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浄土真宗・他力信心の境地

「他力信心のお味わい」を「お聖教の引用」ではなく「私の言葉」で書き連ねています。

【雑記(その32)】信前の念仏も信後の念仏も同じです。変わりません。

2023-06-16 05:40:20 | 【雑記】

ここ最近は、ふざけた「記事の内容」ばかりで。。。(´・ω・`)ショボーン

そろそろ愛想尽かされて「読者も激減する」だろう・・・と思いきや、

なぜか「一向に減少しない」「ゆゆしき事態」なので、し、し、仕方がないっす。。。

すこ~しだけ「真面目な記事」を書いてみようかと思います。。。┐(*´~`*)┌ 

 

 

ってコトで、本日のテーマ!! (`・ω・´)ゞ

「信前のお念仏」と「信後のお念仏」は、同じか違うか?

・・・について、ですが。。。

 

「結論」を先に申し上げますと!!!!

 

「信前の念仏」も「信後の念仏」も「同じ」です。。。

まったく変わりません。。。o(`・ω´・+o) ドヤ

 

 

だって。。。

「弥陀の本願」が「成就」して・・・

「南無阿弥陀仏のお念仏」となってこの世界に届いている(はたらいている)・・・

「ただそれだけ」だから、ね。。。。.+(•ω-人)♡*。キラキラ~ン♪

 

 

「れおん」が称える「お念仏」も。。。

「子供」が称える「お念仏」も。。。

「役者さん」が称える「お念仏」も。。。

「悲鳴嶼行冥」が称える「お念仏」も。。。

「「悲鳴嶼行冥」の声優さん」が称える「お念仏」も。。。

 

((コレ・・・急速に「人気が下降」した「鬼滅の刃」なのですが。。。(´・ω・`)ショボーン))
((「今更感のネタ」で、ほんとゴメンね。。。(´・ω・`)ショボーン))

 

み~んな、おんなじ「南無阿弥陀仏」です!! (≧∇≦)ノ

「誰が称えようと」

なんら「変わるコト」はございません!!(`・ω・´)ゞ

 


ところがどっこい!!

すっとこどっこい!!

 


この「名号 南無阿弥陀仏」については。。。

「法を説かれる先生」によっては、か~な~り・・・

「言うコトが違う」ので「要注意」なんです!!(`・ω・´)ゞ

 

だってさ。。。

「仏願の生起本末」の「末」の「名号南無阿弥陀仏」の「領解」が違えば、

「弥陀のお救い」には「出遇えない」からさ。。。

 


マジで、ヤバいんですよ。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

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「わたしはどうしたら後生救われるのか?」を「明示」なされた
「親鸞聖人」「教行信証」の「仏願の生起本末」ってさ。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

・「法蔵菩薩様」が「自らの力」では「迷いの世界」から出られなくて「苦しむ衆生」
 をご覧になられて・・・【仏願の生起】
・「五劫思惟され」「48の願」を建て「兆載永劫のご修行」をなされて・・・【本】
・その「本願が成就」して
 「南無阿弥陀仏のお念仏」となって「この世界に届いている」(はたらいている)・・・【末】

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

・・・というコトなのですが!!

 

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この「仏願の生起本末」の「末」の「名号 南無阿弥陀仏」を。。。

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【称名念仏】は、私の無明の闇が破られて【往生成仏の身に救う働きがある】ので勧められます。
【称名念仏】とは、阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)を【口で称えていること】をいいます。

その【行為そのもの】には、信前も信後も変わりません。

ただその【「行為」そのもの】に何かの力があるのではなく、
【称えられた南無阿弥陀仏そのものに私を救う働きがあるのだ】と教えられています。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

・・・とかって・・・「書いてある」のを・・・見てしまって・・・。(¯―¯٥)ノノ

 

 

「絶賛 脱力中」ながらも、コレってやっぱり、イロイロと、おかしすぎるので、

コチラも「今更ながら」すこ~し「ツッコミ」を入れようと思います。。。( ;∀;)ノ

 

 

まず!!!!

 

・【称名念仏】は【わたしの行為】です。。。
・【口で称えていること】も【わたしの行為】です。。。
・【行為そのもの】ってのも【わたしの行為】です。。。

ってさ~。。。( ;∀;)ノ

 

「これだけ短い文章」で「【行為】というワードを連発」

したらさ~。。。

「聞いたヒト」の「頭の中に残るモノ」は【称名念仏はわたしの行為】だけ

になってしまい「聞き手」は「行為そのもの」に囚われてしまう。。。

 

なので、たとえ「後の文章」で・・・

「【「行為」そのもの】に何かの力があるのではなく」

・・・と「わたしの行為」を言っているのではない、と「否定」したところで。。。

 

「○○のことだけは絶対に考えないでください」と言うと
「○○のことだけをやたらと考えないてしまう」という
「心理学」の「皮肉過程理論」

になってしまうんですよねぇ。。。(ー∀ー;)ズガーン

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


というコトで、結論は・・・コレって、

「聞き手」を「ミスリードさせる文章」で、

「門徒を余計に迷わせる説法」にほかならないので、

めっちゃ「要注意」!!なのであります!!(`・ω・´)ゞ

 


次に!!!!

 

「下から二行目」・・・「ただその【「行為」そのもの】に何かの力があるのではなく、

・・・と「称名念仏」という行為に救う力がある】を「否定」していながらも・・・

「一番上の行」で・・・
【称名念仏】は、私の無明の闇が破られて【往生成仏の身に救う働きがある】ので」

って「書いちゃって」いて・・・。

コレって「矛盾」なんだよね。。。(´・ω・`)ショボーン

 

コレ、もう、おもっきし
「称名念仏」という【行為に救う力がある】
って言っちゃってんじゃん!!(笑)(^▽^;)ノ

 

というコトで、結論は・・・

「言っている本人がよくわかっていない」というオチなので、

めっちゃ「要注意」!!なのであります!!(`・ω・´)ゞ

 


さいごに!!

 

ただその【「行為」そのもの】に何かの力があるのではなく、
【称えられた南無阿弥陀仏そのものに私を救う働きがあるのだ】と教えられています。

・・・は!!

