原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町の名所旧跡を訪ねて第11回「勝海舟ゆかりの地を訪ねて(2)」

2013年08月28日 | 下町散歩

 さて勝海舟がその幼少年時代を過ごした地は、坂田建設本社地か江東橋保育園地のどちらなのでしょうか?
 海舟一家が岡野孫一郎邸で生活していたことははっきりしていますので、岡野邸があったのはどちらの地であったかが明らかになれば、答えは自ずから出てくる筈です。
 私の手許にある人文社の「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」から、嘉永年間(1848~54年)に制作された本所絵図と現代図を対照してみます。
上記本所絵図と現代図をクリックして拡大し、⑭とあるところをみてください。両図の⑭は同一場所を示していますが、現在図⑭のところに「岡野孫一郎。放蕩無頼の旗本で、邸内に勝小吉・麟太郎(海舟)が住んでいた」とあります。
 この⑭の場所は、我が下町の太陽法律事務所も面している京葉道路の北側をちょっと入った墨田区立江東橋保育園のある場所と思われます。

本所絵図

現代図


 他方、上記本所絵図と現代図もクリックして拡大し、⑮とあるところをてみてください。両図の⑮は同じ場所を示しています。現代図⑮の場所は、京葉道路の南側にある坂田建設本社所在地と思われますが、その場所には、⑮「入江町長谷川平蔵は若い頃時鐘屋敷の側に住み、入江町の銕と呼ばれた無頼の徒であったという」との記載があります。この長谷川平蔵とは、池波正太郎の鬼平犯科帳で有名な鬼平のことです。
 以上、墨田区教育委員会の説明版に加えて、このような記述にまで出会ってしまうと、前記⑭の場所が海舟の育った地であった可能性は極めて高いと思われます。
 とはいえ坂田建設本社地が勝海舟揺籃の地というのが、観光マップなどでも未だ一般的な理解だと思われますので、断定するのは避けたいと思います。
 どなたかこの辺のところに詳しい方がいらっしゃれば、是非ともご教示頂きたいところです。
  ついでに言えば、海舟一家が岡野家の屋敷に転がり込んだ時期についても、説が分かれております。前回、私は「天保二年(1831年)9歳の時から」と書きましたが、これは墨田区教育委員会の説明板に拠っています。
 他方、著名な考証家稲垣史生氏や大口勇次郎お茶の水女子大名誉教授等などは天保元年説をとっております。果たしてどちらが正しいのでしょうか。まあ、歴史学的に言えば大した意味はないと思われますが、この辺の探求は追々してみたいと思っております。
 さて歴史探訪はこれ位にして、坂田建設本社地から徒歩数分で江東橋を経て大横川親水公園に入ります。第三回は、ここから能勢妙見堂へ向かいます。




下町の名所旧跡を訪ねて第10回「勝海舟ゆかりの地を訪ねて(1)」

2013年08月19日 | 下町散歩

 これから数回に分けて墨田区内の勝海舟ゆかりの地を巡ります。その第1回は、まずJR両国駅から海舟生誕の地を目指します。駅から400メートルも東側に歩くでしょうか、京葉道路より路地一つ南側に入ったところにある両国公園内に「勝海舟誕生の地」の石碑が建っています。



 海舟は、文政6年(1823年)本所亀沢と呼ばれていたここ男谷邸内で、勝小吉の長男として生まれました。海舟は男谷邸で、従兄弟で剣聖と呼ばれ、竹刀の考案者としても知られた男谷精一郎から剣術の手ほどきを受けました。その後、その弟子で剣豪の名が高かった島田虎之助から浅草新堀道場で剣術を習ウことになりました。両国公園は、ちょっと大きな保育園程度の敷地面積しかありませんが、緑の少ない両国四丁目周辺の緑のオアシスになっています。この公園の西隣の両国小学校に芥川龍之介の文学碑が、そのわずか西に赤穂浪士討ち入りで有名な吉良上野介邸跡がある等、この地域は歴史と文化の香り豊かな地域となっております。
 両国公園から京葉道路を東へ600メートル程歩いて江東橋の手前の通りを南に曲がると、坂田建設の本社前に「史跡 勝海舟揺籃の地」の標柱があります。



 他方、先の江東橋手前の通りを北に曲がると、墨田区立江東橋保育園があり、その正面に墨田区教育委員会の「勝海舟居住の地」との説明板があります。それによると海舟は、天保二年(1831年)9歳の時から弘化三年(1846年)24歳の時までこの岡野氏の屋敷で暮らしていたことになります。



  一般に海舟がその幼少年時代を過ごした地を示すものとして有名なのは坂田建設の本社前の「勝海舟揺籃の地」の標柱で、殆どのガイドブックに海舟揺籃の地として紹介されています。果たしてどちらが正しいのでしょうか?
  その辺は次回の宿題としておくとして、岡野氏は、1600石の旗本とはいえ、当主の孫一郎が放蕩者で莫大な借金があったため、まともに家来を持つことすら出来なかったと言われています。そのようなところに、同じく放蕩者で御家人の組屋敷では生活が成り立たなかった勝小吉(海舟の父)一家が転がり込みました。小吉は、ここであたかも岡野氏の家来のような形で生活をしていたというのが実相のようです。御家人とはいえ将軍に直接仕える身ですから、このようなことは本来ならあり得ないことなのですが、岡野氏と小吉両者には、持ちつ持たれつの関係が成り立っていたのでしょう。侍と言って威張っていても、生きていくことは大変だったことを窺わせます。不況下に生きる我々にとっても身につまされる話ですね。 

下町の名所・旧跡を訪ねて 第9回『竪川から天神橋へ』

2013年08月02日 | 下町散歩

「御用船は横川から竪川に戻り、運河を東に走って、南十間川を北へと曲がった。すると辺りは急に鄙びてきて、長閑な秋の風景が広がった。亀戸村から柳島村に当たり、町屋も少なくなって武家屋敷も急に減った。旅所橋から次の天神橋を潜ると、東側に亀戸天満宮の船着場が見えてきて料理茶屋などが川面に座敷を突き出すように並んでいた。」(佐伯泰英の居眠り磐音江戸双子11巻「無月ノ橋」33ページ)

 竪川と横十間川は繋がってはいるものの船の行き来ができる状態にはありません。(文中「南十間川」とありますが、現在この川は横十間川と言われております)


 横十間川は、かってのどぶ川からすると格段に水質が向上しており、現在では地元の中学校のボート部員たちの練習場になっております。


 旅所橋から総武線の線路下を潜って天神橋まで歩いてみましたが、未だ未整備のため一部を除いて川べりを歩くことはできません。







「無月ノ橋」では、亀戸天満宮の船着場から主人公居眠り磐音たちは、歩いて天台宗竜眼寺に向かいます。この寺は通称「萩の寺」と呼ばれ秋には萩の花が咲き乱れることで有名です。私が出掛けたのが夏でしたので、萩の花は咲いていませんでした。「萩の寺」は、大寺ではありませんし、現代風に建て替えられたお寺ではありますが、中々雰囲気のあるお寺で萩の咲き誇るころはさぞや風情があるだろうと想像されました。







 改めて萩の咲き誇る萩の寺の写真をアップすることをお約束して、居眠り磐音とお別れとさせていただきます。