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「江戸時代の正徳の疑獄事件」その1

2009-06-16 17:55:46 | 日記
「江戸時代の正徳の疑獄事件」その1



 例えば、「世の奥様方、あなたは、父親と旦那とどちらを選びますか?」と問いかけられたら、どうお答えになるのだろうか。これは世の女性にとっては、究極の二者択一の問題かもしれない。不謹慎な話であるが、どちらかの生存にかかわる問いだとすると、事態はさらに深刻なものとなり、答えに窮するはずである。


ところが、中国の春秋・戦国時代とはこうした回答に困難な問いかけが現実的な問題として迫ってきた時代であった。その話は『春秋左氏伝』桓公15年(B.C.697)の条にのっている。例えば、竹内照夫訳『春秋左氏伝』(平凡社、1972年[1986年版]、34頁)。また小倉芳彦訳『春秋左氏伝』(岩波文庫、1989年[1994年版]、96~97頁)。なお呉樹平等点校『十三経(下)』(北京燕山出版社、1991年、1011頁)に原文あり。

鄭の祭仲の専横を鄭伯(公)は嫌っていた。だから、祭仲の娘婿(むすめむこ)である雍糾(ようきゅう)に祭仲を殺すように命じた。そこで雍糾は祭仲を郊外での饗宴に連れ出そうと計画する。ところが、祭仲の娘で、雍糺の妻であった雍姫(ようき)はこの計画を知ってしまい、悩んだ末に、その母親に次のように相談した。すなわち、「父親と夫とでは、いずれが親(ちか)しいのですか。」と。すると母親は答えた。「人はこととごく夫なり。父は一つのみ。なんぞ比すべけんや。(人は誰でも夫にできるが、父親は一人きりです。比較などできません。)」と。
そして娘の雍姫は、父の祭仲に報告した。「夫の雍氏が自宅ではなく、郊外に父上を饗応しようとしていますが、不審な点がありますので、お耳に入れておきます。」と。
結局、祭仲の方が娘婿の雍糾を殺した。

中国の春秋時代、桓公15年、すなわちB.C.697年に、こうした事件が起こったことを、『春秋左氏伝』はしるしている。
実は、この事件が後述するように、日本の江戸時代の裁判に思わぬ根拠を与えているのである。

ところで儒教は、「三綱の道」という著名な教えを中心にすえる。すなわち、簡単にいえば、君臣・父子・夫婦の関係を大切にしましょうという教えである。君臣というのは現代風にいえば、会社の上司と部下と考えれば、残りの2つの関係は、今日でも通用するわかりやすい教えである。この3つの関係がうまく調和すれば、それに越したことはない。

しかし、現実はそう甘くもないし、様々な偶然が作用して事は思わぬ展開をとげ、今日からは想像もできないような議論が行われるものである。新井白石が『折りたく柴の記』で紹介している「正徳の疑獄」とは、そのような犯罪事件であった。つまり正徳元年(1711)に武蔵国川越在に起こった殺人事件である。

この事件は、桑原隲蔵(くわばらじつぞう、1870―1931)という博識な東洋史学者がいち早く注目した事件である。この人物は、あの有名なフランス文学者である桑原武夫(1904-1988)のお父さんである。隲蔵には『全集』が出版されており、この正徳の疑獄が記されているが(『桑原隲蔵全集』巻3、岩波書店、1968年[1988年版]、55~57頁、88~90頁。より入手しやすく、目にしやすい本は次の講談社学術文庫の方であろう。桑原隲蔵著・宮崎市定校訂『中国の孝道』(講談社学術文庫、1977年[1989年版]、111~115頁)。そして新井白石の『折りたく柴の記』の方は、これもめぐりあわせであろうか、隲蔵の息子の武夫が訳した次の文庫本が参考になろう(新井白石著・桑原武夫訳『折りたく柴の記』中公文庫、1974年[1994年版]、210~217頁)。

事件の概要は次のようにまとめられる。
正徳元年(1711)に、武蔵国川越在の百姓甚五兵衛は、息子四郎兵衛と共謀して、聟の伊兵衛を商用旅行の途中で殺害した。ウメは、甚五兵衛の娘で、伊兵衛の妻であった。彼女は、父と兄による殺害を知らず、夫の不在中、父の家に引っ越して、その帰宅を待ちわびていた。そんなある日、たまたま付近の川筋に死体が見つかった。ウメは名主に願い出て、その死体を引き上げて検査してもらうと、彼女の夫伊兵衛であった。これがきっかけとなって、父甚五兵衛と兄四郎兵衛の2人が夫伊兵衛を殺害して、その死体を川中に沈めた事実が発覚した。