【「行為」そのもの】に何かの力があるも・・・

【称えられた南無阿弥陀仏そのものに私を救う働きがあるのだ】も・・・

「どちらも間違い」っす!!( ;∀;)( ;∀;)( ;∀;)ノ

 

 


特に・・・

【称えられた南無阿弥陀仏そのものに私を救う働きがあるのだ】

・・・と、お説教をする「超有名な先生」

もいらっしゃるので「余計にヤバい」のですが。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 


こういう「表現」ってさ。。。

一言で言えば・・・

「名号 南無阿弥陀仏」に「パワー」があって
「それによって救われる」っつー「陀羅尼」じゃん。。。( ;∀;)ノ

 

というコトで、結論は・・・

「それだと「神社のお札」と、なんら変わらない」ので

めっちゃ「要注意」!!なのであります!!(`・ω・´)ゞ

 

 

・・・ってコトで、

 

ひさびさに「性懲りもなく」「ツッコミ」を入れてしまいましたが。。。( ̄▽ ̄;)ノ

 

どうやら・・・

「称名念仏」を「私の行為」として「捉えてしまう」から。。。

「称名念仏」を「私の行為」だと「囚われてしまう」から。。。

それだから、オカシナコトになるのかなぁ・・・と思ったりもします。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

でも、そうじゃなくってさ。。。

 

「弥陀の本願」【本】が「成就」して
「南無阿弥陀仏のお念仏」となってこの世界に届いている(はたらいている)【末】
から「わたしのはからい」は要らないよ。。。

だって、アナタ。。。

「南無阿弥陀仏♡」って、今「称えて」んじゃん!!
それが「往生の証拠」だよ。。。(^▽^;)ノ

「南無阿弥陀仏♡」って、今「聞こえて」んじゃん!!
それが「後生助かる証拠」だよ。。。(^▽^;)ノ

 

「17願成就の名号」じゃん!!

「ただそれだけのコト」なんですよね。。。( ̄▽ ̄)v

 

 

「17願成就」なんだからさ。。。

「信前の念仏」も「信後の念仏」も同じですよ。。。

「同じものが届いている」んだからまったく変わりません。。。

んなモン「当然」でしょうよ。。。(^▽^;)ノ

 

「光明遍照 十方世界」

「正覚大音 響流十方」

 

「わたしたち」は「南無阿弥陀仏」が「届いている世界」の中にいて、

「すでにお救いの中にいながらも拒絶している」という「ハナシ」なんですよ。。。

結局は

「「自力の殻」に閉じこもっている」か「それがなくなったか」

って・・・それだけのハナシなんですよね。。。(´・ω・`)ショボーン

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「お念仏」って。。。

 

「称えて助かろう」の「信前」の念仏と。。。

「助けて頂きありがとうございました」の「信後」の念仏と。。。

それぞれを「分けて考えがち」ですが。。。

「他力の世界」に出てみてわかりました。。。

 

じつは、どちらも「ご恩報謝」の「お念仏」です。。。( ꈍᴗꈍ)ノ.☆.。.:*・゜

どちらも「弥陀の本願成就」の「お礼」です。。。( ꈍᴗꈍ)ノ.☆.。.:*・゜

 

「自力のはからいが」あるか?ないか?というだけで。。。

どちらも「阿弥陀様(法蔵菩薩様)ありがとうございました♡」の「お礼のお念仏」でした。。。

だから「信心正因称名報恩」だったのね。。。

 

そもそも「往生浄土の証拠」の「南無阿弥陀仏」を。。。

「自力」と「他力」に分けること自体が「自力のはからい」でしたね。。。

それ自体が「人間の知恵の限界」というか「迷智」だったのなのかなぁ。。。

 

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「仏願の生起本末」の「本末」は・・・

「名号南無阿弥陀仏」は「弥陀の本願」【本】が「成就」して

「南無阿弥陀仏のお念仏」となってこの世界に届いている(はたらいている)【末】

から「わたしのはからい」は要らない。。。

 

 

だから「機受の無作」とか・・・

「念仏には無義(はからいなきこと)をもって義とす」って言われるのよねぇ。。。

 

「それ以上」でも「それ以下」でもない。。。

「ただそれだけのコト」なんですよね。。。( ̄▽ ̄)v

 


【雑記(その31)】アナタの死をムダにしないし先達の教えを絶やさない

2023-05-01 12:39:23 | 【雑記】

「仏教を聞く目的」は「死の解決」。。。

「仏教を聞く目的」は「後生仏さまになる」こと。。。

 

「浄土真宗を聞く目的」は・・・

「私が死んでいく事実」と「その解決法(名号法)を聞いて自力心がなくなる」こと。。。

 

コレは「至極シンプルな内容」でおそらく「誰でも理解できるコト」だと思う。。。

 

少なくとも「れおん」は、そう思っているし、

いつぞやの「日本史」で習った「仏教伝来」以来、

「宗派は変われど」ココは、まったく「ブレない教義」だった・・・と記憶している。。。

 

それに「れおん」が子供の頃は、「実家の宗派」は「禅宗」で、

「死の解決策」は「自力心」ではなく「煩悩の克服」だったけれど。。。

でも「生老病死のが苦しみで出家した」って、

「お釈迦様の伝記」を読みながら「祖父母」や「近所のお坊さん」から教えてもらっていた。。。

 

少なくとも「社会全体」が「仏教の教え」を聞いて「生活していた」・・・と思う。。。

 

 

「当時のお笑い」も「天国」ではなく「極楽」だった・・・と思う。。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

けれど。。。( ;∀;)ノ

いつしか「時代は」「流れに流れて」。。。

 

「おかげさま」から「あいつのせい」。。。

「あなたのおかげ」から「他人のせい」。。。

「死後のハナシ」も「極楽浄土」から「天国」へ変わり。。。

たまに聞く仏教用語は「北朝鮮国営放送」の「日本語訳」。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

「仏教」は「浄土真宗」は。。。

「水面の泡」。。。

「風前の灯火」。。。

 

そしてついには。。。

 

「本願寺教団再建」の「苦肉の策」として。。。

「浄土真宗」と名乗りながら・・・

「浄土真宗のみ教え」を捨ててしまった。。。

 

「蓮如上人」の「領解文」

という「名前」を残して

「伝統教団」という体裁を保ちつつ。。。

中身は「浄土真宗のみ教え」でもなく「仏教」でもない

「門主」の「迷言」

にすり替わってしまった。。。

 

なんとも、悲しいかぎりでございます。。。(´;ω;`)ブワッ

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五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく

外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり

(教行信証 悲歎述懐讃)

 

 

「仏教を聞く目的」は「死の解決」(なぜ生きる)。。。

「死の解決」(なぜ生きる)が「仏教を聞く起点」。。。

「死の解決」と「すべての者を救う」「六字の名号法」。。。

それを捨てて

「自らの手」で「自らを破壊する」

「浄土真宗本願寺派」の「新領解文」。。。

 

とうとう・・・「死の解決」。。。

「後生の一大事」がなくなっちゃった。。。(´;ω;`)ブワッ

 

 

「獅子身中の虫」な~んて「仏教用語」。。。

よく言ったモンだ。。。

なんて「ステキなブーメラン」。。。(´;ω;`)ブワッ

 

 

「教義」の「破壊」は「仏教」の「消滅」。。。

「文化」の「破壊」は「国家」の「消滅」。。。

 

「先達からの大切なモノ」

「原点・起点」を「ないがしろ」にした「施策」なんて。。。

 

節子!それ「工夫」やない!!

