第四章 石見産銀の輸出と港湾都市の発展
後世の『銀山旧記』が伝えたものとして、1526年、銅を得るため西日本海を航行していた博多商人の神屋寿禎(じゅてい)が石見銀山を発見した話がある(石見銀山の再発見は1527年のこととも考えられるという)。この発見は、日本列島はもとより、東アジア、ひいては世界史に大きな変化をもたらした。すなわち、中華帝国は基軸通貨として銀を渇望し、銀産出地域に莫大な富をもたらすことになるからである。朝鮮半島由来といわれる灰吹法(はいふきほう)が生産効率を高め、1540年代以降、日本から大量の銀が輸出され始めた。石見銀山を先駆として、16世紀の日本は、日本海側を中心に銀山開発を進め、日本海水運を活用して、銀を中国に輸出した。
鉱山都市は資源の消耗による盛衰をまぬがれないので、時代が変われば痕跡をたどるのは容易でないが、16世紀の石見銀山は、今日では想像もつかないほど巨大な都市であったと考えられる。石見銀山には、列島規模で人々が移動して集住し、一大消費地として商品も大量に流入してきた。16世紀の日本列島は、激動の時代であった。というのは、日本は世界有数の銀産出国となり、鉱山資源の物流・商品の流通構造・社会構造の変化をもたらしたからである。
そして、その影響は島根半島にまで及び、その西端の宇龍浦(出雲市大社町)には、16世紀半ば頃から、従来にない遠隔地からの船が次々と現れる。たとえば、1561年の尼子義久袖判奉行人連署奉書には、宇龍浦に「北国舟」(近世初期に日本海海運の主役となった北東日本海海域の船)や「唐船」(いわゆるジャンク船と呼ばれる中国の遠洋航海船)が着岸し始めていることが記されている。また、1563年の同文書には、北国船ばかりではなく、因幡や但馬の船も着岸していることが裏付けられる。さらに、この現象が宇龍浦だけでなく、杵築にも多数の「北国舟」が着岸した。因幡や但馬の船についても、美保関には古くから入港していたと推測されるが、西日本海において遠隔地間を行き交う船舶数が増加し、入港実績のない港への着岸事例が増えた。
また、1552年に尼子晴久が杵築大社国造北島氏に命じた杵築法度に、「杵築領へ船付候時」という一条が設けられていたが、1558年に尼子晴久が命じた杵築法度からは、新規着船に関する条文が見られなくなる。この点については、着岸数の増加により、逐一報告を義務づけること自体が現実的ではなくなったことと解釈している。
さらに、1575年の石見国温泉津・浜田には、南九州の「船衆」「町衆」が滞在しており、山陰地域に産する銀・鉄・銅などを求めて遠隔地からの船が日常的に着岸していた。
「唐船」=ジャンク船には、明の海禁政策をかいくぐる明人密貿易商人をはじめ、朝鮮人、ポルトガル人あるいは「倭寇」といった多国籍の海上勢力などが乗船していたであろう。16世紀の世界は、ヨーロッパ史でいう「大航海時代」に入っており、日本から大陸への銀の流れを契機として、東アジアでも物流が飛躍的に活性化した。そのような変化は、西日本海地域において表出された可能性が高い。
次に視点を日本の外側に移し、明・朝鮮の文献に現れる港湾都市群を検討している。15世紀後半の『海東諸国紀』と、16世紀半ばの『日本図纂』『籌海図編』を比較することによって、16世紀後半とそれ以前とでは、西日本海地域に関する海外情報は、大きく変化していることを明らかにする。
『海東諸国紀』(1471年)は朝鮮人の申叙舟(シンスクチュ)による対日外交の手引書である。そこには「出雲州美保関郷左衛門大夫藤原朝臣盛政」「三尾関(美保関)浦」など具体的な地名・人名が記されている。人名について実在したか不明であるが、地名は実在した海辺諸勢力の基盤がほとんどであると推測し、美保関は中世西日本海水運において卓越した位置を占める港なので、記載されたとみる。
