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浄土真宗・他力信心の境地

「他力信心のお味わい」を「お聖教の引用」ではなく「私の言葉」で書き連ねています。

「お聴聞」が楽しすぎるぅぅぅ♡(≧∇≦)ノ・・・の追記

2022-01-09 05:42:05 | 【他力信心のお味わい】

・・・ってコトで!!

 

「れおん自身」の「他力信心」の「お味わい」から「お聖教」を読んでいくと。。。

 

じつは・・・。

「お聖教」の現代語訳が・・・さ。。。

「他力信心のお味わい」に一致しない!!

・・・モノがある!!

・・・ってコトに・・・気がついてしまいます。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

・・・・・・・・・・・。

 

( ^ω^)・・・・・。

 

 

たとえば、前回の記事の・・・。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜

 

「法然上人」が「お念仏」を称えているときが、めっちゃ楽しかったって。。。

めっちゃわかるわ~。。。((o(。>ω<。)o))

だって、そうだもんね。。。

ただ「単純」に「楽しい」から「称える」んだよ。。。(≧∇≦)ノ

そんでもって、「れおん」たちが、あっちこっちに「お聴聞」しに行くのは・・・

ただ「単純」に「楽しい」から「お出かけする」んだよ。。。(≧∇≦)ノ

ただそれだけのことなんだよなぁ。。。(*´∀`*)ゞ

 

.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜

 

・・・って、「法然上人」が「お念仏」をめっちゃ称えられていたコトも。。。

「他力信心のお同行たち」が、各地のお聴聞に出かけているのも。。。

結局、「根っこ」はみ~んなおんなじなんだよなぁ。。。(≧∇≦)ノ

 

ただ「単純」に「楽しい」から。。。

ただそれだけのこと。。。

いたって「シンプル」な「お味わい」です!!( ̄▽ ̄)v

 

なので、そういう境地から「コレ」を読むとさ・・・。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

御一代記聞書(130)の

ひとつのことを聞きて、いつもめづらしく初めたるやうに、信のうへにはあるべきなり。

ただ珍しきことをききたく思ふなり。ひとつことをいくたび聴聞申すとも、

めづらしく初めたるやうにあるべきなり。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

の現代語訳が!!

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

信心をいただいた上は、同じみ教えを聴聞しても、

いつも目新しくはじめて耳にするかのように思うべきである。

人はとかく目新しいことを聞きたいと思うものであるが、同じみ教えを何度聞いても、

いつも目新しくはじめて耳にするかのように受け取らなければならない。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

・・・って、なっていて。。。

な~んか・・・ちがうんだよねぇ。。。(´・ω・`)ショボーン

 

この「御一代記聞書」に書かれている「べき」とか「すべき」ってさ。。。

「現代語訳」の「〇〇すべきである!!」

「現代語訳」の「〇〇しなければならない!!」

・・・の「義務」とか「強制」の意味になること自体がおかしくて。。。

コレって・・・。

「れおん」の「他力信心」の「お味わい」とは、まったく正反対で。。。

もし、この部分を「現代語」に置き換えるなら・・・。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

信心をいただいた上は、同じみ教えを聴聞しても、

いつも目新しくはじめて耳にするかのように自然とそうなるのである。

人はとかく目新しいことを聞きたいと思うものであるが、同じみ教えを何度聞いても、

いつも目新しくはじめて耳にするかのように自然とそうなるのである。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

・・・って、なっちゃうんだよねぇ。。。(´・ω・`)ショボーン

 

あとは・・・。

「蓮如上人」の「御文章」も・・・やっぱりおんなじことで。。。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

たれの人もはやく後生の一大事を心にかて、

阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。

とか、

このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、

往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、

わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。

【現代語訳】

この上にどのように思って念仏申すべきかといえば、

往生は今の信心にそなわった如来真実のはたらきによってすでに定まったのであって、

おたすけ下さったことのかたじけないご恩を報謝するために、

自分の命のあるかぎりは報謝のためと思って念仏するのがふさわしいことです。

も。。。

直訳すれば、そうなるんだろう・・・けれど。。。

これも・・・やっぱり・・・。

自分の命のあるかぎりは報謝の念仏が自然とそなわるのです。

・・・って、なっちゃうんだよなぁ。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

・・・ってコトで!!