「ただの悪あがき」や!!!!

 

・・・・・・・・・・・。

・・・・・・・・・・・。

((((_ _|||))))ドヨーン…。

 

 

なんつーか。。。「れおん」なんかより、

はるかに「頭の良いお坊さん」がたくさんいらっしゃるでしょうに。。。(´;ω;`)ブワッ

 

「カネ回り」が悪くなって「背に腹は代えられない」って。。。(´・ω・`)ショボーン

百歩譲ってそうだとしても、だからといって

「やってイイコト」と「ダメなコト」くらいわかるでしょうに。。。(´;ω;`)ブワッ

 

せっかく「親鸞聖人生誕850年」の「節目の年だ!」っていうのだから。。。

「次の世代」の「子供たち」には。。。

「有形の名宝」とともに、そのお宝に込められた「無形のみ教え」こそ、

大切に伝え残していきましょうよ。。。(´;ω;`)ブワッ

 

【一生を終えてのちに残るのは】

 20歳のころ、三浦綾子さんの小説を夢中で読みました。「続氷点」に
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、
われわれが与えたものである」という言葉が出てきます。
 当時はよく理解していませんでした。
お金がたまれば車を買い、家を買い、果てしないコレクション魂が
人間のサガではないかと。

  20代後半で父が、数年後に母が他界しました。
苦労を両親の人生は何だったのか。かわいそうに思えてきました。
いずれ身内や友人もこの世から消え、両親が人々の記憶からも消えていくことが。

  30代後半になり、あの言葉を思い出しました。
手元に「集めた」ものは、自らの死とともに消えてなくなるでしょう。
でも、「与えた」ものはそうではないと考えるようになりました。
両親から受け取った有形無形の施しを、自らの肥やしにするだけでなく、
たすきリレーのように次の世代に伝えていく。
これこそ、自分が生を受けた意味なのかもしれない。

 自分のしがない人生は、何百万年と続く人類の営みのほんの一瞬です。
残したいものは何なのか。考えながら子供と接する日々です。

 

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「教義」の「破壊」は「仏教」の「消滅」。。。

「領解文」の「すり替え」は「浄土真宗」の「破壊」。。。

 

べつに「難しいコト」なんて知らなくてもできるコト。。。

 

先達から受け継がれた「親鸞聖人のみ教え」を、「自らの肥やし」にするのではなく、

「たすきリレー」のように「次の世代」に伝えていくコト。。。

 

 

コレは、ただの「本の書き起こし」だけれども。。。

「学」がなくても「箔」がなくても「読み書き」できれば伝えられる。。。

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『白骨の章』 「蓮如上人」「御文章」(五帖目十六通)

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそかはなきものはこの世の始中終、
まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、
一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、
おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。
されば朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。
(中略)
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく
後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて念仏申すべきものなり。

 

 

 現代の日本人は、死者に対する正しい態度をまったく知らない。

弔辞の際、多くの人は最後に「安らかに眠れ」とか「ご冥福を祈る」という言葉で結ぶ。

しかしながら、これは死者に対する正しい態度ではない。

死者に対しこの言葉が出る根底には、「安らかに眠らない」と生きた人間に危害を加える、という

死霊に対する恐怖感からきているのであり、これは原始宗教の考え方によるものである。

また「ご冥福を祈る」という言葉も、

普段は「死んだらおしまい」とか「死後はない」という現代人が、

このときばかりは「死後の幸福を願う」「耳障りのよい言葉」を使うことで誤魔化すのは、

まったくの矛盾でありじつに馬鹿げた話となる。

 死者に対する「正しい態度」とは、

それは「アナタの死を無駄にしない」ということのほかはない。

このことは、宗派や思想に関係なく、誰にでも通じる「死者を永遠に生かす道」となる。

 そして、この「白骨の章」は、まさに「アナタの死を無駄にしない」という構成となっている。

多くの人々は「人生の無常」なることに感嘆し、不幸に遭遇した場合には「共感を持つ」であろうが、

この「白骨の章」は、単なる「無常なること」を述べたものではない。

もし、仏教が「無常なること」で終わるのならば、それは「ニヒリズム」にほかならない。

そうでなくとも、「人生は次の瞬間も保証されていない」のだから、

仏教は「悔いのない無駄のない生き方」を説いているのである。

「禅宗」で言われる「日々これ好日」は、仏教一般に通じる生き方である。

この「悔いのない」「無駄のない」「生き方」とは「生死の問題の解決」のほかはない。

「生死の問題」「後生の一大事の解決」を見い出したときにはじめて、

「はかなき人生」の中に「本当に生きる答え」を見い出すことができるのである。

その答えこそ「阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて念仏申すべきものなり」なのである。

 「蓮師」はこの「白骨の章」のおわりには、

このような「はかない人生」を縁とし、「善知識」として「弥陀のご本願に遇う身」になることが、

「死者が永劫に行かされる唯一の道」として結ばれているのである。

 

 

わたしの「しがない人生」は、何百万年と続く人類の営みのほんの一瞬。。

残したいものは何なのか。。。

 

この「はかない人生」を縁とし、先達から受け継がれた「み教え」を「善知識」として、

「弥陀のご本願に遇う身」になることが「死者が永劫に行かされる唯一の道」。。。

 

 

わたしは。。。

アナタの死をムダにしないし先達の教えを絶やさない。。。

 

 


【雑記(その30)】18願の行者さんが言わないコト・・・の続編

2023-03-01 06:06:06 | 【雑記】

※この記事は「2022年9月5日」更新の

【つぶやき(その20)】18願の行者さんが言わないコト。。。 - 浄土真宗・他力信心の境地 (goo.ne.jp)

・・・の続きです。。。(*^。^*)ノ

 

 

本当の「他力信心の行者」さんが「言わない言葉」。。。

 

それは・・・(いかにも、ありがたそうに・・・)

「仏願の生起本末」を・・・

「南無阿弥陀仏のお謂れ」を・・・

「○○と、聞いて下さい。」

「このように、聞いて下さい。」(そうすれば救われますよ。)

という言い回し。。。

 

こういう言い方は、まず、しないです。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

 

 