父と兄の罪科は直ちに確定した。しかしこの事実が発覚したきっかけをつくったウメの行動は、父の悪事を告発する罪に当るのではないかとの疑惑が持ち上がった。そこで川越の領主秋元但馬守(たじまのかみ)は、ウメの処置について、幕府に伺書を差し出して、その指図を仰ぐことになったのである。

幕府もこの事件を重大視して、その処置について、評定衆をはじめ、各方面の意見を徴した。それは①評定衆、②林大学頭信篤、③新井白石の3つの意見に分かれた。
①評定衆は次の判例を示した。すなわち、貞享4年(1687)4月、自分の夫が自分の養母と密通したと告訴した女があった。その密通の2人は、斬首のうえ獄門にかけられた。そしてその女は、母と夫とを告訴した罪により、入獄1年、同5年3月になって、奴(やっこ)とされたというものである。
しかし、白石はこの事件の判例とすべきでないとした。

②信篤は、先に引用した『春秋左氏伝』(桓公15年の条)の記事に自らの意見の根拠を見い出した。
また『論語』子路篇には、自分の父が羊を盗んだとき、息子が告発した話が載っている。その際に孔子は、「わたしどもの村の正直者はそれと違います。父は子のために隠し、子は父のために隠します。正直さはそこに自然にそなわるものです。」(例えば、金谷治訳注『論語』岩波文庫、1963年[1994年版]、181頁)。『論語』では、父の罪を隠すのを正しいとしている。

そして中国の刑法典『唐律疏議』闘訟篇には、「父母の悪を告訴する者は絞首刑に処す」(「諸(およ)そ祖父母・父母を告する者は絞す」)と書かれてある。だから父の罪を訴えたものは死罪にあたる。もし父が夫を殺したことを知らずに訴えたならば、また別である。

日本の刑法典『養老律』には、八虐の七に不孝を置き、その1つとして「祖父母・父母を告ぐる」ことを挙げ、闘訟律には「祖父母・父母を告ぐる者は絞す」とある。

これらの記事を根拠に、父は夫以上の存在であるから、夫の事をもって父の罪をあばくことはできないとした。そしてウメが父が犯人と感知していたか否かという観点から、2つの場合を想定した。
ⓐ薄々でも感知していたなら、犯罪発覚のきっかけをつくったので、ウメは父を告発した罪に相当し、死罪に処すべきである。
ⓑもし全く感知していなかったら、死罪を免じ、官に没して、(ぬひ)とすべきである。
以上が信篤の意見であった。

これに対する将軍の意見は次のようなものであった。
つまり今回の事件で春秋時代の祭仲の妻の言葉など採用すべきでない。またこのことは、過ちから起こったことではない。また孔子が罪を隠すのが正しいと言われたとも思われない。この上は白石の意見が聞きたいので、記して差し出すように命じた。

③白石は友人の室鳩巣(むろきゅうそう、1658―1734)と相談した。2人は、ともに木下順庵(きのしたじゅんあん、1621-1698)のもとで朱子学を学んだ門人であった。

白石は、この事件に関して、どのような見解を下したのであろうか。
その議論は、なかなか深遠である。白石の基本的な立場は、この事件は三綱の変則であるから、常道から類推すべきではないというものであった。ここで判断すべき点が3つあるという。
ⓐ万事を正すのに、人倫の大綱をもってすべきこと。
ⓑ準拠するのに、喪服の制度によるべきこと。
ⓒ臨機応変の法で考えるべきこと。

まずⓐについて
中国古代の礼の古典にある三綱とは、君は臣のたよるべき綱(おおづな)、父は子の綱、夫は妻の綱ということである。この三綱について、君と父と夫とはその尊さは同等である。これに仕えるに、差別があってはならないとする。

