原周成の下町人情話

錦糸町駅南口の「下町の太陽法律事務所」の所長弁護士が人情あふれる下町での日常をつづる

下町の名所旧跡を訪ねて第33回「立石様(4)」

2014年06月02日 | 下町散歩
  
  熊野神社の南へ徒歩数分の中川縁に南蔵院があります。真言宗豊山派の寺院で五方山立石寺と号します。五角の地 に熊野神社を勧請して五方山と名付けたとの謂れからも分かる通り、熊野神社の別当寺(神仏習合が普通であった江 戸時代以前、神社を管理するために置かれた寺)として長保年間(999~1004)に創建されました。五方山が 五芒星に通じていることは明らかです。

  

  立石様周辺は既に古墳時代から拓けており、南蔵院の裏手、立石様の直ぐそばに六世紀後半の「南蔵院裏古墳」が ありました。「ありました」と言わざるを得ないのは、残念ながら明治時代に削りとられてしまったからです。もし 残されていたら学術、観光の両面で大変な価値があったことは違いありません。
  それでも「南蔵院裏古墳」の所在地はほぼ確定されております。先ほど掲示した南蔵院の写真の左奥に見えるマン ション建設の際、その敷地から埴輪方が多数発掘したからです。今は古墳が存在した形跡を偲ぶものとてありません が、大正時代には未だその跡地を特定することができたようです。

  

  この写真は大正時代のものです。写真奥が南蔵院で、手前の水田と南蔵院の間の若干高くなっていて3人の人が立 っている辺りが古墳跡とのことです。古墳跡は跡形なくなってしまいましたが、古墳を削平した際発掘された埴輪等 は、南蔵院裏古墳出土遺物として南蔵院に保管されています。

 

  さて、立石様との関わりです。立石様の根有り石が鋸山の海岸部に産する凝灰岩であり、古墳時代後期の古墳石室 の石材として運び込まれたことは既に述べました。要するに南蔵院裏古墳の石室の石材と同じものが使われていたの です。
  6世紀という古墳時代に鋸山から凝灰岩を運び込むことは大変な事業であったと思われます。古墳に埋葬された主 はそれを可能にするだけの大きな権力を持っている豪族だったのでしょう。1500年もの時を超えて、歴史の表舞 台に出てきていない古代の歴史に思いを致すのも楽しいものです。
  10年程前、仕事で立石所在の土地売買にかかわった際、当該土地が古墳跡地であったことが判明し、「こんなと ころに古墳があったのか?」と吃驚したことがありました。ロマンを掻き立てる古代遺跡が結構身近なところに存在 するものです。問題はそれがきちんと保存できていないことにあるのでしょう。南蔵院裏古墳が失われてしまったこ とは残念でなりません。
 

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