歴史だより

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《桃木先生の編著を読んで その9》

2009-03-21 23:30:51 | 日記
《桃木先生の編著を読んで その9》

『明律』では兵律の関津が関連していそうである。以下、若干の条文を引用してみたい。
『明代律例彙編』巻15-6 兵律三 關津、〈私出外境及違禁下海〉
凡將馬牛、軍需、鐵貨、銅錢、叚疋、紬絹、絲綿、私出外境貨賣、及下海者、杖一百。挑擔駄載之人、減一等。貨物船車、並入官。於内以十分爲率、三分付告人充賞。若將人口軍器出境、及下海者、絞。因而走泄事情者、斬。其拘該官司、及守把之人、通同夾帶、或知而故縱者、與犯人同罪。失覺察者、減三等。罪止杖一百、軍兵又減一等。
『唐律疏議』8-8
『黎朝刑律』75、76条

弘治(1488-1505)問刑條例
一、官民人等擅造二桅以上違式大船、將帶違禁貨物下海、前往番國買賣、潛通海賊同謀結聚、及爲嚮導、劫掠良民者、正犯處以極刑、全家發邊衛充軍。若止將大船雇與下海之人、分取番貨、及雖不曾造有大船、但糾通下海之人、接買番貨者、倶問發邊衛充軍。其探聽下海之人、番貨到來、私下收買販賣、若蘇木胡椒至一千斤以上者、亦問發邊衛充軍、番貨入官。若小民撑使單桅小船、於海邊近處、捕取魚蝦、採打柴木者、巡捕官旗軍兵不許擾害。

弘治(1488-1505)年間という時期から推察すれば、本編著で言うところの「明初システム」(51-53頁)という貿易管理体制が存続していた時代であり、その時に発布された法令が、弘治問刑條例である。この明朝の海禁政策については、檀上寛氏が明朝の「海禁」の変遷を5期に分けて詳述し、唐以降の律の変遷を踏まえて「下海(かかい)通番之禁」すなわち「海禁」概念の確立へと至るプロセスを論じているとのことである(53頁、檀上寛氏「明代海禁概念の成立とその背景――違禁下海から下海通番へ」(『東洋史研究』63-3、2004年)。こうした研究を今後参照してみたいと考えるが、この問刑條例には二桅(ほばしら)以上の大船により、海に下ること(「海船にのりて外国へゆくことなり」『明律国字解』336頁)を禁じ、蘇木・胡椒の販売を一千斤(約0.6kg×1000=600kg)に制限していたことなど、海域アジア史との関連で興味深く思う。

この明代の法令に出てくる蘇木(スオウ)は、本編著にても、中国と琉球間の交易品とに言及されている。すなわちかつて蘇木は中国への輸出品であったが、近世中後期には中国から輸入され、その一部が薩摩潘に上納する琉球の特産物の反布類の紬(つむぎ)の染料として、久米島で消費されていた。久米島では蘇木は王府の対中国貿易によって確保されるようになっていたとある(137頁)。こうした交易ルートと中国の貿易政策の現れとしてのこの法令との関わりなども考察してみると面白いのではないかと思った。

明朝の市舶司と互市について言及した部分も興味深い。明朝は当初市舶司に朝貢関係を管理させる方針を取っていたが、民間の貿易要求などの現実的な諸問題に対応しきれなかったので、特権商人をおいて貿易を管理させ、政治的交渉を伴わずに交易のみを行う方法である互市を併用するようになったという(119頁)(清朝では商取引と徴税が一体となった海関に発展する)。このような「互市」が黎朝にあったかどうか明らかではないが、示唆的であると思う。

ただ史実としては、本編著でも触れてあるように(186頁)「ベトナム青花の頂点は、イスタンブールのトプカプ宮殿にある1450年の黎朝年号を記した瓶である」ことなどをも考慮して、総合的に判断することが求められる。この点、八尾氏が指摘するように(八尾氏前掲論文、2001年、238頁)、明の磁器輸出が海禁により減少し、ベトナムがその代用品の製作に力を入れていたというのも説得的である。そして16世紀の莫氏の依拠したデルタ東部は、陶磁器生産の中心地の1つで輸出港でもあり、莫氏政権の維持に、交易の利益が寄与していたと推察している点も、示唆的である。

そして八尾氏は、15~18世紀の交易を概括している。とりわけ、16世紀以降の鄭―阮氏の時代については、北方の鄭氏に関しては先に引用したように、舗憲の交易を、そして、南方の阮氏に次のように述べている(同上、240頁、252-253頁)。
「阮潢は期待以上に功績をあげる。彼は最初、愛子社(現クアンビン省内)に本拠地を置いていたが、徐々に南下して現フエの地に移動する。1570年代には莫氏につながる勢力を一掃し、さらには広南にも実力で進出してチャンパーをも南方に追いやって、国際交易港となりつつあったホイアンを奪取し、中部の交易権を握った。その経済的繁栄ぶりを『阮氏家譜』は以下のように記している。「海外諸国の商舶、あい率いて輳集し、貿易して中を得。中貨盈積し、軍に供して輸賦せしむ。黎朝、これに頼む。(同上、240頁)