『海東諸国紀』記載地名の特徴は、日本語の漢字表記を前提とするものが多い点にある。表音表記の漢字に置換した例はほぼ対馬・壱岐に限られ、それ以外は書かれた文字情報に依拠しているという。著者申叙舟は訪日経験もあり、地名の読み方を一切知らなかったとは思えないが、『海東諸国紀』においては、交流が密接な地域を除き、地名の読み方自体が切実には必要とされていなかったであろう。
一方、16世紀の明においては、「倭寇」対策のための日本研究書が著されたが、中でも日本のイメージに大きな影響を与えたのが、鄭若曾(ていじゃくそう)の手になる『日本図纂』(1561年)と『籌海図編』(1562年)である。これらに記された西日本海沿岸の地名事例は、表音文字「寄語」で表している。それらは出雲国富田のような政治的中心地などは記載されておらず、ほとんどが港や港町の名前である点に特徴がある。日本語表記を基本とした『海東諸国紀』とは異なり、『日本図纂』と『籌海図編』の「寄語」地名は、明人が耳で聞いた地名の音を、表音表記に置き換えて記載したものと考えられる。中でも山陰海岸の地名は、記載順までも正確であり、申叙舟と鄭若曾の編纂目的がよくわかる。
間接情報に基づくこれらの記述内容には、たとえば波根や刺賀(さつか)を出雲国と誤認しているような事例が示すように、誤記・誤認が見られる。地名の選択にも偶然性が介在していることは否定できないとしても、16世紀の半ばに至り、この程度にまで港湾情報が入手できるようになった点に注目すれば、銀の輸出を契機として、西日本海を含む東アジア海域全体の物流が活発化し、すでに物流拠点として叢生していた港湾都市群が全体的な発展を遂げていた可能性をうかがわせる。16世紀後半の日本列島は港湾都市全盛の時代を迎え、安来・白潟・平田の発展も、こうした歴史的文脈の中に位置づけられる。白潟などの拠点的港湾都市が発展したことは、中世西日本海水運の基幹的港湾だった美保関の役割にも大きな変化をもたらした。海域全体からみれば、美保関以外にも多数の拠点的港湾都市が活発な商業取引の場になっていた。さらに、中世の宍道湖・中海内水面交通において、中海西南岸地域が相対的に後退していく契機となったと考えている。この点に関しては、1562~66年の毛利氏による出雲国侵攻、1569~1571年の尼子勝久による尼子再興戦は、攻防の舞台が八幡津・馬形など中海西南岸地域よりも、白潟・末次のある宍道湖東岸地域へ比重を移していることからもわかる。
毛利氏と尼子氏との1570年の布部合戦(旧能義郡布部)で戦利した毛利輝元は、意宇郡日吉(松江市八雲町)に着陣し、白潟を悉く放火した。このことから、毛利氏にとって白潟は、いち早く制圧すべき目標であった。つまり大橋川両岸の島根半島中央部をおさえることが、出雲国との戦争の帰趨を分ける点で同じであり、攻防の焦点は、八幡津・馬形よりも、白潟・末次方面に移ったと考えている。これらは16世紀半ばが大きな転換期の一つであったことを裏づける(73頁~84頁)。
<おわりに―近世城下町と藩領経済形成の歴史的前提―>
かつての日本海沿岸には潟湖が存在し、その多くは近世以降に埋め立てられ、内部に流通の結節点である「港」「湊」「津」「市」が形成された。中海・宍道湖などの内海が集中していたため、古代以来「内水面の日常的交流・物流」が展開した地域であったことは、『出雲国風土記』の記述や遺跡からうかがえる。西日本海沿岸地域全体から見た場合、島根半島はその中央部に位置したため、「日本海を介した遠隔地間交流」において重要拠点となりうる地理的条件を備えていた。古代においては、その交流は偶発的・断続的で稀であったが、「内水面の日常的交流・物流」とも結びつきながら、古代以来、確実に存在したと推測しうる。
