名所江戸百景を訪ねて
名所江戸百景
第116景 「高田の馬場」
近景の左側には、馬場の北側にあった松が大きく描かれています。その側にある的の前には複数の矢が地面に落ちています。
馬場には馬術の練習中の武士、手前には弓の練習をしている武士の姿が描かれています。
遠景、馬場の向こうには、下戸塚村の集落と雑木林、冬枯れの田圃が、その向こうには、雪で覆われた富士山が描かれています。
高田馬場
現西早稲田一丁目、および三丁目にあった馬場です。
1636年、徳川三代将軍家光の命により、旗本太刀の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営されました。
広さは、東西へ約650m、南北へ55mありました。
旧跡高田馬場跡所在地 新宿区西早稲田三丁目一・二・十二・十四番西早稲田三丁目一・二・十二・十四番を含む長方形の土地が、江戸時代の高田馬場跡である。馬場は寛永十三年(一六三六)に造られたもので、旗本たちの馬術の練習場であった。また、穴八幡神社に奉納するため催された流鏑馬などが行われ、将軍の供覧に入れたところでもある。享保年間(一七一六~一七五三)には馬場の北側に松並木が作られ、八軒の茶屋があったとされている。土地の農民が人出の多いところを見て、茶屋を開いたものと思われる。また、馬場の一角、茶屋町通りに面したところは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社の境内には「堀部武庸加功遺跡之碑」が建っている。平成三年十一月東京都新宿区教育委員会
描かれた場所は
現在どのようになっているのでしょうか?
訪ねてみました。
早稲田通りの西早稲田交差点より、撮影してみました。
実際にこの場に立ってみると、高田馬場がとても広い場所だったのだと実感できました。
最後に
自宅に帰り、古地図で高田馬場を確認すると、撮影する際に立っていた場所が、高田馬場跡地の一画であることに気付きました。
しかも、ちょっと、写す方向を間違え、下戸塚村のあった方角を撮影していたようです。
数枚撮影したのですが…
肝心の作品に描かれていた場所は撮影していませんでした。
失敗。
もっと、予習をしておけばよかったと後悔。
参考
Wikipedia
太陽の地図帖 広重「名所江戸百景」の旅