箇所を検索して、そこから他の関連単語を探し「予言」と言い張るぐらい。

 ……何かどこかで聞いたような話ですね。そう、凡百の「ノストラダムスの大予言」解読本と同じ構造です。結局この手の本は似たようなパターンになるようです。予言が外れた時も、やっぱり同様にシラを切るんでしょうな。

 それにしてもこんな素敵な本が徳●や光●社やた●出版ではなく、教養書籍に関しては定評のある(はずの)新潮社から出版されているってんですから、いい時代になったもんです。こと宗教方面においてはミソとクソの区別もつかない日本人の教養のウスさを象徴してて嬉しくなります。

 余談ながら著者のドロズニンは、リップス&ウィツタムの両人から「誰も『聖書の暗号が最終戦争を黙示している』なんて言っとらん」と非難され(1997年6月エルサレムでの記者会見より)、ヘブライ語を解するイスラエルの学識者たちからは本書の計算の妥当性を大いに疑問視され「ゴミ」「たわごと」など散々言われてるそうです(Jerusalem Report 誌 1997.9.4号)。まぁ、こんだけ売れてりゃ何言われたって気になんないだろーけど。ああうらやましい。
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獄中からの賛美

2006-06-03 17:24:44 | コマッタヨ
投稿者:NorthMan 投稿日:2003/11/25(Tue) 12:12

著者:マーリン・キャロザース
発行:生ける水の川
分類:信仰書?

マーリン・キャロザーズ氏の「讃美の力」シリーズは、聖霊派が福音派を勧誘する時に使う本として定番です。
シリーズ第三作「獄中からの賛美」についてあるmlで議論がありました。

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 うーん、なんというか、私、この本の読み方がよくわからないです。
 ちょっと、私個人としては単純にお薦めできないものを感じてるので、
横からレスしますね。
 たとえば、ベトナム戦争にキャロザーズさんが参加した
ときのことなんかが書かれてますよね。
 それで、故郷アメリカに残してきた問題の解決を、みんな
でお祈りしたら見事解決した!!っていう証がいっぱい書かれています。
 それはそれで「ハレルヤ!」なんです。神さまに
不可能がないことがわかりますから。
 でも、この本を通して、戦争に関わったことへの反省
が一度もなくて、また、戦争に対する祈りや、ベトナムの
人々を殺戮しなければならない事への祈りとかもないのです。
 「アメリカへ残してきた、自分の息子が非行から救わ
れた!ハレルヤ!」と言っていたその兵士が、次の日
には無差別爆撃に行く。そのことをなんとも思っていな
いようなキャロザーズ氏の姿勢に、反発を感じるんです。
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「聖霊を受けた」という人が「御霊に満たされながら?」、ナパーム弾でベトナムの人達を焼き殺す光景は、想像するとかなり恐いです。お薦め本ではなくてあぶない本の紹介になってしまいました。
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スヌーピーたちの聖書のはなし

2006-06-03 17:21:30 | コマッタヨ
投稿者:librarian 投稿日:2003/10/16(Thu) 10:16

著者:ロバート・L.ショート
訳者:笹野洋子
発行:講談社
分類:入門書

『全米で1000万部突破の名著!!悩み多き人々におくる心の本。落ちこんだとき、さびしいとき、生きるのがつらくなったとき…聖書をひもときながらスヌーピーたちの活躍を読めば、勇気と力がわいてくる。聖書のたとえ話、罪と罰、不安と恐れ、愛と信仰などを語る現代版聖書入門。』(講談社のコピー)

 原題は『The Gospel According to Peanuts(ピーナッツによる福音書)』。ピーナッツはスヌーピーが登場する漫画のタイトル。

 小さいときから聖書の物語を知っていてモチーフに馴染んでいる読者が、スヌーピーのストーリーや登場人物に秘められたキリスト教的な意味を解きあかされるからこの本はおもしろいのであって、そんな背景を持たない日本人にとっては回りくどくてわかりにくいだけだろう。キャッチコピーが言うような「聖書入門」にはなりそうもない。聖書そのものを読んだ方が入門としては早そう。

 致命傷は、原著にない冒頭の解説部分。そこいらのリベラルな聖書事典からの引き写しで、原著者(ショート)が読んだら怒り出すようなものになっている。原著者は知らされていないのだろうか。中身がまだるっこしい以前に、まず冒頭でぶち壊している点が本書の最大の問題と言えよう。

 タイトルで期待させる分、ガッカリ度も最高。本はイメージではなく中身で勝負、ということで、買うと損します。
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日韓教会成長比較~文化とキリスト教史

2006-06-03 17:16:53 | コマッタヨ
投稿者:maff 投稿日:2003/09/18(Thu) 08:56



著者:尾形守
発行:ホープ出版
分類:信仰書

librarian様
お知らせありがとうございました。掲示板開設おめでとうございます。

この書評は自作ではなくて借物です。偶然ネットでみつけたのですが、とっても面白いのでコピペしちゃいます。出所はここです。韓国の本を読んで http://member.nifty.ne.jp/taejeon/book/book04.htm

