《桃木先生の編著を読んで その8》
さて、フイ氏が引用した『全書』1149年の条とは、次の記事である。また李朝の雲屯に関する記事としてよく引用されるものに、1184年の条に次のようにある。
『全書』宋紹興19年(1149年)
春、二月、爪哇、路貉、暹邏三國商舶入海東、乞居住販賣、乃於海島等處立庄、名雲屯、買賣寶貨、上進方物。
Huy 2, p.314(TT Vol.1:281)
『全書』宋淳熙11年(1184年)
春、三月、占城來貢。暹邏、三佛齊等國商人入雲屯鎭進寶物、乞行買賣。
これらの2つの記事に関しては、周知のように、疑問点が指摘されている。すなわち、山本・片倉両氏はこの時代に現れるはずのない爪哇や暹邏(羅)の名がみえる事に疑義を唱え、八尾氏も同意している(山本氏前掲論文、1939年、280頁。片倉氏前掲論文、1967年、77-78頁、81頁。八尾隆生氏「ヴェトナム黎朝初期の南策勢力」『史林』72巻1号、1989年、46頁)。つまり「タイ族が印度支那緬甸方面で盛に活動する様になったのは十三世紀以後であり、暹羅(ママ)といふ國名は十四世紀中葉以後用ひられたものであるから、十二世紀の記載たるAB(佐世註~『全書』1149年の条および1184年の条のことを指す)に暹羅(ママ)とあるのは何かの誤と思われる」(山本氏前掲論文、280頁)というのである。
このようにベトナム来航した商舶の諸国の比定に関しては検討の余地があるものの、李陳朝期に雲屯での貿易が栄えたことは『全書』1285年、1287年、1349年、1360年、1363年、1434年、(1437年)の条に次のようにある。
『全書』1285年
三月、上位文昭侯弄降于脱驩、既而昭國王益稷及范巨地、黎演、鄭隆皆挈家降元。初、益稷未生時、太宗夢見神人有三眼、從天而下、言於太宗曰、「臣爲上帝所責、願託於帝、」後乃北歸。及益稷生、額中有文、隠然如眼形、貌似所夢之人、年十五、聰明過人、通書史、及諸技術、濳有奪嫡之心、嘗挾私書、寄雲屯商客、乞元師南下。至是元人入寇、遂降之、冀有其國。元封爲安南國王、及元敗衂、心懐愧、卒于北地。
『全書』1287年
慶餘初鎭雲屯、其俗以商販爲生業、飮食衣服、皆仰北客、故服用習北俗。慶餘閲諸庄軍、令曰雲屯鎭軍、所以防遏胡虜、不可戴北笠、倉卒之際、難於辨別、宜戴麻雷笠〈麻雷、洪路郷名、善織青皮竹爲笠、故以名〉、違者必罰、而慶餘先已令家人買麻雷笠、船載泊于港内矣。
『全書』1348年
冬、十月、闍蒲國商舶至雲屯海庄、潛買蠙<蠙音駢、蛛也、蛛又音朱、亦作黿珠>、雲屯人多偸汞(なし)珠與之。事覺、倶抵罪。
『全書』1349年
(十一月)設雲屯鎭鎭官、路官、察海使、及置平海軍以鎭之。先是、李朝時商舶來則入自演州他員等海門。至是、海道遷移、海門淺涸、多聚雲屯、故有是命。
『全書』1360年
冬、十月、路鶴、茶哇<哇音鴉>、暹邏等國商舶至雲屯販賣、進諸異物。
『全書』1363年
六月、没籍大來社寨主呉引家。初、引父於明宗時、得蜈蚣大珠、帶來雲屯、商舶爲之傾、舶主欲得奇貨、盡以所有買之、引因此致富。明宗以月山公主適之、引恃其富、通淫別女、又欺公主語。公主以聞。免死、没其家産。
『全書』1434年9月
爪哇商舶入貢方物。
安邦路總管阮宗徐、同總管黎遙貶三資罷職。本朝禁臣民不得私販外國商貨、時有爪哇舶至雲屯鎭、宗徐等當檢録舶貨正數、前已將原數供報、後復隠詐改換其状、而私販九百餘緍、自與黎遙各占百緍、事發、故罪之。
『全書』1437年
(八月)暹羅國商舶來貢。
とりわけ、山本氏の引く『安南志原』巻1、山川の条に(山本氏、291頁、なお「法国極東学院訂刊」版、45頁)
「雲屯山即斷山、在雲屯縣大海中、兩山對峙、一水中通、立木柵置水門、民家列居兩岸、李陳氏時、各國商舶多聚於此。」に、「李陳氏の時、各國商舶、多く此(雲屯)に聚まる」とあることから明らかであると思う。
ただ、聖宗期になると、雲屯に関する記載内容にも何らかの若干の変化が看取できるのではないかと推測される。
『全書』1467年の条には、
(三月)初明人李茂實等二十九人、有船二隻、載米二百五斛、送廣東布政司、漂到安邦、巡司獲之、送詣行在。都御史阮居道奏宜放囘本國、帝不從。至是以其米給本船人各一斛、充屯田司、其餘米令四城兵馬装載、分行宣光、歸化、陀江等處、給會期軍人飢困者。
蘇問嗒刺國商舶貢物。
索取明國人於蘇問嗒刺國商舶、送還本國。(明國人を蘇問嗒刺國の商舶より索取せしめ、本國に送還せしむ?)
