リートリンの覚書

第十六代・仁徳天皇



第十六代・仁徳天皇
(にんとくてんのう)


生没年 257~399(享年143年)
在位年 313(57歳)~399(143歳)


別名


大鷦鷯天皇
(おほさざきのすめらみこと)

大鷦鷯尊
(おほさざきのみこと)

聖帝
(ひじりのみかど)

大雀命
(おほさざきのみこと)

難波天皇

天皇の生まれた日に、木菟(みみずく)が
産殿(うぶとの)に入りました。

翌朝、譽田天皇は、大臣・武内宿禰に尋ねますと、大臣は吉祥であると答えました。そして、自分の子どもが生まれる際にも鷦鷯が産屋に入ったことを伝えました。

そこで天皇は、「今、朕の子と大臣の子とは、同じ日共に生まれた。どちらも瑞があった。これは天の表(しるし)であろう。其の鳥の名を取り、それぞれ取り替え子に名づけ、後葉(のちのよ)の契としよう」といいました。

そこで鷦鷯の名を取って太子に名づけ、大鷦鷯皇子としました。また、木菟の名を取って、大臣の子に名づけ、木菟宿禰としました。




応神天皇(おうじんてんのう)




仲姫命(なかつひめのみこと)


配偶者


皇后・磐之媛命(いわのひめのみこと)
皇后・八田皇女

妃・日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)




大兄去来穂別尊
(おおえのいざほわけのみこと・履中天皇)
住吉仲皇子
(すみのえのなかつみこ)
瑞歯別皇子
(みつはわけのみこ・反正天皇)
雄朝津間稚子宿禰皇子
(おあさつまわくごのすくねのみこ・允恭天皇)

大草香皇子
(おおくさかのみこ)
草香幡梭姫皇女
(くさかのはたびひめのひめみこ)


略歴(日本書紀の伝えより)


大鷦鷯天皇は応神天皇の第四子です。母は仲姫命(なかつひめのみこと)、五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ)の孫です。

天皇は幼い時から聡明で英知があり、容貌は美麗でした。壮年になると仁があり寛く、慈恵(じけい)でした。

応神天皇13年春3月
応神天皇は日向から髪長媛を呼び寄せ、桑津邑に安置しました。この時、皇子・大鷦鷯尊が髪長媛を見染めました。

秋9月中旬
天皇は、後宮で宴会する日に初めて髪長媛を呼び寄せ、宴席に座らせました。そして歌を詠い、髪長媛を大鷦鷯尊に授けました。

応神天皇40年1月8日
天皇は大山守命(おおやまもりのみこと)と大鷦鷯尊を召しだして、「子どもは愛おしいか?」と問いました。二人は「大変愛おしいです」と答えました。

また更に問いて、「年長の子と年少の子、どちらが愛おしいか?」と問いました。大山守命は、「長子におよぶものはありません」と答えました。その答えに天皇は不悦の色を浮かべました。それを察した大鷦鷯尊は、「年少の子は大人になっておらず心配で愛おしいです」と答えました。

天皇は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を太子に立てようとの思いがありましたので、その答えを聞き喜びました。

1月24日
菟道稚郎子を皇太子に立てました。

同日
大山守命に任命して山川林野を司らせました。大鷦鷯尊には太子の補助として、国事を執行させました。

応神天皇41年春2月
応神天皇が崩御しました。
この時、皇太子の菟道稚郎子は、天皇位を大鷦鷯尊に譲り、まだ即位していませんでした。菟道稚郎子は、自分は未熟で天皇に相応しくないといい、兄に皇位を譲ろうとしました。

しかし、大鷦鷯尊は、「先の帝の命を棄てて、弟王の願いに従うことはできません」といい、固く辞して受け入れませんでした。各々譲り合いました。

この時、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)は、倭の屯田(みた)及び屯倉(みやけ)を手に入れようとして、画策します。

しかし、大鷦鷯尊は倭の屯田について垂仁天皇の世の勅旨の内容、『倭の屯田は御宇(ぎょう)の帝皇の屯田である。帝皇の子であっても、御宇でなければ司ることはできない』とあることを倭直(やまとのあたい)吾子籠(あごこ)から聞きました。

