リートリンの覚書

第十五代・応神天皇


第十五代・応神天皇
(おうじんてんのう)


生没年 200~310(享年111歳)
在位年 270(71歳)~310(111歳)


別名


譽田天皇(ほむたのすめらみこと)
誉田別尊
誉田別天皇
胎中天皇
品陀和気命
大鞆和気命
品太天皇
凡牟都和希王




仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)




神功皇后(じんぐうこうごう)


配偶者(日本書紀より作成)


皇后・仲姫命(なかつひめのみこと)

妃・高城入姫命(たかきのいりびめ)
妃・弟姫(おとひめ)
妃・宮主宅媛(みやぬしやかひめ)
妃・小甂媛(おなべひめ)
妃・弟媛(おとひめ)
妃・糸媛(いとひめ)
妃:日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)
妃・兄媛(えひめ)


(日本書紀より作成)


荒田皇女(あらたのひめみこ)
大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)
根鳥皇子(ねとりのみこ)

額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)
大山守皇子(おおやまもりのみこ)
去来真稚皇子(いざのまわかのみこ)
大原皇女(おおはらのひめみこ)
澇来田皇女(こむくたのひめみこ)

阿倍皇女(あへのひめみこ)
淡路御原皇女(あわじのみはらのひめみこ)
紀菟野皇女(きのうののひめみこ)

菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ) 
矢田皇女(やたのひめみこ)
雌鳥皇女(めとりのひめみこ) 

菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつめのひめみこ)

稚野毛二派皇子(わかぬけのふたまたのみこ)

隼総別皇子(はやぶさわけのみこ)

大葉枝皇子(おおはえのみこ)
小葉枝皇子(おはえのみこ)



略歴(日本書紀の伝えより)


応神天皇は仲哀天皇の第四子です。
母は神功皇后です。

応神天皇は皇后が新羅を討った年、
仲哀天皇9年12月、
筑紫の蚊田(かだ)で生まれました。

神功皇后摂政3年、
皇太子に立ちました。(御歳3歳)

生まれる時、
肉が腕の上に生じ、
その形が鞆(ほむた)のようでした。
そういうわけで、
名を譽田天皇と称しました。

一書では、
角鹿笥飯大神に拝礼し、
大神は太子の名を取り換え与え、
太子を誉田別尊(ほむたわけ)と
名づけました、とあります。

神功皇后摂政69年、
皇太后が崩御しました。

応神天皇元年1月1日、
皇太子が即位しました。

応神天皇2年3月3日、
仲姫を皇后に立てました。
后は荒田皇女、大鷦鷯天皇、根鳥皇子
を生みました。

これより先に天皇は、
皇后の姉の高城入姫を妃とし、
額田大中彦皇子、大山守皇子、去来真稚皇子、
大原皇女、撈来田皇女を生みました。

また妃、皇后の妹の弟姫は阿部皇女、
淡路御原皇女、紀之菟野皇女を生みました。

次の妃、宮主宅媛は菟道稚郎子皇子、
矢田皇女、雌鳥皇女を生みました。

次の妃、
小甂媛は菟道稚郎姫皇女を生みました。

次の妃、弟媛は稚野毛二派皇子を生みました。

次の妃、糸媛は隼総別皇子を生みました。

次の妃、
日向泉長媛は大葉枝皇子、
小葉枝皇子を生みました。

およそこの天皇の男女は、
合わせて二十王です。

応神天皇3年10月3日、
蝦夷が朝貢。
また蝦夷を使役して
厩坂(うまやさか)の道を作りました。

11月、
各地の海人(あま)が、
命に従いませんでした。
そこで大浜宿禰を遣わして、
騒ぎをしずめました。

この年、
百済は辰斯王(しんしおう)が立ち、
無礼であったため、
紀角宿禰(きのつののすくね)、
羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)、
石川宿禰(いしかわのすくね)、
木菟宿禰(つくのすくね)を遣わして、
その無礼の状を叱責しました。