とある。
『全書』1467年
(九月)暹羅國海舶來雲屯庄、上進金葉表文及獻方物、帝却不受。
(十月十九日)爪哇國使臣那盃等來見。
(十二月二十日)開決順化蓮港并清化、乂安各港。
この1467年12月20日の記事は、順化・清化・乂安の各港を開いたことを意味するものかとも考えられる。このことが対外貿易を許可したことに直結するかどうか、この記事からだけでは審らかにしえないが、何らかの開放的方向に向かったのかもしれない。
『全書』1469年の条には「(春、二月)勅旨捕海賊陛賞」とあり、『全書』1470年の条には、「春、正月、禁假造皮笠、選金吾衛武士捕海賊」とある。本書には「海外貿易に対する清朝の管理は海上および国内の治安維持に主眼が置かれていた」(120頁)とあり、同様にベトナムにおいても「海賊活動」の取り締まりを軍人を用いて行っていたように受け止められる。『全書』に初出と思われる1469年の条にあるこの「海賊」とは、時代的に見てどのような性格の「海賊」なのであろうか。この「海賊」と理解されたのは、黎朝の『全書』編纂者の立場からのそれであって、実態となる集団はどのように歴史的に規定されるのであろうか。『全書』の李朝期の1182年の条では「盗劫」とあり、1221年の条には「盗賊」とあり、また陳朝期1344年、1358年、1360年の各条には「盗劫」とあり、そして黎初の1434年5月18日の条や1456年5月の条にも、また「盗劫」とある。これらと「海賊」は異なるものではないであろうか。
ところで、市舶司に関しては、先生は以前「出入りする人間と積み荷を調べ、抽解(関税・手数料としての輸入品からの現物徴収)や和買(輸入品の先買いないし独占買い上げ)、禁制品(銅銭・武器・人間など)の密輸出の取り締まりをおこなった」といわれる(桃木氏、前掲論文1999年、115頁)。
ベトナムに設置された市舶司に関しては、明支配期のそれに関しては、山本氏が引く史料が参考になる(山本氏、前掲論文1939年、284-285頁、291頁)。
『皇明実録』永楽6年正月戊辰(19日)の条には、
設交趾雲屯市舶提擧司、置提擧副提擧各一員。
とあり、また同年十月庚子(28日)の条には、
増置雲屯市舶提擧司、提擧吏目各一員、設新平・順化二市舶提擧司、雲屯・新平・順化三抽分場。
といい、『安南志原』巻2、廨舎の条には、新平・順化の市舶提挙司および抽分場の記事とともに、
交趾雲南(?)屯市舶提擧司、見新安府雲屯縣、雲屯抽分場見新安府。(雲南屯とある南の字は衍字とみなすべきであるという)
という記載がある。また『明史』巻81、食貨志市舶の条には、永楽3年に浙江・福建・広東の三市舶司に各々駅を置いたという記載に続き、「尋設交阯雲南(ママ)市舶提擧司、接西南諸國朝貢者」とある。山本氏は雲南に市舶司を置いたというのは不可解で、明史に基づいた史料が『安南志原』に見られるように雲南屯とあり、それが誤って雲南となったに相違ないので、雲南とは雲屯の間違いであると推測する(山本氏前掲論文、1939年、285頁)。
ただ明支配から独立した黎朝は、初期において、中国的な市舶提挙司と類似した「提舶司」を設置し、安撫司とともに貿易管理システムの任をおわせたことは、先に引用した黎律615条の記事が物語っている。黎律615条にみえる「提舶司」の起源、つまりベトナム史上どの時代まで遡りえるのか、そしてここに現れた「提舶司」と明代におかれた市舶提挙司の継受関係は審らかにしえない。
ところで、この市舶司貿易の問題は、黎朝15世紀を小農社会論で理解する方向で考えた場合(例えば、八尾隆生氏「山の民と平野の民の形成史――15世紀のベトナム」および「収縮と拡大の交互する時代――16~18世紀のベトナム」(『岩波講座東南アジア史3――東南アジア近世の成立』岩波書店、2001年、219-223頁)、雲屯などの貿易とどう整合(あるいは不整合)していくのか、その統一的全体理解に達するのか、未解決な問題ではないであろうか。このことは、いみじくも桃木先生が先の論文で、
