原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町の名所旧跡を訪ねて第15回「勝海舟ゆかりの地を訪ねて(6)完」

2013年10月10日 | 下町散歩
 三囲神社から北へ300メートル程のところに今回の旅の終着点、弘福寺があります。
延宝2年(1674年)鉄牛和尚によって開かれた黄檗宗のお寺で、江戸名所図会にも描かれた名刹です。中国風の一風変わった山門と本堂は一見の価値があります。







 海舟は第13回で述べた通り、剣術の師島田の勧めに従って、この寺で禅学を始めました。
「・・・座禅を組んでいると、和尚が棒を持って来て、不意に座禅している者の肩をたたく。すると片っ端から仰向けに倒れる。・・・銭のことやら、女のことやら、うまい物のことやら、いろいろのことを考えて、心がどこかに飛んでしまっている。そこを叩かれるから、吃驚してころげるのだ。・・・だんだん修行が進むと・・・肩を叩かれても、ただ僅かに目を開いて見るくらいのところに達した。」「こうして殆ど四年間、真面目に修行した。この座禅と剣術とが俺の土台になって、後年大層ためになった」(氷川清話)と述べて、瓦解の時分、万死の境を出入りして、ついに一生を全うしたのは、全くこの二つの功であった」(氷川清話)と重ねて修行の大切さを説いています。
ともすると教育というと知育一辺倒になりがちな私たちにとって、体育と胆力の鍛錬が大切だとの主張には傾聴すべきものがあります。

 「わたしは大正壬戌(注:11年)の年の夏森先生を喪ってから、毎年の忌辰にその墓を拝すべく弘福寺に赴くので、一年に一回向島の堤を過らぬことはない。」(永井荷風随筆集「向嶋」より)
森鴎外が死後この寺に葬られていたことを知る人は少ないと思われます。
 「この寺の裏には森鴎外の墓がある。どういうわけで鴎外の墓がこんな東京府下の三鷹町にあるのか私にはわからない」(太宰治「花吹雪」より)と書かれているように、翌年の関東大震災の復興事業として隅田公園が拡張されるどさくさの中で、何故か鴎外の墓は三鷹市の黄檗宗の禅林寺と故郷津和野の曹洞宗の永明寺に移されてしまいました。残念なことです。
因みに、禅林寺は毎年太宰治のフアンが集まる桜桃忌で有名なお寺で、太宰のお墓もあります。
 些か海舟から脱線してしまいました。取り敢えず今回をもって海舟ゆかりの地を訪ねてシリーズは一巡りとさせていただきます。

下町の名所旧跡を訪ねて第14回「勝海舟ゆかりの地を訪ねて(5)」

2013年10月08日 | 下町散歩
 牛島神社から北へ300メートル程行くと三囲神社があります。文和年間(1352~6年)近江三井寺の僧源恵が東国遍歴の際、この地に弘法大師ゆかりの朽ちた社があるのを見て、これを改築しようとしたところ、土の中から白狐にまたがる老翁の像を発見した。その時白狐が現れて、その神像の周りを3回回った。これが三囲(みめぐり)の名の由来であると言われています。江戸時代から有名な神社で、浮世絵などにも描かれています。







三囲神社と三井寺の僧との関わりから、三井家は江戸進出以来三囲神社を守護神として奉っています。池袋三越前にあったライオン像は、このような関わりから三囲神社に寄贈されています。


また三囲神社には、江戸の俳人榎本其角の有名な句碑が残されています。折からの旱魃で葛飾村の農民が鉦や太鼓を打ち鳴らして雨乞い祈願の最中、同神社に来合わせた其角が農民の頼みに応じて献じた夕立の句を献じたところ、翌日どしゃ降りの雨が降ったと言われています。
「夕立や田をみめぐりの神ならば」
「三囲」と「見巡り」と「み恵み」を掛けただけでなく、夕立の{ユ}、田の「タ」、神の「カ」の三文字で豊作まで祈っている、中々凝った仕掛けの俳句です。残念ながら残されている老朽化して句碑から文字を読み取るのは困難です。
 
さて肝心な三囲神社と海舟の関わりです。
氷川清話には、明治31年(1898年)7月、日照りを見かねた海舟が其角の句を念頭に雨乞いの歌を詠んで奉納したところ、丁度その日に雨が降った。俺の歌も天地を動かし鬼神を哭かしむるほどの妙があるとの自慢話とともに、次の自慢の歌が書き記されております。
「三囲の社につづくひわれ田を、神は哀れと見そなはさずや」
果たしてこれが名歌かどうかは分かりませんが、海舟は「歌詞などはまずくっても、誠さえあれば、鬼神は感動するよ。今の世の中は、実にこの誠というものが欠けている。政治とか経済とか言って騒いでいる連中も、真に国家を憂うるの誠から出たものは少ない。」と歌の上手さより誠が大切と居直っております。この負けん気こそ海舟の真骨頂なのでしょう。
因みに、神社のどこを探しても、海舟の歌碑を見付けることはできません。