大鷦鷯尊は、吾子籠を額田大中彦皇子のところに遣わして、事情を知らせました。大中彦皇子はそれ以上言うことはありませんでした。

その後、大山守皇子は、先帝が自分を廃して皇太子としなかったことを恨んでいましたが、重ねてこの恨みがありました。

そこで謀り事企てました。しかし、大鷦鷯尊はその謀を聞き、密かに太子に告げ、兵を備え守らせました。時に、太子は兵を設えて大山守皇子を待ちました。

その後、大山守皇子は、太子の策略にはまり、川に落ちて亡くなりました。

すでに、太子は宮室を菟道(うじ)におこし、そこに居ましたが、なおも位を大鷦鷯尊に譲ろうとして即位せず、皇位が空のまま、既に三年が経ていました。

時に、海人(あま)がいて、鮮魚の苞苴(ほうしょ)を持ち、菟道宮に献上しましたが、太子と大鷦鷯尊は互いに譲り合い、ここで、海人の苞苴は、往復の間に腐ってしまいました。

太子は、兄王の志を奪うことができないことを知り、自死しました。

時に、大鷦鷯尊は太子が薨去したことを聞き、驚いて難波より馳せ参じ、菟道宮に到着しました。この時、太子が薨じて三日が経ていました。

時に、大鷦鷯尊は胸を打ちみだりにむせび哭き、弟の名を三度呼ぶと、たちまち生き返り、自ら起き上がりました。そして、同母妹の八田皇女を進上し、「後宮の数に入れて下さい」といい、再び棺に伏して薨去しました。

菟道の山の上の陵に葬りました。

仁徳天皇元年春1月3日
大鷦鷯尊が天皇に即位し、難波に高津宮(たかつのみや)を作りました。その宮は大変質素な造りでした。

仁徳天皇2月春3月8日
磐之媛命を皇后としました。
皇后は、大兄去来穂別尊、住吉仲皇子、瑞歯別皇子、雄朝津間稚子宿禰皇子を生みました。

また妃の日向髪長媛は、大草香皇子、草香幡梭姫皇女を生みました。

仁徳天皇4年春2月6日
炊煙が少ないことを愁い、群臣に詔を出しました。

3月21日
「今より3年間、すべての課役を止めて、百姓の苦しみをやすめよ」との詔を出しました。

これ以後、天皇は質素な暮らしを続けました。やがて、風雨は時にしたがって、五穀は豊穣となり、三年の間に、百姓は富み寛ぎました。徳を褒める声は十分に満ちて、炊烟もまた繁りました。

仁徳天皇7年夏4月1日
天皇は、臺台(たかどの)の上に居て、遠望すると、煙が多く起こっていました。

この日、皇后に語って、「天が君を立てることは、これは百姓のためである。そうであるならば、君は百姓を以て本とする。これをもって、いにしえの聖王は、一人が飢え凍えたときは、顧みてわが身を責めた。今、百姓が貧しければ、これすなわち、朕が貧しい。百姓が富んでいれば、これすなわち、朕も富んでいる。百姓が富んで、君が貧しいというのは、いまだあったことがない」といいました。

秋8月9日
大兄去来穂別皇子のために、壬生部(みぶべ)を定めました。また皇后のために葛城部(かずらきべ)を定めました。

9月
諸国が課役を科すことを再開するよう請願しました。しかし天皇は、忍んで許しませんでした。

仁徳天皇10年冬10月
はじめて課役を科して、宮室を構築しました。百姓はうながされることなく、日夜を問わず、力を尽くして競い作りました。

仁徳天皇11年夏4月17日
群臣に開拓と治水をするように詔をしました。

冬10月
茨田堤(まむたのつつみ)を築きました。この時、二箇所、築いてもすぐに壊れて塞ぐのが難しいところがありました。

この時、武蔵(むさし)の人、強頸(こわくび)と、河内の人、茨田連衫子(まむたのむらじころものこ)の二人を以て、御河伯(かわのかみ)を祭ったなら、必ず塞ぐことができるだろうと神の教えがありました。