「14世紀後半に成立した明帝国に、モンゴルを引き継ぐ海上商業帝国か、小農を基礎とする政治的帝国かという根源的選択を迫り、後者を選んだ明は海禁を断行した[文献28、檀上寛「明初の海禁と朝貢」森正夫ほか編『明清時代史の基本問題』汲古書院、1997年]。20世紀初頭までの中国史と世界史に影響する激動が、13、14世紀の間に起こったのだ」(桃木氏、前掲論文1999年、128―129頁)と述べておられる。
明の海禁政策のもとで、雲屯貿易は維持できたのか。周知のように、黎律に登場する安撫使は1466年6月の聖宗の官制改革により廃止される“運命”にあったので、この時期の前後で“市舶司制度のような貿易管理システム”にも変容が見られたのではないか? 管理する行政機関のみならず、その交易品内容、政策をも含めて、どう変化したのかという観点に立って、黎朝の15世紀の貿易システムを見直す必要があるのかもしれない。(私は、この聖宗の官制改革を、李陳朝期的市舶司もしくは「提舶司」、安撫使運営の崩壊ではと想像している)。
ベトナム史以外で朝鮮史などでは具体的にどのように考えられているのであろうか。例えば、小農社会論の提唱者として知られる宮嶋博史の論文「東アジア小農社会の形成」(溝口雄三ほか編『アジアから考える6 長期社会変動社会』東京大学出版会、1994年所収)には、海域アジア史的視点は導入されていないように見受けられる。むしろこの視点は同書に所収された川勝平太氏の論文「東アジア経済圏の成立と展開」にも近いものが導入されているが、小農社会との関連にまでは言及されていない。すなわち、近世の日本では「鎖国システム」、ヨーロッパでは「近代世界システム」という経済社会が成立する際に、生産革命と脱亜という共通性を有していたが、それらの成立に海洋ないし海域が重要な意味(「近代世界システム」は「海洋イスラム」から、徳川日本の「鎖国システム」は「海洋中国」から自立し、旧アジア文明から自立して離脱したという意味で「脱亜」といえる)をもっていたとする川勝論と、東アジアの中国・日本・朝鮮に共通する社会構造上の特徴を小農社会という概念で捉えることを提唱し、朝鮮を中心に論じた宮嶋論とが、(アジア)海域史という視点から、どう関連するのかという問題を理解しにくい。換言すれば、ヨーロッパの「近代世界システム」という海域史との関連は、本編著の第17章の解説によりわかりやすいのであるが、東アジアの「鎖国システム」ないし小農社会論と海域史との関連については、研究の進展状況が左右しているためか、わかりづらい気がする。川勝氏の議論から学ぶべきは、19世紀の日本は「自給自足」の経済を確立していたことが、外国貿易を退ける「鎖国」体制を採らせることを可能にしたという点である(川勝氏前掲論文、1994年、25頁)。一方、ベトナムの「鎖国」政策と、経済の発展段階(ベトナムは自給自足経済に入ったのか。また入らなかったのか。入ったとしたら、いつの時代か?)との関係についても考えてみることが必要かもしれない。
こうした大きな問題には小生も答えることができないが、ベトナムの海域史にアプローチするとしたら、どの程度のことがわかるか、そして史料として何があるのかを、ここで少し追究してみた。雲屯に関しては、先にフイ氏が黎律第612条の註釈でも引用した『全書』1434年9月の条が参考になる。
爪哇商舶入貢方物。
安邦路總管阮宗徐、同總管黎遙貶三資罷職。本朝禁臣民不得私販外國商貨、時有爪哇舶至雲屯鎭、宗徐等當檢録舶貨正數、前已將原數供報、後復隠詐改換其状、而私販九百餘緍、自與黎遙各占百緍、事發、故罪之。
『全書』1434年9月の条で、安邦路の総管の不正事件が発覚して貶爵刑に処せられ、免職という処罰が科せられている。黎初の貿易管理システムは、この記事や『国朝刑律』第615条を見てもわかるように路ないし鎮、そして路官として安撫使、および総管という武職(開国功臣系の高官が主に就任したと考えられる重職)といった行政単位、および官職のもとに機能した貿易管理体制であったとみなされる。こうした管理体制の不備・崩壊の現われの一端が、この1434年の不正事件であったのではないだろうか。いずれにしても、この路と鎮については、1466年に路は府に、鎮は州に改変される。ただし、路制は全く姿を消すが、後期に鎮は復活したという(藤原利一郎先生、前掲書1986年、476頁)。そして路の安撫使も知府にこのときに改変される。また総管も1471年の皇朝官制のもとでは廃止された官僚ポストであったので、洪徳年間(1470-1497年)には、それ以前とは異なる管理システムに改変されたと考えることが適当かと推察する。
