キョンシー太郎の日誌

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

思いつき発作の行動が人生を変える〜レーシック手術

2016-10-18 22:56:08 | 日記
もう、かれこれ10年は経ちますが、会社の後輩がレーシック手術なるものがあるので一緒に行きましょうよ、、と誘ってきた。。なんや、それ。?
後輩は当時、25歳くらいだったと思いますが、彼は当時からコンタクトレンズを愛用していました。また、私もコンタクトレンズを愛用していました。子供の頃から眼はよく視力は1.5くらいはあったのですが、中学になったころから勉強したせいか、少し眼が悪くなり、中学三年生の受験のころには0.5くらいまで視力はさがってしまいました。高校になってからはメガネの度数がきつくなったせいか、
教室でもメガネをかけてると、なんか、眼精疲労がおこってる感じがしたり、部活のピンポンなんかも、はじめは裸眼でやってましたが、メガネをかけないと球の回転が見えずらく、ついにはメガネ。。これにより益々、眼は悪くなり、ついには0.1切るくらいになってしまいました。高校三年生になってコンタクトレンズを愛用することとなりました。
それからというもの、常にコンタクトレンズの人生が始まったのでした。友達に家に泊まったり、徹夜麻雀したりした際にはコンタクトレンズをケースにいれて、なんてことが当たり前の人生。
まあ、こんなコンタクトレンズ人生でも世の中の人は普通は不便と思いません。メガネでラーメン食べたら、くもって、レンズ真っ白。。よりはいいか、、
温泉にはいると、顔つけなくて、顔洗うときは目をしっかりつぶって、、と、、
うっかりコンタクトレンズしたまま寝てしまったら、レンズが乾燥して、とっても調子悪い。。こんな人生を送っておりましたが、コンタクトレンズの長期使用は大変危険という話があり、当時私はソフトコンタクトレンズでしたが、ソフトより安全でケースを持ってなくても、眼にゴミがはいって泣きそうになっても、その場ではずして、水がなくても、ベロで舐めて、砂やゴミをとり、またつける。こんなこともしてました。
私の場合、仕事がらとくに砂埃が多いところによくいくため、上記のようなことが頻繁にあったわけです。
四十代も後半となった私のコンタクトレンズ人生。。その転機は、、突然、やってきました。
『レーシック手術なるものがあるので一緒に行きましょうよ』
後輩からの誘い。。
さっそく予約をとってもらいました。
場所は梅田から福島駅に歩いていったところ、、『品川クリニック』
何日かして、受診当日となり、後輩と一緒にいこうと話すと、、
なんと、、
『僕、やめますわ、、なんか、、怖いし。。』
『ん?なんなねん、自分から誘っておいて、人をその気にさせといて、、』
私はしかたなく、一人でいくことに、、
そうです。私の性格、私の人生、、後戻りはしないのです。
道を走りはじめれば、これ、ちょっと間違えてるかな?まあ、いくとこまでいこう。。これが、私の性格、私の人生。
これまで、この性格がどれほど災いをもたらしてきたことか。。。
いよいよ『品川クリニック』なんと人が多いことか、、
まるで、、繁華街の大手電機店!
湯水のようにそのビルは人で溢れかえっていた。。
それでも、診察は意外に早くまわってきた。かんたんな視力検査をやっておわるとしばらくしてまた、診察。。
『では、、三日後、予定大丈夫ですか、、』
は?もう手術か?
なにも考えてない私は、ついに、、
手術台に寝転んでいた。。
右眼、左眼、、ほんの10分ほどの出来事。。
手術は眼の表面をレーザーで切って、
角膜のアールを少し削りなだらかに、
削りおわれば、レーザーで切ってた皮を
もういちどペロっとくっつける。
あっと、いうまの出来事。。
その日は福島駅の手前のそのビルから梅田まで、歩くことに、、
夜なので、ハローとよばれる、流れ星みたいな、ものから光がさす現象が、
こうして、私のコンタクトレンズ人生は終了さました。
また、あのころはアリコの保険で10万円かえってきて、3万の割引券にひとり紹介して三万円とほとんど手術代金タダみたいなものでした。
いま、ふと考えると、普通にクルマも運転し、普通に温泉にもいき、普通に寝て、起きて、、
考えみると、、発作で、後輩にさそわれて、なにも考えず、、やったことで、、
人生においては、初めての、、
成功。。だったかも、、