そこで、強頸は泣いて悲しみ、水に没して亡くなりました。ただ、衫子は自身の幹(いさみ)をきかせ、その身を亡ぼさずにすみました。

こういうわけで、時の人はその二箇処を、強頸断間(こわくびのたえま)、衫子断間(ころものこのたえま)と名づけました。

この年、新羅人が朝貢しました。それでこの役につかいました。

仁徳天皇12年秋7月3日
高麗国が、鉄の盾、鉄の的を献上しました。

8月10日
高麗の客を招き宴会をしました。この日、群臣及び百寮を集めて、高麗が献じた鉄の盾、的を射させました。唯一、的臣(いくはのおみ)の祖である盾人宿禰(たてひとのすくね)だけが、鉄の的を通すことができました。

冬10月
大きな溝を山背の栗隈県(くるくまのあがた)に掘りました。

仁徳天皇13年秋9月
茨田(まんた)の屯倉を立てました。そこで舂米部(つきしねべ)を定めました。

冬10月
和珥(わに)の池を造りました。この月に、横野の堤を築きました。

仁徳天皇14年冬11月
猪甘(いかい)の津に小橋(おはし)という橋を渡しました。

この歳、大道を作って、京中(みさとのなか)に置きました。

また大溝を感玖(こむく)に掘りました。石河の水を引いて、上鈴鹿(かみつすずか)、下鈴鹿(しもつすずか)、上豊浦(かみつとゆら)、下豊浦(しもつとよら)、四か処の郊原を潤して、開墾し四万余の頃(しろ)の田を得ました。

仁徳天皇16年秋7月1日
天皇は、宮人(あやひと)の桑田の玖賀媛(くが)を、近習の舎人(とねり)等に見せて、
彼女を養ってほしいといいました。そこで、播磨の国造の祖、速待(はやまち)が名乗り出ました。

速待は玖賀媛の家に詣でましたが、玖賀媛は、寡婦(やもめ)として年を終えたい、といいなごみませんでした。

ここにおいて、天皇は速待の志(おもい)をとげさせようと欲(おも)い、玖賀媛を速待につけて、桑田に送らましたが、玖賀媛は発病して道中で死んでしまいました。

仁徳天皇17年
新羅が朝貢しませんでした。

秋9月
的臣(いくはのおみ)の祖である砥田宿禰、小泊瀬造の祖である賢遣臣を遣して、朝貢しなかった事を問わせました。ここにおいて、新羅人はおそれて、ただちに貢献しました。

仁徳天皇22年春1月
天皇は皇后に八田皇女を召し入れたいと願い出ますが、皇后は聞き入れませんでした。

仁徳天皇30年秋9月11日
皇后は紀国(きのくに)に遊行し、熊野岬(くまのみさき)に至り、そこの処の御綱葉(みつなかしわ)を取って還ってきました。

ここにおいて、天皇は皇后の不在を伺い、八田皇女を娶り、宮中に召し入れました。

時に、皇后は難波済に至り、天皇が八田皇女と合したと聞いて、大いに恨みました。すぐにその採ってきた御綱葉を海に投げ入れて、着岸しませんでした。

そして皇后は、山背に還って、宮室を筒城岡(つつきのおか)の南に興し、そこに居ました。

冬10月1日
的臣(いくはのおみ)の祖、口持臣(くちもちのおみ)を遣わして、皇后を呼びましたが。皇后は帰りませんでした。

11月7日
天皇は山背に行幸しました。
翌日、天皇は筒城宮に至って、皇后をよびましたが、皇后は参見(さんけん)しませんでした。

仁徳天皇31年春1月15日
大兄去来穂別尊を皇太子に立てました。

仁徳天皇35年夏6月
皇后・磐之媛命が、筒城宮にて薨去しました。

仁徳天皇37年冬11月12日
皇后を乃羅山(ならやま)に葬りました。

仁徳天皇38年春1月6日
八田皇女を皇后に立てました。

秋7月
天皇は皇后と、高台(たかどの)で居て避暑していました。

その時、毎夜、菟餓野(とがの)から、鹿の鳴き声が聞こえてきました。しかし月尽(つごもり)になり、鹿の鳴き声が聞こえなくなりました。

翌日、猪名縣(いなのあがた)の佐伯部(さえきべ)が、贈物として鹿を献上しました。その鹿を獲った日夜(とき)や山野を推しはかると、鳴いていた鹿に当たり、天皇は恨めしく思い、有司に命令して、佐伯部を安芸(あぎ)の渟田(ぬた)に移郷(うつ)しました。