ところで、本書の第9章の「倭寇論のゆくえ」では、東アジア海域史の大きな2つの激動期、14世紀中葉と16世紀中葉とに歴史の主役の1つとして登場した「倭寇」を前期倭寇、後期倭寇と規定してある(80頁)。ベトナムの「海賊」もこうした範疇で捉えることができるのだろうか(ベトナムのこの史料は時期的にズレが見られるが)。またこの点で本編著で興味深い記述は、イメージの格差の問題である。すなわち明の官憲から見れば、悪逆無道の海賊の頭目に過ぎない王直や徐海は、日本では「五峰先生」「明山和尚」などと尊称された。彼らは、中国浙江省や福建省の沿岸島嶼部を主な根拠地とし、地元の郷紳(富豪層)と結んで密貿易を行っていたという(88頁)。こうした事例を参考にして、ベトナムで出現した「海賊のイメージ」を検証できないものかと考える。
ちなみに、『全書』1471年の条に、
九月二十六日、校定皇朝官制。(中略)在外各鎭亦置府衛都司、江海各處亦置巡檢江官、諸承司府縣州外任各衙門、莫不各置官以治之焉。
『全書』1485年
十二月、令各處江官、如遇進表日、許在衙門行禮、停就都司。
などが取り締まり機関の史料として注目される。
ところで、本編著との関連でいえば、『元典章』「市舶則法」私的な交易を明確に禁じていないとされ(171頁[小野裕子2006])、「南宋――モンゴル時代はしばしば、私的な交易が公的な交易に優越する時代と捉えられる。しかしモンゴル時代には、こうした単純な二項対立的図式では捉えきれない複雑な実態がある」(170頁)とする見解は、今後の研究の参考となる。ちなみに『元典章』の戸部、課程、市舶司には
番舡南舡請給公慿公驗回帆、或有遭風被劫事故、合經所在官司陳告体問的實移文市舶司轉申怱(なし)府衙門、再行合属体復如委是遭風被劫事故方焉消落元給憑驗字號、若妄稱遭風等搬捵舡貨送所属究問、断没施行、或有公(なし)途山嶋(なし)灘嶼海岸停泊、汲水取柴恐有稍碇水手搭客等人乗時懐袖偸蔵貴細物貨上岸博易物件、或有舶啇(ママ)之家回帆將市舶司私用小舡推送食米接應舶舡、却行輒取貴細物貨、不行抽解、即是滲泄並許諸人告捕餘行断没犯人杖一百七下、告捕人於没官物内三分之一給賞。仍行下公(なし)海州縣出榜暁諭(下略)
とある。
『元典章』も黎律も(また『明代律例彙編』巻15-6 兵律三 關津、〈私出外境及違禁下海〉の条では、10分の3を規定)密告者・捕獲者への報酬を3分の1の比率と規定しているのは偶然の一致であろうか。何らかの影響を想定して検証を進める必要があるかもしれない。ただ中国の元代とベトナムの黎朝という時代の社会経済状況が反映されているためか、『元典章』では「没官物」(国家に没収された現物の意か)の中から、その報酬を当てたのに対して、黎律の場合、第615条および第616条とも罰金刑100貫ないし200貫の3分の1を充当したという相違がある。この金額は庶民が支払うには余りにも高額であることには注意を要する。というのは、黎朝の洪徳年間(1470-1497)の官僚の俸禄表をみても、正9品は16貫、従9品で14貫で、正1品でようやく99貫であったことを思えば、この罰金額が相当に高額であったことが想像されよう(俸禄表は Le Kim Ngan, To-chuc Chinh-quyen Trung-uong duoi trieu Le Thanh Tong (1460-1497), Sai-gon, 1963, tr.154)。
さて、フイ氏が引用した『全書』1149年の条とは、次の記事である。また李朝の雲屯に関する記事としてよく引用されるものに、1184年の条に次のようにある。
『全書』宋紹興19年(1149年)
