歴史だより

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<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その4>

2011-01-03 10:25:10 | 日記
<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その4>

さて、今回の嶋尾氏の英語論文は、氏の研究業績の中でどのように位置づけられるのであろうか。氏の研究史上に位置づけるならば、その起点は、次の2つの論稿に求められる。
①「19世紀~20世紀初頭北部ベトナム村落における族結合再編」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年、213頁~254頁)
②「ベトナム村落と知識人」(『知識人の諸相-中国宋代を基点として』勉誠出版、2001年、107頁~117頁、とりわけ第4節「村と科挙」(112頁~116頁)
これら2つの論稿の構成は次のようになっている。
「19世紀~20世紀初頭北部ベトナム村落における族結合再編」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年、213頁~254頁)の構成
はじめに
一、百穀社と村内のゾンホの概況
二、18世紀以前の村の状況
 1.16世紀の転換
 2.<阮公(阮功)>族をめぐる村の紛争とその祭祀圏
  ①阮公朝
  ②沛郡公
 3.<裴允>族をめぐる紛争
 4.<阮琅>族の反儒教的反動?
 5.<阮廷>族における儒教と風水の受容
三、19世紀の族結合
 1.家譜編纂という事件
  ①裴允族
  ②阮廷族
  ③阮如族
  ④阮琅族
  ⑤裴輝族
  ⑥村の俗例(規約)の制定
 2.祠堂建設という事件
  ①裴輝族
  ②裴輝璠
  ③阮才族
四、仏領初期の族結合
 1.家譜の再編
 2.ミドルネームの確立
おわりに

「ベトナム村落と知識人」(『知識人の諸相-中国宋代を基点として』勉誠出版、2001年、107頁~117頁)の構成
一、伝統ベトナムの知識人の条件
二、漢字・漢文による文書行政国家
三、グエン朝の科挙
四、村と科挙
五、村の儒者と村を越える儒者

末成道男氏は、シンポジウムの総括コメントの中で、嶋尾論文「19世紀~20世紀初頭北部ベトナム村落における族結合再編」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年)を次のように評価している(末成、2000年、299頁)。すなわち、嶋尾論文は、ベトナムの1つの村の文献史料と聴き取り資料を収集・分析し、父系集団結合の事例を提示し、歴史学の立場からベトナムの親族研究の1つの到達点を示している。その概要としては、父系制形成は13世紀ころから始まるが、本格的な展開は16、17世紀以降であり、父系的な同姓の族意識は18世紀までには確立していたとする。ただし、17世紀~18世紀には、既に父系親族の活動が社の地域的範囲を超える場合もあったものの、その基盤は脆弱であった。19世紀以降、族結合の基盤整備が行なわれて、家譜の編纂と祠堂の建設により、強固なものとなっていった。
末成道男氏もベトナムのゾンホに関して、文化人類学の立場から関心をもち、研究している。その調査地は、潮曲社という村落であり、黎朝の1505年に阮嘉猷という進士を輩出したが阮朝期には1人も挙人を出していない。しかし家譜や祠堂はよく揃っている。この事実をどう解釈するかという問題に関して、嶋尾氏は次のような要因を考える必要があることを指摘している(嶋尾、2000年、251頁注43)。
①挙人に到達しなかった秀才以下の知識人の役割
②黎朝期以来の文化的伝統
③ハノイへの近接
④金縷社、姜亭社、定功社といった潮曲社の東に隣接する村々が阮朝期に挙人を輩出していること。
嶋尾氏と末成氏はそれぞれ歴史学もしくは文化人類学の立場から、ゾンホという同じ主題を研究したが、嶋尾氏の調査地はナムディン省の百穀社であり、末成氏の調査地潮曲社とは異なる。科挙系官僚の輩出数において対照的な性格を有する地域の比較は興味深く、2つの地域差が如実に反映されており、2人の議論を契機にして、学際的交流が更に深まり、今後新たな成果があがることを期待したい。