ノンクリスチャンの書評ですが、とても鋭い!
「伝道のために仏教や神道の伝統をキリスト教に取り込めばいい」という結論はいただけませんが(ノンクリスチャンなので仕方ないのですが)、それまでの分析は的確です。信者でないだけに、

>「「機能的代用」という術語で粉飾されてはいるが、要するに、儒教と妥協しているわけである」
>「両者(シャーマニズムと聖霊運動)が融合していることは、客観的には自明の事実」

なんてぼかしのない言葉で書かれていて新鮮です。
今、日本の教会はちょっとした韓国ブームですが、冷静に韓国のキリスト教を理解するために、この本や書評はとてもいいと思いました。


韓国の本を読んで http://member.nifty.ne.jp/taejeon/book/book04.htm から
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 「日本に100人に1人しかいないクリスチャンが、なぜ韓国には4人に1人もいるのか?」と帯にある。小生の興味もそこにあった。
 題名と目次からもわかるように、日韓のキリスト教の成長を比較し、日本での布教のための参考にしようとする目的の本である。だから、信者でない人にはその点が鼻につくかもしれない。だが、日韓の宗教的な歴史や風土の違いということを考えてみるには、良い本と言える。丁寧に調べてある労作である。
 第一部だけでも、読んでみることをお勧めしたい。

 小生の長年の疑問は、韓国における宗教的文脈であった。
 すなわち、土着のシャーマニズム、高麗時代に入って今も信者の多い仏教、そして李朝時代に支配的になり今も韓国人の精神背景をなす儒教の祖先崇拝、これらとキリスト教は、本来相容れないはずなのに、なぜ融合しているのか。
 第2章に答えはある。まず、シャーマニズムは明らかにキリスト教受容の下地になっている。日本では神道は国家神道や天皇制として制度化され形式化していくが、韓国では民間の庶民の宗教として残る。その結果、シャーマニズムが聖霊運動と結びつくことによって、韓国の教会の成長の要因となる。著者はそれを「道備え」であり、外見上似ているからと直接結び付ける見方は正しくないとするが、両者が融合していることは、客観的には自明の事実であろう。

 さて、最大の問題は、儒教である。
 小生の長年の疑問点であったのは、「韓国人がクリスチャンになる際の最も大きな障害は祖先崇拝をやめるように要求されることだ」と、著作でも指摘される点であった。著者は言う。
 「韓国クリスチャンは祖先崇拝への機能的代用(functional substitutes)を取り入れてきている。キリスト者の家で持たれる先祖のための記念崇拝も行われている。その際、多くのクリスチャンは牧師や長老を家に招いて、先祖の命日に記念礼拝を執り行っている。これは慣習化してきており、教会の反対なくして増え広がっている。」(41ページ)
 ここを読んで、疑問が氷解した。「機能的代用」という術語で粉飾されてはいるが、要するに、儒教と妥協しているわけである。祖先礼拝と一神教と両立するわけはないのだが、現実的な折衷線で、牧師や長老も参列しているのだ。この点について、小生は批判的ではない。むしろ、キリスト教が布教の上でマジョリティを得るためには、そうした妥協も必要だろうと思うのである。

 第三部は、今後、日本は韓国キリスト教から何を学んで布教すべきかというところで、非信者の方には退屈と見られがちだろうが、ここも結構面白い。特に、小生が気になるのは、著者が「文脈化」という言葉で表現する点だ。すなわち、キリスト教布教において、国ごとに文化的・歴史的・宗教的等に、異なる土壌、「文脈」がある。だから、それに合わせるべきだと言うのだ。
 これはとりもなおさず、第一部で著者の述べた、「道備え」とか「機能的代用」と機を一にするものである。それは小生も、必要なのだろうと思う。ただ小生が、不満なのは、著者が「文脈化」が必要だと認めつつも、日本での適用において、それは教義にもとる点があるとして、あまりに慎重な点である。もちろん、根本的な教義は捨てがたいだろう。しかし、新興宗教は日本でもあれだけ勢力を伸ばしたのに、キリスト教が伸び悩んだのはなぜだろうか。
 韓国でシャーマニズムの祈りと融合し、また、祖先崇拝に聖職者が参列するところまで妥協している点をちゃんと直視し得ずして、日本の神道と非妥協であった点のみ評価したとしても、今後、日本での大きな布教拡大は望めまい。
 日本の仏教の葬式や初詣や、神前の結婚式や雛祭りや七五三や宮参りやお祭や、そういう多神教的な、しかし、日本の民衆の精神に深く情緒的に根を下ろしている冠婚葬祭の伝統をすべて否定し去るなら、永遠にマイナーであろう。その点に結局こだわり続ける著者と日本のクリスチャンたちの姿勢自体が、やはり明治以来の、上層階級の観念的宗教理解から発展していないと言える。
 民衆への布教に必要なのは、韓国の「ケンチャナ精神」であろう。



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