春、二月、爪哇、路貉、暹邏三國商舶入海東、乞居住販賣、乃於海島等處立庄、名雲屯、買賣寶貨、上進方物。
Huy 2, p.314(TT Vol.1:281)
『全書』宋淳熙11年(1184年)
春、三月、占城來貢。暹邏、三佛齊等國商人入雲屯鎭進寶物、乞行買賣。
これらの2つの記事に関しては、周知のように、疑問点が指摘されている。すなわち、山本・片倉両氏はこの時代に現れるはずのない爪哇や暹邏(羅)の名がみえる事に疑義を唱え、八尾氏も同意している(山本氏前掲論文、1939年、280頁。片倉氏前掲論文、1967年、77-78頁、81頁。八尾隆生氏「ヴェトナム黎朝初期の南策勢力」『史林』72巻1号、1989年、46頁)。つまり「タイ族が印度支那緬甸方面で盛に活動する様になったのは十三世紀以後であり、暹羅(ママ)といふ國名は十四世紀中葉以後用ひられたものであるから、十二世紀の記載たるAB(佐世註~『全書』1149年の条および1184年の条のことを指す)に暹羅(ママ)とあるのは何かの誤と思われる」(山本氏前掲論文、280頁)というのである。
このようにベトナム来航した商舶の諸国の比定に関しては検討の余地があるものの、李陳朝期に雲屯での貿易が栄えたことは『全書』1285年、1287年、1349年、1360年、1363年、1434年、(1437年)の条に次のようにある。
『全書』1285年
三月、上位文昭侯弄降于脱驩、既而昭國王益稷及范巨地、黎演、鄭隆皆挈家降元。初、益稷未生時、太宗夢見神人有三眼、從天而下、言於太宗曰、「臣爲上帝所責、願託於帝、」後乃北歸。及益稷生、額中有文、隠然如眼形、貌似所夢之人、年十五、聰明過人、通書史、及諸技術、濳有奪嫡之心、嘗挾私書、寄雲屯商客、乞元師南下。至是元人入寇、遂降之、冀有其國。元封爲安南國王、及元敗衂、心懐愧、卒于北地。
『全書』1287年
慶餘初鎭雲屯、其俗以商販爲生業、飮食衣服、皆仰北客、故服用習北俗。慶餘閲諸庄軍、令曰雲屯鎭軍、所以防遏胡虜、不可戴北笠、倉卒之際、難於辨別、宜戴麻雷笠〈麻雷、洪路郷名、善織青皮竹爲笠、故以名〉、違者必罰、而慶餘先已令家人買麻雷笠、船載泊于港内矣。
『全書』1348年
冬、十月、闍蒲國商舶至雲屯海庄、潛買蠙<蠙音駢、蛛也、蛛又音朱、亦作黿珠>、雲屯人多偸汞(なし)珠與之。事覺、倶抵罪。
『全書』1349年
(十一月)設雲屯鎭鎭官、路官、察海使、及置平海軍以鎭之。先是、李朝時商舶來則入自演州他員等海門。至是、海道遷移、海門淺涸、多聚雲屯、故有是命。
『全書』1360年
冬、十月、路鶴、茶哇<哇音鴉>、暹邏等國商舶至雲屯販賣、進諸異物。
『全書』1363年
六月、没籍大來社寨主呉引家。初、引父於明宗時、得蜈蚣大珠、帶來雲屯、商舶爲之傾、舶主欲得奇貨、盡以所有買之、引因此致富。明宗以月山公主適之、引恃其富、通淫別女、又欺公主語。公主以聞。免死、没其家産。
『全書』1434年9月
爪哇商舶入貢方物。
安邦路總管阮宗徐、同總管黎遙貶三資罷職。本朝禁臣民不得私販外國商貨、時有爪哇舶至雲屯鎭、宗徐等當檢録舶貨正數、前已將原數供報、後復隠詐改換其状、而私販九百餘緍、自與黎遙各占百緍、事發、故罪之。
『全書』1437年
(八月)暹羅國商舶來貢。
とりわけ、山本氏の引く『安南志原』巻1、山川の条に(山本氏、291頁、なお「法国極東学院訂刊」版、45頁)
「雲屯山即斷山、在雲屯縣大海中、兩山對峙、一水中通、立木柵置水門、民家列居兩岸、李陳氏時、各國商舶多聚於此。」に、「李陳氏の時、各國商舶、多く此(雲屯)に聚まる」とあることから明らかであると思う。
ただ、聖宗期になると、雲屯に関する記載内容にも何らかの若干の変化が看取できるのではないかと推測される。
『全書』1467年の条には、
(三月)初明人李茂實等二十九人、有船二隻、載米二百五斛、送廣東布政司、漂到安邦、巡司獲之、送詣行在。都御史阮居道奏宜放囘本國、帝不從。至是以其米給本船人各一斛、充屯田司、其餘米令四城兵馬装載、分行宣光、歸化、陀江等處、給會期軍人飢困者。
蘇問嗒刺國商舶貢物。
索取明國人於蘇問嗒刺國商舶、送還本國。(明國人を蘇問嗒刺國の商舶より索取せしめ、本國に送還せしむ?)
