原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町の名所旧跡を訪ねて第32回「立石様(3)」

2014年05月25日 | 下町散歩

  安倍晴明と言えば陰陽博士として有名です。陰陽五行説に基づき五芒星図形(星形正五角形の一種)を魔除けの呪符と して用いており、その紋は晴明紋と言われています。
  

  実は熊野神社の敷地も、五芒星図形をしているのです。と言っても、それは幾ら熊野神社の周りを歩き回っただけでは 分かりません。上空から俯瞰するのが一番良いのですが、俯瞰図を撮影しようと思ったらヘリコプターでもチャーターす るしかありません。そんな訳にもいきませんので、熊野神社の俯瞰写真を引用させていただくことにしました。
  

  神社の境内に幼稚園が有りますが、それも含めて神社が見事に星形五角形の敷地に収まっていることがお分かり頂ける と思います。一見ありふれた神社のたたずまいの中に、このような非日常的な意匠が施されていたなんて感動ものです。
  因みに、同神社のご神紋も、五角形の中に八咫烏(ヤタガラス)が描かれています。
  

  このように熊野神社が五芒星図形を根本に据えてきた事実は、熊野神社と安倍晴明との深い関わりを示すものです。と はいえ、葛西誌には「「語り伝へに、当社は往古安倍晴明が鎮座せし処なりといえど、是はもとより虚誕なるべし」との 記載があります。安倍晴明は摂津の国阿倍野生まれで、東国にまで出向いたことが確認されていませんので、このよう言 われても止むを得ないのでしょう。果たして真実はどうなのでしょうか?これからの研究課題とさせて下さい。
  さて神社の境内に「本田ウリ」の説明板があります。
 

  江戸時代、近郊農村では換金作物としての野菜作りが始まりました。この周辺ではウリが盛んに栽培され本田ウリ と呼ばれ、熟すると銀白色になります。
  真桑瓜の金マクワに対して銀マクワと呼ばれ、大ブリで格段に美味しいと評判になりました。
  説明板には有名な「瓜売りが瓜売りに来て瓜売れ残り、瓜売り帰る瓜売りの声」の畳語歌(一首中に同音や同音語 句をいくつも重ね詠みした狂歌)が記され、「のんびりした江戸の暮らしがうかがえる狂歌です」との解説がありま す。
  何も記されていないのでこの畳語歌と本田ウリとの関係は不明です。不勉強で恐縮ですが、これも今後の研究課題 とさせていただきます。

下町の名所旧跡を訪ねて第31回「立石様(2)」

2014年05月18日 | 下町散歩

  立石祠から300メートル位北側に行ったところに熊野神社があります。安倍仲麻呂の曾孫の安倍晴明が紀州熊野三社 (熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を勧請した由緒ある神社であり、その由来書によれば、長保年間(99 9~1004年)に創建されたことになります。三代将軍家光、八代将軍吉宗らが、「鶴おなり」の際には参拝するのを 通例とした、とも記されています。
  江戸名所図会にも「立石南蔵院・熊野祠」として紹介されており、江戸時代には結構知られた神社であったことが分か ります。

 そう思って正面から鳥居を眺めてみると、このような歴史を感じとれる気がしてきます。
  
  ところで、この神社が有名になった理由は、その由来にあっただけではありません。1794年(寛政6年)7月1日 、普請奉行柏原由右衛門が地質学者の古川平治兵衛を連れて地誌取調役として廻村した際、熊野神社のご神体が神代の石 剣であることを発見しました。関東では極めて珍しいものとして村役人にその保管方を託し、以来熊野神社の石剣として 全国的に有名になったと言われているのです。
  この石剣は、明治以降二、三の考古学者の研究発表により、一層有名になりました。石剣は、正確に言えば、むしろ石棒というべきもので、長さが二尺五寸(約75センチ)程のもののようです。熊野神社の説明によると、ご神体であるため一般には公開していないとのことで、実物は目にできませんので、写真だけでも見ていただきましょう。
 
  熊野神社は、これだけの歴史を持つにもかかわらず、私の持っている「でか字まっぷ東京23区」(昭文社)には、何 の記載もありません。B級歴史探偵としては、何か隠された秘密でもあるのではないかと却って興味をそそられます。
  それはそれとして肝心な「立石様」との関わりを述べなければなりません。「新編武蔵風土記稿」の中に、「熊野社、 村の鎮守なり。神体は石剣にして長二尺余、村名もこれより起れり」との記載があります。ここからすると立石様は石剣 となります。このように「立石様」は、立石祠に祀られている「根有り石」なのか「石剣」なのか、いささか混乱がある ようです。
  「立石様」が不思議な石伝説とともに親しまれ、信仰の対象となってきたとの説の方がリアリテイがあり、遥かに夢が あると思いますが、皆様はどう思われますでしょうか。 

下町の名所旧跡を訪ねて第30回「立石様(1)」

2014年05月04日 | 下町散歩
  このシリーズで初めて葛飾区に足を踏み入れました。訪れたのは「立石様」です。京成の立石駅から徒歩7~8分程の ところにその方は鎮座されております。
  江戸名所図会では、立石様は「立石村五方山南蔵院といへる真言宗の寺境にあり。地上に顕れたる所わずかに一尺(約 30センチ)ばかりなり。土人相伝えて、石根地中に入ることその際りをしらずといえり」と紹介されておりました。要 するに根が知れないほど深いということですが、この石が有名になったのはそれだけの理由ではありませんでした。この 石は冬になると縮こまり、春になると縮こまったところが膨らんで元の形となる不思議な石だということで村民たちは、 この石を立石様と呼んで親しみ、信仰の対象ともしてきたのです。
  この不思議な石は、次回ご紹介する熊野神社の石棒とともに葛飾名物となり、江戸市内からも大勢の見物客が訪れ、江 戸名所図会で紹介されるまでになっていたのです。
  
  さて、その立石様です。何とブランコ・滑り台・シーソーだけの小さな児童公園内の一角に、子供の背丈ほどの小さな 鳥居が建っています。
  
  
  児童公園内に建っているので、おもちゃの鳥居かと思って近づくと、傍に葛飾区教育委員会の説明版がありました。
  鳥居の建っているところは「立石祠」で、昔から「立石様」と呼ばれて立石の地名の起こりとなった。祠の鎮座してい る石は、鋸山の海岸部に産する凝灰岩で、古墳時代後期の古墳石室の石材として運び込まれたが、官道整備の際の道標に 転用されたものと推定される。とあります。
  
  早速立石様を拝もうと不躾に祠を覗いて見たのが次の写真です。
  
  病気に効くとか、日清・日露戦争時に弾除けのお守りになるといった信仰から、立石様を欠いて持っていく人が絶えな かったせいでしょうか?現在の立石様のお姿はよく見ないと分かりません。
  「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の感無きにしも非ず。
  それにしても、立石様は、立石町民の皆さんのルーツなのです。もう少しそれに相応しい遇し方があってもよいのでは ないでしょうか。