本書の結論は、そのような「内水面の日常的交流・物流」が、中世における「日本海を介した遠隔地間交流」の大きな変化(日常化・緊密化)から色濃い影響を受けて活発化・広域化し、外海・内海沿岸にいくつものの拠点的港湾都市を生み出したことが、島根半島中央部に松江城下町が形成された重要な歴史的条件・背景をなしていたのではないかという。換言すれば、松江城下町形成の歴史的条件・背景に関して、中世における「日本海を介した遠隔地間交流」の日常化・緊密化から影響を受けた「内水面の日常的交流・物流」が活発化・広域化し、拠点的港湾都市を生み出されたことに求められると推察している(85頁~86頁)。
中世における「日本海を介した遠隔地間交流」の変貌を全体的にとらえるために、中世西日本海水運の4つの要素に注目した。すなわち、
(A)海を介した遠隔地間交流
(B)近海を介した日常的な局地的地域内流通
(C)海を介した京上年貢輸送路
(D)大陸と山陰海岸との通交である。これらの4つの要素の歴史的性格については、(A)(B)は、古代から存在した交流・物流で、(C)は、中世成立期から形成されはじめた公的性格の強い物資輸送ルートであり、(D)は15世紀に一挙に拡大した公的な通交関係である。なお、(C)(D)は、広義には(A)の一部を構成するがその一断片にすぎず、(A)(B)の多くは史料にも残されないような私的な交流・物流であった。
内水面や海を介した日常的な局地的地域内の交流・物流や、日本海を介した遠隔地間の広域的で断続的交流は、古代から連綿と続いてきた。中世の西日本海地域では、それらを大前提として、次の3つの画期を経ながら、内水面をも巻き込み、水運の様相が変貌を遂げていく。
1 中世荘園年貢輸送体制の成立がもたらした廻船ルートの形成
2 14~15世紀における日常的交流・物流の拡大
3 16世紀後半の東アジア経済圏の活況と日常的交流・物流の広域化
11~12世紀の荘園公領制が形成されると、公的性格を併せ持つ(C)海を介した京上年貢輸送路が用いられ始めたが、美保関に象徴される中世西日本海水運が形成されたと考えられる。それを契機として、廻船ルートが形成され、(A)海を介した遠隔地間交流が活発化し始めたことを第一の画期としてとらえる。
15世紀には、公的な(D)大陸と山陰海岸との通交事例も確認されるようになる。(C) (D)の成立は、古くから存在した(A)海を介した遠隔地間交流や、(B)近海を介した日常的な局地的地域内流通をも活発化させていく契機となった。14~15世紀には、日常的な交流が拡大し、(A)が日常的性格を強め、(B)は広域化していった。
その結果、群小港湾群の中から新たな拠点的港湾都市が成立・形成されていった。ネットワーク状の多元的な交流・物流が展開されたことにより、内水面交通の物流拠点も日本海水運との結びつきを深め、白潟など新たな内海港湾都市を作り出していったと推測している。その背景には、地域戦争の展開や、船舶・港湾の技術的進展が想定される。15~16世紀における「町」や「村」の形成過程は海の世界における変化とも関連していた可能性がある。これが第二の画期である。
そのことは公的な物流・交流(C) (D)がその地位の後退を意味した。石見産銀の輸出を契機とする東アジア経済の活性化によって、16世紀半ばを過ぎる頃には、日常的性格の強い広域的物流が顕著になる。16世紀後半の東アジア海域は港湾都市間を結ぶ新たなネットワークが開拓される時代を迎えていたが、西日本海沿岸地域も、内水面交通の主要拠点を含めてそうであった。これが第三の画期である。
17世紀初頭における松江城下町の形成は、このような歴史的前提をふまえて理解する必要性があると説く。富田から松江への城下町の移転は、兵農・兵商・農商分離に基づく身分制が武士と町人の集住を要請したためである。人口に見合った土地の広さと、消費物資を集中できる物流・交通の要衝であることが必要であった。その際に、市場・港湾の機能、手工業者居住地を併せ持つ、末次・白潟という町場がすでに存在したことが城下町形成の要因であった。
松江城下町建設時における立地条件の問題は、商業発展を基盤とした城下町・藩領経済の振興や、町衆の経済活動を含めた全体的な発展が最優先の課題であったと見てはならないという。商業振興による藩財政の再建は後の時代のことであるとみる。