そもそも「○○と聞く」とか「このように聞く」って、

それ「凡夫のはからい」(自力心)ですから!! www(=^▽^)σ

 

 

ヾノ´-ω-`)アゥトアゥト

 

・・・ってさ。。。

こういうコトを言う先生っつーのがあまりにも、多くて多くて多すぎて。。。

 

「れおん」は、もともと「オカシナカタチ」で「他力に出遇」ったから、

少しでも「違和感のある言い回し」をされると、すぐに見破ります。。。(^▽^;)ノ

 

たしか「一昨年」の「どっかの勉強会」だったと思うんだけれど、、、

「阿部信幾先生」が、「それは「自力心」だよ!」って、

めっちゃハッキリ仰っていたんだけれど、どこだったかなぁ。。。

 

 

( ー̀ωー́ ).。oஇ う~~~ん

 

 

・・・と、思って探したら、、、ありました。。。(笑)

一昨年(2021年)の11月の「阿部信幾先生」の「東京恵日会」

とある著名な先生の本に書いている「他力信心」について。。。

 

 

以下、「引用・抜粋」です。。。

((あと、いつもながら、若干「れおん」が編集をしています。。。(^▽^;)ノ))

 

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🔶とある「めっちゃ著名な先生の本」の一節

((ちょっと長くてゴメンよ・・・。(´・ω・`)ショボーン))

 

 南無阿弥陀仏を信じられないということは、どういうことかというと、
南無阿弥陀仏は自分が言っている言葉だと思っていることです。
信心というのは単純なことで、南無阿弥陀仏という言葉は、人間がそう決めた言葉ではなく、
私を喚んでくださっている如来さまの言葉だったということに気づいた時、
初めて信心が生まれて来るのです。
 如来さまの言葉が聞こえない間は、信心はありません。
その時の南無阿弥陀仏は、自分が唱えている呪文の言葉ですね。
何遍も南無阿弥陀仏と言っていたら、そのうち何かご利益があるのじゃなかろうかと思っている。
これなら自分が念仏していると思っていることですから、一名念仏です。
 仏法を聴聞するということは何を聞くのか、というと、
南無阿弥陀仏となって私に心配するなと喚びかけてくださる如来さまの声を聞くということです。
本願についての誰かのお話しを聞くことではなく本願召喚の声そのものを聞くということです。

 

・・・に対する「阿部先生」の回答が下記に続きます。。。( `ー´)ノ

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


「南無阿弥陀仏という言葉は人間がそう決めた言葉ではなく、
私を喚んでくださっている如来さまの言葉だったということに気づいた時、初めて信心が生まれて来るのです。」

って、気づいた時って、いつなんですかね…?
仏説って書いてあるんだから、その時じゃないの…?

「如来さまの言葉が聞こえない間は、信心はありません」て…、こういう表現…。
「こういう間は、ダメだ」という言い方。
…この先生は、その表現が非常に多い。
聞き方を問題にするんです。

ハッキリ言いますけどね…

「聞き方」を問題にしたり「私の生活」を問題にしたりすることを
「自力」というんですよ。

私の方を問題にしている。

「蓮如上人」なんてね、「我が身の罪の深きことをば、うちおきて」というんです。
私のことは、放っておきなさい、って言っている。
私を問題にするっていうのは「機」を問題にしている。(ことだから)

 

(中略)

 

そういう意味から、この文章は…
「聞き方」を言っちゃダメなんですよ。
「聞き方」を問題にしちゃいけないんです。
「このように聞く」とか「このように聞いたのが信心だ」とかね。
そんなの「今のハナシ」じゃない。
「今の救い」を言わなきゃ。「平生業成」を。
「今の救い」ってことになったら「救いは一つ」しかない。
「南無阿弥陀仏」だけなんです。

「平生業成」っていうのは「今の救い」。
「今の救い」っていうのは「無条件」ってコトだから。
「阿弥陀さまの救い」って、一切条件がついていないんです。
無条件で救うために、自分に条件をつけた。
それが、四十八願なんです。

 

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・・・ってコトで、どんなに

「弥陀の救いは無条件だぁ~!」と説いていても、

「自力心が廃っていない先生」は、
「わかりやくいくらい」
「聞き方」を説きます。。。(^▽^;)ノ

そりゃぁ、そうさ。。。

「他力に出遇」っていないんだもん。。。╮(︶﹏︶")╭

 

・・・って、いちいち・・・

 

・・・・・・・・・・・。

・・・ってコトですわ。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

だから、どんなに、

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

っつー

「ただ今助ける南無阿弥陀仏にただ今救われて下さい。」やら

「ただ今助ける法にただ今救われて下さい。」やら

「ただ今助けるという阿弥陀仏の仰せを聞いて下さい。」やら

「ただ今助けるという南無阿弥陀仏に救われて、浄土往生する身になって下さい。」やら

「ただ今助けるという南無阿弥陀仏をただ今聞いて救われて下さい。」な~んて、

「トートロジー」という詭弁(いわゆる小泉構文)

で誤魔化したところで、結局は・・・

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「南無阿弥陀仏と称え聞いてみてください。」

「ただ今救うの仰せが実際にあると聞いて下さい。」

「ただ、南無阿弥陀仏と称え、ただ今助けると聞いて救われて下さい。」

「阿弥陀仏の仰せの通りであると聞いて下さい。」

「ただ今救うの南無阿弥陀仏をただ今救う南無阿弥陀仏と聞いて下さい。」

「南無阿弥陀仏は、言葉ではなく法として聞いて下さい。」

「ただ今助けると聞けば、ただ今助かる身になるので、ただ今救われて下さい。」

「ただ南無阿弥陀仏と申して、ただ今救う仰せと聞いて救われて下さい。」
((・・・って、いったい、どういうこっちゃ。。。┐( ̄ヘ ̄;)┌))

・・・と「称え方」や「聞き方」を問題にしていて。。。

さらなる「発展形」になると・・・

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「阿弥陀仏は、念仏するものを必ず救って下さいます。
それを「前提」として南無阿弥陀仏の仰せを、ただ今助けると聞いてください。」

「阿弥陀仏を遠くにおいて眺めるのではなく、この南無阿弥陀仏が阿弥陀仏と聞いて救われて下さい。」

「南無阿弥陀仏は、私を救うお働きであると聞いて称えて、それをそのまま受け入れて下さい。」

「仏願の生起本末を聞いて、南無阿弥陀仏と申してそれを本願招喚の勅命と聞いている人は、また聞いて疑い無い身になっている人です。」

・・・と、「○○と聞く」私の行為に、プラスして、

「余計な付属品」が「2~3コ追加」されちゃって。。。

 