 

「他力信心の行者さん」は・・・。

「阿弥陀様」の「仏智」を賜るので・・・。

「一文不知の尼入道」でも、

そんな「現代語訳」の「違和感」に気がついてしまうのでありまする。。。(´・ω・`)ショボーン

 

 

(((^▽^;)ノハハハハハ・・・。って、別の言い方をすれば・・・、

「浄土真宗のエラ~い先生」の「信心」が「自力か他力か?」って、

じつは、こういうトコロで「も」バレちゃっているのです。。。( ̄▽ ̄;)ノ))

 

 

なもあみだぶつ ⤵ なもあみだぶつ ⤵ ( ̄д ̄)r-oO...ハァ


「お聴聞」が楽しすぎるぅぅぅ♡(≧∇≦)ノ

2022-01-06 05:32:02 | 【他力信心のお味わい】

去年のハナシになりますが。。。

2021年12月19日(日)に、

主人と二人で「岐阜県本巣市」の「慶円寺」に行ってきました。。。(*´▽`*)ノ

 

こちらの地域は、「れおん夫婦」とは、縁もゆかりもない土地なのですが・・・。

「それじゃぁ、なぜ行くのか?」・・・って言いますと。。。

 

(= ̄∇ ̄=) ニヤ (= ̄∇ ̄=) ニヤ (= ̄∇ ̄=) ニヤ~♪

 

えっへん! それは、もちろん!! ( ̄▽ ̄)v

 

親鸞聖人のみ教えを正しくお話してくださる「阿部信幾先生」

・・・が「お話をされる」から、お出かけしたんですよ~!!ヾ(*´∀`*)ノ

 

だってさ~♡

「阿弥陀様のお救い」のお話が楽しいんだもん♡(≧∇≦)ノ

そんなの至極当然のことよ~♡ (๑•̀╰╯-)و.。.:*✧

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

・・・ってコトで!!

あたり前田のクラッカー♡ (^^♪

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

「てなもんや三度笠(1962~1968年放送)の藤田まことさん」

 

((・・・って、そんな「古いネタ」ぶっこむなよっ!?Σ(Д゚;/)/ ゲッ!))

((もう、知らないヒトの方がほとんどなんだよねぇ。。。(lll-ω-)ズーン))

 

・・・・・・・・・・・。

 

(¯―¯٥)ノノ(¯―¯٥)ノノ(¯―¯٥)ノノ ・・・。

 

・・・・・・・・・・・。

 

・・・ってコトで、話は変わりまして・・・。(^▽^;)ノ

一応、所在地を載せておくと・・・ですねぇ。。。

さすがは「ネタ職人」泣かせの「岐阜県」!!

目印も目立つポイントも、な~んもナッシング~!! Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

「浄土真宗親鸞会 岐阜会館」周辺散策時のときと同様で・・・。

な~んもなさすぎて「広域地図」になっちゃいました。。。(´・ω・`)ショボーン

 

でもね!! 聞いて聞いて ♡♡♡

ココは、めっちゃくちゃスゴい土地柄なんだ・・・(」゚O゚)」よぉ───!!

だってね。。。

「れおん」は昔、「浄土真宗親鸞会の親友部」にいたけれど。。。

ここ「岐阜県本巣郡一体」は、めっちゃくちゃ「親鸞会のアニメ」が売れたんだ!!(*^。^*)ノ

なので、その販売状況を知っているだけに!!

「浄土真宗」がとっても浸透した「ご縁の深~い土地柄」なんだなぁ。。。

・・・って、行く前から、参詣するのがちょっと嬉しくなっちゃいました。。。(*^_^*)ノ

 

 

さてさて。。。

そんな「れおん」にとっては、

「まったく面識がないお寺」の「ザ・突撃!ゲリラ報恩講」なのですが・・・。

やっぱり、「阿弥陀様のお救い」に「出遇ったヒト」ってのは、

なぜか!おんなじ行動パターンをとるもので。。。(^▽^;)ノ

「れおん夫婦」の他に、「Tお同行」と「Hお同行」が、前日からすでにいて。。。

さらに、「埼玉県にお住いの「RCさん」」

・・・までもが、すでにいて。。。

!!( ゚Д゚)ノ < ナンデストー!!

 

・・・ってな感じで!!

