リートリンの覚書

第十九代・允恭天皇


第十九代・允恭天皇(いんぎょうてんのう)


生没年 ?~453(享年?歳)
在位年 412(?歳)~453(?歳)


別名


雄朝津間稚子宿禰天皇
(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと)

雄朝津間稚子宿禰皇子
(おあさつまわくごのすくねのみこ)

男淺津間若子宿禰命
(おあさづまわくごのすくねのみこと)




仁徳天皇
(にんとくてんのう)




磐之媛命
(いわのひめのみこと)


配偶者


皇后・忍坂大中姫
(おしさかのおおなかつひめ)

妃・弟姫


(日本書紀より作成)


木梨軽皇子
(きなしのかるのみこ)
名形大娘皇女
(ながたのおおいらつめのひめみこ)
境黒彦皇子
(さかいのくろひこのみこ)
穴穂天皇
(あなほのすめらみこと)
軽大娘皇女
(かるのおおいらつめのひめみこ)
八釣白彦皇子
(やつりのしろひこのみこ)
大泊瀬稚武天皇
(おおはつせのわかたけるのすめらみこと)
但馬橘大娘皇女
(たじまのたちばなのおおいらつめのひめみこ)
酒見皇女
(さかみのひめみこ)


略歴(日本書紀の伝えより)


允恭天皇は、反正天皇の同母弟です。天皇は幼いころから仁惠(じんけい)で儉下(へりくだ)っていました。壮年になると病が重く、容止(ようし)が不便でした。

反正天皇5年1月
反正天皇が崩御しました。
ここで群卿は議論して、雄朝津間稚子宿禰皇子が、年長で仁孝なので、天皇に即して欲しいと請願しました。

しかし、皇子は病が重く、歩行もできない。自分は愚かであるから位を継ぐことはできない。と断りました。

元年12月
皇子の妃・忍坂大中姫命は、群臣が憂い、呻いているのに苦しみ、自ら洗手水(おおてみず)を執って、皇子の前に進みでて、天皇の位に即位するように請願しますが、皇子は背中を向けて何も言いませんでした。

大中姫命はかしこまって、退くこともできず、四、五剋(とき)が経ちました。時は、師走で風が激しく寒く、大中姫の捧げた鋺(まり)の水がこぼれて腕で凍り、寒さに堪えられず、死にそうになりました。

皇子は振り返ると助け起こして、群臣の請願を聞き入れ、帝位につきました。

允恭天皇2年2月14日
忍坂大中姫を立てて皇后としました。この日、皇后のために刑部(おさかべ)を定めました。

皇后は、木梨軽皇子、名形大娘皇女、境黒彦皇子、穴穂天皇、軽大娘皇女、八釣白彦皇子、大泊瀬稚武天皇、但馬橘大娘皇女、酒見皇女を生みました。

以前皇后に不敬を働いたため、闘鷄国造を落として稲置としました。

允恭天皇3年3月1日、
使いを遣わして良医を新羅に求めました。

8月
新羅から医者が到着し、治療をしました。天皇の病は完治しました。

允恭天皇4年9月9日、
国家が治まらないのは、姓名の乱れが原因による。よって姓名の乱れを正すよう、詔を出しました。

28日、
諸々の氏姓の人等に沐浴斎戒(ゆかあみものいみ)し、各、盟神探湯(くがたち)するよう詔を出しました。

そこで、味橿丘(うまかしのおか)の辞禍戸岬(ことのまがとのさき)に、探湯瓮(くかへ)を据えて、諸人を向かわせて、諸人は各々、木綿(ゆう)の手襷(たすき)をつけて、釜に赴いて探湯しました。

真実を得た者は自ずと無傷で、真実を得ない者は皆、傷つきました。この後、氏姓は自ずと定まり、更に詐る者はありませんでした。

允恭天皇5年7月14日、
地震がありました。

これ以前に、葛城襲津彦の孫の玉田宿禰に命じて、反正天皇のの殯(もがり)を司らせました。

地震があった夕に、尾張連吾襲(あそ)に、殯宮の状況を視察させました。すると、悉く人が集まり、欠けているところもありませんでした。しかし殯宮大夫(もがりのみやのかみ)である玉田宿禰だけがいませんでした。吾襲はそのことを報告しました。

また、吾襲を派遣して、玉田宿禰を調査させました。すると、玉田宿禰は酒宴をしていました。

玉田宿禰は表沙汰になることを畏れ、吾襲を殺しました。

それを聞いた天皇は玉田宿禰を呼びだしましたが、宿禰は疑って、衣の中に鎧を着て行きました。

小墾田の采女が、宿禰が衣の中に鎧を着ているのを見て、天皇に報告しました。
天皇は兵を設けて宿禰を誅殺しました。

11月11日、
反正天皇を耳原陵に葬りました。

允恭天皇7年12月1日、
新室(にいむろ)で酒盛りをしました。そこで天皇は自ら琴を弾き、皇后が舞いました。

舞い終えた皇后でしたが、禮事(いやごと)を言いませんでした。当時の風俗は、宴会で舞う者は、舞い終えると、座長(くらかみ)に対して、「娘子を奉る」というものでした。