それ、ゼンゼン無条件になってないじゃん!!(笑)

( ^ω^)・・・って。。。

((・・・って、コレ「ドラえもん」史上最大の作画崩壊っしょ?Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン))

 

 

ヾノ´-ω-`)アゥトアゥト

ヾノ´-ω-`)アゥトアゥト

ヾノ´-ω-`)アゥトアゥト

 

 

・・・ってか、「親鸞聖人」の「教行信証」の、

「『経』(大経・下)に「聞」といふは、
衆生、仏願の生起本末を聞きて「疑心」あることなし」って。。。

(口で)「称えた南無阿弥陀仏」を(耳で)「聞く」(物理)とか、

「南無阿弥陀仏」を「呼び声」と「聞く」(概念)んじゃないよ。。。

「南無阿弥陀仏」の「お謂れ」を「聞」いたら、

「弥陀の本願が成就した」(既に完了して今も続いている事実)を「聞」いたら、

「弥陀の本願は成就しているから、わたしのはからいは要らない」んだよ。。。

「今」聞いて「今」救われる「無条件の救い」なのさ。。。( ̄▽ ̄)v

「凡夫の側」は「無作」なのさ。。。

 

 

以上なのだ!! (`・ω・´)ゞ

 

 

なもあみだぶつ♬ o(`・ω´・+o) ドヤ

 

 

((おまけ~♪))

 

「南無阿弥陀仏のお謂れ」・・・

「衆生、仏願の生起本末を聞きて「疑心」あることなし」をさ。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「南無阿弥陀仏を聞いて疑いないというのは、
この南無阿弥陀仏が私を浄土に往生させるという本願招喚の勅命と受け取るということです。」

・・・って言っちゃうとさ。。。

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ハッキリ言いますけどね…

「聞き方」を問題にしたり「私の生活」を問題にしたりすることを
「自力」というんですよ。

私の方を問題にしている。

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ついでに。。。

「疑心」ってのは「疑い」じゃないよ。。。(´・ω・`)ショボーン

「疑心」ってのは「はからい」「自力心」だよ。。。(´・ω・`)ショボーン

「疑い」が「あること」も「ないこと」もどっちも「自力」だよ。

 

 

※ ・・・ってコトで、次回は「3月16日(木)」の更新です。。。( `ー´)ノ


【雑記(その29)】「真宗」は「専門家」でも「わかりづらい」!!( ;∀;)ノ

2022-11-10 05:20:55 | 【雑記】

「浄土真宗」って。。。

 

日本で「一番大きい教団」みたいなのですが。。。

昨今の「仏教の土壌」がなくなってしまった「この現代社会」では。。。

「浄土真宗」ほど「ワケが」「わからない宗教」

・・・ってナイよなぁ。。。

・・・と改めて思います。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

・・・というのは。。。

先週の日曜日(2022年10月30日)の「阿部信幾先生」のお話を聞かせていただいて。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

【親鸞会教義】の一枚看板【三願転入】を一刀両断する【解説動画】の番宣 ♡ - 浄土真宗・他力信心の境地 (goo.ne.jp)

 

「れおんタン」は、、、「本題の三願転入のお話」ではなく。。。

「序盤の雑談」(多分開始9分くらい)のトコロ

「三願転入」とは、まっっったく関係のナイ!!

「浄土真宗」の「お坊さんたちの諸事情」の方が気にかかってしまったので。。。

今回は、それについて、すこし書いてみようかと思いました。。。(´・ω・`)ショボーン

 

   |д゚) ちらっ!

 

・・・・・・・・・・・。

 

え~っと。。。(^▽^;)ノ(^▽^;)ノ(^▽^;)ノ

((「三願転入」については「阿部信幾先生」のお話をよ~く聞いてくださいな。。。(´-∀-`;)ノ))
((・・・ってか「教学」の分野は「一文不知」の「れおん」が出る幕ではございませんのでノーコメントです。。。(^▽^;)ノ))

 

 

で!!

 

本日の「テーマ」は?・・・というと、

「表向き」は「自力の宗教」「他力の宗教」

だけれども。。。

「その裏」は・・・というと、

「凡夫」の「迷いの因」は「煩悩か」「自力心か」

・・・ってコトについてです。。。( ̄д ̄)r-oO...ハァ

 

 

・・・ってコトで!!

 

 

な~んか「よさげな素材」は、ナイのかなぁ???(๑• - •`๑)ハテ?

・・・と「RCさん」の「ブログの記事」を、ガザガサとあさってみると、、、

こ~んなモノのがありましたので、とりあえずご紹介しておきマ~~~ス。。。(*^_^*)ノ

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

((ちょっと「古~い記事」でゴメンネ~♪(´-∀-`;)ノ))

2022年01月08日 : RCの如是我聞〜浄土真宗〜 (livedoor.blog)

((コレ、めっちゃくちゃイイ記事だから、是非是非読んでみてね~♡(≧∇≦)ノ))

。*:.。★..。.。*:.。★..。.。*:.。★..。.。*:.。★..。.。*:.。★..。.。*:.。★..。.。*:.。★..。. 

「浄土真宗」以外は、自力の宗教ですから。
だから、一般的には、「自力の宗教」を、「宗教」って言っているんですね。

自力の宗教って…、
人間を超えた絶対的な存在である神とか、仏とかが、自分の運命を左右する力を持っていると信じて、
生きているときや、死んだ後の自分や、身近な人の「幸せ」を、その絶対的な存在に、願ったり、祈ったり…。
また、その絶対的な存在を恐れて、機嫌を取ったり…。
まぁ、そんなものが、世間一般でいう宗教、自力の宗教だと思います。

。*:.。★..。.。*:.。★..。.。*:.。★..。.。*:.。★..。.。*:.。★..。.。*:.。★..。.。*:.。★..。.
 

・・・って、まぁ、長くなるので「冒頭だけ」引用しましたが。。。

コレって。。。

ホ~ント、そ~なのよねぇ。。。(ー∀ー;)|||

 

一般的に「宗教」っていうと、

そのほとんどは「(自力の)宗教」なのよねぇ。。。(lll-ω-) ズーン

 

🔶一つは、、、

「上述」のような「神仏」が「私の幸せを左右する」として
「私の心(自力)で信じさえすれば救われる」という
「因果を撥無」した「神仏と契約する」類いの教え。。。

 

🔶もう一つは、、、

同じ「因果の道理を説く仏教」でも!!
「私の(自力の)修行」によって
「仏の悟りをひらく」という「聖道門」の教え。。。
((「信ずる心」も「修める行」も「私」から「仏さま」への回向です。。。(・ω・)ノ))

 

で!!