思わず「親鸞会」で聞いた「おうた」

「いつも来る いつもの人が いつもする いつものハナシ いつも尊い」

をアレンジした・・・

「いつも来る いつもの人が ここもいる いつものお同行 いつも尊い」

という「パロディー」が、いきなり頭の中をグルグルしちゃいましたよ。。。(´・ω・`)ショボーン

 

まぁ・・・。傍から見たら、呆れるくらい・・・

みんな、ホントに「お聴聞」が好きだよねぇ。。。(←そういうアンタもねっ!┐(*´~`*)┌ ヤレヤレ)

 

((だって。。。「なんの宣伝」もしていなかったのに、県外からゾロゾロ訪れて・・・。

・・・「慶円寺のご住職さん」が、めちゃくちゃビビっていましたから。。。(^▽^;)ノ))

((「コイツら、アホちゃう?」・・・みたいな感じなのかなぁ。。。(;´∀`)…うわぁ…。))

 

 

しかも、雪が舞って寒いのに、よ~出かけるわ! (¯―¯٥)ノノ

・・・てな感じで、(自分も含めて)失笑してしまいましたとさ。。。ꉂ(ˊᗜˋૢ)あははは・・・

 

((もう、感覚がマヒして、ただのアホの部類に入ってますな。。。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…))

 

・・・ってコトで!!

 

なんやかんやで、ずいぶんと前置きが長くなってしまったのですが・・・。

今日の本題は。。。

この「報恩講」での「阿部先生のお話」で、

「一番に印象に残ったコト!!」

・・・というか

「そうそう!それそれ!!(≧∇≦)ノ」

・・・って、思った「嬉しいお言葉」をご紹介したいと思いま~~~す。。。(*^▽^*)ノ

 

以下、「阿部先生のお話」の一部です。。。(*^_^*)ノ

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜

 

「親鸞聖人」のお師匠様の「法然上人」は、一日に「六万遍」の「お念仏」をされていました。。。

この「六万遍」というのは、「食事」や「ご法話」などで、お弟子さんに呼ばれるまでしていました。。。

・・・ということで!!

この「六万遍」というのは「上限を六万遍」としていただけで、

「諸事情」がなければ、いつまでも「お念仏」をされていた・・・というコトで。。。

さらに晩年は、一日に「七万遍」の「お念仏」をされていました。。。

 

.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜.☆.。.:*・゜

 

・・・と【うろ覚え】ですが、そんな感じで聞かせていただきました。。。(*^▽^*)ノ

 

そして、極めつけは、次の一言!!( ̄▽ ̄)v

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「阿部先生」曰く・・・

「いやぁ。きっと、楽しかったんだろうねぇ。」

 

・・・ってさ。。。☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

 

 

(* ̄▽ ̄)フフフッ♪

 

 

じつは「この気持ち」ってさ・・・。

「18願の行者さん」全員に共通する「お味わい」

・・・なんだよねぇ。。。o(★≧∇≦)o゛

 

「法然上人」は、「お念仏」を称えているときが、めっちゃ楽しかったって。。。

それ、めっちゃわかるわ~。。。((o(。>ω<。)o))

だって、そうだもんね。。。

ただ「単純」に「楽しい」から「称える」んだよね~。。。(≧∇≦)ノ

 

そんでもって、「れおん」たちが、あっちこっちに「お聴聞」しに行くのは・・・

ただ「単純」に「楽しい」から「お出かけする」んだよね~。。。(≧∇≦)ノ

 

ただそれだけのことなんだよなぁ。。。(*´∀`*)ゞ

 

だから結局は、「弥陀のお救い」に「出遇ったヒト」たちは・・・

「阿弥陀様のお救いのお話」を「縁に触れ」「折に触れ」・・・

「いつでも」「どこでも」楽しんでいるんだよ。。。(^▽^;)ノ

 

 

「弥陀のお救い」を正しく「お話しされる先生」は・・・

「いつも来る いつもの人が いつもする いつものハナシ いつも尊い」

「弥陀のお救い」に出遇った「お同行たち」は・・・

「いつも来る いつもの人が ここもいる いつものお同行 いつも尊い」

そして・・・

「いつも来る いつもの人が いつもする いつものハナシ いつも楽しい」

 

 

「いつも来る」「いつもの人が」「いつもする」

 

「弥陀のお救い」「いつも嬉しい」ヾ(*´∀`*)ノ

 

 