「阮潢の時代から、ポルトガルとの交渉はすでに始まっていたことは既述の通りである。ポルトガル人のマラッカーマカオ―日本交易ルート上に中部ベトナムは位置し、武器を輸入するのみならず、阮氏は彼らを技術顧問として雇用もしていた。次にオランダも日本への絹や鹿皮の供給地として広南国に注目し、1633年には東インド会社が商館を置くが、やがてオランダは北で糸を入手するようになり、鄭氏との関係を深める。結果として阮氏との関係は悪化し、40年代には会社の商船を広南国の水軍が抑留したために両国の間で水戦が生じ、54年には商館が閉鎖されている。

一方、日本は戦国時代が終了して経済繁栄期を迎え、ホイアンに日本町を建設し、朱印船貿易を行って、相互に最大の交易相手となった。岩生の研究では残存する朱印状情報356件(1604-35年)のうち37件が東京、71件が交趾(06年より)、1件が順化、14件が安南(11年まで)、1件が迦知安(広南)、6件が占城であった。日本は糸や絹織物、香木(沈香や肉桂)、砂糖などを輸入し、代価として銅、銅銭、工芸品などを輸出していたが、鎖国政策と国内高山の産額の減少により、17世紀後半には交渉がほぼ途絶えた。
欧人と日本人が去った後、南シナ海を支配したのは中国人であった。日本人と並行して中国人もホイアンや北の舗憲で交易に携わっていたが、彼らに対する意識や対策は北とはかなり異なる(中略)。
これに対して南の阮氏では、ホイアンなど至る所で中国人居留地が生まれ、経済面ではむしろ積極的に中国人は登用される。活発化する経済のための貨幣(亜鉛銭)鋳造事業(これには北に対する国家としての威信の問題ももちろんある)、税制改革などを立案し、それを実行にうつしたのも中国人商人であった。オランダの独占が完成した後の17世紀後半までを商業の時代とし、それ以降の不振を強調するのが従来の通説であったが、阮氏は少なくとも18世紀半ばまでは対中交易(唐船貿易など)を中心にして繁栄を続けていた。」(252―253頁)。

以上、私の手元にある文献を調べられる範囲内で海域史に関する内容を抜き出してみたが、史料不足の限界を乗り越えて、ベトナム貿易史の全体像を描けるように研究の進展が望まれる。


②遣明使について
第7章「日明の外交と貿易」の要約にもあるように、室町幕府は外交機関として京都五山の禅僧を登用し、その禅僧が漢字文化圏における語学力や儒教的教養を獲得して環シナ海地域間交流の担い手となり、外交文書起草や外交使節の任に就いたことが日本史研究で明らかになっている。そして日本初の外交文書集『善隣国宝記』の訳注や分析研究も進展しており、その文書起草者や遣明使官員などの候補者人選に関しても、蔭涼職が将軍の命を奉ずる形で行われ、遣明使節行に関する幕府の命令は「将軍→奉行→蔭涼職→遣明使」で行われたといわれる(72-73頁)。これらの日本史研究の成果は、ベトナム(とりわけ李陳朝期から黎朝への移行期)と中国との対外関係史を再考する上で示唆的ではないだろうか。科挙制が実施された経験をもたない日本史でも、禅僧が儒教的教養を身に付け、遣明使としての外交文書を起草している事実に一種の驚きを感じる。

科挙制が完全に実施される聖宗期以前に、遣明使は必ずしも儒教的教養を身につけた科挙官僚が選出されたわけではないことは明白です(藤原利一郎先生、前掲書1986年)。そして外交文書が必ずしも残っているわけではない。また時代を遡って陳朝期の対元・明外交を担った者は、仏僧(とりわけベトナムも禅僧か?)をも含んでいたのではないか。とりわけ、儒仏道の三教混淆した知識人層が陳朝には主な担い手であったかもしれない。また『禅苑集英』などの史料を参考にしつつ、比較史的考察も進められないかどうか、検討してみたいと思う。

③石見銀山について
石見銀山が、2007年、折からの世界遺産登録されたのに対応して、実にタイムリーな編著の出版で、石見銀山が世界史の中に位置づけられる点で有意義な出版であった。
中国の明での税の銀納化により、銀需要が拡大し、日本銀と中国生糸を交易する中国民間船が日本へ来航するようになり、これが「後期倭寇」の母胎であったと述べ(85頁)、石見銀山と世界史との関連が浮彫りにされ、貴重な知見となった。また石見銀山における灰吹法という精錬技術のことは、本や新聞に記載されてよく知られているが、村井章介氏の研究に基づいて、博多商人、朝鮮の技術者とのつながりなどにも言及されており(84頁)、勉強になった。今後の研究の深化のための指針を与えてくれた。




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