とある。
『全書』1467年
(九月)暹羅國海舶來雲屯庄、上進金葉表文及獻方物、帝却不受。
(十月十九日)爪哇國使臣那盃等來見。
(十二月二十日)開決順化蓮港并清化、乂安各港。
この1467年12月20日の記事は、順化・清化・乂安の各港を開いたことを意味するものかとも考えられる。このことが対外貿易を許可したことに直結するかどうか、この記事からだけでは審らかにしえないが、何らかの開放的方向に向かったのかもしれない。
『全書』1469年の条には「(春、二月)勅旨捕海賊陛賞」とあり、『全書』1470年の条には、「春、正月、禁假造皮笠、選金吾衛武士捕海賊」とある。本書には「海外貿易に対する清朝の管理は海上および国内の治安維持に主眼が置かれていた」(120頁)とあり、同様にベトナムにおいても「海賊活動」の取り締まりを軍人を用いて行っていたように受け止められる。『全書』に初出と思われる1469年の条にあるこの「海賊」とは、時代的に見てどのような性格の「海賊」なのであろうか。この「海賊」と理解されたのは、黎朝の『全書』編纂者の立場からのそれであって、実態となる集団はどのように歴史的に規定されるのであろうか。『全書』の李朝期の1182年の条では「盗劫」とあり、1221年の条には「盗賊」とあり、また陳朝期1344年、1358年、1360年の各条には「盗劫」とあり、そして黎初の1434年5月18日の条や1456年5月の条にも、また「盗劫」とある。これらと「海賊」は異なるものではないであろうか。
ところで、市舶司に関しては、先生は以前「出入りする人間と積み荷を調べ、抽解(関税・手数料としての輸入品からの現物徴収)や和買(輸入品の先買いないし独占買い上げ)、禁制品(銅銭・武器・人間など)の密輸出の取り締まりをおこなった」といわれる(桃木氏、前掲論文1999年、115頁)。
ベトナムに設置された市舶司に関しては、明支配期のそれに関しては、山本氏が引く史料が参考になる(山本氏、前掲論文1939年、284-285頁、291頁)。
『皇明実録』永楽6年正月戊辰(19日)の条には、
設交趾雲屯市舶提擧司、置提擧副提擧各一員。
とあり、また同年十月庚子(28日)の条には、
増置雲屯市舶提擧司、提擧吏目各一員、設新平・順化二市舶提擧司、雲屯・新平・順化三抽分場。
といい、『安南志原』巻2、廨舎の条には、新平・順化の市舶提挙司および抽分場の記事とともに、
交趾雲南(?)屯市舶提擧司、見新安府雲屯縣、雲屯抽分場見新安府。(雲南屯とある南の字は衍字とみなすべきであるという)
という記載がある。また『明史』巻81、食貨志市舶の条には、永楽3年に浙江・福建・広東の三市舶司に各々駅を置いたという記載に続き、「尋設交阯雲南(ママ)市舶提擧司、接西南諸國朝貢者」とある。山本氏は雲南に市舶司を置いたというのは不可解で、明史に基づいた史料が『安南志原』に見られるように雲南屯とあり、それが誤って雲南となったに相違ないので、雲南とは雲屯の間違いであると推測する(山本氏前掲論文、1939年、285頁)。
ただ明支配から独立した黎朝は、初期において、中国的な市舶提挙司と類似した「提舶司」を設置し、安撫司とともに貿易管理システムの任をおわせたことは、先に引用した黎律615条の記事が物語っている。黎律615条にみえる「提舶司」の起源、つまりベトナム史上どの時代まで遡りえるのか、そしてここに現れた「提舶司」と明代におかれた市舶提挙司の継受関係は審らかにしえない。
ところで、この市舶司貿易の問題は、黎朝15世紀を小農社会論で理解する方向で考えた場合(例えば、八尾隆生氏「山の民と平野の民の形成史――15世紀のベトナム」および「収縮と拡大の交互する時代――16~18世紀のベトナム」(『岩波講座東南アジア史3――東南アジア近世の成立』岩波書店、2001年、219-223頁)、雲屯などの貿易とどう整合(あるいは不整合)していくのか、その統一的全体理解に達するのか、未解決な問題ではないであろうか。このことは、いみじくも桃木先生が先の論文で、