仁徳天皇40年春2月
雌鳥皇女(めとりのひめみこ)を召し入れて妃にしようと思い、隼別皇子(はやぶさわけのみこ)を仲立としましたが、隼別皇子は、密かに自ら娶り、復命しませんでした。

天皇は隼別皇子が密かに結婚したことを知り、恨みましたが、皇后の言葉を重んじ、また兄弟の義(ことわり)に敦かったので、忍んで罪としませんでした。

しかし、隼別皇子の反逆を知りました。隼別皇子は雌鳥皇女を連れて、伊勢神宮に逃げたと聞いて、すぐに吉備品遅部雄鯽 (きびのほむちべのおふな)、播磨佐伯阿俄能胡(はりまのさえきのあがのこ)を遣わして、討伐させました。
そこで二王の屍を蘆杵河(いおき)の辺(ほとり)に埋めて、復命しました。

この歳、新嘗(にいなえ)の月に当り、宴会(とよのあかり)の日に、酒を内外命婦(ないげのみょうぶ)等に賜わりました。

ここにおいて、近江山君稚守山(おうみやまのきみわかもりやま)の妻と、采女(うねめ)の磐坂媛(いわさかひめ)、二女の手には、雌鳥皇女の珠に似たものが巻いてありました。

そこで疑って、阿俄能胡に推鞫(すいきく)すると、皇女から屍から奪ったと言いました。

そこで、阿俄能胡を処刑しようとしましたが、阿俄能胡は、己の私地を献上して、死罪をまぬがれました。その地を玉代(たまて)と名づけました。

仁徳天皇41年春3月
紀角宿禰を百済に派遣して、国郡の境界を分けて、くわしく産物の所出(しょしゅつ)を録しました。

この時、百済王の族である酒君(さけのきみ)が、無礼で倭に連行しましたが、久しくして、天皇は遂にその罪を赦しました。

仁徳天皇43年秋9月1日
依網(よさみ)の屯倉の阿弭古(あびこ)が、異(あやしい)鳥を捕って、天皇に献上しました。

酒君に何の鳥かと問うと、答えて、「百済の人はこの鳥を俱知と呼びます」といいました。

そこで酒君に授けて養い馴らしました。幾ときもかからず、馴らすことができました。
酒君は、なめし皮の紐をその足につけ、その尾に小鈴をつけて、腕の上に居て、天皇に献じました。

