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9代目クラウン(JZS140)

2011-12-24 07:54:51 | 懐かしのクルマ

1991年10月クラウンはハードトップをメインに、
フルモデルチェンジを行いました。

ハードトップは3ナンバー専用車となり、

ロイヤルシリーズが登場し、

V8エンジンと3リッターエンジンを搭載したマジェスタシリーズが加わりました。

 

セダンとワゴンとバンはマイナーチェンジを行いました。

ロイヤルシリーズのエンジンは3リッターの7Mから、2JZに変更し、
2.5リッターとディーゼルエンジンのみでした。
 
しかし、ロイヤルシリーズのデザインが評判が悪く、
販売面では苦戦しました。
 
1993年8月にマイナーチェンジを行い、後ろのスタイルを改良を行いました。
展示されていたのは前期型で、
マイナーチェンジしたクラウンを展示してほしかった。
 

「歴代クラウンCM集」のDVDを購入しました。

2011-12-23 19:31:54 | 日々雑感

池袋のアムラックスに行ってきました。

2012年1月15日まで、歴代クラウンの展示をやってます。

 

クラウン関係のグッツを見て、

僕は「トヨタ・クラウン歴代CM集」のDVDを購入しました。

 

ビデオを観たら、トムスの関谷監督が現役時代のCMがありました。

 

1995年にルマン24時間で優勝し、

走行中に車の横滑りを抑制する「VSC」のCMに出てました。

 

アムラックスに行ったら、DVDを購入しましょう。


ブノワ選手、日産離脱!!

2011-12-23 07:01:13 | TOM'S

2011年がもうすぐ終わり、
シーズンオフを楽しんでます。

日産のスーパーGTドライバーに異変が起き、

ニスモのブノワ・トレルイエ選手が日産を離脱することになりました。

 

これはレクサスチームにとって影響が出ます。

 

今年はビルドハイムがレクサスから日産に移籍し、

表彰台はありませんでした。

 

レクサスかホンダのドライバー、

または他のレースで活躍したドライバーが誰が日産に移籍するか気になります。


いやージープラのJAFGP GT300は面白かった!!

2011-12-13 21:14:42 | 日々雑感

富士スプリントカップ2011の興奮がまだ忘れられない僕ですが、
テレビ東京がスーパーGTの地上波放送復帰し、ジープラの富士スプリントカップでした。

第一レースは中尾明慶、小島アナ、ゲスト解説には初音ミクBMWの番場選手、アストンマーチンの吉本選手、フェラーリの田中選手でした。

 

GT300ゲスト選手の解説や、小島アナの実況や中尾のトークは座談会風でした。

 

2010年3月に激Gが終了し、2011年4月にジープラとなってからのテレビ東京の始めてのJAFGPでした。

 

ファイナルラップで初音ミクBMWがゴール手前で逆転勝利し、

小島アナと中尾明慶の表情が、

「これはたまげた!!」でした。

 

日曜日のレースはスペシャルゲストにミスター岡田でした。

グリッドウォークでジープラの収録があり、

HDDに録画して観たら僕がカメラにピースをやってしまい映ってしまいました・・・・・・・・・・

 

トムスのファンがジープラを観たらどんな事が起きてしまうか・・・・・・


懐かしのトムスドライバー列伝番外編 鮒子田寛 後編

2011-12-12 20:04:53 | トムスドライバー列伝

鮒子田寛選手の後編は1975年にF1をドライブするチャンスが来ました。

1975年にはマキ・フォードをドライブし、F1イギリスGPとオランダGPにエントリーしたが、ともに予選落ちでF1の決勝出場の記録は残りませんでした。

 

1974年、富士グラチャンレーサーの高原敬武がF1のノンチャンピオンシップ戦に出場しているが、チャンピオンシップがかかったF1レースに日本人として初めてエントリーしたのは鮒子田選手であります。

 

もし決勝に出れたら、日本人初のF1レーサーになっていたかも知れません。

また1973年には生沢徹とともに日本人で初めてル・マン24時間レースに参戦(マシンはシグマ・MC73)。ル・マンには1975年(シグマ・MC75)、1981年(マツダ・RX-7)と計3回の出場を果たすが、いずれもマシントラブルで完走はない。 

1975年にはオーストラリア最大のレース、バサースト1000kmレースにて日本人初の総合5位クラス優勝(マツダ・サバンナRX-3)を飾った。

1981年いっぱいで現役を引退し家業の手伝いをしていました。

1986年に、林みのるが率いる童夢に加入。1989年にはトムスに移籍し、レーシングチーム(トヨタ・チーム・トムス)のチーム監督を務める。その後1992年にイギリスに渡りトムスGBの社長として、トヨタのル・マン参戦の指揮を執る。

1998年にトムスGBがアウディに買収されレーシング・テクノロジー・ノーフォーク(RTN)となったのに伴い「残務処理のため」としてRTNジェネラルマネージャーに就任。

 

しかしマネージャーとしての手腕を買われ、結局2003年までRTNの役員を務め、VWグループのベントレーのル・マンレース車両開発責任者としてベントレー・スピード8開発を統括、2003年ル・マン24時間レース制覇に貢献しました。

2003年に帰国しINGINGのF3チーム監督に就任。

 

2004年にはINGINGが全日本F3選手権において、プライベートチームとして12年ぶりとなる、ドライバー・チームチャンピオンを獲得しました。

 

2011年のスーパーGT500チャンピオンのロニー・クンタレリ選手を育てました。

 

2007年1月には童夢に復帰し、同社取締役に就任しル・マン参戦等のレース活動を指揮。2009年童夢を退社、その後、ル・マン用エンジン開発等を行っているエイムの顧問に就任。2011年より、日本自動車レース工業会(JMIA)の顧問としてレース業界の発展・振興に務めてます。

ルーフの上に70年代の鮒子田寛選手の顔写真です。