そしてⓑについて
古代の聖王の制度では、女子がいいなずけになっても、まだ家にいる場合、および離婚後、実家に帰った場合は、父が死ねば、父のために斬衰(ざんさい、あらい麻布で、裾を縫わずに、切りはなった衣服)を足かけ3年着用する。また結婚後、夫に従う場合、父が死ねば、斉衰不杖期(しさいふじょうき、裾を縫った、斬衰に次ぐ喪服を1年間着用する)の喪に服する。
そこで、女子が実家にいるときと、結婚後とでは、父に対する服喪が違いすぎるという疑問が出てくるので、『儀礼』の「喪服伝」にその道理を次のように明らかにしている。すなわち、「女には三従の道がある。自分だけの道はない。そこで、結婚以前は父に従い、結婚した以上は夫に従い、夫が死ねば子に従う。だから父は子の天であり、夫は妻の天である。女が斬衰の喪服を二つ着ないのは、ちょうど天が二つないのと同じである。女は二つのものを尊ぶことができない」というのである。

ここに見られるように、天が二つないと同様、女は二つのものを尊ぶことができない。だから、人の妻は夫に従い、父に従うべきでないという道理が優先する。

ⓒについて
すべての物事には、変わるものと不変のものとがある。これを処理するには、経(不変の基準)があり、権(臨機の処置)があるので、臨機応変の法によるべきだと白石は考えた。

唐代の儒者である柳宗元は、「権とは、経を達成する手段である(「経なる者は常なり。権なる者は経を達するなり」『断刑論』)とした。女が未婚の時は父に従い、結婚後は夫に従うのは、時宜にかなった行いであって(「時に之を措きて宜し」『中庸』)、いわゆる古代の聖王の制度である。

『論語』顔淵篇にも「君は君らしく、臣は臣らしく、父は父らしく、子は子らしく」(「斉の景公、政を孔子に問う。孔子、対えて曰く、君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たりと」)とあり、加えて、夫は夫らしく、妻は妻らしくするのは、人倫の常道である。朱子もこの部分に、「此は人道の大経、政事の根本なり」と注を付している。

逆に君が君らしからず、臣が臣らしからず、父が父らしからず、子が子らしからず、夫が夫らしからず、妻が妻らしからぬのは、人倫の変則である。この点、『古文孝経』孔安国序に「君は君たらずと雖も、臣は以て臣たらざる可からず。父は父たらずと雖も、子は以て子たらざる可からず」とあるように、君が君らしくなくても、臣は臣らしくないということはなく、父が父らしくなくても、子は子らしくないということはないのは、人倫の変則に対処して常を失わないと言うべきである。同様に、夫が夫らしくなくても、妻は妻らしくないということはない。

人の臣下でありながら、父が主君を殺したり、人の妻でありながら、父が自分の夫を殺すようなことは、人倫の変則の最大のものである。臣下が主君に忠であろうとするあまりに、父に孝とはならなくなったり、妻が夫に尽くそうとするあまりに、父に孝とならなくなったりする場合は、最大の不幸といえる。

白石は、ここで中国の歴史上の人物を具体的に例示する。
例えば、人の臣下であって、父に従わずして主君に忠であった者として、唐の李璀(りさい)と石演芬(せきえんふん)を挙げる。2人は8世紀の武将、李懐光の実子と養子であった。2人とも父の反意を皇帝に告げたために命を落としてしまう。

また人の妻として父と兄に従わないで夫に尽くした者として、漢の孝平后・孝献后、北周(北斉とするのは誤り)の天元后、呉の太子妃を挙げる。
ここに挙げた人物に関しては、孝平后は、前漢末期の反逆者王莽の娘で、平帝の皇后になり、孝献后は曹操の娘で、後漢の献帝の皇后になり、天元后は隋朝の開祖楊堅の娘で、北周の宣帝の皇后になった女性である。彼女たちは、夫の王朝を奪おうとした父兄の意志に従わず、反抗したのであった。

一方、呉の太子妃は、三国時代の呉の重臣張昭の孫娘で、孫権の太子孫和の妃をさす。夫が権力争いに巻きこまれて殺されたので、彼女はそのあとを追って、自殺したのである。国中がその死を悼んだ。

このような歴史的事例はあるものの、父のために夫が殺されて、そのことを告発した者を知らないと白石はいう。
ただ、夫が君の命令を受けて、自分の父を殺そうとするのを知り、父に告発して、その父が夫を殺した先例は、林大学頭信篤が挙げたところの、鄭の祭仲の娘である雍姫の場合である。これが信篤の論拠となったのである。そこでは、雍姫の母は娘に「男はすべて夫となる可能性があるが、父はかけがえがない」と忠告し、娘は父に夫の暗殺計画を漏らしてしまう。