 

🔶「宗教 親鸞聖人」の「浄土真宗」は・・・

「弥陀の本願力(他力)」で
「臨終一念の夕べ」に「仏の悟りをひらく」「浄土門」の教え。。。
((「信ずる心」も「修める行」も「仏さま」から「私」への回向です。。。(・ω・)ノ))

・・・ではある、のだけれども。。。

 

 

( ^ω^)・・・。

 

 

「世間一般」は・・・

というか「すべてのヒト」は。。。

「何をどうしたら幸せになれるのか?」

ってのは、

ゼ~ンゼンわからない「手探り状態」

だからさ。。。(´・ω・`)ショボーン

 

私が幸せになれない「原因」を!!

🔶「人知を超越した存在の仕業」と見て
  「その対象物」にすがる。。。

か、もしくは!!

🔶「私の努力の有無」と見て
  「自分の知識や経験で頑張って」生き抜く。。。

あたりに収まっちゃうのよねぇ。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

 

で!!

 

 

まぁ、「れおん」もそうだったんだけれど。。。

 

み~んな「この世界」に生まれおちた時点で。。。

すでに「因果の道理」の「環境下」にいて。。。

「純粋無垢な赤ちゃん」の時の!!

「アタマ真っ白」な「スケッチブック」に!!

「両親から」「先生から」「社会から」。。。

「全方向」から。。。

「努力すれば幸せになれるお ♡ ٩( ๑•̀o•́๑ )وムオー! 」

・・・って。。。

 

「勉強」や「運動」や「習い事」をして、、、

「他人より」「良い高校」に入って、、、

「良い大学」に入って「良い会社」に入って、、、

そんでもって「イケメンでお金持ちのヒト」と「結婚して」・・・ってな感じで。。。

 

ず~~~っと、ず~~~っと、今日まで、、、

「競争社会」を「勝ち抜いた先」に「幸せがある

・・・と「刷り込まれて」きているから。。。

 

 

「浄土真宗」は「(他力の)宗教」だよ!\( 'ω')/
何も変える必要のない「そのまま」のお救いだよ!\( 'ω')/
「幸せ」はもう既にココに届いているんだよ!\( 'ω')/

って言ったところで、ワケわかんなくて!! (ー∀ー;)ズガーン

 

「んなワケないじゃん!! 」ヾノ´-ω-`)アゥトアゥト
「それ「ただの怠慢」だよねぇ~。。。」ヾノ´-ω-`)アゥトアゥト
「「幸せ」になりたきゃ、とりあえず働けよ!」ヾノ´-ω-`)アゥトアゥト

って結局は、そ~いう方向にいっちゃうのよ。。。( ;∀;)ノ

 

 


だ~か~ら。。。

「浄土真宗」は、マヂで「わかりづらい」んよ~!!( ;∀;)ノ

 

 

「人間の思考」がフツーに!!

「実感として」「肌で感じる」コトができる
「因果の道理」という「環境」を深く信じて!!

「欲・怒・妬み」という「私の心(煩悩)」を克服する!!

 

それが「迷い」の「根本原因だ!」

・・・って

「わたし」によって「無意識に誘導」

させられちゃっているからさ。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

 

だ~か~ら。。。

「浄土真宗」は、マヂで「とっつきにくい」んよ~!!( ;∀;)ノ

 

 

だ~か~ら。。。

いっくら「宗祖」「親鸞聖人」が、

「教行信証」や「ご和讃」等の「御書物」で

「迷いの因は自力心だ!」

・・・と、おっしゃっていても、

「わたし」の「洗脳が深い」

・・・からやっぱり間違えてしまう。。。( ;∀;)ノ

 

・・・・・・・・・・・。

 

きっと。。。

「自力心だ!」って書いてあっても、そうは思えないんだろうね。。。

「人間のアタマ」には、イマイチ「ピンとこない」からさ。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

( ^ω^)・・・。

 

 

だ~か~ら。。。

ど~なるか!! っつーと。。。

 

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「浄土真宗親鸞会」「高森会長」の古巣の

「浄土真宗XX会」の現代表の「XX先生」は。。。

「昨年(令和3年)」の「勉強会の座談」のときに、
「迷いの因は「煩悩心」です!(๑•̀ •́)و✧キリッ」

((「煩悩心!?」って何よ?それ造語だよね?Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン))

・・・って、めっちゃハッキリ言っていたし。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

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「記事冒頭」の「阿部先生」の「YouTube動画」でおっしゃっていた

「本願寺派」の「めちゃくちゃ地位の高~いXX先生」も。。。

「迷いの因は「三毒の煩悩」です!(๑•̀ •́)و✧キリッ」

・・・って「全国布教使大会」で言っていたらしくて。。。<(゚ロ゚;)>ノォオオオオオ!!

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「真宗」の「布教」の「専門家」でも

こ~いうコトになっちゃうから。。。

 

もう、アタマ痛いわ~。。。((((_ _|||))))ドヨーン

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( ;∀;)ノナンデストー

 

 
いっくら「お聖教」が読めない「一文不知」の「れおんタン」でも・・・

「正信偈」の「書き下し文」くらいは、かろうじてわかるからね。。。( ;∀;)ノ

 

だって、あそこには「浄土真宗のお救い」の「内容」が!!

めっちゃ簡潔に書かれているじゃん!! (๑•̀ㅂ•́)و✧ 

 

「往還回向由他力 正定之因唯信心」
(往還の回向は他力による 正定の因はただ信心なり)

とかさ・・・

「還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入」
(「生死輪転の家に還来することは 決するに疑情をもって所止となす)

なんかは、さ・・・。

 

どう頑張っても

「迷いの因」は「煩悩」ではなく

「自力心」や「疑情」

って読めるんだけれどなぁ。。。(´・ω・`)ショボーン

なんでそうなるのかなぁ???