この月、鷹甘部(たかかいべ)を定めました。

仁徳天皇50年3月5日
河内の人が、茨田の堤に、雁が子を産みました、と報告してきました。そこで、倭国で雁を生むのかと、武内宿禰に問いました。

仁徳天皇53年夏5月
上毛野君(かみつけの)の祖の竹葉瀬(たかはせ)を遣わして、その貢を欠いたことを問わせました。

しばらくして、重ねて竹葉瀬の弟・田道(たぢ)を遣わしました。詔して、もし新羅が拒(こば)んできたら、兵を起こせといい、精兵を授けました。

新羅は兵をあげて拒みました。田道は、営外に出て来た兵を捕らえて捕虜としました。新羅の消息を問いました。そこで得た情報を参考に作戦をたて勝利しました。

仁徳天皇55年
蝦夷が叛きました。田道を遣わして撃たせましたが、蝦夷のために敗れ、伊峙(いし)の水門(みなと)で死んでしまいました。

仁徳天皇58年夏5月
荒陵(あらはか)の松林の南の道で、たちまちのうちに二本の歴木(くぬぎ)が生じました。

冬10月
呉国、高麗国が並びに朝貢しました。

仁徳天皇60年冬10月
白鳥陵守(はかもり)らを指名して、役丁(えよほろ)に充てましたが、このとき陵守の目桙(めき)が、忽然と白鹿に化して走りました。

ここにおいて、天皇ははなはだおそれおおいので、役丁を動かしてはいけないと、いいました。

仁徳天皇62年夏5月
遠江(とおつおうみ)の国司が、大樹があり、大井河より流れて、川の曲り角に停まりました。と報告してきました。

そこで、倭直吾子籠を遣わして船を造らせ、御船(みふね)にあてました。

この歳、額田の大中彦皇子が、闘雞(つげ)で狩りをしていた際、氷室を見つけ、氷を天皇に献上しました。

仁徳天皇65年
飛騨の国に宿儺(すくな)というものがおり、その人となりは一つの體(たい)に、二つの顔があり、顔が各々反対側を向いていました。頂は合して項(うなじ)がありませんでした。それぞれ手足があり、膝はありますが膕踵(よぼろくぼ)がありませんでした。

皇命にしたがわず、人民を略奪するのを楽しんでいました。和珥(わに)臣の祖の難波根子武振熊を遣わして、殺しました。

仁徳天皇67年冬10月5日
河内の石津原に行幸し、陵地を定めました。

18日
始めて陵を築きましたが、鹿が現れ走って役民の中に入り、倒れて死んでしまいました。そこで、調べてみると百舌鳥が、耳から出て飛び去りました。それで耳の中を見ると、ことごとく喰い裂かれていました。そこを名づけて百舌鳥耳原(もずのみみはら)と名づけました、

この年、吉備の中(みちなか)の国の川島河の川股(かわまた)に、大虬(みつち)がいて人を苦しめました。路ゆく人が、その処にふれて行くと、かならずその毒をうけて、多くが死亡しました。

そこで笠臣の祖の県守(あがたもり)が討伐しました。

このときにあたり、妖気がわずかに動いて、反者が一、二始めて起こりました。

ここに天皇は、夙興夜寝(しゅくこうやび)し、賦(みつき)を軽くし、斂(おさめもの)を薄くして、民萌(おおみたから)を寛(ゆるや)かにし、徳を布き、恵を施して、困窮したものを救い、死を弔い、疾(やむもの)を問い、孤孀(やもおやもめ)を養いました。

こういうわけで、政令は滞りなく治められ、天下は太平でした。二十余年も事無しでした。

仁徳天皇87年春1月16日
天皇が崩御しました。
(日本書紀では110歳・古事記では83歳)

冬10月7日、百舌鳥野陵に葬りました。


日本書紀




皇居


難波高津宮
(なにわのたかつのみや)




百舌鳥耳原中陵
(もずのみみはらのなかのみささぎ)


祀る神社


神楽坂若宮八幡神社(東京都新宿区)
難波神社(大阪府大阪市)
各地の若宮八幡宮



天皇・年表

略歴・年表は
日本書紀を参考に作りました。

257年神功皇后摂政57年?(0歳)


誕生


282年応神天皇13年(25歳)


3月
応神天皇が呼び寄せた髪長媛を見染める

9月中旬
応神天皇から髪長媛を授かる


309年応神天皇40年(53歳)


1月8日
応神天皇は大山守命と大鷦鷯尊に立太子の相談をする

1月24日
菟道稚郎子を皇太子に立てる

同日
太子の補助として国事を執行するよう命じられる


310年応神天皇41年(54歳)


2月
応神天皇が崩御

菟道稚郎子と天皇位を互いに譲り合う

額田大仲彦皇子が倭の屯田及び屯倉を手に入れようと画策

大山守皇子の叛逆

菟道稚郎子と献上品を互いに譲り合う


応神天皇43年(空位三年目)(56歳)


太子・菟道稚郎子が自死する。
菟道の山の上の陵に葬る


313年仁徳天皇元年(57歳)


1月3日
大鷦鷯尊が天皇に即位
難波に高津宮に遷都する



314年仁徳天皇2年(58歳)


3月8日
磐之媛命を皇后とする


316年仁徳天皇4年(60歳)


2月6日
炊煙が少ないことを愁い、群臣に詔をだす

3月21日
3年間、すべての課役を停止するよう詔をだす


319年仁徳天皇7年(63歳)