嶋尾氏は、「表2 百穀社のゾンホをめぐる出来事」について年表にまとめている(嶋尾、2000年、234頁。尚、英文では1922年から1940年にかけての祠堂再建が表にまとめられている[Shimao, 2009, p.73. note32.])
それによれば、1954年以降に、抗仏期に破壊された阮曰族祠堂が再建されたことが1件、そしてドイモイ政策を経て、1990年代には、やはり抗仏期に破壊・焼失された祠堂が再建されたようで、1991年に裴允族、1993年に阮益族、裴文族、1994年に陳族、阮文族といった事例を挙げている。
このように1990年代には抗仏期に破壊・焼失された祠堂を再建された動きは、何が影響しているのか、その政治的社会的、または思想的背景は何であろうか。現代における祠堂再建および家譜再編纂の意義は何であろうか。少なくとも前近代に盛行をみた科挙制という政治制度的バックボーンや朱子学的思想は消滅しているのであるから、それに代わる族結合原理が存在するのであろうか。そもそもベトナムの科挙制度は、郷試は北部では1915年まで、中部では1918年まで続けられ、会試は1919年まで行なわれた。ただ20世紀に入ってから、科挙試験の中身は漢文の試験だけでなく、ベトナム語やフランス語、歴史・政治の科目が加わったといわれる(嶋尾、2001年、111頁)。
ところで、父系出自血縁原理は、ベトナム以外ではどのように考えられているのであろうか。
東アジア社会における父系出自観念を、社会主義体制といった現代的脈絡との関連で見ると、どのようなことが指摘できるのであろうか。この点で、伊藤亜人氏は「コメント 父系血縁原理の現代的脈絡――韓国社会をめぐって」において、次のような点に言及している。
中国の社会主義体制のもとでは、父系血縁原理は、その理念を阻害する宗派主義として、否定する政策がとられてきた。そのため人類学者は、漢民族の社会主義体制の周辺地域である台湾、香港、東南アジアの華僑社会に関心を寄せたという。また韓国では、親族などの個人的な人脈以外に、都市の社会的紐帯として、宗教とりわけキリスト教の信仰が浮上してきた。つまり有力な親族や同郷人を人脈にもたない人々にとって、教会が精神的のみならず、社会的接点として機能するようになってきた(伊藤、2000年、277頁~278頁)。
こうした伊藤氏のコメントは、近代の父系血縁原理の変容および社会的紐帯を考える際に、示唆するところが多い。一方、嶋尾氏は、「ベトナム村落と知識人」において、村々の儒者をつなぐ師弟関係のネットワークが植民地化前夜に存在し、フランス侵略初期には、例えばナムディンにおいて、その師弟のネットワークが抗戦のネットワークとして活用されたことを指摘している。そして知識人のネットワークづくりは20世紀初頭の開明的知識人層の運動では全国規模で展開され、漢字・漢文エリートの人格的関係が広域の運動形成のための重要な契機であったという展望を記している(嶋尾、2001年、116頁~117頁)。こうした指摘は、先に紹介した宮沢氏の議論とともに、前近代と近代の社会的紐帯の連続性と断続性の問題を再考するきっかけを与えてくれることであろう。