 

まぁ、結局のところはさ。。。(´・ω・`)ショボーン

 

「浄土真宗XX会」の現代表の「XX先生」も・・・。

「本願寺派」の「めちゃくちゃ地位の高~いXX先生」も・・・。

「自力」と「他力」のけじめがついていないから。。。

「「迷いの因」が何なのか?」

・・・ってのが、

「言葉としては」「わかっている」けれども。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

本当のところ、、、

「意味はまったくわかっていない」んじゃないのかなぁ。。。( ;∀;)ノ

 

・・・と思ってしまった今日この頃でした。。。(´・ω・`)ショボーン

 

以上で~~~す。。。

 

お~しまい!! ヾ(´▽`*;)ゝ"
 

 

なもあみだぶつ ♬ ヾ(=^▽^=)ノ

 

 

((最後におまけ~♪))

「一般的」にさ。。。

「仏教」には「聖道門の教え」と「浄土門の教え」があってさ。。。

◇「聖道門」は「私の(自力の)修行」によって「仏の悟りをひらく」

◇「浄土門」は「弥陀の本願力(他力)」によって「仏の悟りをひらく」

・・・な~んて言われているけれどさ。。。

 

「「ネタバレ」の世界」にいる「れおんタン」にとっては~♪

「私の修行」で仏の悟りをひらく「自力」「聖道門」の仏教も~♪

「弥陀の本願力」で仏の悟りをひらく「他力」「浄土門」の仏教も~♪

どっちも「他力の宗教」でした~♬ o(・∇・o)(o・∇・)o ヤッタァー!

 

(* ̄▽ ̄)フフフッ♪

 

「見る人」によって「自力」にも「他力」にもなる。。。

「ただそれだけのコト」なのよん。。。( ̄▽ ̄)v

 

結局「行きつく先」は~♪

み~んな「同じ」~♪

み~んな「他力」~♪

み~んな「一つ」~♪

み~んな「一味」~♪

ただそれだけのコト。。。( ̄m ̄〃)…!

 

それが「仏さま」から授かった「智慧」なのさ ♡ ♡ ♡(∀`*ゞ)テヘッ

 

 

d=====( ̄∇ ̄*)bイエーイd(* ̄∇ ̄)=====b


【雑記(その28)】「原点回帰」って、それドコに向かってんの?【後半】

2022-08-12 05:32:13 | 【雑記】

・・・ってコトで!!

 

「尻切れトンボ」で消化不良でしたが、さっそく「後半」に入りま~す!!(*^〜^*)ノ

 

((「れおん」の記事は「文字数」も「文字の装飾」も多いから、す~ぐ制限に到達しちゃうんよ。。。(´・ω・`)ショボーン))

((じつは、今までの記事も、いくつかあるんだよなぁ。。。(^▽^;)ノ))

 

 

「ブチ切れ案件(その3)」

・・・は「築地本願寺」の「YouTube動画」でたまたま見つけてしまったコレっす!!(lll-ω-)ズーン

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

・・・って、「れおん」がこの先生を取り上げるのは。。。

しっかり「真宗学を学ばれて」「ありがた~いお話をされる先生だからであって・・・。

そもそも・・・

「大半の先生」のお話は、

「元親鸞会会員」が聞いたら「聞くに堪えないお話」の方がほとんどだから。。。Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

そういう点では、「最後までお聴聞できた」「稀な先生」でございます。。。( ̄▽ ̄;)ノ

 

で!!

この先生のお話は「9割くらい」は、たいへんありがたかったんですが。。。

「最後の〆の部分」が「非常に衝撃的だった!」

・・・ので、思わず、取り上げちゃいました。。。(´・ω・`)ショボーン

 

ってか、別に「この先生」が「特別にヒドい」・・・とかじゃないからね。。。

たまたま「今回の記事」の「原点回帰」のテーマに「当たっちゃった」だけだから。。。

そこんとこ、勘違いしないでね。。。(´・ω・`)ショボーン

 

((・・・ってコトで、ちょ~っと、なが~い「文字起こし」になります。。。(^▽^;)ノ))

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信心がわからん。「わからん」とはどういうことか?
仏教、宗教全般に言えるかもしれないが、
浄土真宗というのは、仏さまと私の関係なんですよ。
私は仏さまを見る。仏さまは私に届く。これだけの話なんですよ。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
((う~ん。。。コレも、な~んか違うんだよなぁ。。。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ))

この仏さまってのいうのはね、客観的認識の対象にはならんのです。
見れるわけじゃない。内在的超越っちゅうてね、西田幾多郎が言いますけどね、
自分がどうなったら信心を頂いたことになるかを、客観的な目で見るんですよ。
これを捨てよというんです。
だからね、(因幡の妙好人の)源佐さんは、この客観的な目で見とったんです。
だから聞けば聞くほどわからん。納得はできないっちゅうことなんです。
で、ある日ね。源佐さん、牛のでんを連れて牧草地に刈にいくんです。
5束刈った。4束をでんに背負わした。で、自分が1束を担いだ。
でも、それも重かったから、「でんよ、すまんけどな、これも担いでおくれ」って、でんに渡したんですよ。
で、そんとき「ふっと、わからせてもろうたがいや。」と、こう言うんです。

あのね、「妙好人因幡の源佐」っちゅうのが、小さな本になってますが、
これね、「ふっと、わからせてもろうたがいや。」っちゅうのは、
何がわかったってのは、言うてないんですよ。
言うたらいかんのです。
言うたらいかんって、言えんのです。
でもね、布教師は言うんです。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
((「言うたらいかん」じゃないのよ!))
((「何が分かった」って「弥陀のお救いは(本当に)そのまんま」だったんだから、それ以上は言えねーっつーの!))
((「一実」「円満」之「真教」「真宗」「是れなり」そのまんま!!(笑)))

自分のすることは何にもなかったんだ、ってわかった。
何もかもおまかせするんだ、ってわかった。
自分は余計なものを背負っておったんだ、ってわかった。
お寺で散々聞いておった話が、ほんまもんになったんですよ。
何もかもおまかせだったってわかったっちゅうのは、だいたいここの視点(客観的な目)ですよ。
あのね、何もかもおまかせするというということは、こういうことだったんだ、とわかったんです。
そして、何もすることがないっちゅうことが、こういうことだったんだ。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
((「何もすることがない」は、間違えじゃないけれど、な~んか「ニュアンスが違う」かなぁ・・・と。。。))
((「わたしのはからいに(まったく)用事がなかった」って、ただそれだけのコトなのよ。。。(´・ω・`)ショボーン))

だから、これは言葉では言えんのです。←((「言えん」じゃなくて、本当に「そのまま」だから、それ以上「言わないだけ」じゃん。。。))
言葉で言うとウソになるんです。←((「ウソになる」じゃなくて、もし言ったら「あぁ、この人「自力心」なんだなぁ。」って思うだけだよ。。。))
これはね、浄土真宗の信心の一番難しい所。
だから覚知はあるけれども、その覚知模様を言うてしまったらね、第三者の世界になるんですよ。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
((「覚知模様」を(「凡夫の側」で)言うと「XX会」や「親鸞会」の「体験至上主義」になっちゃうから難しいね。。。(´・ω・`)ショボーン))

