原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町人情話のブログを移転しました。

2014年06月16日 | 下町散歩
今までこのgooブログで書き綴ってきました「下町人情話」ですが、移転することにいたしました。
新しいブログは下記でございます。
下記をクリックすると新しいブログへ移動いたします。

http://www.dtsun.jp/blog

このgooブログでの更新は終了いたします。
新しいブログにて今まで通り下町人情話を書き綴ってまいりますので今後はそちらの方での購読をよろしくお願いいたします。

下町の名所旧跡を訪ねて第34回「戦争・震災被害者鎮魂の場(1)」

2014年06月08日 | 下町散歩
  芥川龍之介(1892~1927年)は、生後9か月で生母の実家本所小泉町(現両国3丁目)の芥川家に引き取られ 、旧制一高に入学した1910年(明治43年)一家を挙げて内藤新宿に移るまで、そこで生活しました。その場 所に は標識が残されています。
  
  芥川は、その自伝的小説で彼が育った町を次のように描写しています。
 「大道寺信輔の生まれたのは本所の回向院の近所だった。彼の記憶に残っているものに美しい町は一つもなかった。美し い家も一つもなかった。殊に彼の家のまわりは穴蔵大工だの駄菓子屋だの古道具屋だのばかりだった。それ等の家々に面 した道も泥濘の絶えたことは一度もなかった。おまけに又その道の突き当りはお竹倉の大溝だった。南京藻の浮かんだ大 溝はいつも悪臭を放っていた。」(芥川龍之介「大道寺信輔の半生」)
  私が少年時代を過ごした昭和30~40年代の回向院周辺も、残念ながら美しい町ではありませんでした。流石に泥濘 に足を取られるようなことはありませんでしたが。
  諸宗山無縁寺回向院は、将軍徳川家綱の命によって振袖火事で知られる明暦の大火(1657年)の焼死者108,0 00人を葬った万人塚が、その起源とされています。
 
  回向院周辺は、昔から中小企業の多い街ですが、ポツポツと高層ビルの目立つ半都会的地域になりつつあります。今で は、そんな地域に高層ビルに囲まれるようにひっそりと佇んでいます。
  
  以来、安政大地震の被災者だけでなく水死者・焼死者・死刑者等の横死者までも宗派に無関係に供養してきました。一 番有名な墓が鼠小僧次郎吉のものです。長年捕まらなかった幸運にあやかろうと墓石を欠き取る参拝者が絶えず、欠き取 り用の墓石まで設けられています。私が取材に訪れた際も若い女性が一生懸命墓石を削っていました。
  
  また、この境内は4代将軍家綱の愛馬供養に始まる馬頭観音堂をはじめ各種のペットの供養施設があることでも有 名です。
  
  この境内では、1781年(天明元年)以降、勧進相撲が興行されるようになりました。これが今日の大相撲の起 源になっており、回向院は大相撲発祥の地でもあるのです。そんな縁で1936年(昭和11年)、相撲協会により 物故力士や年寄の霊を祀る「力士塚」が建立されています。
  


下町の名所旧跡を訪ねて第33回「立石様(4)」

2014年06月02日 | 下町散歩
  
  熊野神社の南へ徒歩数分の中川縁に南蔵院があります。真言宗豊山派の寺院で五方山立石寺と号します。五角の地 に熊野神社を勧請して五方山と名付けたとの謂れからも分かる通り、熊野神社の別当寺(神仏習合が普通であった江 戸時代以前、神社を管理するために置かれた寺)として長保年間(999~1004)に創建されました。五方山が 五芒星に通じていることは明らかです。

  

  立石様周辺は既に古墳時代から拓けており、南蔵院の裏手、立石様の直ぐそばに六世紀後半の「南蔵院裏古墳」が ありました。「ありました」と言わざるを得ないのは、残念ながら明治時代に削りとられてしまったからです。もし 残されていたら学術、観光の両面で大変な価値があったことは違いありません。
  それでも「南蔵院裏古墳」の所在地はほぼ確定されております。先ほど掲示した南蔵院の写真の左奥に見えるマン ション建設の際、その敷地から埴輪方が多数発掘したからです。今は古墳が存在した形跡を偲ぶものとてありません が、大正時代には未だその跡地を特定することができたようです。

  

  この写真は大正時代のものです。写真奥が南蔵院で、手前の水田と南蔵院の間の若干高くなっていて3人の人が立 っている辺りが古墳跡とのことです。古墳跡は跡形なくなってしまいましたが、古墳を削平した際発掘された埴輪等 は、南蔵院裏古墳出土遺物として南蔵院に保管されています。

 

  さて、立石様との関わりです。立石様の根有り石が鋸山の海岸部に産する凝灰岩であり、古墳時代後期の古墳石室 の石材として運び込まれたことは既に述べました。要するに南蔵院裏古墳の石室の石材と同じものが使われていたの です。
  6世紀という古墳時代に鋸山から凝灰岩を運び込むことは大変な事業であったと思われます。古墳に埋葬された主 はそれを可能にするだけの大きな権力を持っている豪族だったのでしょう。1500年もの時を超えて、歴史の表舞 台に出てきていない古代の歴史に思いを致すのも楽しいものです。
  10年程前、仕事で立石所在の土地売買にかかわった際、当該土地が古墳跡地であったことが判明し、「こんなと ころに古墳があったのか?」と吃驚したことがありました。ロマンを掻き立てる古代遺跡が結構身近なところに存在 するものです。問題はそれがきちんと保存できていないことにあるのでしょう。南蔵院裏古墳が失われてしまったこ とは残念でなりません。
 