「14世紀後半に成立した明帝国に、モンゴルを引き継ぐ海上商業帝国か、小農を基礎とする政治的帝国かという根源的選択を迫り、後者を選んだ明は海禁を断行した[文献28、檀上寛「明初の海禁と朝貢」森正夫ほか編『明清時代史の基本問題』汲古書院、1997年]。20世紀初頭までの中国史と世界史に影響する激動が、13、14世紀の間に起こったのだ」(桃木氏、前掲論文1999年、128―129頁)と述べておられる。
明の海禁政策のもとで、雲屯貿易は維持できたのか。周知のように、黎律に登場する安撫使は1466年6月の聖宗の官制改革により廃止される“運命”にあったので、この時期の前後で“市舶司制度のような貿易管理システム”にも変容が見られたのではないか? 管理する行政機関のみならず、その交易品内容、政策をも含めて、どう変化したのかという観点に立って、黎朝の15世紀の貿易システムを見直す必要があるのかもしれない。(私は、この聖宗の官制改革を、李陳朝期的市舶司もしくは「提舶司」、安撫使運営の崩壊ではと想像している)。
ベトナム史以外で朝鮮史などでは具体的にどのように考えられているのであろうか。例えば、小農社会論の提唱者として知られる宮嶋博史の論文「東アジア小農社会の形成」(溝口雄三ほか編『アジアから考える6 長期社会変動社会』東京大学出版会、1994年所収)には、海域アジア史的視点は導入されていないように見受けられる。むしろこの視点は同書に所収された川勝平太氏の論文「東アジア経済圏の成立と展開」にも近いものが導入されているが、小農社会との関連にまでは言及されていない。すなわち、近世の日本では「鎖国システム」、ヨーロッパでは「近代世界システム」という経済社会が成立する際に、生産革命と脱亜という共通性を有していたが、それらの成立に海洋ないし海域が重要な意味(「近代世界システム」は「海洋イスラム」から、徳川日本の「鎖国システム」は「海洋中国」から自立し、旧アジア文明から自立して離脱したという意味で「脱亜」といえる)をもっていたとする川勝論と、東アジアの中国・日本・朝鮮に共通する社会構造上の特徴を小農社会という概念で捉えることを提唱し、朝鮮を中心に論じた宮嶋論とが、(アジア)海域史という視点から、どう関連するのかという問題を理解しにくい。換言すれば、ヨーロッパの「近代世界システム」という海域史との関連は、本編著の第17章の解説によりわかりやすいのであるが、東アジアの「鎖国システム」ないし小農社会論と海域史との関連については、研究の進展状況が左右しているためか、わかりづらい気がする。川勝氏の議論から学ぶべきは、19世紀の日本は「自給自足」の経済を確立していたことが、外国貿易を退ける「鎖国」体制を採らせることを可能にしたという点である(川勝氏前掲論文、1994年、25頁)。一方、ベトナムの「鎖国」政策と、経済の発展段階(ベトナムは自給自足経済に入ったのか。また入らなかったのか。入ったとしたら、いつの時代か?)との関係についても考えてみることが必要かもしれない。
こうした大きな問題には小生も答えることができないが、ベトナムの海域史にアプローチするとしたら、どの程度のことがわかるか、そして史料として何があるのかを、ここで少し追究してみた。雲屯に関しては、先にフイ氏が黎律第612条の註釈でも引用した『全書』1434年9月の条が参考になる。
爪哇商舶入貢方物。
安邦路總管阮宗徐、同總管黎遙貶三資罷職。本朝禁臣民不得私販外國商貨、時有爪哇舶至雲屯鎭、宗徐等當檢録舶貨正數、前已將原數供報、後復隠詐改換其状、而私販九百餘緍、自與黎遙各占百緍、事發、故罪之。
『全書』1434年9月の条で、安邦路の総管の不正事件が発覚して貶爵刑に処せられ、免職という処罰が科せられている。黎初の貿易管理システムは、この記事や『国朝刑律』第615条を見てもわかるように路ないし鎮、そして路官として安撫使、および総管という武職(開国功臣系の高官が主に就任したと考えられる重職)といった行政単位、および官職のもとに機能した貿易管理体制であったとみなされる。こうした管理体制の不備・崩壊の現われの一端が、この1434年の不正事件であったのではないだろうか。いずれにしても、この路と鎮については、1466年に路は府に、鎮は州に改変される。ただし、路制は全く姿を消すが、後期に鎮は復活したという(藤原利一郎先生、前掲書1986年、476頁)。そして路の安撫使も知府にこのときに改変される。また総管も1471年の皇朝官制のもとでは廃止された官僚ポストであったので、洪徳年間(1470-1497年)には、それ以前とは異なる管理システムに改変されたと考えることが適当かと推察する。