なもあみだぶつ♬ なもあみだぶつ♬ ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆


お同行の「コメント」を貼ってみました♪ ( ̄▽ ̄)v

2021-10-29 05:32:30 | 【他力信心のお味わい】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弥陀の救いは、いまの救い。。。

「本願成就」を聞いたなら。。。

「後生」はビックリ「仏さま」。。。

 

ず~っと前から届いていたよ。。。

「善人」「悪人」関係ないよ。。。

ホントにビックリ「南無阿弥陀仏」。。。

 

届いているよ「南無阿弥陀仏」。。。

届いていたよ「南無阿弥陀仏」。。。

「れおん」が気付かなかっただけ。。。

 

「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」。。。

届いたそのまま「お念仏」。。。

「ありがとう」の「お念仏」

「本願成就」がいつも嬉しい。。。

 

 

なもあみだぶつ♬

なもあみだぶつ♬

救いが先手の「南無阿弥陀仏」♬

 

なもあみだぶつ♬

なもあみだぶつ♬

いただくばかりの「南無阿弥陀仏」♬

 

なもあみだぶつ♬

なもあみだぶつ♬

今がしあわせ「南無阿弥陀仏」♬

☆*ヾ(-∀・*)*+☆


「ご安心」やすきこころは「安らかなこころ」

2021-10-17 05:25:57 | 【他力信心のお味わい】

ここ最近、「れおん」が耳にした言葉に・・・

「XXさんは、まだ「後生に安心ができていない」みたいですが、

欠かさずお聴聞されていますよ。。。」

というのがありまして。。。( ̄▽ ̄;)ノ

 

・・・で!! ですねぇ。。。

 

この「後生に安心ができている(いない)」なのですが、

この言葉を「れおん」が「パッ」と見たとき、

や~っぱりアレを連想しちゃいましたよ。。。(^▽^;)

以前書いた記事。。。

質問自体がおかしいっす(´・ω・`) - 浄土真宗・他力信心の境地 (goo.ne.jp)

の・・・

【「私の心の中」に「何らかの変化」を「探すこと自体」が「私のはからい」です】

【「私の心の中」に答えを探しているのは「聞き間違い」なんです】

コレかなぁ・・・と。。。( ̄▽ ̄;)ノ

 

・・・というのは、

「後生に安心ができている心」

って・・・。

「他力信心」の「お同行」も何気な~く「日常会話」で言っていて、

「RCさん」なんか、ぜ~んぜん気が付いていない感じなのですが。。。

 

でも実は、この言葉って・・・。

かなりの「クセモノ」

なんですよねぇ。。。╮(︶﹏︶")╭


多分・・・だけど、「れおん」たちが思っている「安心(あんしん)」

「自力心」の人や「なんちゃって他力信心」の人が言っている「安心(あんしん)」は・・・。

 

おそらく!!

おそらく!!!

おそらく!!!!

 

ゼンゼン違う!!(ことを思い描いている)

・・・と思うんですよねぇ。。。(´・ω・`)ショボーン


「真実信心」全般に言えることなのですが・・・

・体験の有無

・歓喜の有無

・疑心の有無

そんでもって

・後生安心の有無

これ、ぜ~んぶ!!

「自分側」に持ってきたら「間違い」ですから。。。

 

・・・・・・・・・・・・・・。

 

|||||ガ―∑(。´・ロ・。`||||)―――ン||||||

 

だってさ。。。

「わたしの体験」なんて当てにならないし。。。

それに「今この瞬間」以外は「幻」なんだよ。。。

(ってか「この瞬間」自体も「幻」だけどさ。。。)

「ついさっきの出来事」って言ったって・・・。

「思い出」なのか「錯覚」なのか、わからないじゃん。。。(´・ω・`)ショボーン

「歓喜の心」つったってコロコロ変わるし。。。

そりゃ、「れおん」は、別世界に飛び出したときは正直ビビったし、

「今」「お救いに遇っているこの状態」は!!

そりゃ~「めっちゃくちゃ嬉しい!!\( 'ω')/」けれど。。。


でも、それは。。。

「救いは、もうず~っと昔から届けられていたんだ!」

・・・って「知ったから出てきた喜び」であって!!