応神天皇5年8月13日、
諸国に令して、
海人(あま)及び
山守部(やまもりべ)を定めました。

10月、
冬十月、伊豆国に船を造らせました。
その船を枯野(からの)と名づけました。

応神天皇6年2月、
天皇は近江国に行幸して、
菟道野(うじ)の辺にて歌を詠いました。

応神天皇7年9月、
高麗人(こま)、百済人(くだら)、
任那人(みまな)、新羅人(しらき)が
そろって来朝しました。
武内宿禰に命じて、
諸々の韓人等を率いて池を造りました。
韓人池と名づけました。

応神天皇8年3月、
百済人が来朝しました。

応神天皇9年4月、
武内宿禰を筑紫に遣わして、
百姓を観察させました。
その時、武内宿禰の弟の甘美内宿禰が、
兄を廃したい思い天皇に讒言しました。
天皇はすぐに使いを遣わして、
武内宿禰を殺そうとしました。
ここで、壱岐直の祖の真根子という者がいて、
容姿が武内宿禰に似ていました。
武内宿禰が罪のないのに
空しく死ぬのを独り惜しみ、
身代わりとなり自死しました。
武内宿禰は独り大いに悲しみましたが、
僅かながら朝廷に近づくことができ、
無実を弁明しました。
天皇は、武内宿禰と甘美内宿禰を
問いただしましたが、
是非を決めるのは難しく、
そこで探湯をさせました。
武内宿禰が勝ちました。
武内宿禰は横刀を執って、
甘美内宿禰を殴りたおし、
殺そうとしましたが、
天皇は許させました。

応神天皇11年10月、
剣の池、軽の池、鹿垣の池、
厩坂の池を作りました。

応神天皇13年3月、
天皇は日向に髪長媛という美人がいると聞き、
特使を遣わして、召し出しました。

9月中旬、
髪長媛が日向からやってきました。
この時、皇子・大鷦鷯尊は、
髪長媛を見てしまい、
恋情を持つようになりました。
天皇は大鷦鷯尊が
髪長媛に恋しているのを知り、
会せてあげようと思い、
後宮で宴会する日に
始めて髪長媛を呼び寄せ、
宴席に坐らせました。
そして大鷦鷯尊を呼び寄せ、
髪長媛を指さして歌い、
大鷦鷯尊に髪長媛を与えました。
大鷦鷯尊は髪長媛すぐに交わり慇懃と
なりました。

応神天皇14年2月、
百済王が縫工女を献上しました。

この歳、弓月君が百済から来帰しました。
しかし、新羅人の妨害により、
弓月国の人々が加羅国に留まっていると聞き、
そこで葛城襲津彦を遣わして、
弓月の人夫を加羅で招集しました。
しかし、三年を経ても襲津彦は
帰って来ませんでした。

応神天皇15年8月6日、
百済王が阿直伎を遣わして、
良馬二匹を献上しました。
阿直伎はまた経典を読むことができ、
太子・菟道稚郎子が師としました。
天皇は阿直伎から
王仁という優れた者射ると聞き、
そこで荒田別、巫別を百済に派遣して、
王仁を召しました。

応神天皇16年2月、
王仁が来ました。
太子・菟道稚郎子が師事しました。

この年、百済の阿花王が薨じました。
そこで天皇は直支王を召しだし、
位を継ぐようにいい、
東韓の地を授け、百済に遣わしました。

8月、
平群木菟宿禰、的戸田宿禰を
加羅に遣わしました。
ここで木菟宿禰等は、
精兵を進めて新羅の国境に相対しました。
新羅王は驚きあわてて、
その罪に服しました。
それで弓月の人夫を率いて、
襲津彦と共に帰国しました。

応神天皇19年10月1日、
吉野宮に行幸しました。
この時、国樔人が来朝しました。

応神天皇20年9月、
倭漢直の祖の阿知使主が、
その子・都加使主と友に、
その党類十七県を率いて、
来帰しました。

応神天皇22年3月5日、
天皇は難波に行幸して、
大隅宮に居ました。

14日、
高台に登り、遥か遠くを見渡していると、
側に着き添っていた妃の兄媛が西を望んで、
父母を恋しく想い、大いに嘆きました。
そして、しばらく吉備へ帰り、
親を訪問したいと請願しました。
天皇は聞き届け、
淡路の御原の海人八十人を
呼び寄せて水手とし、
吉備に送ることにしました。