天皇は「何故、禮を失せたのか?」といいました。皇后は畏れて、再び舞、終えると、「娘子を奉る」といいました。天皇は奉る娘子の名を問い、皇后は「私の妹で、名を弟姫(おとひめ)です」といいました。

弟姫は容姿が優れていて美しく、その麗しき光は衣を通して光っていました。時の人は衣通郎姫(そとおしのいらつめ)と呼びました。

天皇の心は既に衣通郎姫にありました、ですから皇后に強いて進めさせたのです。皇后はこれを知っていたのでたやすく禮事を言わなかったのです。

天皇は歓喜して、翌日、使いを派遣して弟姫を呼びました。

しかし、弟姫は皇后に気兼ねして、七度呼びだされますが、参向しませんでした。
そこで天皇は舎人の中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を派遣しました。

中臣烏賊津使主は、乾し飯を包み衣の中に入れると、弟姫のいる坂田へ向かいました。

そして、「『必ず召しつれて来いと、もし来れないと、必ず罪とする』、との天皇の命をうけています。故に、返って極刑をうけるよりも、むしろ庭に伏して死にます」といい、七日経ても、飲食を与えても食べず、庭の中に伏していました。しかし、密かに懐中の乾し飯を食べていました。

弟姫は皇后が妬むだろうと思い、天皇の命を拒んでいましたが、ここで忠臣を亡くしては、自分の罪になると思い、烏賊津使主に従い京へ向かいました。

京に至ると、使主は、弟姫を倭直吾子籠の家に留めて、天皇に復命しました。天皇は大いに喜びました。

しかし、皇后の心は穏やかではありませんでした。そこで、宮中には近づけず、殿屋を藤原に造って、そこに弟姫を居させました。

大泊瀬天皇を産む夕にあたり、天皇ははじめて藤原宮に行幸しました。皇后はこれを聞いて恨んで、自ら産殿を焼いて死のうとしました。天皇はこれを聞いて大いに驚き、「朕が過っていた」といい、皇后の意を慰め、諭しました。

允恭天皇8年2月、
天皇は藤原に行幸しました。そこで、衣通郎姫と歌を贈り合いました。

これを聞いた皇后は大いに恨みました。そこで、衣通郎姫は、「皇后が私の為に苦しんでいます、王居を離れて遠くに居たいと請願しました。

そこで、更に宮室を茅渟(ちぬ)につくり、衣通郎姫を居せました。天皇は日根野に遊獵(ゆうりょう)しました。

9年2月、
茅渟宮に行幸しました。

8月、
茅渟宮に行幸しました。

10月、
茅渟宮に行幸しました。

允恭天皇1月、
茅渟宮に行幸しました。

ここで皇后が、「私は、髪の毛先のごとく、すこしも弟姫を恨んでいません。しかし、陛下がしきりに茅渟宮に行幸することは、百姓の苦しみではありませんか。願わくは、天皇が行幸する数を減らすようにしてください」と諫めました。この後、まれに行幸しました。

允恭天皇11年3月4日、
茅渟宮に行幸しました。
衣通郎姫が歌って、

とこしへに 君も会へやも
いさな取り 海の浜藻の
寄る時々を

天皇は、これを聞いて、この歌は他人には聞かせてはいけない。といいました。

故に、時の人は浜藻を奈能利曽毛(なのりそも)とよびました。

これより以前、衣通郎姫は藤原宮にいました。この時、天皇は大伴室屋連(むろやのむらじ)に詔して、「朕はこの頃、美麗の女を得た。皇后の同母妹だ。ことのほか愛おしい。その名を後の世に伝いたいとおもう。どうしたらよいだろうか」といいました。

そこで、諸国造らに科して衣通郎姫のために藤原部を定めました。

允恭天皇14年秋9月12日、
天皇は淡路島で狩りをしました。島には沢山の動物が満ちていました。しかし、終日に一つの獣さえも獲ることができませんでした。

そこで占わせると、島の神が祟って、「獣を獲る事ができないのは、これは我の心である。赤石の海の底に真珠がある。その珠を祠(まつ)るなら、悉く獣を獲るだろう」といいました。