わたしが(たとえば罪悪を知らされて)無理やり作り出した喜びじゃない。。。(´・ω・`)ショボーン


それに「れおん」もよく・・・

「救われたら歓喜の心がなきゃおかしいじゃん!!」

・・・って「お同行たち」と話をするけれど。。。(^▽^;)ノ

だからって、

「歓喜がなきゃダメなのか!」

・・・って言われたら、そういうワケでもない。。。( ̄▽ ̄;)ノ

「疑心」だって・・・

「「弥陀の本願への疑いの有る無し」を問題にしている人」

・・・が、めっちゃくちゃ多いけれど。。。

 

つまるところ・・・。

「弥陀の本願へ疑い」云々じゃなくて、

「「私を当てにする心」がなくなった状態」が、

結果として「疑心(はからい)あることなし」

なんだからさ。。。(^▽^;)ノ

 

「後生安心」だってそうなんだよ。。。(*´▽`*)ノ

「私はまだ安心ができていません!とか

「私はまだ大丈夫になっていません!」とか

「なんとか聞き抜いて安心します!」とか。。。

 

「仏願の生起本末」を聞いて・・・。

私の心を「こう変えよう」「ああ変えよう」

「安心しよう」「大丈夫の身になろう」

・・・ってさ。。。

 

「あなたのはからいは要らないよ」

「付け足すものは何もないよ」

・・・って、そう言っているのに。。。

 

おもっきし【私の行為】を付け足そうとしていませんかね~?

 

=(´□`)⇒グサッ!

==(´□`)=⇒グサッ!

===(´□`;)==⇒グサッ!

 

だからさ。。。

「私が聞いて安心しに掛かる」んじゃないんです!!

「安心が出来上がっている法」を私が聞くんです。。。

「安心が出来上がっている法」を知って喜ぶんです。。。

「安心が出来上がっている法」を知って疑心がなくなるんです。。。

「安心が出来上がっている法」を知って安心するんです。。。

「安心が出来上がっている法」を知って嬉しくてお念仏するんです。。。

そこに「私の心」が入る余地はありません。。。

 

「安心が出来上がっている法」って、それは「弥陀の本願成就」ですよね。。。

 

だからさ。。。

 

「弥陀の本願は成就しているから、わたしのはからいは要らないよ」

 

これが「浄土真宗」の結論なんです。。。( ꈍᴗꈍ)ノ

これが「親鸞聖人のみ教え」の結論なんです。。。( ꈍᴗꈍ)ノ

これが「釈尊出世本懐のみ教え」なんです。。。( ꈍᴗꈍ)ノ

七高僧方は「これ一つ」を説かれたんです。。。( ꈍᴗꈍ)ノ

 

蓮如上人いわく。。。

この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。

されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。

さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。

あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。

『御文章二帖目第七通』

 

親鸞聖人がおっしゃった【一念の「信心」】を。。。

蓮如上人は【一念の「安心」】だと置き換えた。。。

 

「信心」の「信」は「まこと」の心。。。

「安心」の「安」は「やすき」心。。。

「やすきこころ」は「「安い」こころ」じゃないよ。。。

「やすきこころ」は「「安らかな」こころ」だよ。。。ヾ(*´∀`*)ノ

 

親鸞聖人がおっしゃった「信心」は「他力信心」の「体」だよね。。。

蓮如上人がおっしゃった「安心」は「他力信心」の「相」だよね。。。

「体」と「相」って「水」と「波」の関係だよね。。。

どっちもおんなじ「他力信心」で「同義語」なんだよね。。。ヾ(*´∀`*)ノ

 

弥陀から賜った「信心」は「まことのこころ」。。。

「まことのこころ」は「やすらかなこころ」。。。

「やすらかなこころ」は「わたしのはからないのない」「機受の無作」なんだよね。。。ヾ(*´∀`*)ノ

 

ゆえに「わたし」は「南無阿弥陀仏」にこころとられて、

「おまかせ」して「はからわれて」「生かされて生きている」んだよね。。。ヾ(*´∀`*)ノ

 

なんて安心。。。

安らかなこころ。。。

それが「ご安心」なんですよ。。。☆*ヾ(-∀・*)*+☆

 

なもあみだぶつ♬ なもあみだぶつ♬ ヾ(´▽`*;)ゝ"


「真実」を知る「お智慧」をいただきました♡

2021-09-05 10:07:32 | 【他力信心のお味わい】

「阿弥陀様」に救われると「真実」を知る「お智慧」をいただきます。。。(・ω・)ノ

 