「堀尾絵図」に描かれた初期松江城下町の軍事防備体制は、中海・宍道湖間を多数の船舶が往来できることなど前提にしてはいないことからこそ、成り立ちうるものであった。むしろその原則的な否定こそが、城下町建設の大前提であったことを示している。島根半島中央部においては、水路・陸路の両方ともに、城下町が大きな障壁のように立ちはだかっているからである。城下町建設が権力的に推し進められた理由は、管理・統制の強化のためであったと考えている。
松江城下町を建設した堀尾吉晴は、強権的な大土木事業を推し進めた豊臣秀吉に薫陶を受けたりしてきた。その堀尾は、新たな領国支配体制を作るためには、島根半島中央部の水陸の要衝を掌握し、ここを改編することが必要だと認識していたという。だからこそ、外海・内海を介した物流を管理し、商人居住区を限定し、特定の商人を権力的に把握するとともに、「惣構(そうがまえ)」を徹底した武家居住地の要塞化、陸路を軸とした強固な軍事防衛体制の構築、大規模な掘削・埋立事業によって、新しい町を創り出そうとしたものと考えている。それは白潟・末次の町衆といった当時の住民に過酷な試練を強いた側面もあったかもしれないという観点も、見逃せないという。
しかし堀尾氏の意図や判断は、16世紀以前における内海の拠点的港湾都市の形成・発展がなければ、生み出されなかったと推察している。松江城下町の建設は、16世紀後半において、白潟・末次の経済的な重要性の大きかったことを証明している。そしてやがて建設当初のような強権的な政策に基づく城下町の位置づけを大きく変えていく力は、すでに歴史の中に育まれていた。中世から近世への断絶であるかのように見える大変な出来事の底辺には、中世以来の住民の底力が脈脈と息づいていたと評価している(85頁~90頁)。
以上が、長谷川先生の著作の要約である。
後世の『銀山旧記』が伝えたものとして、1526年、銅を得るため西日本海を航行していた博多商人の神屋寿禎(じゅてい)が石見銀山を発見した話がある(石見銀山の再発見は1527年のこととも考えられるという)。この発見は、日本列島はもとより、東アジア、ひいては世界史に大きな変化をもたらした。すなわち、中華帝国は基軸通貨として銀を渇望し、銀産出地域に莫大な富をもたらすことになるからである。朝鮮半島由来といわれる灰吹法(はいふきほう)が生産効率を高め、1540年代以降、日本から大量の銀が輸出され始めた。石見銀山を先駆として、16世紀の日本は、日本海側を中心に銀山開発を進め、日本海水運を活用して、銀を中国に輸出した。
鉱山都市は資源の消耗による盛衰をまぬがれないので、時代が変われば痕跡をたどるのは容易でないが、16世紀の石見銀山は、今日では想像もつかないほど巨大な都市であったと考えられる。石見銀山には、列島規模で人々が移動して集住し、一大消費地として商品も大量に流入してきた。16世紀の日本列島は、激動の時代であった。というのは、日本は世界有数の銀産出国となり、鉱山資源の物流・商品の流通構造・社会構造の変化をもたらしたからである。
そして、その影響は島根半島にまで及び、その西端の宇龍浦(出雲市大社町)には、16世紀半ば頃から、従来にない遠隔地からの船が次々と現れる。たとえば、1561年の尼子義久袖判奉行人連署奉書には、宇龍浦に「北国舟」(近世初期に日本海海運の主役となった北東日本海海域の船)や「唐船」(いわゆるジャンク船と呼ばれる中国の遠洋航海船)が着岸し始めていることが記されている。また、1563年の同文書には、北国船ばかりではなく、因幡や但馬の船も着岸していることが裏付けられる。さらに、この現象が宇龍浦だけでなく、杵築にも多数の「北国舟」が着岸した。因幡や但馬の船についても、美保関には古くから入港していたと推測されるが、西日本海において遠隔地間を行き交う船舶数が増加し、入港実績のない港への着岸事例が増えた。