4月、
兄媛は大津から出航していきました。
天皇は高台に居て、
兄媛の船を望んで歌いました。

9月6日、
天皇は淡路島で狩りをしました。
その後、淡路から転じて、
吉野に行幸しようと小豆島で遊びました。

10日、
また葉田葦守宮に移りました。
その時、兄媛の兄・御友別が参上しました。
その兄弟子孫が膳夫として食事を奉りました。
天皇は御友別が謹惶に仕え奉じる状況をみて、
うれしく思いました。
そこで吉備の国を分割して、
その子らに国を与えました。

応神天皇25年、
百済の直支王が薨じました。
子の久爾辛が立って王となりました。
王は年は幼少で木満致が国政を行いました。
王の母と愛人関係で、無礼な行いが多く、
それを聞いた天皇は、召し出しました。

応神天皇28年9月、
高麗王が使いを遣して朝貢しました。
そして天皇に対して文書を奉りましたが、
「高麗王が日本国に教える」とあり、
菟道稚郎子はその表を読んで怒り、
そくざにその表を破りました。

応神天皇31年8月、
伊豆国が献上した船、
枯野は老朽化して用いることができない。
しかし、久しく官用としてきて、
功績を後世のこしたいと詔しました。
群卿は詔を受けて役人に命令し、
その船材を薪にして塩を焼き、
これを周囲の諸国に授け、
船を造らせました。
こうして諸国は一斉に五百船を貢上しました。
ことごとく武庫の水門に集まりました。

この時、
新羅の調の使が武庫に停泊していましたが、
新羅の宿所で突然失火しました。
そして集まっていた船に引火して、
多くの船が焼かれてしまいました。
新羅王がこれを聞き、大いに驚き恐れ、
すぐさまよい木工師を献上しました。

37年春2月1日、
阿知使主、都加使主を呉に遣わして、
縫工女を求めさせました。
呉王は工女の兄媛、弟媛、呉織、穴織の
四人の婦女を与えました。

39年春2月、
百済の直支王がその妹の新斉都媛を派遣して、
天皇に仕えさせました。
新斉都媛は七人の婦女を率いて、
来帰しました。

40年春1月8日、
天皇は大山守命と大鷦鷯尊を呼びだして
「年長の子と年少の子とでは、
どちらが愛おしいか?」
問いました。
大山守命は長子と答えましたが、
天皇に不悦の色がありました。
大鷦鷯尊はあらかじめ天皇の顔色を察し、
年少の子は心配で愛おしいと答えました。
天皇は大いによろこびました。

24日、
菟道稚郎子を立てて、
嗣(ひつぎ)としました。
同日、大山守命に任命して
山川林野を司らせました。
大鷦鷯尊には、太子の助けとして、
国事を治めさせました。

41年春2月15日、
天皇は、明宮(あきらのみや)で
崩御しました。
時年は百十歳。
(一書はいう、大隅宮で崩じた、と。)

この月、
阿知使主らが呉から縫工女らを引き連れて
帰国しましたが、
天皇が崩御しました。
そこで大鷦鷯尊に献上しました。


日本書紀


現代語訳はこちら


皇居


日本書紀では即位後の遷都記載がなく、
神功皇后の磐余若桜宮を
使っていたと思われます。

・行宮(かりみや)
難波大隅宮(なにわのおおすみのみや)




惠我藻伏崗陵
(えがのもふしのおかのみささぎ)


祀る神社


宇佐神宮(大分県宇佐市)
誉田八幡宮(大阪府羽曳野市)
石清水八幡宮(京都八幡市)
鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)
気比神宮(福井県敦賀市)
その他全国の八幡社など


応神天皇・年表

200年仲哀天皇9年(0歳)


12月 
筑紫の蚊田で誕生


203年神功皇后摂政3年(3歳)


3年1月 
立太子(御歳3歳)


213年神功皇后摂政13年(13歳)


2月 
武内宿禰と角鹿の笥飯大神に参拝する


269年神功皇后摂政69年(69歳)


皇太后が崩御


270年応神天皇元年(70歳)


1月1日
即位


271年応神天皇(71歳)


2年3月3日
仲姫を皇后とする


272年応神天皇3年(72歳)


