原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町の名所旧跡を訪ねて第13回「勝海舟ゆかりの地を訪ねて(4)」

2013年09月16日 | 下町散歩

 現在、隅田川の両河岸は遊歩道として整備されています。洪水対策のため高い護岸に囲まれているのは些か艶消しで残念ですが、やむを得ないのかもしれません。
 厩橋の500メートル程上流に青色に塗られた駒形橋があります。西岸の駒形堂にちなんで名付けられ、現在の橋は1927年(昭和2年)6月に竣工しました。


 駒形橋の300メートル程上流に真っ赤に塗られた吾妻橋があります。現在の橋は1931年(昭和6年)6月に竣工しました。


 この橋の袂に建つ墨田区役所の一角に勝海舟の銅像が勇壮な姿で建っています。「我らの江戸っ子勝っあん」に共感を覚える方々からすると、もっと親しみやすい姿にしてほしかったという声もあるかもしれませんが、2003年(平成15年)7月に海舟生誕180周年を記念して建てられました。


 さて海舟の銅像から北へ400メートル位行ったところに牛島神社があります。ここには1825年(文政8年)建立の撫で牛が鎮座しており、自分の心身の患部と同じ場所を撫でると治るということで、今でも信仰を集めています。




 この神社は海舟の時代は牛御前王子権現社と言われて、言問橋の北側にありました。


 海舟は、直心影流島田派の始祖島田虎之助に剣術を習い、「寒中になると、島田の指図に従うて、毎日稽古がすむと・・・王子権現にいって夜稽古をした。いつもまず拝殿の礎石に腰をかけて、瞑目沈思、心胆を練磨し、しかる後、立って木刀を振り回し、更にまた元の礎石に腰を掛けて・・・こういう風に夜明けまで五~六回もやって、それから帰って朝稽古をやり」(氷川清話)と剣術に打ち込みました。その成果を「修行の効は瓦解の前後に顕れて、あんな艱難辛苦に堪え得て、少しもひるまなかった」(氷川清話)と自負しています。江戸を戦火から救った西郷とのトップ会談に挑んだ胆力は、この頃の鍛錬の賜物と言うわけです。本当にこんなにスーパーマンだったのかしら?とも思いますが、それはともかく若い頃の鍛錬が大切ということですね。

下町の名所旧跡を訪ねて「勝海舟ゆかりの地を訪ねて(3)」第12回

2013年09月05日 | 下町散歩

 江東橋を経て大横川親水公園に入ります。江戸幕府は、明暦の大火(1657年)からの復興に際して、火除け地等の確保のため家屋の本所地域への移転を図り、河川を掘削し、土地の整備を行いました。この時掘られたのが横川です。丁度私が両国高校に通学していた1965年(昭和40年)、大島川と繋がって大横川となりましたが、1981年(昭和56年)埋立てられて、1993年(平成5年)大横川親水公園が完成しました。
 第8回「法恩寺橋から竪川へ」で引用した通り、この横川界隈は、両岸には船問屋が並び人の往来も賑やかなところだったようですが、今では緑のオアシスに生まれ変わっております。居眠り磐音もびっくりと言ったところでしょうか。





 大横川親水公園をぶらぶら散歩しながら北上すること20分。紅葉橋の西側数十メートルのところに能勢妙見堂があります。
 勝海舟9歳の時、男の急所を犬に噛まれて生死の境を彷徨ったことがありました。その折、父の子吉は、この妙見堂に徹夜の裸詣でをし、「あのまませがれが死ぬようなことがあったら、やがて小吉もあの世に行き、諸神諸仏の御前へ罷り出て、妙見菩薩というは飛んだいかさまだ・・・人を憐れみ、苦難を助け、いささかの慈しみも遊ばさぬどころか、徒に信心者の供養を受けて、安閑と居眠りをしている奴だと、洗い浚い申し上げるぞ」(子母沢寛の名作「父子鷹」より)と喧嘩腰の祈願をしました。その甲斐あって70日後海舟が全快したが、小吉は、それは妙見様のお蔭と感謝し、死ぬまで妙見様のためあれこれ尽くしたとの逸話で有名です。
 とても小さなお寺で、狭い庭に沢山の草木が植栽され、隅っこに海舟の胸像がちょこんと置かれています。狭苦しい気取りのない雰囲気は、下町っ子海舟の育った貧しい子供時代を彷彿とさせてくれます。







 能勢妙見堂にお参りした後、春日通を西行して20分、隅田川に架かる黄緑色に塗られた厩橋へ到着します。厩橋は、隅田川西岸にあった蔵前の米蔵の荷駄馬用の御厩にちなんで名付けられました。



 次回は隅田川を遡ります。