また、1552年に尼子晴久が杵築大社国造北島氏に命じた杵築法度に、「杵築領へ船付候時」という一条が設けられていたが、1558年に尼子晴久が命じた杵築法度からは、新規着船に関する条文が見られなくなる。この点については、着岸数の増加により、逐一報告を義務づけること自体が現実的ではなくなったことと解釈している。
さらに、1575年の石見国温泉津・浜田には、南九州の「船衆」「町衆」が滞在しており、山陰地域に産する銀・鉄・銅などを求めて遠隔地からの船が日常的に着岸していた。
「唐船」=ジャンク船には、明の海禁政策をかいくぐる明人密貿易商人をはじめ、朝鮮人、ポルトガル人あるいは「倭寇」といった多国籍の海上勢力などが乗船していたであろう。16世紀の世界は、ヨーロッパ史でいう「大航海時代」に入っており、日本から大陸への銀の流れを契機として、東アジアでも物流が飛躍的に活性化した。そのような変化は、西日本海地域において表出された可能性が高い。
次に視点を日本の外側に移し、明・朝鮮の文献に現れる港湾都市群を検討している。15世紀後半の『海東諸国紀』と、16世紀半ばの『日本図纂』『籌海図編』を比較することによって、16世紀後半とそれ以前とでは、西日本海地域に関する海外情報は、大きく変化していることを明らかにする。
『海東諸国紀』(1471年)は朝鮮人の申叙舟(シンスクチュ)による対日外交の手引書である。そこには「出雲州美保関郷左衛門大夫藤原朝臣盛政」「三尾関(美保関)浦」など具体的な地名・人名が記されている。人名について実在したか不明であるが、地名は実在した海辺諸勢力の基盤がほとんどであると推測し、美保関は中世西日本海水運において卓越した位置を占める港なので、記載されたとみる。
『海東諸国紀』記載地名の特徴は、日本語の漢字表記を前提とするものが多い点にある。表音表記の漢字に置換した例はほぼ対馬・壱岐に限られ、それ以外は書かれた文字情報に依拠しているという。著者申叙舟は訪日経験もあり、地名の読み方を一切知らなかったとは思えないが、『海東諸国紀』においては、交流が密接な地域を除き、地名の読み方自体が切実には必要とされていなかったであろう。
一方、16世紀の明においては、「倭寇」対策のための日本研究書が著されたが、中でも日本のイメージに大きな影響を与えたのが、鄭若曾(ていじゃくそう)の手になる『日本図纂』(1561年)と『籌海図編』(1562年)である。これらに記された西日本海沿岸の地名事例は、表音文字「寄語」で表している。それらは出雲国富田のような政治的中心地などは記載されておらず、ほとんどが港や港町の名前である点に特徴がある。日本語表記を基本とした『海東諸国紀』とは異なり、『日本図纂』と『籌海図編』の「寄語」地名は、明人が耳で聞いた地名の音を、表音表記に置き換えて記載したものと考えられる。中でも山陰海岸の地名は、記載順までも正確であり、申叙舟と鄭若曾の編纂目的がよくわかる。
間接情報に基づくこれらの記述内容には、たとえば波根や刺賀(さつか)を出雲国と誤認しているような事例が示すように、誤記・誤認が見られる。地名の選択にも偶然性が介在していることは否定できないとしても、16世紀の半ばに至り、この程度にまで港湾情報が入手できるようになった点に注目すれば、銀の輸出を契機として、西日本海を含む東アジア海域全体の物流が活発化し、すでに物流拠点として叢生していた港湾都市群が全体的な発展を遂げていた可能性をうかがわせる。16世紀後半の日本列島は港湾都市全盛の時代を迎え、安来・白潟・平田の発展も、こうした歴史的文脈の中に位置づけられる。白潟などの拠点的港湾都市が発展したことは、中世西日本海水運の基幹的港湾だった美保関の役割にも大きな変化をもたらした。海域全体からみれば、美保関以外にも多数の拠点的港湾都市が活発な商業取引の場になっていた。さらに、中世の宍道湖・中海内水面交通において、中海西南岸地域が相対的に後退していく契機となったと考えている。この点に関しては、1562~66年の毛利氏による出雲国侵攻、1569~1571年の尼子勝久による尼子再興戦は、攻防の舞台が八幡津・馬形など中海西南岸地域よりも、白潟・末次のある宍道湖東岸地域へ比重を移していることからもわかる。