嶋尾氏はナムディン地方のフィールドワークにより、様々な資料(史料)を収集してきた。とりわけ、集中的な調査地となったのが、前述したように、南定(ナムディン)省-務本(ヴバン)県-程川上(チンスエントゥオン)総百穀(バックコック)社である。ベトナム村落におけるこの村落の位置づけは、『国朝郷科録』により阮朝期の挙人の出身者をみると、百穀社から3人の挙人が輩出している(1841年の挙人の裴輝潘、1891年の挙人で92年副榜となった武善悌、1900年の挙人の阮周新)。「ベトナム村落と知識人」において触れてあるように、阮朝期に挙人を輩出した村落数は、2346村で、そのうち過半数(1462村)は一人の挙人しか出ていないことを思えば、40人以上を輩出した超エリート村とは比較にならないが、かなりのエリート村と位置づけられる。ただし、19世紀の挙人の数だけで判断するのは危険であるとして、末成道男氏が調査した潮曲という村は、阮朝期に挙人を1人も出していないが、家譜や祀堂はよく揃っていることも指摘している。
ところで、先の指摘との関連でいえば、村々の儒者をつなぐ師弟関係のネットワークが植民地化前夜に存在し、バックコック社の挙人の追悼碑文を、ファン・ヴァン・ギが著している点に言及している。すなわち、彼はナムディン省ダイアン県タムダン社の人で、1838年に進士に合格し、官職を歴任したほか、帰郷して故郷に学校を開いて門弟を育成した。ナムディン省の督学として科挙の受験生の指導にあたった。弟子達(多くは秀才クラス)を動員して、沿海地の開拓や村の米備蓄倉庫の建設などの公共事業を推進した。フランス侵略初期には、ナムディンにおいて、師弟のネットワークが抗戦のネットワークとして活用された。

嶋尾氏は、別稿において、1945年以降の百穀社内の家譜編纂についても言及している。すなわち1950年には、阮琅族第2支の家譜が漢字とローマ字の両方で編まれていたが、1966年には、阮公族がローマ字で総合的な家譜を作っているという(嶋尾、2000年、245頁)。1991年には村の最大ゾンホ裴輝族は、各人の事跡についてはほとんど触れていないものの、道良公以来の男子成員を網羅する大家譜を完成した。1945年以降、漢字漢文の家譜に替わってローマ字表記の家譜が作成されるというように変わってくる。(そして祠堂建設については、科挙制廃止後も、その建設が存続していたことは嶋尾氏も触れている。)
このような歴史的な変化に注目すると、伝統ベトナムの知識人の条件とはかけ離れたところで、族の活動としての家譜編纂が現代になっても存続していることに気づく。
かつて嶋尾氏はかつて「ベトナム村落と知識人」において、伝統ベトナムの知識人の条件として、3つを挙げていた。
①漢字・漢文を知っていること。
②中国の古典(経書、史書など)の素養があること。
③漢字・漢文で詩や賦を作ることが出来ること。
これら3つの条件は、中国式の官吏任用試験である科挙試験の教養であると論じた(嶋尾、2001年、107頁~109頁)。
このように科挙制は伝統ベトナムの知識人の存立条件として、重要な歴史的意義を持つものであったが、1910年代に廃止されてしまう。そればかりか、漢字そのものも公文書のみならず、家譜上からも消滅することになる。フランス植民地化とともに、公文書で漢字を使用することを禁止されてはいたが、1945年以降は、漢字にかわりクォック・グーというベトナムのローマ字表記の動きが現れてくる。
このように見てくると、漢字からクォック・グーへの変化は単に言語表記の変遷にとどまるものではなく、政治社会的、かつ文化的転換であったことに気づく。それにもかかわらず、家譜の編纂や祠堂の建設が1990年代の現在に至るまで執拗に続けられるのはなぜであろうか。こうした疑問が湧いてくる。
その要因については、時代的に区分して、改めて考察されるべき問題であると思う。今回、英語論文で嶋尾氏が主に検討対象とされた時代の阮朝期、とりわけ19世紀から20世紀初めは、科挙制の制度的実施と儒教思想に支えられていた時代であった。この時代については、題名にある「中国化(Sinification)」があてはまるであろう。ただ、その際に、家譜編纂と祠堂建設の思想的背景については必ずしも考察されていない(この点は後述)。

