この人生、なかなか大変だぁ

日々の人生雑感をつれづれに綴り、時に、人生を哲学していきます。

時代が変わった?アイネスフウジン(中野栄治)

2021-05-28 12:00:21 | たかが競馬、されど競馬
日本ダービーが明後日に迫ってきた。なんとか単勝馬券をこの手に握りしめたいものである。
ウォーミングアップというわけではないが、ダービーの思い出を語ってみよう。
はたして一番印象深いレースは何だろうと考えたが、ダービーはそれなりにドラマティックなもので、いや競馬そのものがドラマティックだから、なかなかこれだと一つに絞り切ることはできない。
このテーマが続くかもしれないので古い記憶から拾っていこう。

平成2(1990)年のダービーである。この時を境に観衆がガラリと変わった感がある。
師匠と一銀堂それに千葉医大出身の泌尿器科医ウロの4人(皆高校の同級生)で東京競馬場に乗り込んだ話である。
わたしは仕事上難しい問題を抱えていたが一瞬でも直面する問題から目を背けるかのように競馬行脚に同行した。
一行は26日(土)午後4時前に団体出発ロビー(ANA)で待ち合わせて一路東京へ向かった。

新宿に出て西口の「天兼」で5000円の天麩羅定食を食べながら前祝いをした。その後京王線の府中駅で降りて「マロードイントウキョウ」にチェックイン。
11時ごろまで検討会をするが機中からの酒盛りの延長でわたしはダウンする。
当日は5時起床、開門(7:45)の2時間前から並んだ。初体験の一銀堂は宵っ張りだったからつらかったろう。
たいへんな人込みで1レースから10万人は入っているようだった。

場内は恋人同士のカップルが目立ち、「○○く~ん、広いねぇ~」と甘い声が飛び交い。パドックでは「ミナイさーん!ガンバって~!」と黄色い声援が上がっていた。
昔ながらのおじさんがそばで苦笑いしている。
以前ならスタート前は静まり返ってゲートが開いたとたんどっと歓声が上がり、馬群を追って歓声が移動して行くのだが、返し馬から嬌声が上がり、ファンファーレがなると万雷の拍手。ゲートインの際は一拍置いた拍手が次第に大きくなっていく。まるでコンサートのノリだった。
3レースからパドックは見られなくなった。日本ダービーは9レース。パドックを見るのはすでに諦めていたが、8レースが終わってから馬券を買っては間に合いそうにない。6レース後に買ってきた。すると次の7レースを買いそびれてしまった。それほど凄まじいほどの人込みだったのである。

わたしはアイネスフウジンが狙いだった。
皐月賞で狙ったが、関西馬のハクタイセイ(武豊)にまんまとやられてしまった。当時関東、関西のライバル意識は強く東京にいたわれわれは関東びいきだった。
ただ、やみくもに狙っていたわけじゃない。父シーホークはバリバリのステイヤー血統。皐月賞は負けても仕方ないが、ダービーでは大いにチャンス有りだと踏んでいたのだ。
アイネスフウジンの単勝。それにやはり関東のメジロライアンとの3-5を本線にして、抑えはハクタイセイとの5-7、メルシーアトラとの5-6とした。

レース結果
1着 ⑫アイネスフウジン 中野栄治 2.25.3秒
2着 ⑥メジロライアン 横山典弘 1 1/4馬身
3着 ④ホワイトストーン 田面木博公 1 1/2馬身
4着 ⑯ツルマルミマタオー 田島信行 クビ
5着 ⑲ハクタイセイ 武豊 1 1/2馬身
単勝530円、複勝200円、連複3-5 770円

レースが終わってアイネスフウジン(中野)が戻ってくると、シャン、シャン、シャンと万雷の拍手に「ナカノ!ナカノ!ナカノ!」のコール。
「アイネスフウジンじゃないんかい!?」と突っ込みたかったが、こんなおっさんが抗える状況ではなかった。全員が馬券を取ったとは思えないのだが、競馬場はコンサート会場と化していた。
9万円持って行った資金が16万円になっていたから大勝とは言い難かったが、勝つことは極めて健康にいい。
また機中では酒を持ち込んで大盛り上がり。
帰ったら地獄が待っていたが、まぁ楽しい競馬行だった。

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