1991年10月クラウンはハードトップをメインに、
フルモデルチェンジを行いました。
ハードトップは3ナンバー専用車となり、
ロイヤルシリーズが登場し、
V8エンジンと3リッターエンジンを搭載したマジェスタシリーズが加わりました。
セダンとワゴンとバンはマイナーチェンジを行いました。
1991年10月クラウンはハードトップをメインに、
フルモデルチェンジを行いました。
ハードトップは3ナンバー専用車となり、
ロイヤルシリーズが登場し、
V8エンジンと3リッターエンジンを搭載したマジェスタシリーズが加わりました。
セダンとワゴンとバンはマイナーチェンジを行いました。
池袋のアムラックスに行ってきました。
2012年1月15日まで、歴代クラウンの展示をやってます。
クラウン関係のグッツを見て、
僕は「トヨタ・クラウン歴代CM集」のDVDを購入しました。
ビデオを観たら、トムスの関谷監督が現役時代のCMがありました。
1995年にルマン24時間で優勝し、
走行中に車の横滑りを抑制する「VSC」のCMに出てました。
アムラックスに行ったら、DVDを購入しましょう。
2011年がもうすぐ終わり、
シーズンオフを楽しんでます。
日産のスーパーGTドライバーに異変が起き、
ニスモのブノワ・トレルイエ選手が日産を離脱することになりました。
これはレクサスチームにとって影響が出ます。
今年はビルドハイムがレクサスから日産に移籍し、
表彰台はありませんでした。
レクサスかホンダのドライバー、
または他のレースで活躍したドライバーが誰が日産に移籍するか気になります。
富士スプリントカップ2011の興奮がまだ忘れられない僕ですが、
テレビ東京がスーパーGTの地上波放送復帰し、ジープラの富士スプリントカップでした。
第一レースは中尾明慶、小島アナ、ゲスト解説には初音ミクBMWの番場選手、アストンマーチンの吉本選手、フェラーリの田中選手でした。
GT300ゲスト選手の解説や、小島アナの実況や中尾のトークは座談会風でした。
2010年3月に激Gが終了し、2011年4月にジープラとなってからのテレビ東京の始めてのJAFGPでした。
ファイナルラップで初音ミクBMWがゴール手前で逆転勝利し、
小島アナと中尾明慶の表情が、
「これはたまげた!!」でした。
日曜日のレースはスペシャルゲストにミスター岡田でした。
グリッドウォークでジープラの収録があり、
HDDに録画して観たら僕がカメラにピースをやってしまい映ってしまいました・・・・・・・・・・
トムスのファンがジープラを観たらどんな事が起きてしまうか・・・・・・
鮒子田寛選手の後編は1975年にF1をドライブするチャンスが来ました。
1975年にはマキ・フォードをドライブし、F1イギリスGPとオランダGPにエントリーしたが、ともに予選落ちでF1の決勝出場の記録は残りませんでした。
1974年、富士グラチャンレーサーの高原敬武がF1のノンチャンピオンシップ戦に出場しているが、チャンピオンシップがかかったF1レースに日本人として初めてエントリーしたのは鮒子田選手であります。
もし決勝に出れたら、日本人初のF1レーサーになっていたかも知れません。
また1973年には生沢徹とともに日本人で初めてル・マン24時間レースに参戦(マシンはシグマ・MC73)。ル・マンには1975年(シグマ・MC75)、1981年(マツダ・RX-7)と計3回の出場を果たすが、いずれもマシントラブルで完走はない。
1975年にはオーストラリア最大のレース、バサースト1000kmレースにて日本人初の総合5位クラス優勝(マツダ・サバンナRX-3)を飾った。
1981年いっぱいで現役を引退し家業の手伝いをしていました。
1986年に、林みのるが率いる童夢に加入。1989年にはトムスに移籍し、レーシングチーム(トヨタ・チーム・トムス)のチーム監督を務める。その後1992年にイギリスに渡りトムスGBの社長として、トヨタのル・マン参戦の指揮を執る。
1998年にトムスGBがアウディに買収されレーシング・テクノロジー・ノーフォーク(RTN)となったのに伴い「残務処理のため」としてRTNジェネラルマネージャーに就任。
しかしマネージャーとしての手腕を買われ、結局2003年までRTNの役員を務め、VWグループのベントレーのル・マンレース車両開発責任者としてベントレー・スピード8開発を統括、2003年ル・マン24時間レース制覇に貢献しました。
2003年に帰国しINGINGのF3チーム監督に就任。
2004年にはINGINGが全日本F3選手権において、プライベートチームとして12年ぶりとなる、ドライバー・チームチャンピオンを獲得しました。
2011年のスーパーGT500チャンピオンのロニー・クンタレリ選手を育てました。
2007年1月には童夢に復帰し、同社取締役に就任しル・マン参戦等のレース活動を指揮。2009年童夢を退社、その後、ル・マン用エンジン開発等を行っているエイムの顧問に就任。2011年より、日本自動車レース工業会(JMIA)の顧問としてレース業界の発展・振興に務めてます。