ところで八尾隆生氏は、家譜を「一族の来歴を示した家の歴史書」と定義し、原家譜は、15世紀頃から作成されたと推測している。ちなみに、漢喃研究院所蔵家譜の作成年代の平均は、1835.1年であるという。また、家譜という史料のもつ問題点としては、
①家譜の「中空構造」という特徴
②再構成の際に作為性が介入することを指摘している(八尾、2009年、22頁~23頁、52頁)。
家譜のもつこのような史料的限界を克服する上で、八尾氏は偽作する可能性が低く、信頼性のおける史料として、碑文に注目している(八尾、2009年、53頁)。こうした点を家譜を史料として利用する際に留意して歴史研究を進める必要があろう。
史料上の注意点以外に、次に歴史理論上の問題についてコメントを付しておきたい。周知のように、宮嶋博史氏は、東アジアに共通する社会構造上の特徴を小農社会という概念で捉えることを提唱した(溝口、1994年、6頁。宮嶋、1994年、67頁~96頁)。この学説を受けて、ベトナム史の八尾隆生氏は、近年の大著『黎初ヴェトナムの政治と社会』において、ベトナムの15世紀の黎朝社会を、この小農社会と規定する試みをしている(八尾、2009年、180頁~181頁、412頁、419頁~421頁。なおその書評として、本ブログ「八尾隆生先生の著作を読んで」を参照のこと)。
それでは、宮嶋氏の提示する小農社会論とは、どのようなものであろうか。ここでそれを簡潔に要約しておこう。
 小農社会とは、自己および家族労働力のみをもって独立した農業経営を行なう小農が、支配的な存在であるような社会を指す(宮嶋、1994年、70頁)。東アジアの小農社会は、人口の急速な増加と農業技術の変革という2つの条件を前提として成立し、中国では明代前期に、朝鮮・日本では17世紀頃にその転換を完了したと考えられている。そして小農社会成立の前提となった耕地の大開発を推進した主たる階層は、中国の士大夫層、朝鮮の両班層、日本の武士層である。中央集権的な官僚制的支配を統治理念にもつ朱子学を、彼らは政治的支配層として受容した(同上、82頁~85頁)。
小農社会の成立は、農業のあり方のみならず、社会構造や国家支配のあり方をも大きく変え、政治的支配と土地所有の遊離や民衆の均質化といった特徴をもたらし、家族・親族のあり方をも変えた。日本では、小農社会の成立により、「イエ」が形成された。そして家父長権が強化され、それに伴って女性の地位が低下してゆき、相続制においても分割相続から単独相続への変化が進行した。一方朝鮮では、李朝前期までは、両班の間では、男女均分相続が行われたので、母方の血縁も父方と同様に重視され、父系血縁集団としての同族集団は強固な存在ではなかった。しかし17世紀になると、相続制度では男子優待・長男優待へと、結婚後の居住形態も妻方居住から夫方居住へと変化していった。こうして父系血縁関係の重要性が高まり、同族結合も強化され、その同族結合を誇示するために、17、18世紀になってから、族譜が本格的に作成され始めた。両班層に始まるこうした家族・親族制度が一般民衆にまで及んでいくのは、18世紀以降のことである。一方、中国の場合は、不明な点が多いと断りながらも、同族結合が強化されていくのは、明代以降であるとし、宋代以前にまで遡るものとは考えにくいという。
このように東アジアの小農社会の成立に伴って形成されてきた家族・親族制度は大きく変化し、近代以降もその特徴は継承された。例えば、20世紀の朝鮮において族譜刊行が盛に行なわれたことからもわかるように、同族結合は強化されてきた。14世紀から17世紀にかけて、小農社会の成立に伴う社会構造上の特徴は、従来「伝統」として一括され、「近代」と対立させて、「伝統」は「近代」によって解消・消滅してゆくものとして捉えられてきた。しかし事態は逆で、「伝統」は「近代」の中で再生・強化されていくものとして、理解し直すことが必要であると説く。つまり東アジアの長期にわたる社会変動の分水嶺は、前近代と近代の間ではなく、小農社会成立の前後、すなわち「伝統」の形成以前と以後の間に置かれるべきではないかと提言している(同上、91頁~94頁)。



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