そこで、各地の海人を集めて、探させました。
しかし、海は深く底に至ることができませんでした。

唯ひとりの海人がいました。男狭磯(おさし)といいます。彼は阿波国の長邑(ながのむら)の海人で、諸の海人に勝っていました。

彼は、海の底で光る大鮑を見つけそれを抱いて浮かび出てきましたが、息絶え、浪の上で死んでしまいました。

その大鮑の腹の中に桃の実ぐらいの真珠がありました。そこで、島神に祀ると、多くの獣を狩る事ができました。

男狭磯が海に入って死んだことを悲しんで、則ち、墓を作り厚く葬りました。その墓は今もなおあります。

允恭天皇23年春3月7日、
木梨軽皇子を立てて皇太子としました。

皇太子の容貌は美しく見る者は自ずと感じました。

太子は常に同母妹の軽大娘皇女と交合したいと思っていました。

しかし、それは罪であると畏れ黙っていましたが、心は頂点まで達していて、将に死にそうになっていました。

そこで、どうせ無駄に空しく死にゆくよりも、罪となっても、耐え忍ぶことはできない。と思いました。そして遂に密かに情を通じました。

允恭天皇24年夏6月、
御膳の羹(あつもの)の汁が氷を作り凝固しました。天皇があやしみ、その理由を占わせると占者は「内の乱れがあり、近親相姦ではないでしょうか」といいました。

そこである者が、「木梨軽太子が、同母妹の軽大娘皇女を犯しました」といいました。そこで推問すると、事実でした。

太子は儲君(ひつぎのきみ)のため、刑することはできません。そこで軽大娘皇女を伊予に移しました。

允恭天皇42年春1月14日、
天皇が崩御しました。

ここにおいて、新羅王が貢物と弔使(ちょうし)等を贈りました。

弔使(ちょうし)等は葬礼がすべて終わり還ることになりました。帰路の途中、彼らは、愛でていた京城(みやこ)のほとりの耳成山(みみなしやま)、畝傍山(うねびやま)を懐かしみ、「うねめはや、みみはや」といいました。

ここで、彼等に従っていた、倭飼部(やまとのうまかいべ)がこの言葉を聞いて、新羅人が采女(うねめ)に通じたと疑い、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)に報告しました。

皇子はすぐに、悉く新羅の使者を禁固して、推問し、虚言だったと知ると、皆、許しました。

しかし、新羅人は、大いに恨み、更に貢上の物と種類と船数を減らしました。


日本書紀




皇居


日本書紀では遷都した記述はありません。古事記によると遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)とあります。




惠我長野北陵
(えがのながののきたのみささぎ)


祀る神社


皇霊殿(東京都千代田区)


そのほか


・『宋書』倭国伝に記された倭国王・済(せい)は允恭天皇のことだとされています。


  天皇・年表

376年仁徳天皇64年(0歳?)


誕生?


410年反正天皇5年(34歳?)


1月
反正天皇が崩御
ここで群卿に天皇として推挙されるも断る


412年允恭天皇元年(36歳?)


12月
皇子の妃・忍坂大中姫命に説得され天皇に即位


413年允恭天皇2年(37歳?)


2月14日
忍坂大中姫を皇后とする
この日、皇后のために刑部を定める

闘鷄国造を落として稲置とする


414年允恭天皇3年(38歳?)


3月1日
使いを遣わして良医を新羅に求める

8月
新羅から医者が到着。
天皇の病を治療をし、完治する


415年允恭天皇4年(39歳?)


9月9日
姓名の乱れを正すよう、詔を出す

28日
諸々の氏姓の人等に沐浴斎戒させ、
盟神探湯をさせる


416年允恭天皇5年(40歳?)


7月14日
地震発生

尾張連吾襲に、
反正天皇の殯宮の状況を視察させる。
玉田宿禰の叛意が露見、誅殺する

11月11日
反正天皇を耳原陵に葬る


418年允恭天皇7年(42歳?)


12月1日
新室で酒盛り。皇后が妹・弟姫を奉る

弟姫、参向せず、天皇は舎人の中臣烏賊津使主を派遣
弟姫、烏賊津使主に従い京へ
弟姫、入内、藤原宮に住まわせる

皇后、自ら産殿を焼いて死のうとする


419年允恭天皇8年(43歳?)


2月
藤原に行幸

更に宮室を茅渟宮につくり、衣通郎姫を住まわせる


420年允恭天皇9年(44歳?)


2月
茅渟宮に行幸

8月、
茅渟宮に行幸

10月、
茅渟宮に行幸


421年允恭天皇10年(45歳?)


1月
茅渟宮に行幸
ここで皇后に諫められ、茅渟宮への行幸の数を減らす


422年允恭天皇11年(46歳?)


3月4日
茅渟宮に行幸
衣通郎姫のために藤原部を定める


425年允恭天皇14年(49歳?)


9月12日
天皇は淡路島で狩りをする。
島の神が祟り、赤石(明石)の海の底にある真珠を祀るよう請求。諸国の海人を集め探させる。
男狭磯が真珠を見つけるも、死亡する


434年允恭天皇23年(58歳?)


3月7日
木梨軽皇子を皇太子とする


435年允恭天皇24年(59歳?)


6月
木梨軽太子と軽大娘皇女の近親相姦が発覚
軽大娘皇女を伊予に移す


453年允恭天皇42年(77歳?)


1月14日
天皇が崩御

10月
河内長野原陵の葬られる

11月

新羅王から弔使が送られる


略歴・年表は
日本書紀をお参考に作りました。

新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


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