果たして、雍姫の母の言い分と、娘が告発したことは、本当に正しいのかと、白石は疑問を呈する。つまり、雍姫が夫のためを思って、その父を父としなくても、その雍姫を不孝だの、不義だのと非難できるだろうかと疑問をさしはさむ。

その母親の論法を、娘の代わりに臣下に置き換えて、適用したらどうなるのであろうか。つまり自分の父が主君を暗殺しようとしているのを知った臣下に対して、「人は誰でも主君とすることができる。父は一人きりである。どうして比較することができようか」と言うに等しい。この言い分のもとに、父と共謀して、主君を殺したとすれば、明らかによくないことであろう(この論理がまかり通れば、君臣関係を基礎とする封建制度が、根底的に崩壊することになる)。

そして白石は、中国の史実として『春秋左氏伝』から別の事例をもち出す。
『春秋左氏伝』隠公4年(B.C.719年)では、衛の公子の州吁(しゅうく)が、その父である主君を殺して、国を奪った。その際に家老石碏(せきさく)の子である厚も、州吁に加担していた。州吁は主君を殺して国君の地位についたので、民を安定させることができなかった。そこで謀臣の石厚は、君位安定策を父に尋ねた。すると周王に朝覲(ちょうきん)するのがよいが、そのためには、周王に気に入られている陳の国に頼んだらよいと言った。その一方で、父は陳に対して、州吁と息子はわが主君を弑した者であるから、処刑してほしいと通告した。2人が陳に赴くと、捕らえられて処刑されてしまう。つまり父は子を“売った”のである。

父の石碏は陳の国の手を借りつつ、主君を弑した2人を処刑することに成功し、主君の仇を討ったことになる。この行為を『春秋左氏伝』は君子の評として、次のように記して激賞した。つまり、父親の石碏は篤実な臣である。州吁を排除するのに息子の石厚まで連累させた。「大義、親(しん)ヲ滅ス」とはこのことであろうか」と。(小倉訳[上]、2008年版、36頁―38頁。竹内訳、1986年版、9頁―11頁。呉標点本[下]、1991年、973頁―974頁)。

このような史実があるものの、今回の事件について白石は更にいう。古代の聖王の制度では、既に結婚した娘は、その夫を天として、父を天とすることができない。たとえ、自分の父が夫を殺したことを告発したにしても、一般の父母告発の法律により論ずることはできない。

ましてや今回の事件の場合、この女が名主に願って、死体を見てから、それが夫であることを知り、役人が取り調べた結果、その父と兄が婿を殺したことを知ったのである。だから父と兄が夫を殺したことを知った上で、これを告発したのとは、事情が異なる。この女を断罪することは、その理由がないと白石は考える。

また父や兄が夫を殺した罪が暴露されて、すぐに自殺したならば、夫には義、父には孝、兄には悌の徳をなしたことになり、人倫の大きな変則に対処して、善をきわめたということができよう。確かに理想的にはそうするのがよかろうが、しかしそれは、人を責める議論である。「君子が寛大の心をもって人をゆるす道」にはならない。

昔から父のために夫が殺されて、自殺はしなかったが死ぬまで夫へのまことを守った女は少なくない。古人はその女が死ななかったからといって、節操を過小評価したりはしなかった。

人の妻が夫に仕えるのは、ちょうど人の臣下が主君のために忠を仕えるのと同じである。もし李璀と石演芬が世間のいわゆる忠臣・義士であるならば、祭仲の娘雍姫のような者を、孝行で従順な女としようとするのは、私が関知するところではないと、白石は言い切った。

このように白石は、議論を展開した。結局、白石は、すでに嫁した娘にとって、夫は父以上の存在であるべきだとし、夫のために父の悪事を告発するのも、やむをえない。なので、ウメの行為は罪に当らないとした。ましてや、彼女は最初父が犯人であることを感知しなかったので、罪を加えるいわれがないというのである。

結局、幕府は白石の意見を採用し、ウメに罪科を加えないことにした。また白石の助言により、ウメをさとし、剃髪して、父や夫の後生を弔うよう、その余生を鎌倉の尼寺(東慶寺)で送らせることにした。


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