原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町の名所旧跡を訪ねて第31回「立石様(2)」

2014年05月18日 | 下町散歩

  立石祠から300メートル位北側に行ったところに熊野神社があります。安倍仲麻呂の曾孫の安倍晴明が紀州熊野三社 (熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を勧請した由緒ある神社であり、その由来書によれば、長保年間(99 9~1004年)に創建されたことになります。三代将軍家光、八代将軍吉宗らが、「鶴おなり」の際には参拝するのを 通例とした、とも記されています。
  江戸名所図会にも「立石南蔵院・熊野祠」として紹介されており、江戸時代には結構知られた神社であったことが分か ります。

 そう思って正面から鳥居を眺めてみると、このような歴史を感じとれる気がしてきます。
  
  ところで、この神社が有名になった理由は、その由来にあっただけではありません。1794年(寛政6年)7月1日 、普請奉行柏原由右衛門が地質学者の古川平治兵衛を連れて地誌取調役として廻村した際、熊野神社のご神体が神代の石 剣であることを発見しました。関東では極めて珍しいものとして村役人にその保管方を託し、以来熊野神社の石剣として 全国的に有名になったと言われているのです。
  この石剣は、明治以降二、三の考古学者の研究発表により、一層有名になりました。石剣は、正確に言えば、むしろ石棒というべきもので、長さが二尺五寸(約75センチ)程のもののようです。熊野神社の説明によると、ご神体であるため一般には公開していないとのことで、実物は目にできませんので、写真だけでも見ていただきましょう。
 
  熊野神社は、これだけの歴史を持つにもかかわらず、私の持っている「でか字まっぷ東京23区」(昭文社)には、何 の記載もありません。B級歴史探偵としては、何か隠された秘密でもあるのではないかと却って興味をそそられます。
  それはそれとして肝心な「立石様」との関わりを述べなければなりません。「新編武蔵風土記稿」の中に、「熊野社、 村の鎮守なり。神体は石剣にして長二尺余、村名もこれより起れり」との記載があります。ここからすると立石様は石剣 となります。このように「立石様」は、立石祠に祀られている「根有り石」なのか「石剣」なのか、いささか混乱がある ようです。
  「立石様」が不思議な石伝説とともに親しまれ、信仰の対象となってきたとの説の方がリアリテイがあり、遥かに夢が あると思いますが、皆様はどう思われますでしょうか。 

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