ところで、本書の第9章の「倭寇論のゆくえ」では、東アジア海域史の大きな2つの激動期、14世紀中葉と16世紀中葉とに歴史の主役の1つとして登場した「倭寇」を前期倭寇、後期倭寇と規定してある(80頁)。ベトナムの「海賊」もこうした範疇で捉えることができるのだろうか(ベトナムのこの史料は時期的にズレが見られるが)。またこの点で本編著で興味深い記述は、イメージの格差の問題である。すなわち明の官憲から見れば、悪逆無道の海賊の頭目に過ぎない王直や徐海は、日本では「五峰先生」「明山和尚」などと尊称された。彼らは、中国浙江省や福建省の沿岸島嶼部を主な根拠地とし、地元の郷紳(富豪層)と結んで密貿易を行っていたという(88頁)。こうした事例を参考にして、ベトナムで出現した「海賊のイメージ」を検証できないものかと考える。
ちなみに、『全書』1471年の条に、
九月二十六日、校定皇朝官制。(中略)在外各鎭亦置府衛都司、江海各處亦置巡檢江官、諸承司府縣州外任各衙門、莫不各置官以治之焉。
『全書』1485年
十二月、令各處江官、如遇進表日、許在衙門行禮、停就都司。
などが取り締まり機関の史料として注目される。
ところで、本編著との関連でいえば、『元典章』「市舶則法」私的な交易を明確に禁じていないとされ(171頁[小野裕子2006])、「南宋――モンゴル時代はしばしば、私的な交易が公的な交易に優越する時代と捉えられる。しかしモンゴル時代には、こうした単純な二項対立的図式では捉えきれない複雑な実態がある」(170頁)とする見解は、今後の研究の参考となる。ちなみに『元典章』の戸部、課程、市舶司には
番舡南舡請給公慿公驗回帆、或有遭風被劫事故、合經所在官司陳告体問的實移文市舶司轉申怱(なし)府衙門、再行合属体復如委是遭風被劫事故方焉消落元給憑驗字號、若妄稱遭風等搬捵舡貨送所属究問、断没施行、或有公(なし)途山嶋(なし)灘嶼海岸停泊、汲水取柴恐有稍碇水手搭客等人乗時懐袖偸蔵貴細物貨上岸博易物件、或有舶啇(ママ)之家回帆將市舶司私用小舡推送食米接應舶舡、却行輒取貴細物貨、不行抽解、即是滲泄並許諸人告捕餘行断没犯人杖一百七下、告捕人於没官物内三分之一給賞。仍行下公(なし)海州縣出榜暁諭(下略)
とある。
『元典章』も黎律も(また『明代律例彙編』巻15-6 兵律三 關津、〈私出外境及違禁下海〉の条では、10分の3を規定)密告者・捕獲者への報酬を3分の1の比率と規定しているのは偶然の一致であろうか。何らかの影響を想定して検証を進める必要があるかもしれない。ただ中国の元代とベトナムの黎朝という時代の社会経済状況が反映されているためか、『元典章』では「没官物」(国家に没収された現物の意か)の中から、その報酬を当てたのに対して、黎律の場合、第615条および第616条とも罰金刑100貫ないし200貫の3分の1を充当したという相違がある。この金額は庶民が支払うには余りにも高額であることには注意を要する。というのは、黎朝の洪徳年間(1470-1497)の官僚の俸禄表をみても、正9品は16貫、従9品で14貫で、正1品でようやく99貫であったことを思えば、この罰金額が相当に高額であったことが想像されよう(俸禄表は Le Kim Ngan, To-chuc Chinh-quyen Trung-uong duoi trieu Le Thanh Tong (1460-1497), Sai-gon, 1963, tr.154)。
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