4月1日
皇后に百姓(おおみたから)について語る

8月9日
壬生部と葛城部を定める

9月
諸国が課役を科すことを再開することを請願
天皇は請願を拒否する


322年仁徳天皇10年(66歳)


10月
課役を再開、宮室を構築


323年仁徳天皇11年(67歳)


4月17日
群臣に開拓と治水をするように詔をだす

10月
難波の堀江、茨田堤を建設。

新羅人が朝貢


324年仁徳天皇12年(68歳)


7月3日
高麗国が、鉄の盾、鉄の的を献上

8月10日
高麗の客を招き宴会

10月
大きな溝を山背の栗隈県に掘る


325年仁徳天皇13年(69歳)


9月
茨田の屯倉を作り、舂米部を定める

10月
和珥池、横野堤を作る


326年仁徳天皇14年(70歳)


11月
猪甘津に小橋を渡す
都に大道を作る
感玖に大溝を掘る


328年仁徳天皇16年(72歳)


7月1日
玖賀媛の悲恋



329年仁徳天皇17年(73歳)


新羅が朝貢せず

9月
砥田宿禰、賢遣臣を新羅に派遣
新羅、朝貢する


334年仁徳天皇22年(78歳)


1月
天皇は皇后に八田皇女を召し入れたいと願い出るも、拒否される


342年仁徳天皇30年(86歳)


9月11日
皇后の留守中に八田皇女を娶る
皇后の家出

10月1日
口持臣を皇后の所に派遣。皇后は拒否する

11月7日
山背に行幸。

翌日
筒城宮に行き皇后を呼ぶも、皇后は参見せず


343年仁徳天皇31年(87歳)


1月15日
大兄去来穂別尊を立太子


347年仁徳天皇35年(91歳)


6月
皇后・磐之媛命が薨去


349年仁徳天皇37年(93歳)


11月12日
皇后を乃羅山に葬る


350年仁徳天皇38年(94歳)


1月6日
八田皇女を皇后に立てる

7月
天皇は皇后と高台で避暑し、菟餓野の鹿の声に癒される。
しかし、猪名縣佐伯部が、その鹿を狩り贈物として鹿を献上


352年仁徳天皇40年(96歳)


2月
雌鳥皇女と隼別皇子の叛乱
吉備品遅辺雄鯽と播磨佐伯直阿俄能胡を討伐に派遣。
二王の屍を蘆杵河辺に葬る


353年仁徳天皇41年(97歳)


3月
紀角宿禰を百済に派遣

酒君が無礼であったため倭に連行


355年仁徳天皇43年(99歳)


9月1日
依網屯倉の阿弭古が、怪しい鳥を献上
酒君がその鳥を授かり飼いならし天皇に献上
鷹甘部を定める


362年仁徳天皇50年(106歳)


3月5日
河内人が、茨田の堤に雁が子を産んだと報告
武内宿禰にそのことを問う


365年仁徳天皇53年(109歳)


5月
竹葉瀬・田道を新羅に派遣


367年仁徳天皇55年(111歳)


蝦夷が反乱。田道を派遣


370年仁徳天皇58年(114歳)


5月
荒陵の松林の南の道で、二本のクヌギが生じる

10月
呉国、高麗国が、並びに朝貢


372年仁徳天皇60年(116歳)


10月
白鳥陵守らを役丁にするも、奇怪が起こり役丁を動かさないことにする


374年仁徳天皇62年(118歳)


5月
遠江の国司が大井河に大樹より流れて、留まっていると報告
倭直吾子籠を遣わして船を造らせる

この歳、額田の大中彦皇子が、闘雞で氷室を発見し氷を献上


377年仁徳天皇65年(121歳)


宿儺討伐するよう難波根子武振熊を派遣。


379年仁徳天皇67年(123歳)


10月5日
河内の石津原に行幸し、陵地を百舌鳥耳原に定める。

吉備の中の国の川島河の川股に大虬があらわれ笠臣の祖の県守が討伐

このとき、反者が一、二起こる

その後、天下は太平。二十余年も事無


399年仁徳天皇87年(143歳)


1月16日
天皇が崩御
(日本書紀では110歳・古事記では83歳)

10月7日
百舌鳥野陵に葬る



新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


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