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リートリンの覚書

名所江戸百景を訪ねて 第43景 「日本橋江戸ばし」


名所江戸百景を訪ねて


名所江戸百景を訪ねて
第43景 「日本橋江戸ばし」

日本橋から下流を望み描かれた作品です。

近景には擬宝珠(ぎぼし)の欄干(らんかん)が描かれています。擬宝珠を許された橋は、日本橋と京橋のみでした。

遠景に描かれた橋は「江戸橋」。

その後ろに描かれた白壁は、小網町の土蔵。

日本橋の側には魚河岸がありました。
橋を渡る棒手振りの担ぐ盤台には初鰹が運ばれています。


日本橋



日本橋(にほんばし)は、東京都中央区にある、日本橋川に架かる橋です。

日本橋由来記の碑




重要文化財

日本橋 附 東京市道路元標(一基)

所在地 中央区日本橋室町一丁目~日本橋一丁目(日本橋川)

 日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(一六〇三)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気ある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。
 現在の日本橋は、明治四十四年(一九一一)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。橋長四九・五メートル、幅員二七・五メートルの橋には、照明灯のある鋳銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています。中でも建築家・妻木頼黄の考案に基づく麒麟や東京市章を抱えた獅子のブロンズ像(原型製作・渡辺長男、鋳造・岡崎雪声)は、意匠的完成度の高い芸術作品と英ます。なお、親柱に記された橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものです。
 また附指定を受けた「東京市道路元標」は、昭和四十二年(一九六七)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による「日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。
 平成三十一年三月
中央区教育委員会


江戸橋
(えどばし)


東京都中央区にある、日本橋川に架かる橋です。


魚河岸


日本橋魚河岸跡



日本橋魚河岸跡
所在地 中央区日本橋室町一丁目八番 地域

 日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市場は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。
 なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
 江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。
 この魚河岸は、大正十二年(一九二三)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
 現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年(一九五四)に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。
 平成十九年三月
中央区教育委員会



描かれた場所は
現在どのようになっているのでしょうか?
訪ねてみました。






最後に

作品と同じ角度で撮影してみると

首都高速がど〜ん。

船着場のあった場所を撮影してみると


これまた、メインが首都高速な写真が撮れました。

小網町の土蔵のあったあたりを撮影すると

やはり首都高速

都会の生活になくてはならない首都高速ですが、絵図ら的には

要らない。





参考
Wikipedia
太陽の地図帖 広重「名所江戸百景」の旅

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