それは・・・。

 

「アタマ」が良かろうが悪かろうが、

「才能」があろうがなかろうが、

「学歴」があろうがなかろうが、

「深い教学」を知っていようがいまいが、

「救われた体験」があろうがなかろうが、

「上手なお話」が出来ようが出来まいが、

 

「阿弥陀様」のお救いに遇ったなら「全員」いただきます。。。(・ω・)ノ

 

逆に・・・。

救われていないのなら「真実」がなんなのか、わかりません。。。

 

「阿弥陀様」に救われると「真実」を知る「目」や「耳」をいただきます。。。(・ω・)ノ

 

逆に・・・。

救われていないのなら「歪んだ現実」を「真実」だと錯覚しています。。。

「真実」がわからない「歪んだ私」の「目」や「耳」で、

「歪んだ現実」を「真実」だと「疑いなく」「自信一杯」生きています。。。

 

「阿弥陀様」に救われると「真実」を知る「お智慧」をいただきます。。。(・ω・)ノ

 

「弥陀の本願が成就」して出来上がった「願行具足」の「南無阿弥陀仏」は「弥陀の智慧」です。。。

「自力のバリア」がなくなった時点で「南無阿弥陀仏」が「満入」します。。。

「わたしのはからい」が廃った時点で「弥陀の智慧」が「満入」します。。。

 

「阿弥陀様」に救われると「真実」を知る「特別なお智慧」が身につきます。。。(・ω・)ノ

 

「自力のバリア」がなくなると、「分別智の私」の中に「無分別智の南無阿弥陀仏」がなだれ込んで、

「南無阿弥陀仏」が「わたしの身体」を「活動の場」として常にはたらきます。。。

その状態を「信心決定」とか「信心いただいた」というのです。。。

「弥陀の智慧」が「満入」するので「真実」を知る「特別なお智慧」が身につきます。。。

 

でも・・・。ごくごくたま~に。。。

【「南無阿弥陀仏に疑いない」からといって「特別なお智慧が身につく」わけではない!】

・・・という方がいらっしゃいます。。。

では、その方は、どうして「弥陀の呼び声」が聞こえたのでしょうか?

 「「自分の信心」と「親鸞聖人の信心」は同じだ!」って、どうしてわかったのでしょうか?

「お聖教に書いてあるから」と、そう言うならば・・・。

お聖教を読めない「れおん」は、「親鸞聖人と同じ信心だ!」って、どうしてわかったのでしょうか?

「この空間がすべてが「南無阿弥陀仏」で出来ていて、

この世界は「阿弥陀様のお慈悲」で溢れかえっている。。。」って・・・。

どうして「れおん」は、そんな「お味わい」が出てきたのでしょうか?

 

・・・・・・・・・・・・・・。

 

まぁ、そういうことなんです。。。

「真実」を知る「目」や「耳」を「阿弥陀様」からいただいたからわかるんです。。。

それを「(他力)信心いただいた」っていうのです。。。(・ω・)ノ

「他力信心の境地」は・・・。

「キレイな景色」をボーっと眺めているような、「赤く燃える焚火」をボーっと見つめるような、

「無疑心」を装った「疑いの心」ではないのですから。。。(´・ω・`)ショボーン

 

なので・・・。

【「南無阿弥陀仏に疑いない」からといって「特別なお智慧が身につく」わけではない!】

・・・という「お味わい」の方は、

そう言っている以上「無分別智の南無阿弥陀仏」を「自らはねつけている状態」と思われます。。。

 

「無分別智の南無阿弥陀仏」が「わたしの中」ではたらいている状態が、

「「真実」を知る「目」や「耳」をいただく」ってことなのですから。。。

 

・・・ということで。。。

【「南無阿弥陀仏に疑いない」からといって「特別なお智慧が身につく」わけではない!】

・・・という「お味わい」の方のその先の、延長線上を辿っていくと。。。

 

助かったかどうか?は・・・

 分別の世界を超えたかどうか?は・・・

解脱したかどうか?は・・・

結局のところ

【死んでみないとわからない】 という

「臨終来迎」を待つ「20願の行者さん」

ということになります。。。(´・ω・`)ショボーン

 

なもあみだぶつ⤵ _| ̄|○i||