毛利氏と尼子氏との1570年の布部合戦(旧能義郡布部)で戦利した毛利輝元は、意宇郡日吉(松江市八雲町)に着陣し、白潟を悉く放火した。このことから、毛利氏にとって白潟は、いち早く制圧すべき目標であった。つまり大橋川両岸の島根半島中央部をおさえることが、出雲国との戦争の帰趨を分ける点で同じであり、攻防の焦点は、八幡津・馬形よりも、白潟・末次方面に移ったと考えている。これらは16世紀半ばが大きな転換期の一つであったことを裏づける(73頁~84頁)。
<おわりに―近世城下町と藩領経済形成の歴史的前提―>
かつての日本海沿岸には潟湖が存在し、その多くは近世以降に埋め立てられ、内部に流通の結節点である「港」「湊」「津」「市」が形成された。中海・宍道湖などの内海が集中していたため、古代以来「内水面の日常的交流・物流」が展開した地域であったことは、『出雲国風土記』の記述や遺跡からうかがえる。西日本海沿岸地域全体から見た場合、島根半島はその中央部に位置したため、「日本海を介した遠隔地間交流」において重要拠点となりうる地理的条件を備えていた。古代においては、その交流は偶発的・断続的で稀であったが、「内水面の日常的交流・物流」とも結びつきながら、古代以来、確実に存在したと推測しうる。
本書の結論は、そのような「内水面の日常的交流・物流」が、中世における「日本海を介した遠隔地間交流」の大きな変化(日常化・緊密化)から色濃い影響を受けて活発化・広域化し、外海・内海沿岸にいくつものの拠点的港湾都市を生み出したことが、島根半島中央部に松江城下町が形成された重要な歴史的条件・背景をなしていたのではないかという。換言すれば、松江城下町形成の歴史的条件・背景に関して、中世における「日本海を介した遠隔地間交流」の日常化・緊密化から影響を受けた「内水面の日常的交流・物流」が活発化・広域化し、拠点的港湾都市を生み出されたことに求められると推察している(85頁~86頁)。
中世における「日本海を介した遠隔地間交流」の変貌を全体的にとらえるために、中世西日本海水運の4つの要素に注目した。すなわち、
(A)海を介した遠隔地間交流
(B)近海を介した日常的な局地的地域内流通
(C)海を介した京上年貢輸送路
(D)大陸と山陰海岸との通交である。これらの4つの要素の歴史的性格については、(A)(B)は、古代から存在した交流・物流で、(C)は、中世成立期から形成されはじめた公的性格の強い物資輸送ルートであり、(D)は15世紀に一挙に拡大した公的な通交関係である。なお、(C)(D)は、広義には(A)の一部を構成するがその一断片にすぎず、(A)(B)の多くは史料にも残されないような私的な交流・物流であった。
内水面や海を介した日常的な局地的地域内の交流・物流や、日本海を介した遠隔地間の広域的で断続的交流は、古代から連綿と続いてきた。中世の西日本海地域では、それらを大前提として、次の3つの画期を経ながら、内水面をも巻き込み、水運の様相が変貌を遂げていく。
1 中世荘園年貢輸送体制の成立がもたらした廻船ルートの形成
2 14~15世紀における日常的交流・物流の拡大
3 16世紀後半の東アジア経済圏の活況と日常的交流・物流の広域化
11~12世紀の荘園公領制が形成されると、公的性格を併せ持つ(C)海を介した京上年貢輸送路が用いられ始めたが、美保関に象徴される中世西日本海水運が形成されたと考えられる。それを契機として、廻船ルートが形成され、(A)海を介した遠隔地間交流が活発化し始めたことを第一の画期としてとらえる。