下町の名所旧跡を訪ねて第32回「立石様(3)」

2014年05月25日 | 下町散歩

  安倍晴明と言えば陰陽博士として有名です。陰陽五行説に基づき五芒星図形(星形正五角形の一種)を魔除けの呪符と して用いており、その紋は晴明紋と言われています。
  

  実は熊野神社の敷地も、五芒星図形をしているのです。と言っても、それは幾ら熊野神社の周りを歩き回っただけでは 分かりません。上空から俯瞰するのが一番良いのですが、俯瞰図を撮影しようと思ったらヘリコプターでもチャーターす るしかありません。そんな訳にもいきませんので、熊野神社の俯瞰写真を引用させていただくことにしました。
  

  神社の境内に幼稚園が有りますが、それも含めて神社が見事に星形五角形の敷地に収まっていることがお分かり頂ける と思います。一見ありふれた神社のたたずまいの中に、このような非日常的な意匠が施されていたなんて感動ものです。
  因みに、同神社のご神紋も、五角形の中に八咫烏(ヤタガラス)が描かれています。
  

  このように熊野神社が五芒星図形を根本に据えてきた事実は、熊野神社と安倍晴明との深い関わりを示すものです。と はいえ、葛西誌には「「語り伝へに、当社は往古安倍晴明が鎮座せし処なりといえど、是はもとより虚誕なるべし」との 記載があります。安倍晴明は摂津の国阿倍野生まれで、東国にまで出向いたことが確認されていませんので、このよう言 われても止むを得ないのでしょう。果たして真実はどうなのでしょうか?これからの研究課題とさせて下さい。
  さて神社の境内に「本田ウリ」の説明板があります。
 

  江戸時代、近郊農村では換金作物としての野菜作りが始まりました。この周辺ではウリが盛んに栽培され本田ウリ と呼ばれ、熟すると銀白色になります。
  真桑瓜の金マクワに対して銀マクワと呼ばれ、大ブリで格段に美味しいと評判になりました。
  説明板には有名な「瓜売りが瓜売りに来て瓜売れ残り、瓜売り帰る瓜売りの声」の畳語歌(一首中に同音や同音語 句をいくつも重ね詠みした狂歌)が記され、「のんびりした江戸の暮らしがうかがえる狂歌です」との解説がありま す。
  何も記されていないのでこの畳語歌と本田ウリとの関係は不明です。不勉強で恐縮ですが、これも今後の研究課題 とさせていただきます。

下町の名所旧跡を訪ねて第31回「立石様(2)」

2014年05月18日 | 下町散歩

  立石祠から300メートル位北側に行ったところに熊野神社があります。安倍仲麻呂の曾孫の安倍晴明が紀州熊野三社 (熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を勧請した由緒ある神社であり、その由来書によれば、長保年間(99 9~1004年)に創建されたことになります。三代将軍家光、八代将軍吉宗らが、「鶴おなり」の際には参拝するのを 通例とした、とも記されています。
  江戸名所図会にも「立石南蔵院・熊野祠」として紹介されており、江戸時代には結構知られた神社であったことが分か ります。

 そう思って正面から鳥居を眺めてみると、このような歴史を感じとれる気がしてきます。
  
  ところで、この神社が有名になった理由は、その由来にあっただけではありません。1794年(寛政6年)7月1日 、普請奉行柏原由右衛門が地質学者の古川平治兵衛を連れて地誌取調役として廻村した際、熊野神社のご神体が神代の石 剣であることを発見しました。関東では極めて珍しいものとして村役人にその保管方を託し、以来熊野神社の石剣として 全国的に有名になったと言われているのです。
  この石剣は、明治以降二、三の考古学者の研究発表により、一層有名になりました。石剣は、正確に言えば、むしろ石棒というべきもので、長さが二尺五寸(約75センチ)程のもののようです。熊野神社の説明によると、ご神体であるため一般には公開していないとのことで、実物は目にできませんので、写真だけでも見ていただきましょう。
 
  熊野神社は、これだけの歴史を持つにもかかわらず、私の持っている「でか字まっぷ東京23区」(昭文社)には、何 の記載もありません。B級歴史探偵としては、何か隠された秘密でもあるのではないかと却って興味をそそられます。
  それはそれとして肝心な「立石様」との関わりを述べなければなりません。「新編武蔵風土記稿」の中に、「熊野社、 村の鎮守なり。神体は石剣にして長二尺余、村名もこれより起れり」との記載があります。ここからすると立石様は石剣 となります。このように「立石様」は、立石祠に祀られている「根有り石」なのか「石剣」なのか、いささか混乱がある ようです。
  「立石様」が不思議な石伝説とともに親しまれ、信仰の対象となってきたとの説の方がリアリテイがあり、遥かに夢が あると思いますが、皆様はどう思われますでしょうか。