リートリンの覚書

日本書紀 巻第十三 雄朝津間稚子宿禰天皇 一 ・自生 ・反正天皇の崩御 ・群臣の請願 ・皇子の拒絶



日本書紀 巻第十三

雄朝津間稚子宿禰天皇
(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと)

允恭天皇
(いんぎょうてんのう)

・自生
・反正天皇の崩御
・群臣の請願
・皇子の拒絶



雄朝津間稚子宿禰天皇は、
瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)の
同母弟です。

天皇は岐㠜(たかくさとい)より、
総角(あげまき)に至るまで、

仁惠(じんけい)で
儉下(へりくだ)っていました。

壮年になると病が篤く、
容止(ようし)が不便でした。

五年、春正月、
瑞歯別天皇が崩御しました。

ここに群卿は議して、
「今、大鷦鷯天皇の子は
雄朝津間稚子宿禰皇子と大草香皇子
がいらっしゃりますが、

しかし雄朝津間稚子宿禰皇子が、
長で仁孝です」
といいました。

即ち、吉日を選び、
跪(ひざまず)いて
天皇の璽を上(たてまつ)りました。

雄朝津間稚子宿禰皇子は謝って、
「我は不天(さいわいなきこと)で、
久しく篤疾(おもいやまい)に
離(かか)って歩行も不能である。

また、
我は既に病を除こうと欲(おも)い、
独り奏言せずに、
密かに身を破り、
病を治そうとしたが、
なおも差はなかった。

このことによって、
先皇は責めて、
『汝がただ患病(びょうかん)といって
縦(ほしいまま)に身を破るとは。
不孝(おやにしたがわぬこと)で、
これほど甚だしいものはない。

其れ長く生きても、
繼業(あまつひつぎ)を得ることはできぬ。』
といいました。

また、
我、兄二天皇は、
我を愚かと軽んじていた。
群卿が共に知る所である。

天下は大いなる器である。
帝位は鴻業(こうぎょう)である。

また、
民の父母は
それ聖賢(せいけん)の職(つかさ)である。

どうして下愚(おろかひと)が
任(た)えられようか。

更に賢王を選んで立てるといい。
寡人(かじん)にはあたらず」
といいました。

群臣は再拝して、
「帝位は久曠(こうきゅう)を以て、

天命は謙(へりくだ)り
距(へだ)てるものではありません。

今、大王が時を留め、
衆に逆らって、
号位(なくらい)を正さなければ。

臣等が恐れるのは、
百姓が絶望することです

願わくは、
大王、勞(つか)れるとはいえども、
なお天皇位に即(つ)いてください」
といいました。

雄朝津間稚子宿禰皇子は、
「宗廟社稷(そうびょうしゃしょく)を
奉るのは重き事である。
寡人の疾は篤く、
称するに不足である」
といいました。

なおも辞して聴(ゆる)しませんでした。

ここにおいて、
群臣は皆、固く請うて、
「臣が伏してこれ計(はか)らうに、
大王が皇祖の宗廟を奉るのが、
最も称するにふさわしいことです。

天下の萬民も皆それを
もっともなことを思っています。

願わくは、
大王、聴(ゆる)してください」
といいました。



岐㠜(たかくさとい)
幼にして秀でぬきんでいる
総角(あげまき)
十七、八歳
仁惠(じんけい)
思いやりの心と、恵み
容止(ようし)
立ち居ふるまい。身のこなし、挙動
・患病(びょうかん)
病気、やまい、わずらい
・鴻業(こうぎょう)
大きな事業
・聖賢(せいけん)
徳が優れ、賢い人
・寡人(かじん)
帝王・諸侯などが自分をさしていう語
・久曠(こうきゅう)
曠日彌久(こうじつびきゅう)の略。むなしく日々を送って、事を長引かせ、ひまどること。いつまでもむだに日をすごすこと
・号位(なくらい)
天皇位
・宗廟社稷そうびょうしゃしょく
国家・朝廷



(感想)

允恭天皇は、
反正天皇(はんぜいてんのう)の同母弟です。

天皇は幼いころから
秀でぬきんでおり、
十七、八歳に至るまで、
思いやりの心と恵みをもっていましたが、
へりくだっていました。

壮年になると病が重く、
立ち居ふるまいに支障がありました。

反正天皇5年春1月、
反正天皇が崩御しました。

ここに群卿は議して、
「今、仁徳天皇の子は
雄朝津間稚子宿禰皇子と大草香皇子が
いらっしゃりますが、

しかし雄朝津間稚子宿禰皇子が、
長子で仁孝です」
といいました。

すぐに、吉日を選んで、
跪き天皇の璽を奉りました。

しかし、
雄朝津間稚子宿禰皇子は謝って、
「私は幸いがない。

長い間、
重い病にかかり、
歩くのさえままならない。

また、
私は以前、
病を治そう思い、

独り天皇に相談もせず、
密かに身を破り、
病を治そうとしたが、
治ることはなかった。

このことによって、
先皇は私を責めて、

『お前が病気だといって
ほしいままに身を破るとは…
これほどひどい親不孝はない。

たとえ長く生きたとしても、
天業(あまつひつぎ)を
得ることはできない。』といった。

また、
私の兄である二人の天皇は、
私を愚かと軽んじていた。

このことは群卿が共に知る所だ。

天下は大いなる器、
帝位は大きな事業である。

また、
民の父母はそれ徳が優れ、
賢い人の職である。

どうして愚かなものが務まるだろうか。

もっと賢王を選んで立てるといいだろう。
自分は適していない」
といいました。

身を破る?
どういった治療だったのでしょうか?

調べてみましたが、
わからなかった。

破るの意味から、
訳したら傷つける。

となると、
何かしらの手術でしょか?

父、天皇から怒られたとなると。
非合法なやつ


群臣は再拝して、
「帝位はいつまでもむだに
空にしてはいけません。

また、
天命は謙り、
拒否するものではありません。

今、大王が時を留め、
多くのものに逆らって、
天皇位を正さなければ…

臣等が恐れるのは、
百姓が絶望することです。

願わくは、
大王、苦労はするとは思いますが、
是非天皇位に即(つ)いてください」
といいました。

雄朝津間稚子宿禰皇子は、
「国家を奉るのは重き事である。
自分の病は重く、
称するに不足である」
といいました。

なおも辞して聞き入れませんでした。

ここにおいて、
群臣は皆、固く請うて、
「臣が伏してこれ計(はか)らうに、
大王が皇祖の宗廟を奉るのが、
最も称するにふさわしいことです。

天下の萬民も皆それを
もっともなことを思っています。

願わくは、大王。
我々の願いを聞き入れてください」
といいました。

本日より、
允恭天皇の条
始まります。

お付き合いいただけたら
幸いです。

さて、允恭天皇の人となり
また、業績は?
どのように綴られているのでしょうか?

😒

明日に続きます。

読んで頂き
ありがとうございました。


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