15世紀には、公的な(D)大陸と山陰海岸との通交事例も確認されるようになる。(C) (D)の成立は、古くから存在した(A)海を介した遠隔地間交流や、(B)近海を介した日常的な局地的地域内流通をも活発化させていく契機となった。14~15世紀には、日常的な交流が拡大し、(A)が日常的性格を強め、(B)は広域化していった。
その結果、群小港湾群の中から新たな拠点的港湾都市が成立・形成されていった。ネットワーク状の多元的な交流・物流が展開されたことにより、内水面交通の物流拠点も日本海水運との結びつきを深め、白潟など新たな内海港湾都市を作り出していったと推測している。その背景には、地域戦争の展開や、船舶・港湾の技術的進展が想定される。15~16世紀における「町」や「村」の形成過程は海の世界における変化とも関連していた可能性がある。これが第二の画期である。
そのことは公的な物流・交流(C) (D)がその地位の後退を意味した。石見産銀の輸出を契機とする東アジア経済の活性化によって、16世紀半ばを過ぎる頃には、日常的性格の強い広域的物流が顕著になる。16世紀後半の東アジア海域は港湾都市間を結ぶ新たなネットワークが開拓される時代を迎えていたが、西日本海沿岸地域も、内水面交通の主要拠点を含めてそうであった。これが第三の画期である。
17世紀初頭における松江城下町の形成は、このような歴史的前提をふまえて理解する必要性があると説く。富田から松江への城下町の移転は、兵農・兵商・農商分離に基づく身分制が武士と町人の集住を要請したためである。人口に見合った土地の広さと、消費物資を集中できる物流・交通の要衝であることが必要であった。その際に、市場・港湾の機能、手工業者居住地を併せ持つ、末次・白潟という町場がすでに存在したことが城下町形成の要因であった。
松江城下町建設時における立地条件の問題は、商業発展を基盤とした城下町・藩領経済の振興や、町衆の経済活動を含めた全体的な発展が最優先の課題であったと見てはならないという。商業振興による藩財政の再建は後の時代のことであるとみる。
「堀尾絵図」に描かれた初期松江城下町の軍事防備体制は、中海・宍道湖間を多数の船舶が往来できることなど前提にしてはいないことからこそ、成り立ちうるものであった。むしろその原則的な否定こそが、城下町建設の大前提であったことを示している。島根半島中央部においては、水路・陸路の両方ともに、城下町が大きな障壁のように立ちはだかっているからである。城下町建設が権力的に推し進められた理由は、管理・統制の強化のためであったと考えている。
松江城下町を建設した堀尾吉晴は、強権的な大土木事業を推し進めた豊臣秀吉に薫陶を受けたりしてきた。その堀尾は、新たな領国支配体制を作るためには、島根半島中央部の水陸の要衝を掌握し、ここを改編することが必要だと認識していたという。だからこそ、外海・内海を介した物流を管理し、商人居住区を限定し、特定の商人を権力的に把握するとともに、「惣構(そうがまえ)」を徹底した武家居住地の要塞化、陸路を軸とした強固な軍事防衛体制の構築、大規模な掘削・埋立事業によって、新しい町を創り出そうとしたものと考えている。それは白潟・末次の町衆といった当時の住民に過酷な試練を強いた側面もあったかもしれないという観点も、見逃せないという。
しかし堀尾氏の意図や判断は、16世紀以前における内海の拠点的港湾都市の形成・発展がなければ、生み出されなかったと推察している。松江城下町の建設は、16世紀後半において、白潟・末次の経済的な重要性の大きかったことを証明している。そしてやがて建設当初のような強権的な政策に基づく城下町の位置づけを大きく変えていく力は、すでに歴史の中に育まれていた。中世から近世への断絶であるかのように見える大変な出来事の底辺には、中世以来の住民の底力が脈脈と息づいていたと評価している(85頁~90頁)。
以上が、長谷川先生の著作の要約である。
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