でね、源佐よ。信心いただいから、信心いただいて変わったことがあったかや?
と友達が聞くんです。
「あったともあったとも。」「何があったがや?」「みんな本物になったがいや。」
「みんな本物になったとは、お寺で聞く話が本当に聞こえてきた。」これが信心ですから。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
((「源佐」さんの「みんな本物になった」っていうのは、「お寺で聞く話」というよりも、むしろ、
「この世界を形成している万物すべてが仏さまだった!」それを「みんな本物になった」って言ったんじゃないのかなぁ。。。))

これは、XX和上が、「言わんがええ。坊さんは信心の話はせんがええ。
とこう言われてまして。
信心の話をしたら迷うんですねぇ。なんかわからんですけど。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
((たぶん、XX和上の趣旨は「(未信の)坊さんは信心の話はせんがええ。」だと思うんだけどね。。。))
((「(未信の坊さんが)信心の話をしたら迷う」からねぇ。。。(^▽^;)ノ))
((ついでに言うと「なんかわからんですけど。」って、ボソッと言っちゃうところで「この先生の信心」がわかっちゃいます。。。))

 

(( で!! ここから先の「〆の言葉」がキョーレツなんです。。。))

 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

だから、これはですねぇ。信心に入る方法はないんですよ。他力やから。
これはね、浄土真宗の信心の一番難しい所でありまして。
だから、これ以後一切、このたびは(他力)信心の話はしません!!
念仏の話だけです。それで、なんまんだぶ、なんまんだぶ、とお念仏。

 

・・・・・・・・・・・って。。。

 

工エー=͟͟͞͞(꒪ᗜ꒪ ‧̣̥̇)!?

((「(他力)信心」がない「浄土真宗のお話」って・・・それ「意味」あるの???))

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・・・ってコトで、

上述の「この先生のお話」の「ポイント」はコチラになります。。。

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①(他力の信心は)何もかもおまかせするんだ、ってわかった。
 「何もかもおまかせだったってわかった」っちゅうのは、だいたい客観的な視点。
 だけれど「何もかもおまかせするというということは、こういうことだったんだ」とわかったんです。

②(でも・・・)何がわかったってのは、言うてないんですよ。

言うたらいかんのです。
 坊さんは信心の話はせんがええ。
 信心の話をしたら迷うんですねぇ。
 だから、これ以後一切、このたびは(他力)信心の話はしません!!
 念仏の話だけです。

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シーー( ̄、 ̄*)ーーン・・・。

 

 

まぁ・・・。

こうやって、書き出してみると。。。

この先生の「言いたいコト」はわかるよ。。。

布教師が「他力信心の行者」とは限らないから、

「未信の布教師」が「他力信心の話」をしたら迷う。。。

((だから「余計なハナシ」は、しないのが無難だと。。。))

 

でもだからと言って!!

「信心の話」は「一切しない」

「念仏の話」だけです!!

・・・って、それは違うから!!!! (`・д・´)ノ

そんでもって。。。

その答えは、もう「大昔」に!!

とっくに出ているんだよ。。。

 

(´・ω・`) …。

 

お坊さんなのに、知らないの?

 

それがコレだよ。。。(´・ω・`)ショボーン

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

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YouTube動画【勧学 稲城選恵和上「蓮如上人御再興の意義」①】より抜粋

 

蓮如上人、七十五歳のときに「実如」という「五男」に「本願寺の九代目」を継ぐのでありますが、
この「実如」は、(畏れ多くて)嫌がるんです。
「ワシゃ、とても継いでいける自信がない!」って、嫌だって言うんです。
そりゃぁ、みなさんでも、ありますでしょう。
「あの親父さんが偉いけれども、子供はつまらん」
「あの親父さんはボケとるけれど、子供はしゃんとしておる」と。
あんまり「蓮如さん」がスゴいから、比較してましょうよ、中の人が。

ほいで「蓮如さん」はね。「実如」が嫌がるその時に「息子を叱る」んです。
「おまえはな、オレのやったとおりを、そのとおり真似せにゃならんと思うとるか?」
「そんなことは一つも考えんでもええ!」
「ただ、オレの残した御文(御文章)を、末の末まで伝えてくれ。」と。
「これ以外に浄土真宗はないんじゃ!」とおっしゃった。

これで、みなさんのウチにずっ~と「伝えられた」んです。
「御文(御文章)以外に浄土真宗の法門はないんじゃ!」と「御一代記聞書」にございまして。
「実悟」という方の御一代記聞書が残されている。
それで「実如」さんが、お父さんの後を継いで、
「御文章」を「お父さんの言う通りに実行した」わけ。
「円如」という息子と中心になって、
それで「みなさんの手元に入る」ようになったんや。
日本国中。これが大事なんですよ。

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・・・って。。。

これこそが「原点回帰」だと思うのですが。。。

ちがいますかねー??? (´・ω・`)ショボーン

 

 

以前からさ。。。

「本願寺にカネが集まらなくて困っている」

やら

「XXXXXの職員に夏のボーナスが出せない」

やら、そんなハナシを、どことなく耳にしているけれど。。。

「そりゃぁ、当然だよね。」・・・って思うわ。。。(´・ω・`)ショボーン

 

「れおん」の愛読書に「稲城選恵和上」

「念仏の土壌~他に臨終法話等」ってご本があるけれど。。。

 

「念仏の土壌」って。。。

「浄土真宗」の信心の花は、枯れてしまって・・・

もうすでに!!

「念仏の土壌」がどこにもありませんから!!Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

 

イマドキ、大真面目に「信心決定するために」!!

「後生の一大事を解決」するために「お聴聞」している集団って、

「浄土真宗 親鸞会会員」と「浄土真宗 XX会会員」くらいでしょ。。。(´・ω・`)ショボーン

 

そういう点では「浄土真宗親鸞会 高森会長の功績は大きい」のよ。。。

ワリと「恨んでいるヒト」が多いみたいだけれど。。。( ̄▽ ̄;)ノ

 

だからさ。。。

この先の「浄土真宗」の未来は、もうすでに

「親鸞聖人のみ教え」=「歎異抄」

・・・となっている時点で、

「自力」と「他力」の信心の「けじめがつかない」から

ハッキリ言って「ご安心をいただくのは絶望的」な状況になっていますが。。。

 

((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

 

でも。。。

せめて・・・せめて。。。

「後生の一大事」を解決したくて「お聴聞」しているヒトには、

この「蓮如上人」が残した

「御文章」の「一念発起平生業成の教え」=「本願成就の教え」

を聞いてほしいと願ってやまないのですよ。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

まだ「親鸞会」にいるみんな。。。

早く気づいてね。。。( ;∀;)ノ( ;∀;)ノ( ;∀;)ノ