10月3日
蝦夷が朝貢。厩坂道を作る

11月
各地の海が反乱。大浜宿禰を遣わしてしずめる

百済は辰斯王が立つ
無礼であったため、紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰を派遣する


274年応神天皇5年(74歳)


8月13日
海人・山守部を定める

10月
伊豆国に船を造らせる。名は枯野。


275年応神天皇6年(75歳)


2月
近江国に行幸


276年応神天皇7年(76歳)


9月
高麗人、百済人、任那人、新羅人が
そろって来朝。
武内宿禰に命じて、
諸々の韓人等を率いて韓人池を作る


277年応神天皇8年(77歳)


3月
百済人が来朝


278年応神天皇9年(78歳)


4月
武内宿禰を筑紫に遣わし観察させる。
甘美内宿禰が讒言し、武内宿禰が疑われる。
そこで探湯をさせ、武内宿禰が勝つ


280年応神天皇11年(80歳)


10月
剣の池、軽の池、鹿垣の池、厩坂の池を作る


282年応神天皇13年(82歳)


3月
天皇は日向に特使を遣わして、
髪長媛を召し出す

9月中旬
髪長媛を皇子・大鷦鷯尊に譲る


283年応神天皇14年(83歳)


2月
百済王が縫工女を献上

弓月君が百済から来帰。
しかし、新羅人の妨害がありと聞き
葛城襲津彦を派遣。


284年応神天皇15年(84歳)


8月6日
百済王が阿直伎を派遣、良馬二匹を献上する。


285年応神天皇16年(85歳)


2月
王仁が来日

この年、百済の阿花王が薨去。
直支王に東韓の地を授け、百済に派遣。

8月
平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に派遣。
弓月の人夫を率いて、襲津彦と共に帰国。


288年応神天皇19年(88歳)


10月1日
吉野宮に行幸。
国樔人が来朝


289年応神天皇20年(89歳)


9月
倭漢直の祖の阿知使主、子・都加使主らが来帰


291年応神天皇22年(91歳)


3月5日
天皇は難波に行幸

14日
妃の兄媛が吉備へ帰省したいと請願。
天皇は承諾

4月
兄媛、大津から出航。

9月6日
天皇は淡路島で狩り
その後、淡路から転じて、
吉野に行幸しようと小豆島で遊ぶ。

10日
また葉田葦守宮に移る。
その時、兄媛の兄・御友別が参上し、
食事を献上する。
天皇は吉備の国を分割して、
その子らに国を与える


294年応神天皇25年(94歳)


百済の直支王が薨去。
子の久爾辛が立って王となる。
木満致が国政を行うが、
無礼な行いが多く、天皇は召し出す。


297年応神天皇28年(97歳)


9月
高麗王が朝貢したが、
「高麗王が、日本国に教える」と無礼だった。
菟道稚郎子が怒る


300年応神天皇31年(100歳)


8月
伊豆国が献上した船、
枯野を薪にして塩を焼き、
これを周囲の諸国に授け、船を造らせる。
諸国は一斉に五百船を貢上。
武庫の水門に集まるも、
新羅の宿所で突然失火、
多くの船が焼かれる。
新羅王が大いに驚き恐れ、木工師を献上。


306年応神天皇37年(106歳)


2月1日
縫工女を求め、
阿知使主、都加使主を呉に派遣。
呉王は、工女の兄媛、弟媛、呉織、穴織の
四人の婦女を与える。


308年応神天皇39年春(108歳)


2月
百済の直支王が、その妹の新斉都媛を派遣。


309年応神天皇40年(109歳)


1月8日
天皇は、大山守命と大鷦鷯尊を呼びだして
質問する

24日
菟道稚郎子を立太子。
同日、大山守命に山川林野を司らせ、
大鷦鷯尊には太子の助けとして、
国事を治めさせる


310年応神天皇 41年(110歳)


2月15日、
天皇は、明宮で崩御。時年は百十歳。
(一書はいう、大隅宮で崩じた、と。)

この月、阿知使主ら縫工女を連れ呉から帰国。
しかし天皇が崩御。
そこで大鷦鷯尊に献上



略歴・年表は、
日本書紀を参考に作りました。

新しい知識を得た場合
随時更新予定です。


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